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氷の滅慕  作者: SH
五章 絶愛
126/251

伽藍の堂



 アルフラが小屋にこもると、生き残った魔族のほとんどがその場から逃げ出して行った。

 ディモス将軍は追撃を命じることはせず、負傷者と行方不明者の救護を最優先するよう指示した。

 堤防を決壊させた際、少数ではあるが水に呑まれてしまったロマリア兵がいたのだ。それらを捜索する過程において、数人の魔族が捕虜として捕らえられることとなった。


 やがて、小屋の前に集まったディモス将軍やアラド子爵、そしてシグナム達の前で、静かに扉が開く。

 小屋から出てきたアルフラは、なにやら手の甲に唇をあて、しきりと顔を上下させていた。満腹した仔猫が毛をつくろうかのような仕草だ。

 口許の汚れが落ちると、アルフラはとことことシグナムのかたわらへ歩みよる。


「ごめんなさい、シグナムさん。待たせちゃったよね」


 風雨の中でアルフラを待っていたシグナムへ、気遣いの言葉がかけられた。

 午後に入り、雨はいくぶん小降りになってはいたが、いぜん風は強く、空は暗い。


「いや。あたし達もいろいろと話をしててさ。今後のこととかね」


「アルフラ殿。少々よろしいか?」


 丁重な物言いでディモス将軍が呼びかけた。これまで言動の端々において、アルフラの実力について懐疑的であった彼も、事ここに及んでは、その眼差しにも畏敬の念が浮かんでいた。


此度(こたび)は男爵位の魔族、咬焼討伐に対する尽力、まことに感謝いたします」


 深く頭を下げたディモス将軍に、アルフラは少し困ったような顔をしていた。


「なにぶんこのような場なので、今は(ねぎら)いの言葉でしか礼を尽くすことが出来ない。しかし、トスカナ砦奪還のあかつきには、女王陛下より直々のお言葉と報償が授与されるだろう」


「そういうのよく分からないから、シグナムさんかフレインにして」


 めんどくさげな様子のアルフラへ、ディモス将軍はひとつ頷く。


「わかりました。だが、咬焼を倒したアルフラ殿自身にひとつだけご了承願いたい」


「なに?」


「咬焼の首級(しゅきゅう)を上都へ送りたいのだ。()の者の首を()ねさせていただいてもよろしいか?」


「べつにいいけど」


「ありがたい。では……」


 周囲を見回したディモス将軍へ、ヨシュアが名乗り出る。


「私が行きましょう」


 ヨシュアが小屋へ向かうと、三名の騎士がその後ろに付き従った。


「あたしもちょっと確認したい」


「では私も」


 シグナムとフレインがヨシュアの背を追う。

 小屋の扉を開くと、肌にまとわるような篭った熱気が流れ出てきた。

 湿っぽい空気に混じった生臭ささが、嗅覚を痛烈に刺激する。

 一同は鼻にシワを寄せながら、暗い室内へ入る。三人の騎士達も場数は踏んでおり、この程度の血臭で(ひる)みはしない。――だが、ヨシュアが壁にかけられたカンテラに火を(とも)すと、内二人は口を押さえて外の空気を吸いに行った。


 床に転がる遺骸は無残なものだった。咬焼の成れの果てが、そこいらじゅうに散らばっている。


 ロマリア北部で暴虐の限りを尽くし、エルテフォンヌ伯爵領に壊滅的な被害を与えた男爵位の魔族。しかしその咬焼も、アルフラにより暴虐の限りを尽くされ、その内容物は壊滅的な被害を受けていた。


 アルフラから散々に愛撫された咬焼の中身が、無数の肉片となり室内に散乱している。おぞましくも桃色に(つや)めくそれらは、アルフラの激しい口淫と凌辱の対象となった結果、まるで果肉の搾りかすのような有様となっていた。


「これはさすがに……」


 強張った表情でヨシュアが呻いた。

 室内に残っていた騎士も、屍体の開かれた胸と腹に視線をやったあと、ひくりと喉をえづかせて小屋から出て行く。


「想像以上にロクな死に方出来なかったみたいだな。……これがほんとの伽藍胴(がらんどう)ってやつか」


 信じられない冗談を飛ばしたシグナムに、応える者は誰もなかった。


「女の屍体もあるな」


 左肩から腰までを、ばっさりと袈裟斬りにされた遺骸があった。


「傷口が舐められたように綺麗ですね。血がほとんど付着してない」


 まさしくフレインの予想通りのことがなされた屍体は、血の気の引いた真っ青な肌をしている。


「でもさ……」


 シグナムは、女魔族の遺骸から咬焼の頭部へと視線を移す。


「首級の意味あるのか?」


「ああ、確かにこれは……しかし陛下からは、必ずこやつの首を持ち帰れと厳命されているのでな」


 普段はあまり感情の動きを見せないヨシュアも、この時ばかりは苦々しげな表情を隠しきれない。

 本来なら咬焼の顔であった部分は、赤くけばだった挽き肉のようになっていた。


「これじゃ男か女かすら分からないぞ」


 シグナムはさきほど目にした、狩猟刀の柄を振り下ろすアルフラの姿を思い出す。――そして、料理人がパン生地を、念入りに叩きこねる情景を連想してしまった。


「……とりあえず、さっさとやってくれ。さすがに臭いがきつい」


「そうだな」


 ヨシュアが腰に吊した魔剣の柄に手をかけた時――換気のため開け放たれたままの戸口から、アルフラが駆け入ってきた。


「ちょっと待って。忘れ物しちゃった」


 アルフラは咬焼の屍に歩みより、ぬちゃりと音を立てて頭部を踏みつける。そして、下顎に深々と刺さった短刀を掴み、


「んっ!」


 勢いよく引っこ抜いた。

 ついでとばかりに首へ短刀を突き立てる。さらに左右へぐりぐりとよじり、頸椎(けいつい)と首の腱を断ち斬る。

 あとは簡単だ。今度は胸に――まだ若干の肉がこびりついている肋骨に足を掛け、髪を引っ張りながら短刀で肉を裂く。


 ぶつりと弾けるような断裂音が響いた。


 手際よく胴体から頭を分離させたアルフラは、少し得意げな顔をした。どうやら茫然と見守っていたシグナム達の表情を、かなり見当違いな方向へ誤解したらしい。


「はい」


 受け取れ、といった感じで、なかなか綺麗な切断面を見せる生首が差し出される。


「あ、ああ……」


 髪を掴まれ、アルフラの手からぶら下がった赤黒い球体を、ヨシュアがおそるおそる受け取った。


 一同が外へ出ると、小屋の前では数人の工兵が、簡易式の天幕を設営していた。

 まだ組み立て途中の雨避けの中では、ディモス将軍とアラド子爵が軍議の打ち合わせをしていた。


「将軍。これを」


 ヨシュアが咬焼の首級を差し出す。それを見たディモス将軍は、あまりの損傷の激しさに顔をしかめる。


「首実検(首級の身元確認)の必要はないが、さすがにこれでは……陛下にお見せしかねるな……」


「表面を石膏か(ろう)で塗り固めればよいのでは?」


「……うむ」


 ヨシュアの提案にディモス将軍が苦い顔で頷いた。


「それよりこの暑さだ。早く塩漬にしないと腐敗が始まるぞ」


「すでに輸送隊へ馬を走らせてある。数刻もすれば戻るだろう」


「あの……」


 フレインが遠慮がちに提案する。


「馬車まで戻れば没薬(もつやく)の手持ちがございますが、よろしければお使いになりますか?」


「おお、没薬をお持ちなのか? さすが魔導士殿だ。ぜひお譲りいただきたい」


 没薬とは、稀少な樹木の樹脂を原料とする薬の一種である。精神を安定させる香などにも使われるが、強い防腐作用のある薬剤としても知られている。


「では、すぐにお持ちしましょう」


 天幕を後にするフレインの背を見送り、アラド子爵がアルフラ達へ声をかける。


「製材小屋のひとつに糧食や湯を運び込ませました。戦いの汚れを落とし、しばしご休息なされて下さい。我々は事後処理がございますので、本日は輸送隊の到着を待ち、ここで野営を行う予定です」


「ごはんっ!」


 急に元気になったルゥを見て、場の空気が少し和む。


「よろしければシグナム殿には残っていただき、いくつか意見を聞きたいのですが」


「ああ、構わないよ」


 シグナムが、背に担いだ大剣の柄を叩きながら請け合う。


「なんならこれからもう一戦やれと言われても大丈夫さ」


 片方の口の端で笑みを作り、シグナムは隣に立つヨシュアへ視線を向ける。


「頼もしい限りだな。しかしそれも、トスカナ砦を無事奪還してからお願いしたい」


「ああ、分かってるって」


 どこまでも生真面目なヨシュアの態度に、シグナムは苦笑を浮かべる。

 戦いを終え、肩を並べて気安く言葉を交わす二人は、気心の知れた戦友同士ようであった。戦場において互いの力量を認め合った――そんな風情(ふぜい)が感じられる。



 いつの間にやら信頼関係を構築したらしいシグナムとヨシュアを横目に見つつ、アルフラは休憩のために()てられた製材小屋へと移動した。





 シグナム達が軍議を始めて間もなく、没薬を持ったフレインが天幕へ戻ってきた。さらにその後ろから、ウェブナー士爵が入ってくる。


「おっ、あんたも生きてたんだな」


 クリオファスの関所で、ひとときの知遇を得たウェブナー士爵を見て、シグナムが顔をほころばせた。


「シグナム殿もご無事でなにより。戦場での奮迅の働き、遠目ながら拝見させていただきました。まさに鬼神のごとき戦いぶりでしたな」


 笑顔で応えたウェブナー士爵に、ディモス将軍が声をかける。


「早かったな。捕虜にした魔族の尋問はもう終わったのか?」


「はい。最初こそ口を開こうともしませんでしたが……」


 ウェブナー士爵は一瞬口ごもり、シグナムとフレインをちらりと気にしつつ話をつづける。


「その……アルフラ殿の話をしてやると、歌うようにさえずり出しました」


「なるほどね。アルフラちゃんをけしかけてやるって脅したんだな?」


「え、ええ、まあ……」


 ウェブナー士爵が居心地悪げに身じろぎをした。


「それで、咬焼が口にしていた侯爵位の魔族については?」


 もしもそれが真実ならば、ロマリアは未曾有の危機に直面していることになる。

 咬焼など及びもつかない、遥かに強大な力を持った大貴族を相手にしなければならないのだ。


「三人の魔族を個別に尋問したのですが、咬焼の言に間違いはないようです」


「……そうか。侯爵位の魔族がこのロマリアに……」


 ずっしりと重い声音でつぶやいたディモス将軍に代わり、ヨシュアが質問する。


「侯爵位の魔族が、アベルを殺しに行ったという話は?」


「どうやらその魔族がトスカナ砦に来たのは、アベル様の正確な居場所を知るためだそうです。咬焼がロマリア東部に放った斥候が帰還するのを待っているとのことでした」


「その斥候がいつ頃戻るのかは?」


「早れば一両日中にも、と。――すでに侯爵位の魔族は、アベル様を亡き者とすべく砦を出立している可能性もございます」


 ヨシュアは険しい表情で黙り込む。やはり同じく眉間にシワを刻んだディモス将軍が、体ごとフレインへ向き直った。


「魔導士殿。是非にお願いしたいのだが……」


「ええ、言わずもがな、ですね。もともと私達は、ロマリアへ侵攻した魔族の一掃を命じられています」


「だいたい頼まれなくても、アルフラちゃんはやる気満々だろうしね」


 助力を乞う前にあっさりと受諾されたディモス将軍は、厳しい表情のまま問いかける。


「本当によろしいのか? 侯爵位の魔族と戦わなければならないのだぞ?」


 ふっ、と息をついたフレインが首を振る。


「理性的に考えると……その戦いは、死にに行くのと同義でしょうね。――我々人間は、未だかつて侯爵位以上の魔族を、倒せたことがないのですから」


「あたしだって嫌だけどね――」


 シグナムは心底嫌そうな顔をしていた。


「……でも、アルフラちゃんを止めるのは絶対無理だ。断言できる」


「でしょうね。ですが今のアルフラさんならもしかすれば……」


「勝てる、と? 天災と等しく語られる――ただただ過ぎ去るのを黙して待てと言われる、大貴族を相手に?」


 フレインは無言でディモス将軍に頷いて見せた。


「うまくすれば」


 ヨシュアが口髭を撫でつつ語る。


「侯爵位の魔族より先にアベルと合流し、共闘することも可能なのではないか」


「だが我々はアベル殿の所在が分からん。グラシェールへ向かっているとは報告を受けはしたが、それだけでは……」


「トスカナ砦を先に落とすしかないのでは?」


 フレインの意見にシグナムも賛同する。


「そうだね。魔族の斥候を捕まえるのが手っ取り早い」


「だが、あまり時間をかければアベル殿が侯爵位の魔族に……」


 その先を言葉にするのは(はばか)られ、ディモス将軍は口を閉ざした。


「やっぱりその竜の勇者ってやつでも、侯爵位の魔族には勝てそうにないのか?」


「分からん。アベル殿は我々の――このロマリアの希望ではあるが……魔導士殿の言われる通り、今までに侯爵位の魔族を倒せた者などいない。それは我々人間が、これまで常に負けつづけて来たということだ」


 ロマリアの存亡にすら関わりかねない状況に、ディモス将軍の顔も険しい。

 苦渋の漂う場の中で、シグナムだけが比較的普段とかわらぬ顔をしていた。

 彼女だけが、他の者とはいささか立場を異にしている。傭兵であるシグナムの行動原理は、国に帰属しない。なんら国家に対する責任を負わないため、ある意味とても気楽だ。どうやっても勝てそうにないと判断すれば、逃げ出せばよいのだから。


「まあ悩んでてもしょうがないだろ。手早くトスカナ砦を落として、侯爵位の魔族を追うしかないんだしさ」


「……うむ。結局はそれが一番の近道か」


「トスカナ砦にはどのくらいの魔族が残っておるのだ?」


「およそ千ほどだと捕虜達は話しておりました。侯爵位の魔族は手勢を連れず、単身トスカナ砦を訪れたそうです」


「そうか……」


 ディモス将軍は腕を組み、難しい顔でうなる。


「不幸中の幸いではあるな。とにかく我々は、一刻も早くトスカナ砦を落とし、侯爵位の魔族よりも先にアベル殿達と合流せねばならない」


「アベルなら……」


 ヨシュアがぽつりとつぶやいた。


「侯爵位の魔族にも勝てるかもしれん」


 表情は厳しいままではあるが、弟であるアベルへ対するヨシュアの信頼は厚いようだ。


「あれは、信じることが何にも勝る力へ変わると、常々そう言っていた」


 シグナムは肩をすくめる。


「はっ、青臭いな」


「そうだな、私もそう思う。だが、アベルが口にすると、不思議とそういうものかもしれないと感じられるのだ」


「へぇ……」


「それにな、アベルと旅する仲間達は一騎当千のつわもの揃いだ。それこそ、シグナム殿の仲間達と比べても、なんら遜色のないほどにな。そしてアベルはその仲間達と強い信頼で結ばれている」


 ヨシュアは拳を強く握りしめた。


「たとえ相手が侯爵位の魔族であったとしても、アベルならば可能性が――希望があるのではないかと私は思う」


「……あんたがそう言うのなら、そうなのかもな。――信じる分にはただだしね。それが力になるってんなら……」


 いつしかシグナムも真顔となり、頷いてしまっていた。


「だがやはり、私も兄として心配であることにはかわりない。一刻も早く駆けつけ、アベルの力になってやりたい」


「では、明日の日の出には行軍を開始出来るよう、部隊の再編を急がせましょう。重傷者はこの野営地に残していくほかありませんね」


 アラド子爵は天幕の外に控えていた伝令兵達に、いくつかの命令をだす。



 その後、斥候の手配や補給兵に運ばせる荷の軽減など、行軍速度を上げるための対策が講じられ、軍議は滞りなく進んでいった。





 ロマリア北東部。トスカナ砦とグラシェールのほぼ中間に位置する荒野。

 すでに日は落ち、東の空には夜闇が広がっていた。


 数日前、竜の勇者一行はグラシェールの異変を受け、すぐに街道を北上した。途中、悪霊の森と呼ばれる難所を大きく迂回し、二日をかけてトスカナ砦の東に位置する渓谷に到着した。

 そして今日、一日を通して馬を走らせたアベル達は、くたくたに疲れた体で野営の準備にとりかかっていた。


 アベルとダルカンが天幕の設営を行い、フィオナが夕食の係だ。


「アベル、天幕を張り終えたら着替えて。今着ている服は、向こうの小川で洗濯しておくから」


 夕食の支度をあらかた終えたフィオナが、木の椀にスープをよそいながら言った。


「え、でも昨日洗ってもらったばっかりだよ、これ」


「だからよ」


 アベル達は昨日、渓谷の入口に位置する小さな村で一夜を明かした。そこで母子二人で暮らしていた村人が、みずからの住居を寝床として提供してくれたのだ。その家主である妙齢の女性が家事のついでだからと、アベルの衣服を洗濯してくれたのである。


「あんな……夫が死んでから半年もたたないのに、家へオトコをくわえ込んじゃって。そんな女が洗った服なんて……」


 たいそう不機嫌な顔をしたフィオナを、アベルがおだやかにたしなめる。


「そういう言い方しちゃ駄目だよ。あの人は旦那さんを魔族との戦いで亡くしちゃったんだから。きっと淋しかったんだと思う」


 ダルカンが少しあきれた顔をしていた。


「くわえ込むって……姫さんどこでそんな言葉覚えたんだよ」


「ダルカンとメイガスからよ! あなた達がいつも嫌らしい話ばかりしてるからでしょ」


「いや、まあ……」


「アベルもアベルよ。あんなおばさん相手に鼻の下のばしちゃって」


「は、鼻の下なんて伸ばしてないよ」


 少しうろたえ気味のアベルを、からかうような目でダルカンが見る。


「あの奥さんはアベルの違うとこを伸ばして欲しそうだったけどな」


「ダルカン! あなたは黙ってて!」


 フィオナの美しい碧眼がダルカンを射抜く。どうやら逆鱗に触れてしまったようだ。


「それにあの女だけじゃないわ。娘にまですごく懐かれて、四六時中ベタベタされてたじゃない」


 フィオナはつかつかと天幕へ歩みよる。そして、八方美人が過ぎる幼なじみの腕を、


「アベルったらずいぶんと嬉しそうにしてたわ」


 爪を立てないように気をつけて、軽くつねりあげた。


「い、いたいよフィオナ。だからあの子も淋しい思いをしてたんだよ。お父さんに死なれちゃって、誰かに甘えたかったんじゃないかな」


「あれはそんな感じじゃなかったわ。気づかなかったの? まだ子供のくせにアベルに色目なんか使っちゃって。――普通は会ったばかりの男に、胸を押し付けたりしないわ」


「そ、それは……ほら、あの子はお母さんと二人暮らしで心細かったから――」


「アベルはいつだってそう! 見さかいなく優しくするからみんな勘違いするの。気がつけばやたらと女の子に言い寄られてるんだから!」


 アベルをにらむフィオナの目は、けっこうな角度でつり上がっていた。綺麗な顔が台なしである。

 黙っていろと言われたダルカンだったが、ついつい口を挟んでしまう。


「姫さん。だいぶ()がでちまってるぞ」


 アベルも少し怯えたような目でフィオナを見ている。


「わ、私はべつに……」


 ダルカンがフィオナの耳元でこっそりと囁く。


「そんなに嫉妬まる出しだと、アベルに嫌われちまうぞ?」


 効果は絶大だった。フィオナはしゅんと黙りこんでしまう。白い肌が羞恥に色づき、見ているアベルまでどこか落ち着かない気分になってくる。


「そんな顔しないで、フィオナ。いま着てるチェニックは、あとで出しておくから、ね?」


「うん……」


 すかさず譲歩を申し出たアベルへ、フィオナはこくりと頷いた。


「……下着もだよ?」


「え!? 下着はいいよ、自分で洗うから」


「ダメよ! だって、えーと……竜の勇者さまが下着の洗濯なんてしちゃいけないわ」


「いや、フィオナだってお姫さまだし……」


「とにかく私が洗うの!」


「や、やだよ」


 さすがにアベルも、汗の染み付いた肌着などを、フィオナに洗われるのは恥ずかしい。


「その、夏だし肌着も汗臭かったりするし――」


「だからいいんじゃない! むしろ大好物よ!!」


「え……?」


「あ……」


 やや特殊な性癖を垣間見せたフィオナが、ほんのりと頬を紅潮させた。そしてごまかすように大きな声をだす。


「な、なんでもないわ! とにかく下着もよ!」


 フィオナのうろたえ方がすごい。

 強引に勢いで押し切ろうとする幼なじみを、アベルはじとっとした疑わしげな目で見つめる。


「ねえ……なんでフィオナは、いつも僕の下着を洗いたがるのさ?」


「そ、それは……べ、べつにアベルのパンツが好きだからってわけじゃないんだからっ!」


「ええ!? そっちなの!? フィオナ、僕のパンツが好きなの!?」


「ち、ちちち違う! 違うのっ! え、ええと、あの……」


 かなり特殊な性癖を暴露してしまったフィオナが、耳まで真っ赤になっていた。進退極まった巫女姫は、必死の思いでダルカンへ助けを求める。その余裕のない視線に笑いをこらえながら、ダルカンが大きく手を鳴らした。


「ほら、いい加減飯にしよう。火の番をしてるメイガスが、退屈しちまって居眠りしてるぞ」


「あ、そうそう! 早く夕食にしましょ。食べ終わったら洗濯物だしておいてね」


 下着もよっ、と念を押してフィオナはたき火の方へ歩いていく。

 鍋をかけた火の前に近づくと、微動だにせず座り込んでいたメイガスが、眠っているわけではないことにアベル達は気がついた。

 じっと荒野の一点を見つめる老魔導師は、夏場にしても少し異様なほどの汗をかいていた。そのただならぬ様子に、アベルの表情が真剣なものに変わる。フィオナとダルカンも、やや緊張の面持ちとなっていた。


「どうしたの、メイガス?」


 囁くように尋ねたアベルへ、メイガスは顔を向けることなく応える。


「……感じぬか?」


「なに? もしかして魔族?」


「うむ。まだ遠方……相手は一人のようではあるが、かなりの力を持った魔族じゃ」


 三人はメイガスの視線を追い、夜闇の落ちた荒野へ目を向ける。


「あ……私にもかすかに感じられるわ。でも……これ……」


 フィオナが肌寒さでも覚えたかのように、ぶるりと身を震わせた。


「フィオナ?」


「……かなり、なんてもんじゃないわ。こんな……とんでない……」


「はっきりとはわからんが、子爵位の魔族――あの切令などとは比べものにならんほどの魔力じゃ。それは間違いない」


「切令以上の!?」


 ごくり、とダルカンの喉から唾液を嚥下(えんか)する音が響いた。


「おいおい。冗談じゃねえぜ……」


 魔術の心得がないアベルとダルカンには、遠方の魔力を気取ることは出来ない。それでも、意識を集中させると、のしかかるような圧迫感が前方の闇から感じられた。


「この辺りをうろついてるってことは、トスカナ砦への増援か」


 ダルカンのつぶやきに、もしくは、とメイガスが返す。


「切令の仇を討つために送られて来た高位の魔族じゃな。単身で行動していることを考えれば、そちらの可能性が高い」


「だとすると俺達が狙いか」


「行こう! どっちにしてもこんな力を持った魔族を見過ごすことは出来ない。これ以上ロマリアに近づけちゃ駄目だ!」


「待って!」


 アベルへ寄り添うように立っていたフィオナが、その腕を掴む。


「感じる力が尋常じゃないわ。もし私達を殺すために来た魔族だとすると……」


「少なくとも伯爵位――下手をすると大貴族と呼ばれる位階以上の魔族じゃろう」


「なあ、まだ向こうはこっちに気づいてないんだろ? このままやり過ごしてグラシェールへ向かった方がいいんじゃないか?」


「駄目だよ! そんな魔族がロマリアを攻めたら大変なことになる。僕たちがグラシェールから戻ってくるまでに、とんでもない数の人達が死ぬことになるんだよ」


「まず、トスカナ砦奪還のために北上した皇竜騎士団は潰滅するじゃろうな。――そうなれば、儂らが戻る頃には手遅れかもしれん」


 冷静な分析を述べたメイガスに、きつい口調でダルカンが問う。


「だからって勝てるのか? もし、相手が侯爵位の魔族とかなら最悪全滅だぞ!?」


「でも、その魔族の目的が僕たちなら、相手が一人の内になんとかした方がいいよ。この前だって魔族の斥候達と戦いになったばかりなんだし」


「うむ、それは一理ある。前はグラシェール、後ろはトスカナ砦。どちらにも魔族が巣くっておる」


「敵に囲まれている状況なら、各個撃破が常道か……」


 ダルカンは苦々しい表情でフィオナへ話を振る。


「姫さんの考えは?」


「私は……この魔族には近づかない方がいいと思う……とても、怖いの」


 かすかに震えながら、フィオナはアベルの顔を伺う。


「でも、アベルが戦うっていうなら、私もついて行くわ」


 天を仰いだダルカンが、大きなため息を吐いた。


「まったく……姫さんはいつも肝心なところではアベルに流されるな……」


「私は――」


「いや、いい。その辺りは後できっちり話し合おう。この戦いが終わったらお説教だ」


「ダルカン! じゃあ――」


 嬉しそうな声を上げた竜の勇者へ、ダルカンは頷いて見せる。


「ああ。俺にだってこの魔族が、ロマリア周辺で野放しにしていい奴じゃないってことくらい分かる。選択の余地はあんまりないよな」


「うん、行こう!」


 アベルは腰に吊した皇竜の宝剣へ手を添える。


「大丈夫、僕たちなら絶対勝てるよ。みんなで力を合わせれば、どんな相手にだって負けはしない!」


「ええ、今までだってそうだったわ。アベルがいれば負けっこない」


「しょうがねえな。まあ俺もその意見には賛成だが」


「ふむ。それでは儂も老体に鞭打とうかの」



 竜の勇者と三人の仲間は、互いに信頼しあう戦友達と目を見交わし、快活な笑みを浮かべた。 





 雲の流れの早い夜だった。

 東から迫る嵐の影響で、吹きつける風はやや強い。

 夜空にかかった弓なりの月が、蒼白いほのかな光を降りそそがせる。


 草木もまばらな痩せた地を踏み、アベル達はその場所へ辿り着いた。

 強大な気配を発する魔族の居場所へ。


 荒野のただなか、剥き出しの地面から生えた一本の立ち木。幹は太く背も高い。枝は無数に長く伸び、葉はほとんど枯れ落ちている。

 人の頭上よりもだいぶ高い位置にある枝に、その魔族は腰掛けていた。

 アベル達を見下ろしかすかに笑う。


「ああ、ちょうどいいところに来たな」


 まだ若い声だ。人の歳なら二十(はたち)そこそこ。魔族でいえばおそらくその十倍。

 勢いを増した風に紛れて、その声は少し聞き取りづらい。

 遠雷の轟きが、遥か東の空から響いていた。


「道に迷って困ってたんだよ」


 どうやら方角を確かめようと木に登り、辺りを見回していたらしい。

 風になぶられた紫紺しこんの髪を、樹上の魔族はうるさそうにかきあげる。

 髪と同色の豪奢なマントが、はためく翼のようになびいていた。


 体の奥底から沸き上がる戦慄(おののき)に、アベル達は身動きのひとつも取れない。


「なあ、お前ら。皇竜山脈って知ってるか? ロマリアの守護神とやらに会いたいんだ」



 月明かりの中に照らされたその姿は、枯木に羽をやすます(からす)を彷彿とさせた。

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