縁かすか(後)
翌朝、フィオナは旅慣れた村人の一人に御者を頼み、一路、カモロアをめざしていた。
断崖の間を縫うようにつづく道は細く、敷石などの舗装もなされていない。
馬車はがたごとと大きく揺れ、その行程は体調のかんばしくないアベルには、過酷なものだった。
フィオナは、もう少し傷が癒えてからの出発を提案したのだが、事を急いたのはアベル自身だ。一刻も早くカモロアへ向かい、高名な医師の治療を受けて、早く体を治したいと彼は望んでいた。
しかし、これにはフィオナも強く反対した。
傷が癒えれば、ふたたびアベルは戦いへ赴くと分かっていたからだ。その身を案じる思いと、アベルの世話を焼くことが出来る現状を、なるべく長引かせたいという思いがあった。しかし、結局のところ、フィオナがアベルの願いに否と言えたためしはない。
我の強いロマリアの巫女姫ではあったが、恋する少年の前では、あっさりと主体性をなくしてしまう。
かつてダルカンからも指摘されていたように、たとえ意見を対立させても、最終的にはフィオナが折れる。そしてアベルの意思こそが、自分の望みなのだと迎合してしまう。
献身と寛容。それが、フィオナの持ちえる顕著な特質と言えた。
道中、車内の揺れは酷く、アベルはよほど傷に障るのか、とても辛そうにしていた。フィオナの膝に頭を預け、馬車の振動がその体を揺らすたび、喉からは押し殺した呻き声がもれる。額には大量の脂汗を浮かせ、時が経つにつれ、顔からも次第に血の気がひいていった。
健常な者でも音を上げる、悪路を行く旅は二日ほどもつづき――やがて、街道の先にカモロアの町並みが見えて来た。
その頃には、絶え間の無い揺れと、ロマリアの蒸し暑さにより体力を奪われ、アベルはすっかり衰弱しきっていた。
街の手前に敷設された関所では、数言質問を受けただけで、あっさりと通行許可がおりた。それは形式的なものであり、フィオナはおのれの身分を明かす手間もなかった。
関所には多くの衛兵が配備されてはいたが、それも主に魔族へ対するものであって、人の往来にはあまり頓着していなないようだ。これは、フィオナ達がカモロアの北側からやって来たということも大きい。もしも、黒死の病が猛威を振るう南方からの通行であれば、こうはいかなかっただろう。
カモロアの街に入ったフィオナは、北の区画にあるもっとも上質な宿をとった。そして馬と馬車は厩舎番に預け、意識のないアベルを御者と二人で部屋へと運ぶ。
清潔な寝台にアベルの体を横たえ、フィオナは御者へと礼を述べた。
「ここまでありがとう。助かったわ」
「いえいえ、勇者さま方には、村を救っていただいたご恩があります。これしきのことでは、その恩を返せたとは思っておりませんよ」
数日前、渓谷の村は魔族達の襲撃を受けた。それを撃退したアベル達に、御者は深く感謝していた。トスカナ砦から放たれた斥候とみられる魔族の一団は、数軒の家屋を倒壊させたが、アベル達の働きもあり、犠牲となった村人はいない。被害は最小限に抑えられたと言えるだろう。
「もともと勇者さまに救っていただいた命です。必要なことがあれば、なんなりと申し付けて下さい」
「いえ、渓谷の村も、今は男手が必要でしょう。いつまた魔族の襲撃があるかもしれないのだから」
「それは――」
「あなたは一刻も早く、家族のもとへ帰ってあげて。これは少ないけど、村のために役立てて下さい」
フィオナは数枚の金貨を御者に握らせる。そのずっしりとした重みに驚愕の声が上がる。
「こんなに……」
「最後に一つお願いがあるのだけど、いいかしら?」
「は、はい、何でございましょう」
「私たちがこのカモロアに居ることを、誰にも口外しないでほしいの」
御者は間髪もおかずに頷く。
「わかりました。勇者さま達のことは、誰にも言いません」
そして御者は別れの挨拶を口にし、部屋を後にした。
フィオナは、アベルと二人きりとなった室内で一つ息をつく。やや空腹を感じたが、まずは医者を呼びに行くのが先決だろうと考えた。
本来であれば、領主の館に逗留すれば、アベルは最善の環境で治療を受けられるはずだ。それこそ身の回りの世話から医者の手配まで、すべて家令や侍女達がなしてくれるだろう。――しかしその場合、フィオナにとっては非常にまずい事態となる。
仲間達を失い、竜の勇者と呼ばれるアベルまでもが、傷つき倒れた状況なのだ。もしも領主を頼れば、王女であるフィオナは、護衛付きで王宮へと送り返されることとなるだろう。カモロアの領主は、ロマリア女王へ忠誠を誓う臣下として、そうする義務がある。
ゆえに、領主を頼れば、アベルと引き離されてしまうのは、目に見えている。だから、幸い路銀を豊富に持ち合わせているフィオナは、人を介さず己の手で、アベルを看病することにしたのだ。
部屋を出たフィオナは、宿屋の主人を探しに、階下へと向かう。
すぐに見つかった主人は、使用人の男と何事かを話し込んでいた。
フィオナに気づいた主人は、早々に話を切り上げ、男へ小振りな斧を手渡した。
どうやら使用人に、まき割りの仕事を与えていたらしい。
戸口に使用人が消えると、主人は接客用のにこやかな笑みを浮かべ、フィオナへ向き直った。
「なにかご用でしょうかな、お嬢さん」
「ええ、忙しいところ手をわずらわせて申し訳ないのだけど……この街に、とても腕のよいお医者さまが居ると聞いたの。その方を呼んで貰えないかしら」
気の良さげな主人は、かすかに顔を曇らせる。
「それはたぶん、ロベルト様のことだと思いますが……今あの方は、このカモロアにはおられませんよ」
「居ない?」
「はい。お嬢さんも、南方で黒死の病が拡がってるのは、ご存知でしょう? ロベルト様はその流行を食い止めるために、南の方へ出向かれているのですよ」
「そんな……」
フィオナは肩を落とし、深くうつむいた。その様子を見て、主人は気の毒そうに声をかける。
「さっき運び込んだお連れの方は、そんなに具合が悪いのですか?」
「……ええ」
「そうですか……では今から下男を走らせて、お医者を呼んで来ましょう。ロベルト様ほどじゃないにしても、このカモロアには、他にも腕のいい医師がおられますからね」
「ありがとうございます」
礼を述べるフィオナに、主人は軽く頷く。そして先程の使用人を呼び戻し、急いで医者を呼んでくるように伝える。すぐに駆け出した使用人の帰りを待つ間、フィオナは主人へカモロアの周辺情勢を尋ねた。彼はなかなか話し好きな男らしく、巫女姫の問いかけに身振り手振りを交え、事細かに語った。
「そして、トスカナ砦に巣くっていた魔族達は、皇竜騎士団により討伐されたという話です。――これは、今朝方届いたばかりの知らせでしてね。まだ、近隣の者しか知らないのではないでしょうか」
「でも……トスカナ砦には男爵位の魔族がいたはずじゃ……」
「それが、なんとトスカナ砦には、ヨシュア様が来ているらしいのですよ。ご存知でございましょう? 竜の勇者様の兄君である、あのヨシュア様ですよ。きっとあの方が、爵位の魔族を倒してくれたのではないでしょうか」
「ヨシュアが……」
フィオナも王族の一人として、王宮近衛の副隊長であるヨシュアのことは、よく見知っている。寡黙な人柄ながら、彼には幼い頃からずいぶんと良くして貰っていた。弟であるアベルには厳しくもあったが、フィオナにとっては、優しいお兄さんといった印象が強い。
ヨシュアは確かに、大陸でも有数と称される剣士である。――しかし、それでも彼が、爵位の魔族を倒したという話は、にわかに信じられなかった。
実際に、爵位の魔族と相対したことのあるフィオナは、その恐ろしさが身にしみている。どれほどの使い手であろうと、人間が高位の魔族を倒すことは、不可能に近いのだ。
また、フィオナの母である女王エレクトラは、国民の世論操作や思想誘導を、とても巧みに行う。
ロマリア国内において、アベルが竜の勇者と呼ばれ、崇拝にも等しい敬意を向けられているのも、女王エレクトラによる宣伝活動の結果である。
魔族の進攻により、多大な被害を受けながらも、人々が希望を失わず、治安が維持されているのは、竜の勇者が必ず魔族を倒してくれると、皆が強く信じているからなのだ。
確かに、竜の勇者がロマリアを救う、という神託が降りたのは、事実である。――が、それをいち早く、かつ誇張して、国内の隅々にまで喧伝、浸透させえたのは、女王エレクトラの手腕によるところが大きい。
そういったことから、フィオナは主人の話にも、かなり尾ヒレがつけられているのではないかと勘繰ってしまう。
「爵位の魔族が倒されたという話は、確かなの?」
「ええ、間違いないでしょう。早駆けの伝令兵が、そう叫びながら領主の館へ向かったという話を、何人もの人から聞いていますからね」
「……そう」
むずかしい顔で考え込むフィオナへ、主人はことさら明るく笑いかける。
「一時は領主様も、街人を疎開させるための準備を急いでなさったのですが、しばらくはこのカモロアも安泰でしょう。なんせヨシュア様がトスカナ砦にいらっしゃるのだから。それに竜の勇者様も、この近辺に来ているという話ですからね」
「え、ええ……そうね」
「そうですとも。魔族の進攻に怯える暮らしも、すぐに終わりますよ。このロマリアには、竜の勇者様がいらっしゃるのですからね」
少しでもフィオナの不安を取り除こうと考えた主人の言葉は、完全に裏目となっていた。
顔を曇らせ、うつむいてしまったフィオナを見て、主人もそれを悟る。しかし、自分の言葉のどの部分がそうさせてしまったのかは、知りようがない。
「あの……なにか気に障るようなことを言ってしまったようでしたら――」
「いえ、こちらこそごめんなさい。すこし考え事をしていただけなの」
「そうですか、ですが……おや、下男が戻って来たようですね」
やや気まずい空気が流れ始めたところに、ばたばたと駆ける音が聞こえてきた。
フィオナと主人は、息を切らせて戻ってきた使用人に連れられ、宿の入口に待たされた医者のもとへ向かう。
「こちらはケイオン様です。私共もたびたびお世話になっているので、腕の方は確かですよ」
主人に紹介された医師、ケイオンは軽くフィオナに会釈をした。
かなり高齢の男で、片手に杖をついている。
「こちらに重篤な者がおると聞いて飛んできました。案内を願えますか」
ケイオンにうながされ、フィオナは彼を案内する。
部屋へ入ったケイオンは、寝台に寝かされたアベルを見て、ここ数日の容態などをこまかに尋ねた。その質問へ、詳細な答えを返すフィオナにいちいち頷きながら、ケイオンはアベルの服を脱がせていく。
素肌をさらした胸や腹に手を押し当て、
「ふむ……ずいぶんと熱が高いな……」
ついでケイオンは、口をこじ開けて咥内を覗き込んだ。さらにまぶたを開かせ、じっと眼球を見つめる。その頃にはアベルも意識を取り戻し、呻き声を上げつつも、なされるままとさせていた。
やがて、心音を計り始めたケイオンは、包帯を巻かれたアベルの足へと目を向ける。
「火傷には、軟膏を塗ってなさるのか?」
「はい。清潔にしなければと思い、日に二度、包帯も代えています」
「そうか、適切な処置じゃな」
ズボンを捲り上げ、包帯を剥がし始めたケイオンは、膝のあたりまで包帯が巻いてあることに気づき、ズボン自体を脱がせにかかる。
思わずそっぽを向いたフィオナだったが、アベルがふたたび意識を失っていることに気づき、顔を赤らめつつも視線を戻した。
「これは……かなり重度の火傷じゃな。命に別状はないが、跡は残る」
「そうですか……」
「足の方はよいとして、臓腑の方は深刻かもしれん」
アベルの腹部を触診しながら、ケイオンは重々しい口調で告げる。
「はっきりとは言えんが、どこか一部に損傷があるのではなく、全体的に内臓の働きが弱っているようじゃ」
「どうすれば……よいでしょうか」
不安げな表情のフィオナへ、ケイオンは懐紙に包まれた薬を数個差し出す。
「解熱剤じゃ。まずは熱を下げ、体力の回復を急がねばならん。食欲がなくとも、日に二度は食事を摂らせなさい」
「わかりました」
解熱剤を受けとったフィオナは、それを貫頭衣の懐へとしまい込む。
「火傷の方も今まで通り、こまめに包帯を代えて、くれぐれも清潔にしなされ。もしも悪い風が入れば、いまの状態では命取りとなりかねん」
顔を強張らせて頷いたフィオナへ、軟膏の入った小壷が渡される。
「すまぬが包帯の方は手持ちがない。戦乱と黒死の病の蔓延により、医薬品が手に入りにくくなっておるのじゃ」
「そうですか……」
「市場へ出れば、代わりとなる布などが買えるじゃろ。懐に余裕があれば、すこし多めに仕入れておくがよかろう」
「はい。日が落ちる前に、市場へ行ってみます」
「うむ。いま出来ることはここまでじゃ。ほかにも病人を待たせておるので、儂はこれで帰るが、もし容態が急変した場合は、使いの者を寄越してくだされ」
杖を手に取り、帰り仕度をはじめたケイオンが、厳しい顔でつけ足す。
「ただ、患者が吐血した場合は、もう手の施しようがない。血を吐くほどの損傷が臓器にあるようなら、儂にはどうにも出来ん」
「そんな……あの、それは他のお医者さまでも……?」
「おそらく、無理じゃろう」
目を見開き、顔を青ざめさせたフィオナへ、ケイオンは沈痛な面持ちを向ける。
「可能であれば、南へ向かうとよいかもしれん」
「え……?」
「南方の沿岸海洋国家では、医術を学問として発展させておる。なかには開腹手術と呼ばれる術を身につけておる者も居るそうじゃ」
「開腹……?」
フィオナは、信じられないといったふうに、口許へ手をあてる。
「お腹を、切開するのですか?」
「うむ。腹を開き、病床となる悪い部位を、直接取り除くのだと聞いておる」
「そんなことが……可能なのですか?」
「事実、それで命を取り留めた者も大勢おるそうじゃ」
ケイオンは、寝台のアベルへ目をやり、ことさら穏やかな口調で語りかける。
「その少年は、なかなか体つきがしっかりしておる。すぐにどうということもないはずじゃ。いまは療養しつつ、ゆっくりと体力の回復に努めるとよかろう」
「ええ、ありがとうございました」
不安は拭えぬながらも、フィオナは深々と頭を下げた。そして扉へと向かったケイオンを、慌てて呼びとめる。
「待って、診療のお代を」
「いや、それは結構じゃよ」
懐から、金子袋を取りだしたフィオナを、ケイオンは掌を向けて押しとどめた。
「あんたは宿の主人から、いまこのカモロアでは医者を呼んでも金はかからんと、聞いてはおらんのかね?」
「え……そうなのですか?」
「うむ。カモロアの領主がの、懐から街中の医者に金を出しておるのじゃ。当面の間、貧しい者でも治療が受けられるよう、金を取らずに診てやるようにとな」
「そうですか。この街の領主は、立派な方なのですね……」
驚きと感心を表情ににじませたフィオナを見て、ケイオンは苦笑する。
「いやいや、ここの領主は鼻持ちならんごうつくばりじゃよ」
「それは……」
フィオナは、意味が分からず首をかしげる。
「これは領主の意思ではなく、女王陛下からのお触れなのじゃよ。魔族との戦いにより被害が著しい東部一帯に、勅令が下ったのじゃ。周辺領主は私財をはたき、民衆を保護せよとな」
お母さまが、という言葉を危うく飲み込み、フィオナはひとつ頷く。
「わかりました。ですが、それでもやはり、施しを受けることは出来ません」
フィオナは王族であって、民衆ではない。母である女王エレクトラが発した勅令は、貧しい者達が受けるべき恩恵であって、みずからがそれにあやかってはいけない。そういった思いがあった。――しかし、ケイオンは首を横へ振る。
「確かにあんたは、その身なりを見る限り、裕福なところのお嬢さんのようだ。じゃが、この宿に泊まっておるということは、旅の途中なのじゃろ?」
「はい、そうです」
「ならばやはり、金は受け取れん。病人を養いながら旅を続けようとすれば、金などいくらあっても足りるものではない」
そこでケイオンは、さも愉快そうに笑う。
「どのみち金の出所は、これまでに私腹を肥やしてきた領主の金蔵じゃ。儂としても綺麗な娘さんより、強欲な領主の懐を痛ませたいでな」
ケイオンの言いように、思わずフィオナは笑んでしまう。
「ありがとう。それでは、厚意に甘えさせていただきます」
「いや。礼には及ばんよ。感謝をするのなら、聡明なる女王陛下に対してじゃ。このロマリアは他のどの国にも増して、為政者に恵まれておる」
そう述べると、ケイオンは複雑な心境のフィオナを残し、部屋から去っていった。
しばらくの間、フィオナはうかない顔で、じっと扉を見つめる。そして、今日中に包帯代わりとなる布を、買い求めに行かねばと思い立ち、外出の用意を始めた。
身なりを整え、寝台のそばに置かれた丸椅子に腰掛ける。
「アベル。ねぇ、起きてアベル」
ほそい呼びかけに、アベルのまぶたがうっすらと開かれた。
「フィ……オナ……お医者さまは……?」
「もう帰られたわ」
やや虚ろだったアベルの視線が、フィオナの顔に焦点を結ぶ。意識の方もはっきりとしてきたようだ。
「僕は……どれくらいで、よくなるのかな。お医者さまは、なんと言ってたの?」
「しばらくは絶対安静よ。まずは体力を回復するのが先決ですって」
「そう……」
沈んだ声音のアベルへ、フィオナは精一杯の笑顔を作って見せる。
「だいじょうぶよ。時間はかかっても、必ずもと通り、元気になるわ」
アベルの頬を優しく撫で、さらにフィオナは語りかける。
「私はこれから市場へいって、必要なものを揃えてくるわ。出掛けに食事の仕度を頼んでゆくから、戻ったら一緒に食べましょ」
「僕、あんまり食欲は……」
弱々しく首を振ったアベルの手を、フィオナは力強く握りしめる。
「だめよっ、ちゃんと食べないと。お医者さまも、無理をしてでも食事をするようにとおっしゃられていたわ」
「う、うん……」
「心配しないで。そんないっぺんに食べろだなんて言わないわ。私がすこしずつ、時間をかけてゆっくりと食べさせてあげるから」
その情景を想像して、フィオナの表情には幸せそうな笑みが浮かび上がる。そんな幼なじみの顔を、どこか不安げな様子で見つめるアベルの手を、暖かな手が包み込む。
「それでね、アベル。すこし体がよくなったら、沿岸海洋国へ行こう思うの」
「え……?」
「海の見える暖かな保養地で、ゆっくり傷を癒しましょ。ね? 素敵だと思わない?」
「だ、だめだよ。そんな時間は……僕は早く剣を握れるようになって、また――」
アベルの手を掴んだフィオナの両手に、ぐっと力がはいる。
「聞いて、アベル。魔族に占拠されていたトスカナ砦は、ロマリア軍が奪還したの。そこにいた爵位の魔族は、ヨシュアが倒したそうよ」
「兄さんが……」
「そうよ。だからしばらくは、この辺りで戦いは起こらないわ」
「でも、沿岸海洋国は遠いよ。いつまた魔族の進攻があるかもしれないのに、ロマリアを離れたりなんて出来ない」
使命感のためか、アベルの双眸に、かすかな生気が灯る。それがフィオナにとっては、はがゆくてならない。人のためではなく自分のため、そしてフィオナのために、己の体を気遣って欲しかったのだ。
「それじゃあアベルは、いまの状態でヨシュアと会えるの? 自分では起き上がることも出来ない、その体で?」
思わず口をついてしまったきつい言葉に、アベルのみならず、フィオナまでもが顔を引き攣らせた。
「ご、ごめんなさい。こんなこと……言うつもりはなかったの」
しゅんとしてしまったフィオナに、優しくアベルは声をかける。
「ううん、フィオナは悪くないよ。僕がいけないんだ」
アベルは腕を伸ばし、艶やかな金色の髪を撫でる。
「ごめんね、たしかにフィオナの言うとおりだ。こんな体ではなにも出来ないし、兄さんに会ったとしても心配をかけてしまう」
ロマリアの救い手であらねばならない竜の勇者が、もしも魔族に敗れたという話がおおやけとなれば、ロマリア全土に混乱が生じるだろう。
難民の流出には歯止めがかからず、治安もおおいに乱れることが予想出来る。
アベルは竜の勇者として、人心の支えとなる必要があるのだ。
「だから、しばらくはロマリアを離れて、傷が治るのを待ちましょ」
しかしそれでも、アベルは首を縦には振らなかった。
「どこか、人目のないところで回復を待った方がいいとは思う。けど、ロマリアを離れるのはだめだよ」
「アベル……」
フィオナは、きっとすぐに怪我は治ると信じて疑わないアベルへ、実は命にかかわる可能性があるのだ、とは言えなかった。アベルに気をつかったということもあるが、それはあまりにも――フィオナにとっては、口にしてしまうことが憚られるほどに恐ろしいことだった。
それでも、手遅れとなる前に、沿岸海洋国に向かわねばならない。
ケイオンの言葉が正しければ、万が一の場合でも、助かる見込みはあるのだから。
「お願い、アベル。沿岸海洋国に……一緒に行ってほしいの……」
その声音はかすかにふるえ、しめやかにアベルの耳へと届いた。
「フィオナ……?」
笑みの消えた幼なじみの顔を、アベルは不思議そうにながめる。
「どうしたの、フィオナ?」
「お願いよ……」
フィオナは握ったアベルの手を、みずからの頬に押しあてる。その手に、冷たな流れがひとしずく、こぼれ落ちた。
「いままで私、なんでもアベルの言うとおりにして来たよね?」
「う、うん……」
ぐすぐすとしゃくりあげながら、フィオナは涙でアベルの手を濡らす。
「これからだって、アベルが望むなら、どんなことだってしてあげる」
「フィオナ……」
「だから、ね。今回だけは、私の言うことをきいて」
「……」
「お願いよ、アベル。一緒に、南へ……沿岸海洋国へ、いきましょう?」
悲しげに訴えるフィオナの声に抗えず、アベルは小さく頷く。
「わかったよ。フィオナの言うとおりにする」
「アベル……ありがとう……」
泣き笑いに顔をゆがめ、フィオナはそっとアベルの額へ、口づけを落とした。
暮れなずむ街並み。せわしなく人々の行き交う雑踏の中を、フィオナは宿への帰路についていた。
なんとか日が沈みきる前に、必要な物を買い揃えることが出来た。しかし、腕いっぱいにかかえた荷物が、その足どりをさまたげる。
長い影を落とし、夕闇に追われながらちょこちょこと歩くフィオナは、ふと足をとめる。
目についたのは、真っ白な少女。
白い肌に白い髪。深い紅の瞳は活発によく動き、顎先で切り揃えられた髪をなびかせながら、フィオナの前を駆けてゆく。
「白子……?」
呆然とつぶやいたフィオナは、足をとめたまま、白い少女を目で追う。その両手には、魚と肉の刺さった焼き串が握られていた。
色素の異常により生まれる白子は、本来とても虚弱だという。しかし、元気に駆け回るその姿は、やんちゃ娘といった感じだ。とても健康そうである。そして白い少女のあとから、神官服をまとった娘が追いかけてゆく。こちらは金髪碧眼の、やせた少女だった。
あまりにも珍しい組み合わせの少女たちに、フィオナはひととき目をうばわれる。暗くなる前に、宿へ帰ろうと考えていたことも忘れ、二人の少女に見入っていた。そして――
おうおうにして、魔と出逢うといわれる頃合いに、そうとしか表現のしようのない娘と、フィオナは出逢ってしまう。
白い少女が駆け寄った、ほっそりとした小さな人影。街並みを赤く照らす落日の斜光が、その髪色を血のような朱に染めていた。
フィオナには背が向けられており、その顔は見えない。しかし、なにかとても、いいえぬ不安が体の奥底から込み上げて来る。
夏のロマリアでは、けっして感じるはずのない寒気に、フィオナは身をふるわせた。
白い少女は、手に持った串を差し出し、何事かを喋りかけているようだ。けれど、まったくの無反応に、満面の笑顔はしおれ、やがてそれは作り笑いへと変わる。
フィオナに背を向けている朱の少女は、一見、どこにでもいる町娘のようないで立ちであった。織り目の荒い貫頭衣に、やや厚手のズボン。それだけなら、この街に住む商人の娘だと言われても違和感はない。――しかし、腰に巻かれた剣帯が、それを裏切っていた。左の腰には、美麗な造りの鞘が吊され、細剣が収められている。右の腰には、かなり使い込まれた様子の短刀が二振り。すっと伸びた姿勢は美しく、まるで歴戦の剣士のよう。
まじまじと見つめるフィオナの視線に気づいたのか、その少女はゆっくりと振り返る。
大きな鳶色の瞳が、フィオナを正面から凝視した。――瞬間、全身に凄まじい悪寒が走る。視界は揺れ、足がもつれてよろめくのを自覚した。
一歩踏み出し、なんとか身を支えるが、膝の震えが止まらない。臓腑を絞り上げられるような吐き気すら感じた。
フィオナは、両手の荷物を強く抱きしめ、その場から駆け出す。脱兎のごとく、後ろを振り向くこともしない。
夕暮れ刻には魔と出逢う。
竜神の巫女であるフィオナは、世俗の者が口にする類いの迷信は、一切信じていない。
実在する神。竜の英霊の声を聞くことが出来るため、そういったあやふやなものに、信を置いていないのだ。しかし、この時ばかりは、なんらかの恐るべき予兆を、目の当たりにしたのではないか。そんな不吉さを感じてしまっていた。
あの少女とだけは、決してかかわってはならない。
そういった思いが、フィオナの足を止まらせることなく駆けさせた。
夕闇のなか、魔に追われるかのごとく、フィオナは走る。
縁はかすかにすれ違い、交わることなく別離する。