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氷の滅慕  作者: SH
五章 絶愛
128/251

氷の花園



 氷膨(ひょうぼう)は、声もかけずいきなり扉を開いた不作法者の顔を、食い入るように見つめていた。

 誰何(すいか)の言葉を発することも忘れ、陶然と見とれてしまう。


 美貌の闖入者も、しばし室内の有様に瞳をまたたかせていたが、氷膨より数瞬早く我へとかえったようだ。

 流れ落ちる銀髪を揺らし、周囲の女達へと目を走らせる。


 氷膨はたっぷりと三呼吸(みこきゅう)ほどもの間、女の顔を眺めていた。

 それはある種、崇拝の対象()りえる美しさだ。

 感嘆の息をもらし、氷膨は口を開く。


「奇跡だな」


 そんな言葉で眼前の美を褒め讃えた。


「お前は何者だ?」


 まず最初に聞かねばならぬことを思い出し、そう尋ねた。


「こたえる必要性を感じないわ」


 簡潔に述べ、白蓮は玉座の正面へと進んだ。そして氷膨の顔からつま先にまで視線を投じる。


 氷膨は肌を晒したまま、恥じらうこともなく堂々と脚を開いていた。そしていまだ白蓮の美貌に忘我するアウラの髪を掴み、己の下腹部に押しつける。


「誰がやめていいと言った。続けろ」


「ん……む……」


 氷膨は見せつけるような笑みを浮かべ、白蓮の表情がどういった変化を起こすか好奇の目を向けた――が、その期待はあっさりと裏切られる。

 白蓮は、ぴちゃぴちゃと卑猥な音を舌先で奏でるアウラと、それを強要した氷膨へ、無関心な一瞥を送った。そして玉座の氷膨へと腕を伸ばす。


 反射的にその動きを阻もうと展開された障壁を、流麗な手つきで白蓮が撫でる。

 硝子を砕いたかのような、甲高い音が響いた。


 驚愕に身を強張らせた氷膨の首根っこに、ひんやりとした指がからむ。そのまま白蓮の細腕に吊り上げられ、侯爵位の魔族は石畳に投げだされた。


「――ッ!?」


 唖然とする氷膨には目もくれず、銀髪の麗人はあいた玉座へ腰をおろす。

 やはり同じく唖然とした顔のアウラは、限界まで舌を突き出した状態で固まってしまっていた。


「き、貴様!!」


 全裸で床に尻をついたまま、氷膨が憤怒(ふんぬ)の声を上げた。

 白蓮は玉座の肘掛けに腕を置き、ひとつ命じる。


退室(さがっ)ていいわ」


 跳ねるように飛び起きた氷膨から、凄まじい冷気が湧き立った。白蓮の言葉を、侮蔑と受け取ったのだ。

 石畳に霜がおり、玉座へ向かい大気を凍てつかせる寒波が(はし)る。


「ヒッ――!」


 並の貴族であれば、瞬時に氷像と化すほどの冷気は、悲鳴を上げたアウラにすら届かなかった。

 室内は極寒の冷凍室となり、裸の女達が身を縮こまらせてがたがたと震える。


「心地好いわ。部屋もほどよく冷えたし、そろそろ退室なさい」


 白蓮の蒼い瞳に、鋭利な冷やかさが宿る。その目は克明に――殺意を向けたことは不問とし、慈悲をくれてやるから早々に立ち去れ――そう告げていた。


「な、なんなのだ……いったいお前は、何者なのだ……?」


 よろよろと数歩後ずさった侯爵位の魔族へ、玉座に()した麗人は問い返す。


「お前は、竜の勇者とやらを殺すため、このロマリアへやって来たのでしょう?」


「なぜそのことを知っている!?」


「口の軽い門兵(もんぺい)には暇を出したほうがよいわね」


 うすく笑い、白蓮は言葉をつづける。


「私はすこしの間、ここで人を待ちたいだけなの。お前の邪魔をする気はないわ」


 気圧されながらも強い視線を向けてくる氷膨に、白蓮はややうんざりとした仕草を見せる。


「お前を殺すと、よく口の回るあの男がうるさそうだわ。口無の配下なのでしょう? お前は」


「私の主を気安く呼び捨てにするな!!」


 氷膨は、ふたたび強い冷気を身から湧き立たせる。


「私がそう呼んでも、口無は怒らないと思うわよ。彼は私のことを姉君と呼んでいたしね。お前が憤慨する(いわ)れはないわ」


「なんだと……?」


 以前、皇城での酒宴の席で、口無は灰塚の機嫌を取ろうと考え、うやうやしげに姉君と白蓮を呼んでいた。

 そこに嘘はなく、氷膨も白蓮の言葉に、虚偽の響きは見出だせなかった。


「貴様――いや、お前は口無様と面識があるのか?」


「ええ、私に不躾(ぶしつけ)な態度を取れば、お前が口無の機嫌を損ねる程度にはね」


「…………」


 氷膨としても、つぶさには信じられなかったが、白蓮は終止余裕を崩すことなく冷笑を浮かべている。その態度に、疑いを差し挟む余地はうかがえない。


「私がこの砦に滞在する間、互いに干渉はしない。それでよいでしょう?」


 ことの真偽は置いても、力に訴えることは無謀だろう。そう氷膨は考える。さきほどの、攻防とも言えぬ一瞬の掛け合いで、いかんともしがたい力量の差を実感していた。


「そうすれば私が皇城へ帰還したのち、お前にはずいぶん世話になったと、口無に報告してあげるわ」


 侯爵位の魔族は渋々と頷く。


「わかった、好きにしろ。ただし、今の言葉を忘れるな」



 それだけを告げ、氷膨は肩を返して扉から出て行った。





 玉座の前にひざまずいたアウラの鼻先には、綺麗に揃えられた脚が(しゃ)に流されていた。

 そこそこの時間、外気にさらされ乾いてしまった舌は、すでに咥内へと収納済みだ。

 ここ数日、急転する事態にやや思考が麻痺しかけていたアウラは、自然とご奉仕をつづけなければと考えた。そうしなければ愛娘が、また酷く責め抜かれるかもしれない。

 目まぐるしく主を変える玉座に、いま腰を下ろしている女性から向けられた怪訝そうな視線は、ご奉仕の催促なのだと確信する。


 アウラは眼前にある、すべらかな純白のドレスを、腿の上までたくし上げた。するとやはり美麗な膝が、寄り添うように揃えられていた。

 あまりにも完璧なその造形に、アウラは思わず見惚れてしまう。

 どれほどの美女であろうと、膝小僧までこれほど麗しい形をしている者など、他には存在しないのではないだろうか――などと妙な感動を覚えつつ、白皙(はくせき)の脚を左右に割り開く。そして、舌先を伸ばし、秘めやかな美の根源に顔を突っ込もうとして、


「……お前はいったい、ナニをしようとしてるの?」


 前頭部を鷲掴みにさた。そのまま額を掌で、ぐいぐいと押し戻される。


 玉座の白蓮は、その顔こそ変わらぬ無表情ではあったが、声にはかすかな戸惑いが混じっていた。

 見も知らぬ、あまつさえ全裸の女が、いきなり自分の股間に顔を突っ込んできたのだ。そう考えると、尋常ならざる冷静な応対とも言えるだろう。


「あの……ご奉仕を……」


 アウラの声音にもまた、困惑が入り混じっていた。その頭上から、大きなため息がこぼされる。


 若干うんざりとした顔で、白蓮は腿までまくり上げられたドレスの裾をなおす。

 その内心では、灰塚といいこの全裸の女といい、なぜこうも躊躇なく人の股に顔を埋めたがるのだろうと、不思議でならなかった。


「ぺろぺろの必要はないわ」


「ぺろ……??」


 つい灰塚の口癖が出てしまい、白蓮は気まずげに長い睫毛をまたたかせた。


「……とりあえず、立って服を着なさい」


「え……あの、よろしいのですか?」


「目の前で、全裸の女にひざまずかれていては落ち着かないわ。早くなさい」


「か、かしこまりました」


 立ち上がったアウラは、室内の女達と目を見交わし、物言いたげに白蓮へ目線をやる。


「なに?」


「あ、その……もしご慈悲をいただけるようでしたら、他の者達にも着衣させてよろしいでしょうか?」


「構わないわ。――というか、なぜ許可を求めるの? もし、お前達が裸でいることを私が望んでいるとでも思っているのなら、とても心外だわ」


「も、申し訳ございません」


 アウラは女達の一人へ、衣服を持ってくるように命じた。


「お前達も退室していいわよ。用があれば呼ぶわ」


「あ、いえ」


 アウラは慌ててかぶりを振る。白蓮も恐ろしくはあるが、この部屋を追い出されてしまえば、それはそれで危険なのだ。砦の中には、いたるところに魔族がうろついている。それにさきほどのやり取りからすると、氷膨はしばらくここへは近づかないだろう。そうアウラは考えていた。


「……できれば、私達をここに置いて下さるとありがたいのですが……」


「好きになさい。私の邪魔にならない限りはね。――ああ、この砦に葡萄酒はあるのかしら?」


「はい、蔵には大量の備蓄がごさいます」


「そう、では持ってきなさい。南部の温暖な気候で熟成された葡萄酒をね」


 それきり白蓮はアウラ達に興味を失ったらしく、物思いへ沈むように頬杖をついた。

 アウラはしばらくの間、じっとその様子に目を向けていた。そして、自分達にはまったく注意が払われていないようだと分かり安堵する。

 なるべく白蓮の気を引いてしまわないよう気をつけてながら、娘のもとへと歩みよった。


「オクタヴィア」


 耳元で囁きかけ、優しく娘を抱きしめる。


「ああ、オクタヴィア。大丈夫、きっともう大丈夫よ」


 虜囚のような暮らしの中で、すっかりと傷んでしまった娘の髪を、アウラは何度も撫でてやる。オクタヴィアが幼い頃、よくそうしてやったように、溢れんばかりの親愛を込めて。

 やがて、なされるままに立ち尽くしていたオクタヴィアの口から、かすれた声がもれた。


「……あ……お母、さま……?」


 アウラの顔に焦点を合わせた瞳が見開かれる。母の温もりに抱かれ、オクタヴィアはぽろぽろと大粒の涙をこぼした。体は小刻みに震え、子供の嗚咽のような泣き声が上がる。


「オクタヴィア、安心して。もう怖いことはなにもないわ。大丈夫、大丈夫よ」


 きつく我が子を抱くアウラは、大丈夫よ、と何度も繰り返す。それは、自身ですら信じてはいない言葉であった。しかし、これまでの酷い仕打ちに心まで苛まれた娘へ、ひとときの安息を与えてやりたかったのだ。


 だが、泣き声を上げるオクタヴィアへ、白蓮のわずらわしげな目が向けられた。


 アウラはその視線から隠すように我が子を抱きすくめ、謝罪の言葉を口にする。


「申し訳ありません。すぐに……すぐに静かにさせますから、どうかお許し下さい!」


 オクタヴィアは白蓮に見つめられ、恐ろしさのあまりおろおろと視線をさ迷わせた。


「あ……あ、ごめんなさい、ごめんなさい……」


 すると、白蓮の表情にいくつかの変化が訪れた。

 思い出されたのは、古城での別れの日。やはり泣きながら、怯えた瞳で赦しを乞うた可憐な面立ち。

 罪悪感と自責の念が去来し、氷の美貌に沈痛な陰が差す。――なぜ自分は、いま目の前の母親がそうしているように、アルフラを抱きしめてやれなかったのかと。


 暗くまたたいた瞳がかすかに震え、脱力したかのように視線が揺らいだ。


 白蓮は、あらためてオクタヴィアへ目を向ける。

 歳の頃でいえばアルフラよりはわずかに上であろうか。体のいたるところに痣が浮かび、細い四肢はひどく骨張っている。同じように他の女達も、やつれた顔には頬骨が目立っていた。

 おそらく魔族達は、虜囚である女達へろくに食べ物を与えていなかったのだろう。


「……」


 白蓮はわずかに黙考し、これまであまりしたことのない、めずらしい行動をとった。


「空腹だわ。なにか食べる物を用意させなさい。なるべく量は多めに。豪勢にね」



 あまり食事というものを必要としない白蓮が、そう命じた。





 玉座以外に目立った調度品のない広間に、簡素な食卓が二脚持ち込まれた。

 白蓮はその様子を、葡萄酒の杯をかたむけながら眺めていた。

 ほどなくして、卓上にいくつもの皿が並べらる。湯気の立つ料理を前に、喉を鳴らす女達へ、涼やかな声が命じる。


「お前たちでお食べなさい。葡萄酒を飲んでいるうちに食欲が失せたわ」


 戸惑いを見せる女達に、二度同じ言葉がかけられることはなかった。ただ視線だけが、早く言われたことをなせとうながす。

 こうして、虜囚となっていた女達は、数日ぶりに着衣を許され、温かな食事を口にすることが出来た。中には涙すら見せ、白蓮へ感謝の言葉を述べつつ料理へ手を伸ばす者もいた。

 よほど過酷な日々を強いられていたのだろう。容易にそう察せられる光景へ、しかし向けられたのは冷やかな眼差しだった。それは、他者の思惑に生き死にすら左右されてしまう、脆弱さへ対する苛立ちだった。たとえそれが女達自身の落ち度ではないとしても、白蓮は彼女達に共感出来るような感性を持ちえていない。これまで歩んだ半生は、そういった感情を育めるような、温もりのある平坦な道ではなかったのだ。


 女達が時ならぬ幸運に見舞われたのは、たんなる気まぐれだった。白蓮自身、この施しを善行だとは認識していない。――だが不思議と、涙で頬を濡らしつつも、旺盛な食欲を見せるオクタヴィアの姿に、胸が痛んだ。嬉しげに娘を見守るアウラの笑顔に、心暖まるものを感じていた。

 白蓮が持つ、弱者へ対す苛立ちは、いつしか世の不条理さに対する憤りへと変化しえるのかも知れない。そんな予兆が、凍えた心の内に垣間見えた。

 やがて女達の食事が終わる頃、広間の扉が叩かれ、二人の魔族が室内へ立ち入ってきた。


「あなたの身の回りの世話をせよと、氷膨様より命をいただき(まか)り越しました」


 丁重な物言いで平身低頭(へいしんていとう)する魔族達ではあったが、ようは見張り役なのだろう。すぐにそう察しをつけた白蓮は、玉座の上から簡素にいらえる。


「必要ないわ」


「いえ、ですがこの砦は広い上になかなか入り組んだ造りをしております。側仕(そばづか)えがおりませんとなにかとご不便でしょう」


「ならこの女達を侍女(じじょ)として使わせて貰うわ」


「しかし――」


 なおも食い下がろうとした魔族を、冷えた視線がたじろがせた。大きく身震いした二人は、慌てて立ち上がり扉へと後ずさる。


「わ、わかりました。氷膨様にはそうお伝えします」


 返答を待つことなく、戸口へ駆け寄った魔族達へ声がかかる。


「砦の者に伝えなさい。私の侍女(もちもの)に、くれぐれも無用な手だしはしないようにと」


「かしこまりました!」


 魔族達が一礼して退室すると、室内には静けさがただよった。

 白蓮はただ気怠(けだる)げに、玉座へ身をもたせていた。その様子に声をかけあぐねていた女達の中から、アウラが代表して礼の言葉を口にする。


「感謝いたします。これで私達は当面、身を害されることもないでしょう」


 謝意のこもった視線を避けるかのように、白蓮は軽く顔を伏せる。


「……この砦に滞在するあいだ、私が不自由をしないよう、よく仕えなさい」


「はい、なんなりとお申しつけ下さい」


 しばしの安全を約束された女達は、やや不安そうな陰は残しつつも、その表情は目に見えて明るくなった。


 その後、白蓮は側仕え一人を残し、他の者を隣室(りんしつ)に下がらせた。しかし、残された侍女は白蓮と二人きりという状況に、すさまじい勢いで神経をすり減らしてしまった。向けられるとてつもない緊張感に辟易(へきえき)とした白蓮は、結局残した侍女にも用があれば呼ぶからと告げ、広間から退室させた。


 やがて心安らぐ静寂の戻った室内で、ひとり白蓮は想いを馳せる。もう間もなく会えるであろう少女の面影を心に描き、時をすごす。

 鮮明に思い起こされた虚像は、よく動く大きな瞳で白蓮を見上げていた。


 アルフラはだいぶ変わってしまったと、高城やフレインから聞いてはいた。しかし、白蓮には想像がつかない。

 記憶の中のアルフラは、常に笑顔だった。


 久しぶりの再会に、最初はどんな言葉をかけてやろうか――そんなことを考えながら、白蓮は想像の中で、アルフラへ向かい大きく腕を広げる。


 きっとアルフラはいつもそうしたように、こぼれんばかりの笑みで飛びついてくるだろう。亜麻色の髪を揺らし、無邪気な仔犬のようにまとわりついてくるはずだ。


 さきほどアウラがオクタヴィアへしたように、アルフラの暖かな体を抱擁する自分を思い浮かべてみた。


 ――引き結ばれた口許が、思わず緩んでしまったことに白蓮は気づかない。


 すぐくしゃくしゃになってしまう柔らかな髪を、思うさま撫でてやりたかった。

 しばらく逢えなかった淋しさから、アルフラはうんざりするほど甘えてくれるだろう。

 どうあしらってやろうかと考えて、白蓮はその想像のあまりの楽しさに、くすりと笑んでしまう。


 自身の喉から出たとは思えない、幸せそうな声の響きに、白蓮はこっそりと赤面する。人払いをしておいて本当によかったと苦笑した。


 夢想の時間はとても心躍り、思いのほか深く没頭していたらしい。白蓮は扉が開かれるまで、その気配に気づけなかった。

 顔を上げるとそこには、執事服に身をよそおった老紳士が一人。


「……松嶋、なぜお前がここに?」


「主よりの命をつかまつり、参上いたしました」


 深くこうべを垂れた松嶋へ、さらに白蓮は尋ねる。


「お前は戦禍に付き従い、グラシェールへ向かったのではなかったの?」


「はい。そのグラシェールへ高城がやって参りました。主からの命を携え、この砦まで共に駆けて来たのです。昼夜を問わず走り詰めでしたので、老いた身にはいささか堪えました」


 松嶋は顔に刻まれた皺を、笑みでさらに深めた。


「高城はどこに?」


「どうも砦内が妙にざわついておりましたので、いったんその辺りの事情を確認してからこちらへ向かうそうです」


「そう……それで、あの方はなんと?」


「至急、白蓮様を館までお連れせよと」


 蒼い瞳がじっと松嶋を見つめ、数瞬の間をおいて応えが返される。


「……わかったわ。こちらの用を済ませたらお伺いする。それまで待ちなさい」


「いえ、それは出来ません」


 ゆっくりと首を振り、老執事は胸元から一通の書簡を取り出した。


「こちらの(ふみ)には、寸刻の()もおくことなく、ただちに白蓮様をお連れするよう記されております。あの方が口頭ではなく、書をしたためて命を伝えることは非常に稀です。ここは素直に従った方がよろしいかと存じます」


 白蓮は、手渡された書簡に視線を落とす。垂れかかる銀の髪を片手で押さえ、切れ長の目を細めて文面を熟読する。

 辺りはすでに薄暗くなっており、静まり返った室内には西日が差し込んできていた。


「主はここ最近、白蓮様の変わりようを強く危惧なされていました。白蓮様が古城ですごされていた時に、拾ってきた人間の娘が、その元凶だと考えておられるようです」


「……それで?」


「私は白蓮様がその娘と会われる前に、館へとお連れせねばなりません」


「この文に、そんなことは書かれていないわ」


 白蓮は書簡を松嶋へ投げ返す。


「言われた仕事だけをこなすようでは、執事など勤まりません。主の意を()み、それを()すのが私の本分です」


「私は――」


 白蓮が、強い視線で己の意思を通そうとしたその時――広間の扉が外側から叩かれた。


「……入りなさい」


「失礼いたします」


 蝶番の軋む音と共に姿を現したのは高城だった。一礼して口を開きかけた彼を、白蓮が制する。


「後になさい。話の途中よ」


「申し訳ございません。ですが急ぎお伝えせねばならない報告があります」


 めずらしく強い口調で意を伝えようとする高城に、白蓮はなにがしかの予感を覚えた。


「いいわ。話しなさい」


「はい、三日前にこの砦から、東へと進軍した男爵位の魔族が、ロマリア軍により討たれたそうです。潰走した者達の先陣がさきほど砦に帰還し、その報がもたらされました。これを受け、ただいま砦内の魔族が城門に集結しつつあります」


「男爵位の魔族が? まさかそれは……」


「はい。まだ幼い顔立ちの少女によって、それはなされたそうです。――おそらく、アルフラお嬢様のことかと」


 はっ、と息を呑み、白蓮が玉座から立ち上がる。


「そして現在、ロマリア軍は凄まじい勢いで、このトスカナ砦へ迫っているとのことです。男爵位の魔族を討った少女を、先頭に押し立てて」


 白蓮は赤い陽光の差す西側の鎧戸に駆け寄る。そして、開かれた戸口から身を乗り出し、遠い地平を見やった。

 外は数日つづいた雨も上がり、ゆるやかに吹きつける微風だけが嵐の名残を伝えてくる。

 西の空は茜色に染まり、かたむいた太陽は稜線にかかろうとしていた。


「ああ……」


 うすい唇から、吐息と共に声がもれた。

 長く伸びた街道の先から、騎馬の軍勢が駆けて来る。


「あの中に、アルフラが……」



 夕映えに照らし出された騎兵達は、金属の鎧を赤く輝かせ、解き放たれた矢の勢いで疾駆していた。

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