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氷の滅慕  作者: SH
五章 絶愛
142/251

月下美刃


 廃村を後にしたアルフラたち一行は、馬車を北へと向かわせた。

 地図によれば、その日のうちに森を抜けられる予定であったのだが、夕刻を迎えても、周囲には木々が()い茂っていた。

 長いこと放置されていた街道は敷石の状態も悪く、思ったように行程が稼げなかったのだ。

 無理に馬を()かせば、(ひづめ)(いた)めてしまい、ふたたび森のなかで立ち往生というおそれもある。そのため御者台に座ったシグナムは、常歩(なみあし)で馬を進ませていた。


 ごとごとと揺れる車内で、ルゥが小窓から外をのぞき見る。

 しばらくじっと、暗くなってきた空を眺めていた狼少女は、ふとジャンヌに尋ねた。


「ねぇ、まえからふしぎだったんだけど、なんであっちの空だけ星がでないの」


 そう言って、ルゥは南の空を指さす。


「星……? ああ、南天の大暗黒ですわね」


「なんてんの、だいあんこく?」


「ええ。ロマリアなどの南方に位置する国々では、夏になると南の空には一切の星がかからないそうです。なので、その星ひとつない暗い夜空をさして、南天の大暗黒と呼ぶのですわ」


「……ふーん?」


 ルゥは、にこにこと小首をかしげる。あまりよく分かっていないようだ。


「そういった話でしたら、わたしよりフレインの方が詳しいでしょう」


 そのフレインは、現在荷馬車の方で、消耗品などの手入れと整理を行っている。


「気になるようなら、のちほどあの魔導士に聞いてみるとよろしいですわ」


「んー……いい。フレインの話はよくわかんないし」


 首を振ったルゥは、ちらりと対面の座席を横目で見る。そこではアルフラが、うっとりとした顔で頭上を見上げていた。もちろん馬車のなかなので、天井の木目しか見えないはずである。――にも関わらず、アルフラは白蓮の髪を収めたペンダントを握りしめ、時折、愛しい人の名を囁やいていた。そしてそのたびに、車内は上着が必要なほどに冷え込んでいく。

 ロマリアの酷暑を考えれば、(りょう)が取れてよいのだろうが、肝まで冷えてしまうので、なかなか迷惑な話でもあった。

 狼少女はぶるりと震えて、無意識のうちに神官娘へ肩をよせる。

 その様子に、ジャンヌがくすりと笑った。


「ルゥ、馬車を止めていただいて、用をたしに行ったほうがよいのではないですか? 腰が冷えて、また“おもらし”してしまいますわよ」


 昨夜の仕返しに、すこし意地悪をしてやろうと考えたジャンヌだったが、これには手ひどい反撃が返ってくる。


「ジャンヌだってゆうべは、い~~っぱいおもらししたくせにっ」


「なっ!?」


 とたんに神官娘の顔は、耳たぶまで真っ赤になった。


「あ、あれは……たぶんお小水ではありませんわっ。だいたいルゥがいけないのではありませんか!」


 きゃいのきゃいのと取っ組み合いを始めた二人をよそに――



 アルフラは心の原風景を幻視し、一人陶然としていた。





 荷馬車のなかで積み荷の整頓をしていたフレインは、背後から聞こえたけたたましい物音に、びくりと振り返った。

 カダフィーの棺から、長い脚が垂直に伸びている。

 女吸血鬼が棺の蓋板を、内側から蹴り開けたのだ。

 人体の動きではあり得ない所作で、カダフィーが勢いよく上体を起こす。


「ど、どうしたのですか?」


「馬車を止めなッ!!」


 うろたえ気味なフレインの問いに、鋭い叫びが被さった。その声は、御者台の犠牲者にまで届き、馬車は急停止する。

 普段から血の気の失せたカダフィーの顔色は、いつにも増して蒼白だ。そんな女吸血鬼を怪訝そうに見つめるフレインへ、上擦った声が尋ねる。


「あんた、気づかないのかい?」


「い、いえ……何かあったのですか?」


「まだ、だいぶ距離はあるけど……とんでもないのがいるよ」


 カダフィーは、馬車の進行方向から、やや左に逸れた辺りの壁を注視していた。


「魔族、ですか?」


「おそらくね。もうすこし近づけば、いやでも感じるはずさ」


「それほどの相手なのですか?」


「これは爵位の魔族なんてもんじゃないよ。将位か大公位……下手すりゃ魔王みずからって可能性もある。今すぐ引き返した方がいい」


 魔王、というカダフィーの言葉に、フレインはしばし思考を停止させ、硬直してしまう。そして、慌てて何事かを言おうとした、そのとき――荷馬車の扉が、乱暴に外側から開かれた。


「アルフラちゃんが一人で森の中へ走って行っちまった!」


 そう叫んだのは、先行する馬車の(たずな)を握っていたシグナムであった。


「あたしは探しに行くから、あんたらは少しこの場で待っててくれ」


「待ちなよ。嬢ちゃんがどこに向かったのか、分かって言ってるのかい?」


「とりあえず、あっちだ」


 シグナムは左前方を指差し、そのまま返事も待たずに駆け出していた。


「あっ、シグナムさん!」


 フレインが荷馬車から降りると、シグナムの後を追うルゥとジャンヌの背中が見えた。すかさず制止の声を上げるが、それで立ち止まる者など居ようはずもなく――すぐに三人の姿は、森の木立にまぎれてしまった。

 後につづき走りだそうとしたフレインの肩を、強い力でカダフィーが掴む。


「お待ちよ。あの四人は、言って聞くような娘達じゃない。どのみちあんたじゃ追いつけやしないさ」


「ですが――」


「お聞きったら。この先にいるのは、本当にとんでもない魔族だよ。戦いになれば、確実に生きて帰れない。確実にだ」


 カダフィーは強引にフレインを馬車へと引きずり込む。


「私もね、魔族の恐ろしさは充分に理解しているつもりだったけど、それでも想像の及ばない範疇ってのがあることを、いま思い知らされたよ」


 諦観(ていかん)の表情で、カダフィーは視線を落とす。


「そりゃ神族も天界に引き篭っちまうわけだ。……やっぱりホスローは正しかったのさ。こんなのと争おうなんて考えるレギウスの神官どもは、狂ってるとしか思えない」


「あっ……いえ、駄目です! 今ここでアルフラさんに何かあれば、そのホスロー様の意にも反します。あなたは魔王雷鴉との契約をお忘れですか」


 その言葉に、カダフィーの顔色が変わる。


「アルフラさんを保護することを、魔王雷鴉は重要視なされていたのですよ! このままではそれこそ、魔王の怒りをかうことになる」


 だが、すでにカダフィーは、フレインの話を聞いてはいなかった。


「まさか、この気配は……」


 なにかに思い当たったかのか――女吸血鬼の口許が大きく引き攣る。その後の動きは迅速であった。

 カダフィーは馬車から飛び降りると、凄まじい速さで宵闇の中へと消えてしまった。


「ま、待って下さい!」



 慌てて車外に転がり出たフレインは、すでに影も見えない女吸血鬼を必死で追いかけた。





 真円の銀盤から降りそそぐ月光が、森の草木を青白く照らしていた。

 立ち並ぶ木々はしだいにまばらとなり、やがて荒野へとつづく支道(しどう)に出る。現在ではあまり使われていない、旧街道であった。

 それまで全力で駆けていたアルフラは、歩調を落とす。

 目的とする人影が、視界に入ったのだ。遠目から察するに、その人影は男性のようであった。


「すごい……」


 思わず、そんな言葉がアルフラの唇からもれた。

 とてつもない魔力を感じる。

 その存在感は物理的な圧力となって肌を刺した。


 桁違いだ。


 つい先日、刃を交えた侯爵位の魔族と比べても、あまりに次元が違いすぎる。

 それこそ山のような質量の魔力を、眼前の人影は内包していた。


――魔王……


 アルフラは瞬時に確信した。

 その男が、魔族の皇帝である戦禍に近しい力の持ち主だと感じられたからだ。――とすれば、それは魔王でしかありえない。

 おそらく、この月下の魔王は、天災並の力を造作もなく振るえるのであろう。そのことが、アルフラにはたやすく(うかが)い知れた。

 まだ間合いの遥か外ではあるが、油断なく細剣を構える。


 対して、その男――魔王雷鴉は、向けられた鋭い殺気にも頓着せず、顔の判別がつく距離にまで歩を進める。


「魔族かとも思ったが……なんか違うな」


 人の扱うような金属製の武具を、好んで身につける魔族はあまりいない。加えて、魔王という存在を前にして、あからさまな殺意を向けてくる者など、ほぼ皆無だ。いくら魔族が好戦的とはいえ、死が確定した戦いを挑むほど、愚かではない。――ゆえに、爵位の魔族にも匹敵する魔力を感じさせる少女を、


「……人間か?」


 雷鴉はそう結論づけた。


「……」


 答えることなく、アルフラはすり足で雷鴉の左側面へと移動する。自己防衛本能が機能していないアルフラにも、迂闊には踏み込めない――いや、それ以前に、近づくことさえ困難な相手だということが、初見で理解できていた。


「やめとけ。ガキを殺すのは趣味じゃねえんだ」


 人間としては、破格の魔力を有するアルフラではあったが、雷鴉の興味を引くほどではなかった。

 顔立ち的には、あと数年もすれば違った興味の対象にはなるかな、とも思う。そんなやくたいもない思考が可能なほど、雷鴉には余裕あった。

 じりじりと死角へ入ろうとするアルフラへ、ゆっくりと向き直る。

 後ろへ飛びのき、わずかに間合いを取った少女へ、雷鴉は面倒くさ気に言う。


「そのままケツを捲って逃げ出せよ。そしたら見逃してやる」


 周囲の空気がちりちりと緊張感を帯びる。

 アルフラは、雷鴉を中心に円を描くように移動する。

 おのれが無意識の内に、強者を相手取った格下の動きをしていることにも気づかない。


 雷鴉の隙をうかがうアルフラであったが、悠然と佇立(ちょりつ)するその姿は、むしろ隙だらけだった。しかし、脳内では最大級の危険信号が、絶え間なく警告を発しつづけている。

 いまアルフラを突き動かしているのは――眼前の強大な力を我がものとできれば、戦禍にすら手が届くのではないか。そんな思いであった。

 攻めあぐねながらも、鳶色の瞳は欲望に染まる。

 戦慄に見舞われながらも、血は冷たく沸き立つ。

 奪われた愛する人を取り戻すための道筋が、初めて具体的に見えたのだ。


――白蓮……


 口の中でちいさくつぶやき、すべての迷いを打ち消す。

 戦士としての勘が伝えてくる警告も、刹那に霧散した。

 笑みすら浮かべて、アルフラは細剣を一振りする。


 唸りを上げた冷気が、瞬時に世界を白銀に変えた。


 湿度の高いロマリアの空気は、たっぷりと水分を含んでいる。そのすべてが氷結し、あたり一面が細氷で埋め尽くされていた。


「おおっ?」


 雷鴉の口から驚愕の声が響いた。かるく眉を上げて、目を見張る。

 それはあくまで、人間が呪文などを(もち)いずに、魔法を行使したことへの驚きだった。

 アルフラは視界を覆う細氷にまぎれ、雷鴉の背後にまわり込む。そして一気に前へ出ようとした瞬間、半身(はんみ)に体を開き、後方――アルフラへと掌を向けた雷鴉の姿が目に入った。

 回避行動は反射的、かつ迅速に行われた。

 無駄なく上体をかたむけ、斜め前方へ地を蹴る。

 そこで、アルフラの意識は、とうとつに途切れた。


 気がついたときには、アルフラは地に転がり、雷鴉を見上げていた。

 なにが起きたのかも理解せぬまま、立ち上がろうとする。

 しかし、全身に焼けつくような痺れを感じ、四肢が思うように動かない。

 息苦しさを覚え、胸を掻く。すると革鎧の胸部が、黒く焦げついていることに気づいた。

 それでもアルフラは、みずからが一条の雷撃に貫かれたことまでは、理解できなかった。


 人の視覚は、瞳に映った情報を脳に伝達するまでに、わずかな時間を要する。だが、(いかずち)の速度は、およそ秒速十万km。脳が雷光を認識する前に、それはアルフラの体を打ち、意識を刈り取ってしまっていた。

 当然、この世に雷よりも速く動ける者などいない。


 すなわち、雷鴉の攻撃は、すべてが必中なのだ。


 アルフラの身体能力がどれほど高くとも、回避することはできない。初見で感じたように、まず近づくこと自体が、不可能と言えるほどに困難であった。


「ぐ……ぅ……」


 呻き声をもらしつつも、アルフラは力の入らない膝に爪を立てた。

 細剣はいまだ右手にある。

 雷鴉との距離は、さきほどよりもだいぶ開いていた。

 不可視の攻撃を受けて、後方に跳ね飛ばされたのだということを、かろうじて理解する。


「……へぇ」


 よろめきつつも立ち上がったアルフラに、今度こそは純粋な驚愕の声が響いた。


「いちおう、殺さない程度に手加減したつもりだったが……」


 動けるほどに手加減したつもりもなかったのだ。

 雷鴉は宙空に腕を伸ばし、なにかを掴むような仕草をした。そしてじっと手を見つめる。こまかな氷の結晶が、手の平を濡らしていた。


「……なるほど」


 大気中に散りばめられた無数の不純物が、雷撃の威力を減衰させたのだという考えに至った。

 相性としては、あまり良くはない相手なのだろう。しかし、それが問題とはならないほどに、純然たる力の差があることも事実であった。


 雷鴉はアルフラへと視線を移す。がくがくと膝を震わせながらも、一歩足を踏み出した少女を見て、かるく肩をすくめる。


「もう一度言うぞ。逃げるなら、命を取るつもりはねえ」


 雷鴉は目的のためならば非情ともなりうるが、決して冷酷というわけではない。相手が見目のよい少女であれば、殺すのは忍びないと感じる程度の温情は備えている。ましてそれが、生かしておいてもなんら害のない、ひ弱な存在であれば、なおさらであった。

 可愛らしく無害な仔猫がじゃれついてきたからといって、踏み殺すようなまねをする者も、そうはいないだろう。

 だが、そのあまりにも脆弱な少女は、さらに一歩、足を前へと踏み出す。


 ふっ、とため息にも似た呼気をはき、雷鴉は胸元に右腕を掲げる。その掌に、青い雷光が弾けた。

 帯電した腕全体から、ほそい紫電が四方に伸びる。放電により周囲の空気は爆発的に膨張し、凄まじい雷鳴が響いた。

 同時に膨張した空気は電離し、急速にプラズマ化する。そして大気の絶縁を引き裂きながら、さらに紫電は膨れ上がる。轟く雷鳴もまた、勢いを増しつづけていた。

 立体的な網目(あみめ)を形成した雷の結界の中で、電磁気力を自在に操る魔王が叫ぶ。


「これが最後だ! 今すぐケツを捲って逃げ出せッ! そうすりゃ命は助けてやる!!」


 地をも揺るがす鳴動となった放電音を裂いて、雷鴉の声がアルフラの耳に届いた。しかし、狂愛に囚われたその心には響かない。

 恐るべき力を行使するこの魔王を倒せば、白蓮を取り戻せる。その想いだけで、アルフラは足を進ませた。

 遠距離からの攻撃手段を持たぬ以上、想いを遂げるためには、常に前へと出るしかないのだ。


「……チッ!」


 鋭く舌打ちし、雷鴉は腕を振るう。

 高電圧の雷が束となって、横殴りに襲いかかった。


――白蓮!


 心の中でその名を叫び、アルフラはまばゆく発光する電磁結界へと飛び込む。


「あ、ぐぅ…………あ、あ、アァァァァアァァ――――――ッッ!!」


 雷光に触れた瞬間、アルフラはその場で棒立ちとなった。

 全身から火花を散らし、目を剥いて背をのけ反らせる。

 無意識に絶叫が溢れ出し、目の前が白一色に染まる。

 首にかけた銀の鎖が電熱で焼かれ、激しく燃え上がる。

 そして鎖は焼き切れ、ペンダントは火を噴いて跳ね飛んだ。


 雷鴉がさらに腕を一振りした。

 絡みつく雷光から、アルフラは弾き出される。

 倒れ伏したその体からは、沸騰した体液が蒸気となって立ち上がっていた。全身の筋肉が、緊張と弛緩を繰り返し、びくりっ、びくりっ、と何度も痙攣する。

 雷鴉が可愛らしいと感じた顔立ちは焼け爛れ、もはや見る影もない。頬の皮膚が爆ぜて、赤黒い生焼けの肉がのぞいていた。

 ほそい血管の集中する粘膜が破けたのか、耳や鼻からは鮮血が流れつづけている。


「……くそ」


 後味の悪さに、雷鴉は短く悪態をついた。

 ほうっておけばそう間を置かずに、少女は短い生を終えるだろう。そう考えた雷鴉の予想に反し、アルフラは痙攣とは違った、意思のある動きを見せた。


「……ペン……ト……」


 電熱に焼かれて黒く爛れた唇を開き、アルフラはもがくように這いずる。

 半死半生の状態にある今のアルフラは、すでに正常な思考、判断力といったものを失っていた。


「あ、たしの……ペン……ダント……」


 中に収められているのは、かつてフレインの手を介してアルフラへ渡された、銀糸と見まごう美しい髪。離れている間、アルフラの淋しさを少しでも紛らわせてくれるようにと、白蓮から贈られた自身の髪だ。それは、つらい別離の時をすごすアルフラにとって、白蓮の分身にも等しい宝物であった。


「たいせつ、な……ペン、ダント……なの……」


 放電音によりアルフラの声は聞こえない。雷鴉はその視線を辿り、足元を見る。

 そこには、黒く焦げついた金属片が転がっていた。

 周囲に、人肉の焼ける、嫌な臭気が立ち込める。


「あっ、おい!」


 地面を這い進んだアルフラが、ふたたび電界のなかへ侵入していた。

 電熱により内側から体を炙られ、身悶えながらも、その手には細剣がしっかりと握られていた。

 アルフラの大脳皮質へ、通電によるでたらめな電気信号が送られる。

 おのれの意思とは無関係に、全身の筋肉がピクピクと跳ね回る。


 寸刻前までは可憐であった顔立ちも、いまや無惨な有様を晒していた。


 大きく開かれた口からは泡立つ唾液が溢れ、舌根(ぜっこん)を突き出そうとするかのように、限界まで桃色の舌が伸ばされる。眼球からは火花が散り、裏返りそうなほどに瞳は上向(うわむ)く。

 顎はがくがくと勝手に動き、関節が無節操に跳ね、手足はでたらめにのたうっていた。

 そんないびつなダンスを披露しながらも、


「白、蓮の……かみ……」


 必死の形相で、アルフラは手を伸ばす。

 なによりも大切な、それこそ命にも代えられない白蓮からの贈り物。それを失えば、白蓮との繋がりをも断たれそうな恐怖に急かされ、アルフラは必死の思いで、焼け焦げた手を伸ばす。

 かぼそい声は届かぬながらも、その意思は、雷鴉にも察せられた。


「これが、欲しいのか……?」


 黒ずんだペンダントを拾い上げる。


「いや……さわら、ないで……ッ!」


 電磁結界の中で、アルフラが身を起こそうとしていた。


「あたしの……ペンダント……」


 全身に雷光を纏わりつかせ、顔から大量の血をしたたらせながらも、その瞳には鬼気迫るものがあった。

 さすがの雷鴉も、これには眉をひそめる。


「なんなんだよ……」


 すでにアルフラは、死に(たい)のはずなのだ。

 いくらかの加減をしているとはいえ、心臓はその鼓動を止めるに充分な電圧を流されつづけている。

 全身の毛細血管は破れ、目といわず鼻といわず、耳孔からも口腔からも血が溢れていた。おそらくすでに、何も見えず、何も聞こえまい。

 それでもアルフラは、足を踏み出す。


「か、え、せ……あたし、の……白蓮……」


「お前……いま自分がどんな状態か分かってるのか? そんなにこれは大事なものなのかよ……」


 雷鴉は、いったい中には何が入っているのかと、ペンダントの留め金をはずす。


「ん……なんだ、これ……?」


 逆さにしたペンダントからこぼれ落ちたのは、黒い灰だった。


「あ……あぁ…………?」


 血の涙を流しながら、アルフラは目を見開いた。


「う、ああ……ああああぁぁ――――!!」


 慟哭とともに、溢れる血は凍りつく。

 そして電界のなかで、吹雪が荒れ狂った。

 痙攣する腕が、細剣を持ち上げる。


「……すげぇな……」


 つぶやいた雷鴉の目は、さめたものだった。これ以上は、無駄に少女の苦痛を長引かせるだけだと判断する。

 そして膨大な魔力を用い、雷雲を呼び寄せた。



 一天(いってん)にわかにかき曇り、暗雲が月光を閉ざす。





 遥か古代においては、天空の支配者たるギアナ・ギアス神の怒りだと信じられていた自然現象。――神鳴(かみなり)

 それは、知性の有無。食生の差異。力の強弱。それらの枠組みを凌駕して、あらゆる生命に原始的な畏れを喚起させる。

 自然発生した雷の電圧は、およそ一億(ボルト)。その激烈なまでの猛威が、アルフラの頭上で吹き荒れていた。


「なんだ……これは……」


 アルフラを追って駆けつけたシグナムたちは、激しく発光する雷の結界を前に立ちすくんでいた。

 複雑な鋭角線を描く紫電で形作られた城塞は、何人(なんぴと)の侵入をも許さない。その中心に君臨する雷鴉の姿は、まさに魔王の威容を誇っていた。


「ッ……!」


 電磁結界に近づきすぎたシグナムの胸元から、青い火花が散った。革鎧の金具に通電し、上体がのけ反るほどの衝撃に打たれる。数歩よろけたその体が、背後に立っていたルゥにぶつかった。


「お、お姉ちゃん……アルフラが、しんじゃう……」


 まばゆい紫電の中に捕われたアルフラの姿は見えるものの、近づくことすらままならない。

 ルゥとジャンヌも、大気を揺るがす力の奔流を眼前に、なすすべもなく立ち尽くしていた。


「伏せて下さい!」


 ジャンヌが頭上を見上げて叫ぶ。


「――雷が、落ちますわ!」


 天に分厚くたれ込めた叢雲の中に、幾条もの稲光が踊っていた。


「やめてくれ……」


 シグナムの喉から、切迫した呻きがもれる。


「もうやめてくれ!! アルフラちゃんが……アルフラちゃんが死んじまうッ――――!!」


 シグナムのよく通る声は、轟く雷鳴のなか、かろうじて雷鴉の耳にまで届いた。


「あ……? アルフラ、だと……」


 どこか聞き覚えのあるその響きに、雷鴉は動きを止める。


「――――あ!?」


 そしてすぐに、それが白蓮の口から聞かされた名だと思い至った。その、かすかな忘我の瞬間、雷の制御は失われる。


「しまった――」


 天雷が、(くだ)った。

 音とは知覚出来ないほどに、大気が爆発的に揺れる。

 地面は波打ち、落雷により発生した衝撃波で、シグナムたちは木の葉のように吹き飛ばされた。

 振り上げられた細剣に、雷が落ちる瞬間を視認したのは、障壁に守られた雷鴉だけだった。


 すでにアルフラは、その轟音を聞くことも叶わなかった。


 耳腔(じこう)からは溢れ返った血がしたたり、その奥にある張り詰めた膜は、とうに弾けていた。

 電熱により網膜は焼き切れ、沸騰した体液で、水晶体が茹で上がる。

 ぱちゅり……と、右の眼窩から、おおよそ人体からは聞こえてはいけない類いの、湿った破裂音が響いた。

 すでに鼓膜は破れていたが、その音は骨伝動により脳へと通達される。

 しかしアルフラは、それを知覚することすらできなかった。

 黒く焦げついた体は、力無く地面に横たわり、微動だにしない。その(かたわ)らには、稲妻に打たれて溶解した細剣の刀身が、中ほどから溶け落ちていた。

 蛋白質の焼けた独特な臭いと、血と尿が蒸発した臭気とが混ざり合い、なんともいえない異様な生臭さが立ち込める。


「そんな……アルフラちゃん……」


 シグナムは、思うように動かない体で、なんとか立ち上がろうとする。その目に、アルフラへと駆け寄るカダフィーの姿が見えた。

 女吸血鬼は、アルフラの体にこびりついた革鎧の残骸を、乱暴に払いのける。そして胸に手を当てると――どんッ、と鈍い衝撃音が響いた。

 弓なりにアルフラの体が跳ね上がる。


「てめぇ!! アルフラちゃんに何しやがるッ!」


 凄まじい怒声を発したシグナムなどお構いなしに、カダフィーはさらに同じ行為を繰り返す。

 長剣を手に駆け寄ろうとしたシグナムへ、一切の余裕を感じさせない声でカダフィーが叫んだ。



「心臓が! 止まってるんだよ!!」

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