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氷の滅慕  作者: SH
五章 絶愛
125/251

喜怒愛飢(結)



 炎をまとった右腕が振り上げられた時には、アルフラの細剣が咬焼(こうしょう)の左(もも)に突き刺さっていた。

 体勢を崩しながらも、咬焼は腕を振り下ろす。しかし、アルフラへ届く前に、刺突の連撃が右肘を貫く。同時に刀身が捩られ、肘関節の靭帯が断裂した。

 空をきった前腕(ぜんわん)は、だらりと垂れ下がる。


「グッ、貴様ァァ――ッ!」


 怒号とともに、咬焼の眼前で炎が噴き上がった。――しかし、腕に刺さった細剣はすでに抜かれ、火柱の中にアルフラの姿はない。

 濡れた地面の水分が瞬時に蒸発し、立ち昇った水蒸気がむなしく視界をおおった。

 咬焼は悟る。ふたたび接近を許してしまえば、何も出来ない内に体へ穴を穿(うが)たれることになると。


「クソッ!」


 炎で四方を囲み防備を固める。さらに魔力を注いで火勢を増す。

 壁となって燃え上がる炎は見上げるほどの高さとなっていた。それでも咬焼は安心出来ない。

 破城槌すら阻んだ障壁を、少女の細剣はあっさりと貫いたのだ。


 咬焼は視線を左右に走らせ辺りを警戒する。

 分厚く敷いた炎の防壁により、アルフラの姿は見えない。守りは固めたが、このままでは打つ手がない。

 どう対処すべきか忙しく頭を働かせながら、右肘に魔力を流し込み傷口を塞ぎにかかる。

 咬焼のすぐ目の前――炎の壁から、燐光を放つ細剣の切っ先が生え出た。その刀身はバターでも斬り分けるかのように轟火を舐めとる。

 炎の壁を隔てた向こう側から、怒気と冷気を漂わせた少女が覗き込む。鳶色の瞳が、ひたと咬焼を見据える。


 それは、対峙した者の生存を否定する、致死の凝視だった。


 咬焼はまさに、背筋も凍る恐怖、というものを経験していた。

 体に一本冷たい芯が通っているにも関わらず、全身から汗が吹き出す。

 体幹は動かないのに、四肢が小刻みに震える。


 アルフラが片足で炎を(また)ぎ越すと、前面の炎が勢いを失いはじめた。そしてかすかに揺らめいたかと思うと、そのまま立ち消えてしまった。


「な、なあ。あんた、なんで人間なんかに味方するんだ?」


「え……?」


 アルフラはなにを言われたのか理解出来ず、じっと咬焼を見つめる。

 咬焼は、アルフラが人間ではないと確信していた。それほどの魔力を感じる。おそらくは高位の魔族。それも咬焼より力のある魔族だ。


「どこの貴族だよ? 俺が口無(くちなし)様の配下だってのは知ってるよな?」


 南部の貴族であれば、咬焼もあらかた顔を覚えている。すべてを見知っているわけではないが、少なくとも南部では、これほど幼い容姿の貴族など聞いたことがない。


「いいか、俺は南部の盟主、口無様からの命令でこのロマリアを攻めてるんだ。お前がどこの魔王に仕えているかは知らねえけどよ、俺と敵対するってことは、口無様を敵に回すことになるんだぞ!」

 主の威を()る咬焼の言葉を、アルフラはようやく理解する。


「あなた、あたしが魔族に見えるの?」


「ああ? 今更とぼけてんじゃねえぞ。どうやったらそれ以外のもんに見えるってんだよ」


「あたしが……魔族……?」


 これまでに「人間か?」と問われたことは幾度もあったが、魔族と断定されて話しかけられたのは初めてだ。しかも相手は爵位の魔族。

 もしかして自分は、力ある多くの血を摂取した結果、魔族になれたのではないだろうか。そんな思いがアルフラの胸の内をよぎる。


――白蓮と同じ魔族に……


 アルフラに、驚くべき変化が起こった。

 それまでまとっていた怒りの気配は綺麗に(さん)じ、なにかを見上げるように顎が上向く。


「白蓮……」


 潤んで煌めきを帯びた瞳がうっとりとまたたく。その目が見つめるのは、この世で最も美しい姿。アルフラだけの愛しい想い人。


 目の前に爵位の魔族がいることも忘れ、アルフラは心の原風景に見とれていた。


 幻視される面影は常に、傲然と見下ろす氷の美貌だった。アルフラを我が子のように可愛がってくれた優しい笑顔ではない。虐殺の行われた村で、命を助けられた時そのままの、冷淡で無慈悲な白蓮だ。


 どれほどの刻が流れようと、心の原風景が変わることはない。それがアルフラにとっての白蓮――崇拝すべき偶像だった。


「アルフラちゃん! ぼうっとしてると死ぬぞ!」


 シグナムの叫びが追憶の時間を打ち破った。

 はっと我にかえったアルフラへ、凄まじい熱量を発する炎の槍が撃ち放たれた。

 地に体を投げて、危ういところでそれをかわす。頬をかすめた炎が、じりじりとした痛みを伝えてくる。

 泥まみれになりながら立ち上がったアルフラは、ギッと咬焼を睨みつけた。


「おいおい、戦いの最中にぼんやり突っ立ってる方が悪いんだぜ?」


 咬焼が卑屈な笑みを浮かべて見せた。


「なんで……?」


「あ?」


 そう。咬焼の言う通りだ。戦いの最中によそ見をしていたアルフラが悪い。いつだったか、首を裂いて殺したゴロツキと同じだ。

 忘我の時をどれほどの間すごしたのかは自覚がない。しかし、またたき一つの油断と隙で、殺されて(しか)るべきが戦場だ。死んで当然の迂闊さである。


――なのに……


「なんで……?」


 周囲の大気が急速に冷え込む。

 アルフラの足元に真っ白な霜がおりていた。ぬかるんだ地面が凍りつきひび割れる。


「――ッ!?」


 まずい、と咬焼の内で警告が発せられた。

 障壁を張り巡らせ両腕に炎をまとう。


「爵位の魔族のくせに」


 亜麻色の髪を振り乱し、アルフラが叫んだ。


「なんでそんなに弱いのよ!!」


 アルフラは咬焼へ、充分に殺せるだけの隙を見せてしまったはずなのだ。それなのにアルフラが負ったのは軽い火傷だけ。安堵の思いより、(いきどお)りが先にきた。

 爵位の魔族としてはあまりにもお粗末だ。その非力さに対し、怒りしか湧いてこない。


――楽しみにしてたのに


 新品の狩猟刀まで用意して、万全の態勢で戦いに臨んだのだ。男爵位の魔族には、いささか過ぎた期待がそこにはあった。

 咬焼はアルフラを大きく失望させていた。


「ねえ! そんなんじゃないでしょ! ガルナで戦った爵位の魔族はもっと強かったよ!!」


 感情の発露にともない大気が凍てつく。

 辺りが白く染め上げられる。

 細剣の一振りが障壁を斬り裂いた。

 極寒の冷気が吹きすさぶ。

 咬焼はがたがたと身をすくみ上がらせた。

 周囲ではかじかむように炎が震えていた。


 ――危険。


 思考が恐慌に捕われる。

 もう間違いない。

 眼前の少女は遥かに格上だ。

 いまだに生きていられることがむしろ不思議なほどに。

 咬焼の脳内で警鐘が繰り返される。


 ――危険、危険、危険、危険、死、逃走、逃走、即時、逃走。


 鳴り響く内なる警鐘のなか、一歩、また一歩と後ずさる。

 冷たい流れが足を浸した。背後は河だ。

 ちらりと視線を走らせた咬焼へ、アルフラは叫ぶ。


「まさか逃げるつもりじゃないでしょうね!?」


 細剣に貫かれた咬焼の右足は、痛みを堪えれば走ることも可能だ。しかし、アルフラの神速を、その身を持って体感させられた咬焼は、まともに逃げても無駄だと理解していた。だから――


「オオォォォ!!」


 気勢を上げ、眼前の大気を燃焼させた。巻き起こした炎の嵐で視界をさえぎり、咬焼は河へ飛び込む。

 流れは緩やかなものとなっていたが、川幅は広く、深さは咬焼の胸元まで届く。

 小柄な少女では足がつかないはずだ。かといって、革の鎧を着込み帯剣までした少女が、流れ水を泳ぎきるのは困難だろう。

 対岸の丘には、さきほど撤退させた五百の本隊がいる。それらの者を盾とすれば、逃げる時間を稼げるはずだ。

 息を切らせた咬焼が岸へとたどり着いたときには、その後の展望も決まっていた。

 痛む体を引きずり、咬焼は大声で命じる。


「おい、河を越えようとする奴らを水際から狙い撃ちにしろ! 一人残らずだッ!!」


 その間に野営地を回りこみ、トスカナ砦へと帰還するのだ。そうすれば侯爵位の魔族、氷膨(ひょうぼう)が居る。すでに氷膨は竜の勇者討伐のため、トスカナ砦を引き払っている可能性も高いが、伝令を走らせ救援を求めればいい。

 考えをまとめて一息ついた咬焼は、背後を振り返った。


「あ……」


 ぞくり、と全身の体毛が逆立つ。


 不機嫌な顔の少女が、こちらへ歩いて来ていた。

 泳いでいるわけではない。河を歩いているのだ。その足元は湧き出した冷気で、白く(けぶ)っていた。


「な、なんで……?」


 少女が一歩踏み出すと、その足は沈むことなく河を踏みしめる。

 ぎしぎしと氷の軋む音がした。その音はそこかしこから響いてくる。

 冷気をまとった少女が、流れを凍りつかせていた。


「なんなんだよお前……」


 よろめくように後ろへ足を引いた咬焼は、左腿の刺創に激痛が走り顔をしかめる。


「殺せ! おいっ、なにをしてる! 早くあの化け物を殺せッ!!」


 主である咬焼の命令に、従う者はいなかった。雑兵ばかりが五百ほど集まったところで、男爵位の魔族から化け物呼ばわりされるような相手に、太刀打ち出来るはずがないのだ。


 ただの無駄死にである。


 戦って死ね、という魔族の常套句(じょうとうく)。それを実践する気概を、彼らは持ちえてなかった。


 少なくとも、咬焼のために命を投げだそうと考える忠義者はいない。それどころか、背中を向けて逃げだす者すら出る始末だ。しかし、それらの魔族達を、


「逃げるな」


 アルフラの声が制した。


「逃げたら殺す」


 その一言で、すべての魔族が動けなくなった。

 みずからの足で、悠然と渡河(とか)し終えたアルフラは、咬焼へ侮蔑の眼差しを向ける。

 すでに男爵位の魔族は戦意を失い、逃げることだけを考えているように見えた。

 この程度の貴族からいくら力を奪ったところで、いつまで経っても戦禍には届かないのではないか。そんな苛立ちがつのる。


 背後からは、シグナム達が凍りついた河を渡って来ていた。

 氷の厚さが分からないため、数人づつが足場を確かめながら進んでいる。


 早く終わらせよう。そう思い一歩踏み出したアルフラへ、咬焼が切羽詰まった声で叫ぶ。


「待て! いまトスカナ砦には侯爵位の魔族、氷膨様が来ているんだぞ!」


「……」


 朗報だった。なおさら咬焼のような小物に時間はかけられない。

 さらに一歩距離を詰めたアルフラへ、咬焼は言いつのる。


「待て待てッ! 俺を殺せば貴様らはおしまいだ。氷膨様は絶対にお前を許さないぞ!」


 それもまた、望むところだ。侯爵位の魔族は、いったいどれほどの力を持っているのだろう。いまから楽しみで仕方ない。

 アルフラの口が、三日月形に吊り上がる。浮かべられた兇悪な笑みを見て、咬焼はきびすを返して駆けだそうとした。


 その足元を細剣が薙ぐ。


 咬焼は血をほとばしらせ、もんどりうって地べたへ倒れた。痛烈な一撃が、足首の肉と腱のみならず、腓骨(ひこつ)脛骨(けいこつ)をも断ち斬っていた。

 咬焼は苦悶の声とともに、左の足首を押さえてのたうちまわる。


「痛てェェ――!! 畜生ッ!」


 転げながらも咬焼の左腕がアルフラへと向けられた。燃え上がる炎がうねり、蛇のように襲いかかる。

 みずからを呑み込もうとする炎蛇の鎌首を、アルフラは手首の返しだけで斬り払う。そのまま細剣で炎を裂き、咬焼の左肩に切っ先を突き立てた。


「ガァ――ッ!」


 獣のように吠えながら、咬焼は憎悪の瞳でアルフラを()めつける。しかし、肩を貫通した刀身を左右に(ねじ)って苦痛を与えてやると、宿る感情は恐怖に変わった。そして命乞いの言葉がもれる。


「た、頼む。やめてくれ、殺さ……」


 言いかけて咬焼はあることに気づく。目の前の少女は、意図的いとてきに致命傷を避けていた。自分を殺そうとしているわけではない。足首や肩といった関節部を重点的に傷つけている。――明らかに無力化を狙っているのだ。


「待て! 分かった、これ以上は抵抗しない!」


 アルフラは言葉の真偽を確かめるかのように、咬焼の顔を見つめる。

 思った通りだ、と咬焼は内心でほくそ笑んだ。この少女にはなにかしらの理由があって、自分を殺すことが出来ない。それも当然だ。いまここで咬焼の命を奪えば、氷膨や口無から報復の対象とされるのだから。


「ク、ククッ。なんだよ。ちゃんと自分の立場ってもんが分かってるじゃねえか。――俺の身柄を交渉材料にしたいんだろ? だったら殺すわけにはいかないよなあ」


 アルフラはゆっくりと細剣を引き抜く。


「グッ――!」


 低く呻いた咬焼を、アルフラは冷淡に見下ろす。そして血塗りの刃を舌先で舐め上げて、咬焼の味を確かめる。

 幼い顔立ちには見合わないほど手慣れたその仕草に、咬焼は言いようの無い不安を覚えた。


「降伏する。だから手荒には扱わないでくれ」


 アルフラに降伏するということが、どういった惨状を招くのか――咬焼は知らない。


「俺から氷膨様に、お前らのお目こぼしを口添えしてやってもいい」


「……そう。別にそれはいらないけど――」


「アルフラちゃん!」


 どうやらすでに戦いは終わったらしいと見てとったシグナム達が、アルフラの周りに集まる。

 シグナムは、狩猟刀の柄にかかったアルフラの左手を見ていた。


「さすがにそれはここじゃまずい。あっちでやってくれ」


 製材所の小屋をシグナムが指さす。辺りにはヨシュアやロマリアの騎士達も集まってきている。シグナムの配慮は、彼らの目を気にしてのことだろう。


 アルフラは小屋の方を見て少し考え、咬焼に視線を戻す。


「……とりあえず止血して。出来るよね?」


「あ? ああ」


 うまく動かない両手で、咬焼は苦心しながらも肩の傷口に魔力を流し込む。しかしその腕を、アルフラが蹴り上げる。


「アグッ!?」


「誰が傷を癒していいって言った? 治すんじゃなくて焼くの」


「な!? そんな――」


「焼けば血は止まるでしょ」


 さらに何事か不満を述べようとする口に、アルフラは剣先を突きつけて命じる。


「早く!」


 唇にひんやりと触れる細剣にうながされ、咬焼は体中の傷を焼いていく。


「くそッ! 痛てェ痛てェ痛てェェ――――!!」


 肉の焦げる嫌な臭気が漂い、ルゥが小鼻にシワをよせていた。


「アルフラ殿」


 ヨシュアが敬称をつけてアルフラに呼びかけた。


「その男を捕虜に取るつもりならば私は賛同しかねる。生かしておいて万が一逃げられるようなことがあれば、(のち)の災いとなる」


 やや遠巻きに様子をうかがっていた騎士達も、咬焼へ憎々しげな視線を投げていた。


「この場で首を討たねばディモス将軍らも納得せんだろう。そいつは多くの臣民将兵らを殺したのだからな」


「ま、待てよッ」


 咬焼が痛みに眉をよせながら口をはさむ。


「いいか? 俺を殺せばなぁ、口無様は本気でこのロマリアを潰しにかかるぞ。それにお前達が頼りにしてる竜の勇者な。ありゃあもうダメだ。今頃は氷膨様が殺しに行ってるはずだ」


「なんだと……?」


「クハハッ、俺がお前達の命綱ってことだよ」


 止血は終えたがさすがに立つことの出来ない咬焼は、地面に座り込んだままへらへらと笑った。


 不快な笑い声をたてる咬焼の髪をアルフラが掴む。


「なにすんだよ!」


 アルフラはそのままずるずると小屋の方へ咬焼を引きずっていく。


「だから手荒に扱うなって言ってんだろ! お前が体中に穴をあけやがったせいでなぁ、あちこち痛んでしょうがないんだよ!!」


 髪を掴んだアルフラの手を握り、咬焼がじたばたともがく。


「おい、聞いてるのか!?」


 聞く耳持たぬアルフラに、そこはかとない不安がよみがえる。自分を殺すつもりはないはずだ、と高を括っていた咬焼の自信が揺らいでくる。


「お前……まさか俺を殺すつもりじゃないよな? 違うよなッ!?」


 咬焼は泥土の上を引きずられながら、シグナム達の顔を見て愕然とした。その表情はいずれも、屠殺場へ連れて行かれる家畜を見送るかのような憐れみに満ちている。


「……え、嘘だろ……?」


 咬焼は自分が、とんでもない思い違いをしていたことにようやく気づく。


「ちょっと待て! やめろッ、はなしやがれ!!」


 アルフラは扉を開き、暴れる咬焼を無造作に小屋へと放りこんだ。


「キャアア――!!」


 中から女の悲鳴が聞こえた。

 どうやら咬焼(メインディッシュ)にはお菓子(デザート)が付いていたようだ。

 扉から半裸の女魔族が飛びだしてくる。しかしアルフラがその腹に(かかと)を叩きこみ、小屋の中へと蹴り戻す。さらに素早く踏み込んで細剣が振られる。

 ばしゃりと床を打つ湿った音が響く。

 それきり女魔族の声は聞こえなくなった。

 かわりに咬焼の罵り声が上がった。


 小屋の中は暗く、シグナム達からは咬焼の下半身しか見えない。その腰にアルフラがまたがる。

 馬乗りになったアルフラが屈み込み、咬焼の体に覆いかぶさった。瞬間、小屋の内部で赤い炎が弾ける。


 シグナム達は、炎の中で腕を振り上げるアルフラの後ろ姿を見た。

 狩猟刀の柄頭が、咬焼の顔に叩きつけられる。


 激しい打撃音と悲痛なうめき声が、シグナム達の方にまで聞こえてきた。肉を打つ音は腕の上下運動がつづくと、湿った布を叩くような響きに変化した。うめき声もまた、慈悲を乞う悲鳴に変わってくる。


 咬焼はアルフラから逃れようと、(からだ)を跳ねさせ目茶苦茶にもがく。

 暴れる子馬(ポニー)よりもよほど激しくのたうつが、アルフラは咬焼の腰にしっかりと脚を絡めて乗りこなす。


 まるで遊具に揺られて喜ぶ幼子(おさなご)のように、


「あ、はは……うふふっ」


 アルフラの唇から、無邪気な笑い声がかすかにもれた。

 突き上げられる咬焼の腰に、がくがくと体を揺すられてご満悦だ。


 室内の炎は消えたが、楽しげなアルフラは熱心に腕を振り下ろす。

 それが何度か繰り返されると、上がる悲鳴は徐々にか細くなってきた。


 咬焼は、ひぃひぃと女のように泣いていた。


 肉がひしゃげ、頭蓋の軋む音が、幾度となく聞こえてくる。



 音が響くたび――咬焼の両足が、びくり、びくりと跳ね上がった。





「――ぐ、ぶっ」


 口と鼻から血を噴いたその顔は、人相の判別も出来ないほどに形が変わってしまっていた。


「貴、様ぁぁ……殺す……絶対に……殺して、やるからな……」


 うわごとのように咬焼がつぶやいた。

 なんの感慨もいだくことなく、アルフラは傲然と見下ろす。


「……絶対、だ。お前を犯して……その顔を焼いて、炎の中で……踊らせてやる……クハッ、クハハ、ハハ……」


 血を喉に絡ませながら、男爵位の魔族は笑う。

 咬焼はある種の異常者だ。人の苦しむさまを見て愉悦を覚える狂人。――だが、アルフラもまた、よく似た狂気を孕んでいた。それは、他人の痛みに対する共感性の欠如。


「黙って血だけ流して」


 腰から短刀を抜き、呪詛(じゅそ)を垂れ流す咬焼の下顎を突き上げる。

 咥内を貫通した刀身が上顎骨(じょうがくこつ)に刺さり、咬焼の口を縫い止めた。

 息も()()えなうめき声が、閉じた唇からもれ聞こえる。


 咬焼の予想通り、アルフラに彼を殺すつもりはない。


「心配しないで」


 そう。すぐに殺すつもりはない。

 効率良く血を抜き取るためには、失血死するまでは生きていてもらわなければ困る。

 まずは口で啜り取る。血圧が下がり、血流が滞る限界まで。


「だいじょうぶ。あたし、慣れてるから」


 直接啜るのが困難になってきたら、切開が必要となる。

 魔族の生命力なら、最低限必要な臓器(モノ)さえ残しておけば、いろいろなモノを取り出しても、すぐに死ぬことはないはずだ。

 爵位の魔族である咬焼ならば、かなりの時間頑張ってくれるだろう。そんな期待がアルフラにはあった。

 もちろん、その間に咬焼が感じる苦痛や恐怖には頓着しない。


「最初はちょっと痛いかもしれないけど、平気だよね。血が足りなくなれば、じきになんにも感じなくなるはずだから。それまでは我慢してね」


 新調したぴっかぴかの狩猟刀で、アルフラはいそいそと仕事にとりかかる。





 じゅるる――


 ……ぐぢゅ…………ず……


 ずぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞ!!


 水っぽい湿った音が小屋から響く。

 青い顔をしたルゥが、耳を塞いでしゃがみ込んでいた。

 それまで自失の(てい)であったシグナムが声を張り上げる。


「――扉だ! 扉を閉めてくれ!」


 周囲に集まった騎士達の誰もが、扉を閉めて欲しいと切に願っていた。しかし誰もが、そこへ近づきたいとは思わなかった。声に出来なかった願いを代弁してくれたシグナムに、多くの者が心の中で感謝する。


「アルフラちゃん! 扉を開けてちゃ意味がない!」


 時おり足を痙攣させる咬焼から、アルフラが上体を起こした。そしてゆっくりと立ち上がる。

 見る者すべてが、思わず身構えてしまう。――振り返ったアルフラを見て、幾人かの騎士が、ひっ、と小さな悲鳴をもらした。

 アルフラの口許には、赤黒いナニかの繊維がぴとりと張り付き、革の胸鎧は真っ赤に汚れていた。しかし、シグナムへ向けられた顔には悪意のかけらも見あたらず、鳶色の瞳は一点の曇りもなく澄み渡っている。そして、可憐ともいえる――童女のような屈託のない笑みが浮かべられていた。


 なぜ、そんな顔が出来るのか?


 騎士達は、この場の状況にはあまりにもそぐわない、アルフラの無垢な笑顔が恐ろしくてならなかった。


「ごめんなさい、シグナムさん。つい夢中になっちゃって……」


 ぺろりと舌をのぞかせ、アルフラは扉へ手をかけた。その背後、室内の薄闇から、床を這うようにして血に染まった腕が伸ばされる。


「う、あぁ……」


 騎士の一人が、うめくような声を喉から絞り出した。

 シグナム達の視線に気づき、アルフラが足元を見る。


 ぶるぶると震える腕が、粘着質な液体を滴らせながら、戸口の木枠を掴もうとしていた。


 ごぼごぼと咳込む、不気味な音が響く。

 どうやらまだ、肺は無事なようだ。


「……だず、げ……で……ぇぇ……ぇ……」


 濁音にまみれた聞き苦しい声が、憐れに助けを求めた。


 アルフラがにっこりと笑う。そして、かかとを踏みおろす。

 あと少しで木枠に届きそうだった手から、びちゃりと血が飛び散った。


 かすかに弱々しい悲鳴が聞こえたが、すぐに静かになる。


 アルフラは床に跳ねた血を見て、気まずげに微笑んでいた。――まるで食べこぼしを見咎められた、年頃の娘のように。

 乙女心はかくも複雑だ。


 その場にいるほとんどの者が、青ざめた表情で目をそむけていた。


 扉が、軽い音を響かせて閉じられる。



 それは、地獄の門扉(もんぴ)が閉ざされるかのような響きだった。

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