怒りの日(後)
室内に落ちた沈黙は重苦しく、そして深い。
いたたまれない空気が漂う中、高城は少女の細い肩を見つめ立ち尽くしていた。
不意に、アルフラが弾かれたように立ち上がる。
「あたし、行くわ!」
「お嬢様……?」
微動だにせず沈み込んでいたアルフラが、突如として活気に満ちた声を張り、高城は困惑した。
アルフラは床に転がっていた細剣と鞘を拾う。
「あたしが着れる鎧ってある?」
「ご用意してあります」
涙の乾いたアルフラの目許に、強い意思の光が点っていた。
なにか不吉なものを感じながらも、高城は荷物の中から必要な物を取り出す。
リネンのチェニック、硬皮の鎧、皮のズボン、外套、内側に毛皮の張られた防寒ブーツ。そして剣帯と短刀が二振。
アルフラは手早く仕度を整えていく。
その様子を、高城は注意深く観察する。怒りや憎悪といった負の感情が、微かに感じとれるような気がした。
「お嬢様、上でフェルマーが仕度を済ませ待っています。道中はくれぐれも彼女の指示に従って下さい」
「大丈夫、わかってる」
着替えを済ませたアルフラが、最後に短刀を手に取り確認する。
念入りに装備の検分をしながら、アルフラは思案していた。
――高城は……どうだろう?
鋼の短刀を鞘から少し抜き、刀身に刃こぼれが無いかを確認しながら考える。その視線が手元の短刀ごしに、高城へと向かう。
――高城はだめだ。あたしより、強い
だが…………今なら不意をつける。
脳裏によぎったその思いを、慌てて打ち消す。
――だめ、高城にそんなことできない
高城は今までよくしてくれた。魔族だけど大好きだ。
「……こちらもお持ち下さい」
一瞬だけ感じた殺気らしきものに眉をひそめつつも、高城は拳大の巾着袋を渡した。
「中には質の良い宝石が入っております。換金すればかなりの額になるでしょう」
「うん。ありがとう」
「金は生きるため必要ですが、危険ももたらします。その宝石は換金するとき以外、他人には決して見せぬように気をつけて下さい」
「わかった」
「容易に人を信じぬように」
「大丈夫だよ」
それでも高城は、言い知れぬ不安を覚え、アルフラの目を覗き込む。
真っ直ぐに見返してくる鳶色の瞳には、一点の曇りも、一切のやましさも存在しなかった。
のちに高城は、この瞬間を深く後悔することとなる。
彼の慧眼をもってしても、見抜くことが出来なかったのだ。――アルフラの中に芽生え始めた、あまりに純粋なその狂気を。
階段を上がり、アルフラは古城の門へと向かった。
そこにはすでに、旅仕度を整えたフェルマーが、手持ちぶさたな様子で待っていた。
普段はメイド服姿の彼女が、皮鎧に外套をまとっている。腰には剣まで帯びていた。
「フェルマー……?」
いつもとあまりに違ったその格好に、アルフラの目が丸くなる。
「あたしだって魔族ですからね。そこらの人間なんかにゃ負けませんよ」
「そ、そうなんだ……」
「お嬢様一人くらい、ちゃあんと私が守ってあげますからね」
「うん、ありがとう」
くったくの無い笑みで、アルフラは薄く微笑んだ。
――フェルマーはあたしより、強いかな?
城門まで見送りに出た高城が、今後の道程を説明する。
「まずは雪原を山沿いに西へ向かって下さい。三日程で森に出ます。この森と南の山は獣人族のテリトリーですが、彼らは奥様を盟友と仰いでおりますので危険はありません」
「うん」
落ち着いた表情で、アルフラは淡々とうなずく。
やはり危ういと高城は思った。
なにがどうとは言えないのだが、この状況で普段と変わらぬ態度な時点で、すでに違和感がある。
「森を進むと川にぶつかります。川沿いに南下し、人の王国に入ってください」
高城が丸められた羊皮紙をフェルマーに渡す。大陸中西部の地図だ。
「その後は馬車を使い街道を西へ。行商人などと同行すると良いでしょう」
「その辺はあたしに任しときなよ」
フェルマーがドンッと胸を叩いた。
「フェルマー。頼みたいことがある」
「ん、なんだい?」
高城はいずまいを正し、深々とフェルマーに頭を下げた。
「このままお嬢様に仕えてくれ」
「な……」
「お前が故郷へ帰るのは知っている。そこを曲げてくれ」
「いや、そうは言われても……」
「長くとも六十年から七十年といったところだろう。魔族にとっても短い時間ではないが、お嬢様に仕えてやってはくれないか」
「……そりゃあ、あたしもさ、お嬢様のことは嫌いじゃないよ? でもね、人間に仕えるってのもねぇ」
「ならばせめて、お嬢様が良い伴侶を得て、人の街で生きて行くのに心配がなくなるまでならどうだ?」
「それは……」
「お嬢様ほどの器量なら、求婚の引く手など数多だろう」
やや、親馬鹿ならぬ爺馬鹿ぶりを発揮する高城だったが、アルフラの器量が良いことには、フェルマーも内心同意した。
「このとおりだ!」
高城が両膝を落とし、拳を地に付ける。
「ちょ、ちょっとっ! よしなって!」
高城が頭を下げるより早く、フェルマーが制止の手を伸ばす。
見計らっていたかのようなタイミングで、高城がその手に巾着袋を乗せた。
先程アルフラに渡された物と同じ袋だ。
「え……!?」
「一財産になる」
ずっしりとしたそれに、フェルマーが目を落とす。
「……まぁ、あたしも国に待ってる家族が居る訳でもないしねぇ」
フェルマーは巾着の中身を覗き込みながら呟いた。
「そこまで言われちゃあ仕方ないね。あたしに任せときなよ!」
出来る男高城は、後顧の憂いを絶つため、フェルマーを一瞬で篭絡した。
高城は、アルフラたちが雪原を西へと歩いて行くのを、姿が見えなくなるまで見送った。
もやもやと立ち込める内心の暗雲を振り払い、先行している白蓮と戦禍に追いつくために、高城は東へと駆けた。
執事服に皮の靴だというのに、風を切り雪原を駆け抜ける高城の姿は、黒い矢のようだった。
南の山を越え、裾野に広がる森を抜ければ街道に出る。
行程は早まるが、戦いに巻き込まれる可能性が高いので、そちらのルートは使えない。
大きく街道を迂回し、足場の悪い雪原を駆けながらも、高城は心ここにあらずといった表情であった。
アルフラに対する不安が未だ消えない。
――引き返すか?
自問するが答は出ない。
――せめて、人里近くまで……
しかし、白蓮と戦禍の足は速い。戻っている暇などあるはずもない。
アルフラたちを送り出し次第、急ぎ後を追うように、との命がある。
責務を忠実に遂行することが、執事としての高城の誇りだ。
いくら引き返し、アルフラたちに同行したいと思っても、高城の中でその選択肢は、存在してはならないものだった。
万全とは言えないが手は打った。
アルフラの今後に、なんらかの目処が立つまでは、フェルマーが面倒を見てくれるだろう。
短くはない付き合いの中で、高城は理解していた。フェルマーは信用の置ける女だ。面倒見が良く、責任感も強い。
後は彼女が上手くやってくれる……はずだ。
しかし、ちりちりとした焦燥感は、依然消えることがなかった。
なにか取り返しの着かない事態になるのではないか、と。
アルフラとフェルマーは荒涼とした雪原を歩く。西へ、西へと。
「ねぇ、フェルマー。あたしの住んでた村のこと、知ってる?」
「ええ、知ってますよ。何度か買い出しに行ったこともありますしね」
雪上でサクッ、サクッ、とリズミカルな音を立て、フェルマーは軽快に歩を進める。
なかなかの健脚だ。
前を歩くフェルマーへ、アルフラはさらに尋ねる。
「戦争がはじまったら、またあのへんも戦場になるのかな?」
「多分そうなるでしょうねぇ」
「オークとかだけじゃなく、魔族もいっぱい来るかな?」
「今回はかなり大掛かりな戦争になるらしいですからね。爵位持ちの奴らなんかまで来るんじゃないですか」
その返答に、アルフラの両の口角が、にいっと吊り上がった。
「そういえば、村があった辺りは、今じゃ人間たちの砦になってるらしいですよ」
「ふうん。村は山を越えて森を抜けた街道沿いなんだよね?」
「そうですよ」
先行するフェルマーの背を見つめるアルフラは、とても嬉しそうだ。
「ところでさ、高城は東の方に行ったんだよね」
「そう聞いてますが?」
「あたしたちは西だから、真逆だね」
「ですねぇ」
「もしも、今からフェルマーが高城の後を追ったとして、追いつける?」
「あたしの足じゃ無理ですよ。もう日も暮れかけてるし、だいぶ進み……」
道中の退屈をまぎらわせる他愛もないおしゃべり。そんなやり取りのなかに、しかしフェルマーはなにやら不穏なものを感じた。
「……なんでそんなこと聞くんです――!?」
背後から聞こえた甲高い鞘鳴りの音に、フェルマーは慌てて振り向く。
「フェルマー。ここでお別れだよ」
にっこりと微笑むアルフラ。その手には抜き身の細剣。切っ先はだらりと地に垂らされていた。
「お嬢様……?」
「フェルマーはそのまま進んで。あたしは山を越える」
「なにを……?」
困惑の眼差しがアルフラへと向けられていた。
「森を抜けて街道を東に行けばいいんだよね?」
「なにを言ってんです! 東に行けば戦に――」
「じゃあ、それでいいんだよ」
「……どういう、ことですか?」
鳶色の瞳に怒りが灯る。
溢れ出した尋常ではない気配に、フェルマーは用心深く間合いを取った。
「魔族は、皆殺しだ」
アルフラの目の中で、滲み出した狂気が怒りと混じりあった。
「……お嬢、さま?」
フェルマーはさらに一歩、身を引いた。
「でも、白蓮と高城、フェルマーは別だよ。あたし、フェルマーは好きだから殺さない」
「な、何を言ってんですか!」
「いいから早く行って。一人で」
細剣を握った右手が持ち上がり、西をさす。
「そんなこと出来るはずないじゃないですか! あたしゃ高城からお嬢様のこと頼まれてるんですよ!」
「うん、ごめんね。でも決めたから。あたしは行かない」
「……なら、ふん縛ってでも連れて行きますよ! おいたをする子にゃ、お仕置きが必要だっ!」
フェルマーは腰を落とし剣の柄に手を掛けた。
「抜かないで。抜いたら、殺しちゃう」
フェルマーの顔に朱が差し、その表情は怒りに歪む。
「……お嬢様といえどもね、人間風情にそんな舐めた口叩かれて、黙ってる魔族なんていやしませんよ!」
「ねぇ、お願い。あたしフェルマーが好きだよ。だから抜かないで」
「……っ」
悲しそうに見つめてくるアルフラに、中ほどまで剣を抜きかかっていたフェルマーの動きが止まる。
「だから、ね。やめようよ。きっとあたしの方が強いし」
最後の一言が、フェルマーの腕を動かした。
力を重んじる魔族が人間の小娘に、お前は自分より弱い、と言われたのだ。
「――ッ!?」
一息に剣を抜き放とうとしたフェルマーは愕然とする。
十分な間合いは取っていたはずだ。
足場の悪い雪上。にもかかわらず、フェルマーが剣を抜ききるより先に、アルフラの顔が目の前にあった。
高城からアルフラが優秀な生徒だとは聞いていた。特に瞬発力には素晴らしいものがある、とも。
しかし――――この踏み込みの速さは異常だ!
「クッ!」
フェルマーは、一足飛びに後方へと跳び退く。
ヒュッと風切り音をさせ、白刃が眼前を駆け抜けた。
かわした、という感覚はしなかった。
わざと外してくれたのだろか? そうフェルマーは思った。
抜刀し、構えながら告げる。
「お嬢様、そんな脅しであたしを追い払おうったって、そうはいきませんよ。抜いたからには殺す気で――」
「あ、もったいない……」
アルフラが、フェルマーの足元を見て呟いた。
釣られたフェルマーが目を向ける。
足元の雪が、真っ赤に染まっていた。
蕾が花開くかのように、真紅のそれはじわじわと大きさを増してゆく。
養分を吸い取っているのだ。花弁の中央に転がるフェルマーの右腕から。
「な――?」
フェルマーは、剣を構えていたはずの己の腕を見る。
鮮やかな桃色の断面を見せ、肘から先が消失していた。
そこにあるはずのものは、剣を握ったまま地に転がっている。
さきほどの一撃は外してくれた訳はなく、最初から腕を狙っていたのだ。
理解した時には、すべてが手遅れだった。
フェルマーは、かなり厚手の長手袋を着けていた。革をなめした頑丈な物だ。
みずからの腕を易々と切り落とした細剣を見る。白蓮がアルフラへと贈った魔力を帯びた業物。
無造作に凶刃を構える眼前の少女は、その腕だけではなく、得物も一級品なのだ。
「チッ!」
その時になって、やっと魔族の本能が働いた。
目の前の小娘は自分より強い、と。
踵を返し、その場から逃れようと足を踏み出した瞬間、背中にトンッと軽い衝撃を感じた。
「あ……」
左の胸元から生え出た魔力を帯びた切っ先。
それが、フェルマーの見た、この世で最後の光景となった。
無風の雪原には、柔らかな粉雪が舞い降りていた。
アルフラはうずくまり、はらはらと涙を零す。
本当に、殺したくはなかったのだ。
フェルマーは優しかった。
よく世話を焼いてくれた。
お菓子をいっぱいくれた。
そう、フェルマーから貰ったクッキーを食べたのは、ついさっきのことだ。
「ごめんね。フェルマー」
アルフラは声を上げて泣いた。
泣きながら、血を啜った。
甘くて美味しいクッキーを焼いてくれた腕から、力ある血を。
「ごめんね、ごめんね……」
血には催吐作用がある。一定以上の量を経口摂取すると激しい嘔吐感に見舞われるのだ。
また、塩分濃度も高いため、喉が渇く。
「ごめんね。でも、フェルマーは全部あたしのものだよ。ごめんね」
血を啜っては吐き、喉が渇いては雪を喰らい喉を潤す。
そしてまた啜り、嘔吐する。
正気では、とても耐えきれないその行為。
「フェルマー、これからはずっと一緒だよ」
優しい狂気がアルフラを包みこむ。
アルフラはフェルマーの全てを自分のものにした。
一年が終わるその日は、アルフラの誕生日でもあった。
アルフラは十五歳になった。