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氷の滅慕  作者: SH
五章 絶愛
135/251

縁かすか(後)



 翌朝、フィオナは旅慣れた村人の一人に御者を頼み、一路、カモロアをめざしていた。

 断崖の間を縫うようにつづく道は細く、敷石などの舗装もなされていない。

 馬車はがたごとと大きく揺れ、その行程は体調のかんばしくないアベルには、過酷なものだった。

 フィオナは、もう少し傷が癒えてからの出発を提案したのだが、事を()いたのはアベル自身だ。一刻も早くカモロアへ向かい、高名な医師の治療を受けて、早く体を治したいと彼は望んでいた。

 しかし、これにはフィオナも強く反対した。

 傷が癒えれば、ふたたびアベルは戦いへ赴くと分かっていたからだ。その身を案じる思いと、アベルの世話を焼くことが出来る現状を、なるべく長引かせたいという思いがあった。しかし、結局のところ、フィオナがアベルの願いに否と言えたためしはない。

 我の強いロマリアの巫女姫ではあったが、恋する少年の前では、あっさりと主体性をなくしてしまう。

 かつてダルカンからも指摘されていたように、たとえ意見を対立させても、最終的にはフィオナが折れる。そしてアベルの意思こそが、自分の望みなのだと迎合してしまう。

 献身と寛容。それが、フィオナの持ちえる顕著(けんちょ)な特質と言えた。


 道中、車内の揺れは酷く、アベルはよほど傷に(さわ)るのか、とても辛そうにしていた。フィオナの膝に頭を預け、馬車の振動がその体を揺らすたび、喉からは押し殺した呻き声がもれる。額には大量の脂汗を浮かせ、時が経つにつれ、顔からも次第に血の気がひいていった。


 健常な者でも音を上げる、悪路を行く旅は二日ほどもつづき――やがて、街道の先にカモロアの町並みが見えて来た。

 その頃には、絶え間の無い揺れと、ロマリアの蒸し暑さにより体力を奪われ、アベルはすっかり衰弱しきっていた。

 街の手前に敷設された関所では、数言質問を受けただけで、あっさりと通行許可がおりた。それは形式的なものであり、フィオナはおのれの身分を明かす手間もなかった。

 関所には多くの衛兵が配備されてはいたが、それも主に魔族へ対するものであって、人の往来にはあまり頓着していなないようだ。これは、フィオナ達がカモロアの北側からやって来たということも大きい。もしも、黒死の病が猛威を振るう南方からの通行であれば、こうはいかなかっただろう。


 カモロアの街に入ったフィオナは、北の区画にあるもっとも上質な宿をとった。そして馬と馬車は厩舎番に預け、意識のないアベルを御者と二人で部屋へと運ぶ。

 清潔な寝台にアベルの体を横たえ、フィオナは御者へと礼を述べた。


「ここまでありがとう。助かったわ」


「いえいえ、勇者さま方には、村を救っていただいたご恩があります。これしきのことでは、その恩を返せたとは思っておりませんよ」


 数日前、渓谷の村は魔族達の襲撃を受けた。それを撃退したアベル達に、御者は深く感謝していた。トスカナ砦から放たれた斥候とみられる魔族の一団は、数軒の家屋を倒壊させたが、アベル達の働きもあり、犠牲となった村人はいない。被害は最小限に抑えられたと言えるだろう。


「もともと勇者さまに救っていただいた命です。必要なことがあれば、なんなりと申し付けて下さい」


「いえ、渓谷の村も、今は男手が必要でしょう。いつまた魔族の襲撃があるかもしれないのだから」


「それは――」


「あなたは一刻も早く、家族のもとへ帰ってあげて。これは少ないけど、村のために役立てて下さい」


 フィオナは数枚の金貨を御者に握らせる。そのずっしりとした重みに驚愕の声が上がる。


「こんなに……」


「最後に一つお願いがあるのだけど、いいかしら?」


「は、はい、何でございましょう」


「私たちがこのカモロアに居ることを、誰にも口外しないでほしいの」


 御者は間髪もおかずに頷く。


「わかりました。勇者さま達のことは、誰にも言いません」


 そして御者は別れの挨拶を口にし、部屋を後にした。

 フィオナは、アベルと二人きりとなった室内で一つ息をつく。やや空腹を感じたが、まずは医者を呼びに行くのが先決だろうと考えた。


 本来であれば、領主の館に逗留すれば、アベルは最善の環境で治療を受けられるはずだ。それこそ身の回りの世話から医者の手配まで、すべて家令や侍女達がなしてくれるだろう。――しかしその場合、フィオナにとっては非常にまずい事態となる。

 仲間達を失い、竜の勇者と呼ばれるアベルまでもが、傷つき倒れた状況なのだ。もしも領主を頼れば、王女であるフィオナは、護衛付きで王宮へと送り返されることとなるだろう。カモロアの領主は、ロマリア女王へ忠誠を誓う臣下として、そうする義務がある。

 ゆえに、領主を頼れば、アベルと引き離されてしまうのは、目に見えている。だから、幸い路銀を豊富に持ち合わせているフィオナは、人を介さず己の手で、アベルを看病することにしたのだ。


 部屋を出たフィオナは、宿屋の主人を探しに、階下へと向かう。

 すぐに見つかった主人は、使用人の男と何事かを話し込んでいた。

 フィオナに気づいた主人は、早々に話を切り上げ、男へ小振りな斧を手渡した。

 どうやら使用人に、まき割りの仕事を与えていたらしい。

 戸口に使用人が消えると、主人は接客用のにこやかな笑みを浮かべ、フィオナへ向き直った。


「なにかご用でしょうかな、お嬢さん」


「ええ、忙しいところ手をわずらわせて申し訳ないのだけど……この街に、とても腕のよいお医者さまが居ると聞いたの。その方を呼んで貰えないかしら」


 気の良さげな主人は、かすかに顔を曇らせる。


「それはたぶん、ロベルト様のことだと思いますが……今あの方は、このカモロアにはおられませんよ」


「居ない?」


「はい。お嬢さんも、南方で黒死の病が拡がってるのは、ご存知でしょう? ロベルト様はその流行を食い止めるために、南の方へ出向かれているのですよ」


「そんな……」


 フィオナは肩を落とし、深くうつむいた。その様子を見て、主人は気の毒そうに声をかける。


「さっき運び込んだお連れの方は、そんなに具合が悪いのですか?」


「……ええ」


「そうですか……では今から下男(げなん)を走らせて、お医者を呼んで来ましょう。ロベルト様ほどじゃないにしても、このカモロアには、他にも腕のいい医師がおられますからね」


「ありがとうございます」


 礼を述べるフィオナに、主人は軽く頷く。そして先程の使用人を呼び戻し、急いで医者を呼んでくるように伝える。すぐに駆け出した使用人の帰りを待つ間、フィオナは主人へカモロアの周辺情勢を尋ねた。彼はなかなか話し好きな男らしく、巫女姫の問いかけに身振り手振りを交え、事細かに語った。


「そして、トスカナ砦に巣くっていた魔族達は、皇竜騎士団により討伐されたという話です。――これは、今朝方届いたばかりの知らせでしてね。まだ、近隣の者しか知らないのではないでしょうか」


「でも……トスカナ砦には男爵位の魔族がいたはずじゃ……」


「それが、なんとトスカナ砦には、ヨシュア様が来ているらしいのですよ。ご存知でございましょう? 竜の勇者様の兄君である、あのヨシュア様ですよ。きっとあの方が、爵位の魔族を倒してくれたのではないでしょうか」


「ヨシュアが……」


 フィオナも王族の一人として、王宮近衛の副隊長であるヨシュアのことは、よく見知っている。寡黙な人柄ながら、彼には幼い頃からずいぶんと良くして貰っていた。弟であるアベルには厳しくもあったが、フィオナにとっては、優しいお兄さんといった印象が強い。

 ヨシュアは確かに、大陸でも有数と称される剣士である。――しかし、それでも彼が、爵位の魔族を倒したという話は、にわかに信じられなかった。

 実際に、爵位の魔族と相対(あいたい)したことのあるフィオナは、その恐ろしさが身にしみている。どれほどの使い手であろうと、人間が高位の魔族を倒すことは、不可能に近いのだ。


 また、フィオナの母である女王エレクトラは、国民の世論操作や思想誘導を、とても巧みに行う。

 ロマリア国内において、アベルが竜の勇者と呼ばれ、崇拝にも等しい敬意を向けられているのも、女王エレクトラによる宣伝活動(プロパガンダ)の結果である。

 魔族の進攻により、多大な被害を受けながらも、人々が希望を失わず、治安が維持されているのは、竜の勇者が必ず魔族を倒してくれると、皆が強く信じているからなのだ。


 確かに、竜の勇者がロマリアを救う、という神託が降りたのは、事実である。――が、それをいち早く、かつ誇張して、国内の隅々にまで喧伝、浸透させえたのは、女王エレクトラの手腕によるところが大きい。


 そういったことから、フィオナは主人の話にも、かなり尾ヒレがつけられているのではないかと勘繰(かんぐ)ってしまう。


「爵位の魔族が倒されたという話は、確かなの?」


「ええ、間違いないでしょう。早駆けの伝令兵が、そう叫びながら領主の館へ向かったという話を、何人もの人から聞いていますからね」


「……そう」


 むずかしい顔で考え込むフィオナへ、主人はことさら明るく笑いかける。


「一時は領主様も、街人を疎開させるための準備を急いでなさったのですが、しばらくはこのカモロアも安泰でしょう。なんせヨシュア様がトスカナ砦にいらっしゃるのだから。それに竜の勇者様も、この近辺に来ているという話ですからね」


「え、ええ……そうね」


「そうですとも。魔族の進攻に怯える暮らしも、すぐに終わりますよ。このロマリアには、竜の勇者様がいらっしゃるのですからね」


 少しでもフィオナの不安を取り除こうと考えた主人の言葉は、完全に裏目となっていた。

 顔を曇らせ、うつむいてしまったフィオナを見て、主人もそれを悟る。しかし、自分の言葉のどの部分がそうさせてしまったのかは、知りようがない。


「あの……なにか気に障るようなことを言ってしまったようでしたら――」


「いえ、こちらこそごめんなさい。すこし考え事をしていただけなの」


「そうですか、ですが……おや、下男が戻って来たようですね」


 やや気まずい空気が流れ始めたところに、ばたばたと駆ける音が聞こえてきた。

 フィオナと主人は、息を切らせて戻ってきた使用人に連れられ、宿の入口に待たされた医者のもとへ向かう。


「こちらはケイオン様です。私共もたびたびお世話になっているので、腕の方は確かですよ」


 主人に紹介された医師、ケイオンは軽くフィオナに会釈をした。

 かなり高齢の男で、片手に杖をついている。


「こちらに重篤(じゅうとく)な者がおると聞いて飛んできました。案内を願えますか」


 ケイオンにうながされ、フィオナは彼を案内する。

 部屋へ入ったケイオンは、寝台に寝かされたアベルを見て、ここ数日の容態などをこまかに尋ねた。その質問へ、詳細な答えを返すフィオナにいちいち頷きながら、ケイオンはアベルの服を脱がせていく。

 素肌をさらした胸や腹に手を押し当て、


「ふむ……ずいぶんと熱が高いな……」


 ついでケイオンは、口をこじ開けて咥内を覗き込んだ。さらにまぶたを開かせ、じっと眼球を見つめる。その頃にはアベルも意識を取り戻し、呻き声を上げつつも、なされるままとさせていた。

 やがて、心音を計り始めたケイオンは、包帯を巻かれたアベルの足へと目を向ける。


「火傷には、軟膏を塗ってなさるのか?」


「はい。清潔にしなければと思い、日に二度、包帯も代えています」


「そうか、適切な処置じゃな」


 ズボンを捲り上げ、包帯を剥がし始めたケイオンは、膝のあたりまで包帯が巻いてあることに気づき、ズボン自体を脱がせにかかる。

 思わずそっぽを向いたフィオナだったが、アベルがふたたび意識を失っていることに気づき、顔を赤らめつつも視線を戻した。


「これは……かなり重度の火傷じゃな。命に別状はないが、跡は残る」


「そうですか……」


「足の方はよいとして、臓腑の方は深刻かもしれん」


 アベルの腹部を触診(しょくしん)しながら、ケイオンは重々しい口調で告げる。


「はっきりとは言えんが、どこか一部に損傷があるのではなく、全体的に内臓の働きが弱っているようじゃ」


「どうすれば……よいでしょうか」


 不安げな表情のフィオナへ、ケイオンは懐紙(かいし)に包まれた薬を数個差し出す。


「解熱剤じゃ。まずは熱を下げ、体力の回復を急がねばならん。食欲がなくとも、日に二度は食事を摂らせなさい」


「わかりました」


 解熱剤を受けとったフィオナは、それを貫頭衣(チェニック)の懐へとしまい込む。


「火傷の方も今まで通り、こまめに包帯を代えて、くれぐれも清潔にしなされ。もしも悪い風が入れば、いまの状態では命取りとなりかねん」


 顔を強張らせて頷いたフィオナへ、軟膏の入った小壷が渡される。


「すまぬが包帯の方は手持ちがない。戦乱と黒死の病の蔓延により、医薬品が手に入りにくくなっておるのじゃ」


「そうですか……」


「市場へ出れば、代わりとなる布などが買えるじゃろ。懐に余裕があれば、すこし多めに仕入れておくがよかろう」


「はい。日が落ちる前に、市場へ行ってみます」


「うむ。いま出来ることはここまでじゃ。ほかにも病人を待たせておるので、儂はこれで帰るが、もし容態が急変した場合は、使いの者を寄越してくだされ」


 杖を手に取り、帰り仕度(じたく)をはじめたケイオンが、厳しい顔でつけ足す。


「ただ、患者が吐血した場合は、もう手の施しようがない。血を吐くほどの損傷が臓器にあるようなら、儂にはどうにも出来ん」


「そんな……あの、それは他のお医者さまでも……?」


「おそらく、無理じゃろう」


 目を見開き、顔を青ざめさせたフィオナへ、ケイオンは沈痛(ちんつう)面持(おももち)ちを向ける。


「可能であれば、南へ向かうとよいかもしれん」


「え……?」


「南方の沿岸海洋国家では、医術を学問として発展させておる。なかには開腹手術と呼ばれる(すべ)を身につけておる者も居るそうじゃ」


「開腹……?」


 フィオナは、信じられないといったふうに、口許へ手をあてる。


「お腹を、切開するのですか?」


「うむ。腹を開き、病床となる悪い部位を、直接取り除くのだと聞いておる」


「そんなことが……可能なのですか?」


「事実、それで命を取り留めた者も大勢おるそうじゃ」


 ケイオンは、寝台のアベルへ目をやり、ことさら穏やかな口調で語りかける。


「その少年は、なかなか体つきがしっかりしておる。すぐにどうということもないはずじゃ。いまは療養しつつ、ゆっくりと体力の回復に努めるとよかろう」


「ええ、ありがとうございました」


 不安は拭えぬながらも、フィオナは深々と頭を下げた。そして扉へと向かったケイオンを、慌てて呼びとめる。


「待って、診療のお代を」


「いや、それは結構じゃよ」


 懐から、金子(きんす)袋を取りだしたフィオナを、ケイオンは掌を向けて押しとどめた。


「あんたは宿の主人から、いまこのカモロアでは医者を呼んでも金はかからんと、聞いてはおらんのかね?」


「え……そうなのですか?」


「うむ。カモロアの領主がの、懐から街中の医者に金を出しておるのじゃ。当面の間、貧しい者でも治療が受けられるよう、金を取らずに()てやるようにとな」


「そうですか。この街の領主は、立派な方なのですね……」


 驚きと感心を表情ににじませたフィオナを見て、ケイオンは苦笑する。


「いやいや、ここの領主は鼻持ちならんごうつくばりじゃよ」


「それは……」


 フィオナは、意味が分からず首をかしげる。


「これは領主の意思ではなく、女王陛下からのお触れなのじゃよ。魔族との戦いにより被害が著しい東部一帯に、勅令(ちょくれい)が下ったのじゃ。周辺領主は私財をはたき、民衆を保護せよとな」


 お母さまが、という言葉を危うく飲み込み、フィオナはひとつ頷く。


「わかりました。ですが、それでもやはり、施しを受けることは出来ません」


 フィオナは王族であって、民衆ではない。母である女王エレクトラが発した勅令は、貧しい者達が受けるべき恩恵であって、みずからがそれにあやかってはいけない。そういった思いがあった。――しかし、ケイオンは首を横へ振る。


「確かにあんたは、その身なりを見る限り、裕福なところのお嬢さんのようだ。じゃが、この宿に泊まっておるということは、旅の途中なのじゃろ?」


「はい、そうです」


「ならばやはり、金は受け取れん。病人を養いながら旅を続けようとすれば、金などいくらあっても足りるものではない」


 そこでケイオンは、さも愉快そうに笑う。


「どのみち金の出所は、これまでに私腹を肥やしてきた領主の金蔵(かねぐら)じゃ。儂としても綺麗な娘さんより、強欲な領主の懐を痛ませたいでな」


 ケイオンの言いように、思わずフィオナは笑んでしまう。


「ありがとう。それでは、厚意に甘えさせていただきます」


「いや。礼には及ばんよ。感謝をするのなら、聡明なる女王陛下に対してじゃ。このロマリアは他のどの国にも増して、為政者に恵まれておる」


 そう述べると、ケイオンは複雑な心境のフィオナを残し、部屋から去っていった。

 しばらくの間、フィオナはうかない顔で、じっと扉を見つめる。そして、今日中に包帯代わりとなる布を、買い求めに行かねばと思い立ち、外出の用意を始めた。

 身なりを整え、寝台のそばに置かれた丸椅子に腰掛ける。


「アベル。ねぇ、起きてアベル」


 ほそい呼びかけに、アベルのまぶたがうっすらと開かれた。


「フィ……オナ……お医者さまは……?」


「もう帰られたわ」


 やや虚ろだったアベルの視線が、フィオナの顔に焦点を結ぶ。意識の方もはっきりとしてきたようだ。


「僕は……どれくらいで、よくなるのかな。お医者さまは、なんと言ってたの?」


「しばらくは絶対安静よ。まずは体力を回復するのが先決ですって」


「そう……」


 沈んだ声音のアベルへ、フィオナは精一杯の笑顔を作って見せる。


「だいじょうぶよ。時間はかかっても、必ずもと通り、元気になるわ」


 アベルの頬を優しく撫で、さらにフィオナは語りかける。


「私はこれから市場へいって、必要なものを揃えてくるわ。出掛けに食事の仕度を頼んでゆくから、戻ったら一緒に食べましょ」


「僕、あんまり食欲は……」


 弱々しく首を振ったアベルの手を、フィオナは力強く握りしめる。


「だめよっ、ちゃんと食べないと。お医者さまも、無理をしてでも食事をするようにとおっしゃられていたわ」


「う、うん……」


「心配しないで。そんないっぺんに食べろだなんて言わないわ。私がすこしずつ、時間をかけてゆっくりと食べさせてあげるから」


 その情景を想像して、フィオナの表情には幸せそうな笑みが浮かび上がる。そんな幼なじみの顔を、どこか不安げな様子で見つめるアベルの手を、暖かな手が包み込む。


「それでね、アベル。すこし体がよくなったら、沿岸海洋国へ行こう思うの」


「え……?」


「海の見える暖かな保養地で、ゆっくり傷を癒しましょ。ね? 素敵だと思わない?」


「だ、だめだよ。そんな時間は……僕は早く剣を握れるようになって、また――」


 アベルの手を掴んだフィオナの両手に、ぐっと力がはいる。


「聞いて、アベル。魔族に占拠されていたトスカナ砦は、ロマリア軍が奪還したの。そこにいた爵位の魔族は、ヨシュアが倒したそうよ」


「兄さんが……」


「そうよ。だからしばらくは、この辺りで戦いは起こらないわ」


「でも、沿岸海洋国は遠いよ。いつまた魔族の進攻があるかもしれないのに、ロマリアを離れたりなんて出来ない」


 使命感のためか、アベルの双眸に、かすかな生気が(とも)る。それがフィオナにとっては、はがゆくてならない。人のためではなく自分のため、そしてフィオナのために、己の体を気遣って欲しかったのだ。


「それじゃあアベルは、いまの状態でヨシュアと会えるの? 自分では起き上がることも出来ない、その体で?」


 思わず口をついてしまったきつい言葉に、アベルのみならず、フィオナまでもが顔を引き攣らせた。


「ご、ごめんなさい。こんなこと……言うつもりはなかったの」


 しゅんとしてしまったフィオナに、優しくアベルは声をかける。


「ううん、フィオナは悪くないよ。僕がいけないんだ」


 アベルは腕を伸ばし、艶やかな金色(こんじき)の髪を撫でる。


「ごめんね、たしかにフィオナの言うとおりだ。こんな体ではなにも出来ないし、兄さんに会ったとしても心配をかけてしまう」


 ロマリアの救い手であらねばならない竜の勇者が、もしも魔族に敗れたという話がおおやけとなれば、ロマリア全土に混乱が生じるだろう。

 難民の流出には歯止めがかからず、治安もおおいに乱れることが予想出来る。

 アベルは竜の勇者として、人心の支えとなる必要があるのだ。


「だから、しばらくはロマリアを離れて、傷が治るのを待ちましょ」


 しかしそれでも、アベルは首を縦には振らなかった。


「どこか、人目のないところで回復を待った方がいいとは思う。けど、ロマリアを離れるのはだめだよ」


「アベル……」


 フィオナは、きっとすぐに怪我は治ると信じて疑わないアベルへ、実は命にかかわる可能性があるのだ、とは言えなかった。アベルに気をつかったということもあるが、それはあまりにも――フィオナにとっては、口にしてしまうことが(はがか)られるほどに恐ろしいことだった。

 それでも、手遅れとなる前に、沿岸海洋国に向かわねばならない。

 ケイオンの言葉が正しければ、万が一の場合でも、助かる見込みはあるのだから。


「お願い、アベル。沿岸海洋国に……一緒に行ってほしいの……」


 その声音はかすかにふるえ、しめやかにアベルの耳へと届いた。


「フィオナ……?」


 笑みの消えた幼なじみの顔を、アベルは不思議そうにながめる。


「どうしたの、フィオナ?」


「お願いよ……」


 フィオナは握ったアベルの手を、みずからの頬に押しあてる。その手に、冷たな流れがひとしずく、こぼれ落ちた。


「いままで私、なんでもアベルの言うとおりにして来たよね?」


「う、うん……」


 ぐすぐすとしゃくりあげながら、フィオナは涙でアベルの手を濡らす。


「これからだって、アベルが望むなら、どんなことだってしてあげる」


「フィオナ……」


「だから、ね。今回だけは、私の言うことをきいて」


「……」


「お願いよ、アベル。一緒に、南へ……沿岸海洋国へ、いきましょう?」


 悲しげに訴えるフィオナの声に抗えず、アベルは小さく頷く。


「わかったよ。フィオナの言うとおりにする」


「アベル……ありがとう……」



 泣き笑いに顔をゆがめ、フィオナはそっとアベルの額へ、口づけを落とした。





 暮れなずむ街並み。せわしなく人々の行き交う雑踏の中を、フィオナは宿への帰路についていた。

 なんとか日が沈みきる前に、必要な物を買い揃えることが出来た。しかし、腕いっぱいにかかえた荷物が、その足どりをさまたげる。

 長い影を落とし、夕闇に追われながらちょこちょこと歩くフィオナは、ふと足をとめる。


 目についたのは、真っ白な少女。

 白い肌に白い髪。深い(くれない)の瞳は活発によく動き、顎先で切り揃えられた髪をなびかせながら、フィオナの前を駆けてゆく。


白子(しらこ)……?」


 呆然とつぶやいたフィオナは、足をとめたまま、白い少女を目で追う。その両手には、魚と肉の刺さった焼き串が握られていた。

 色素の異常により生まれる白子は、本来とても虚弱だという。しかし、元気に駆け回るその姿は、やんちゃ娘といった感じだ。とても健康そうである。そして白い少女のあとから、神官服をまとった娘が追いかけてゆく。こちらは金髪碧眼の、やせた少女だった。


 あまりにも珍しい組み合わせの少女たちに、フィオナはひととき目をうばわれる。暗くなる前に、宿へ帰ろうと考えていたことも忘れ、二人の少女に見入っていた。そして――


 おうおうにして、魔と出逢うといわれる頃合いに、そうとしか表現のしようのない娘と、フィオナは出逢ってしまう。


 白い少女が駆け寄った、ほっそりとした小さな人影。街並みを赤く照らす落日(らくじつ)の斜光が、その髪色を血のような(あけ)に染めていた。

 フィオナには背が向けられており、その顔は見えない。しかし、なにかとても、いいえぬ不安が体の奥底から込み上げて来る。

 夏のロマリアでは、けっして感じるはずのない寒気に、フィオナは身をふるわせた。


 白い少女は、手に持った串を差し出し、何事かを喋りかけているようだ。けれど、まったくの無反応に、満面の笑顔はしおれ、やがてそれは作り笑いへと変わる。


 フィオナに背を向けている朱の少女は、一見、どこにでもいる町娘のようないで立ちであった。織り目の荒い貫頭衣に、やや厚手のズボン。それだけなら、この街に住む商人の娘だと言われても違和感はない。――しかし、腰に巻かれた剣帯が、それを裏切っていた。左の腰には、美麗な造りの鞘が吊され、細剣が収められている。右の腰には、かなり使い込まれた様子の短刀が二振り。すっと伸びた姿勢は美しく、まるで歴戦の剣士のよう。


 まじまじと見つめるフィオナの視線に気づいたのか、その少女はゆっくりと振り返る。

 大きな鳶色の瞳が、フィオナを正面から凝視した。――瞬間、全身に凄まじい悪寒が走る。視界は揺れ、足がもつれてよろめくのを自覚した。

 一歩踏み出し、なんとか身を支えるが、膝の震えが止まらない。臓腑を絞り上げられるような吐き気すら感じた。


 フィオナは、両手の荷物を強く抱きしめ、その場から駆け出す。脱兎のごとく、後ろを振り向くこともしない。



 夕暮れ刻には魔と出逢う。



 竜神の巫女であるフィオナは、世俗の者が口にする(たぐ)いの迷信は、一切信じていない。

 実在する神。竜の英霊の声を聞くことが出来るため、そういったあやふやなものに、信を置いていないのだ。しかし、この時ばかりは、なんらかの恐るべき予兆を、()の当たりにしたのではないか。そんな不吉さを感じてしまっていた。


 あの少女とだけは、決してかかわってはならない。


 そういった思いが、フィオナの足を止まらせることなく駆けさせた。

 夕闇のなか、魔に追われるかのごとく、フィオナは走る。



 (えにし)はかすかにすれ違い、交わることなく別離する。

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