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氷の滅慕  作者: SH
五章 絶愛
119/251

黒死の病



 アルフラ達が去った天幕では、若干の休憩を挟み、ふたたび軍議が進められていた。


「今回の嵐は足が遅く、数日間に渡り強い風雨をもたらすと思われます。行軍への影響も考え――」


 エレナの言葉を遮り、カダフィーが軽く手を挙げる。


「ちょっといいかい?」


「はい、なんでしょう?」


「話が長くなりそうだからね、先に聞いておきたいんだ。――昨日からグラシェールが黒煙を噴いてるだろ。何が起こったのかあんた達は把握出来ているのか?」


「それは……」


「我々も頭を悩ませているのだ。グラシェールへ斥候を送りたいのだが、トスカナ砦の存在でそれもままならん。ここから東は魔族の勢力下にあるのでな」


 苦い顔をしたディモス将軍が首をひねる。


「おそらく、神族と魔族の戦いが始まったのだと推測はしているが……それもまた、我々がトスカナ砦の攻略を急ぐ理由の一つだ」


「理由とは?」


 フレインの質問に、ディモス将軍は逆に問い返す。


「そなた達は、上都(じょうと)へ迫っておった子爵位の魔族、切令(きれい)が討たれた話はすでにご存知か?」


「爵位の魔族が!?」


「なんだって?」


「倒されちまったのか!?」


 フレイン、カダフィー、シグナムの三人が、口々に驚愕の声を上げた。


「落ち着いて下さい。順を追ってご説明いたしましょう」


 エレナが腕を掲げ、ヨシュアをさし示す。


「竜の勇者――ヨシュア殿の弟君であるアベル・ネスティ様により、子爵位の魔族、切令は倒されました」


「その竜の勇者とは、どういった方なのですか?」


「アベル様は、このロマリアの祭神(さいじん)スフェル・トルグスにより、その魂魄(こんぱく)の一部を授けられた勇者様です」


「竜神の魂魄を授かった!? そんなことが可能なのですか?」


 エレナは淡々とした口調で答える。


「はい。現女王、エレクトラ・アカーシャ・ロマリノフの次女、フィオナ・アカーシャ・ロマリノフ様により、神降ろしの儀式が行われました。フィオナ様は、数百年に一人と言われるほどの卓越した力を持った、希代の巫女なのですよ」


「竜神の魂魄を人間に降ろしたのですか? そんなことをすれば……」


「確実に器が壊れる。魂魄ってのは、高密度の魔力そのものなんだからね。――無茶なことを……」


 呆れたように首を振るカダフィーへ、エレナは巫女服を揺らし(おご)かに告げる。


「確かに負担はかかるでしょう。ですが、それを可能とするからこそ、アベル様は竜神スフェル・トルグスに選ばれたのです」


「……レギウスにもね、かつての高司祭達が、神族の魂魄を降ろしたっていう古い文献がいくつか残されてる」


 カダフィーは両手を持ち上げ、お手あげの仕草をしてみせた。


「でも、ほとんどの者が力の内圧に耐えきれず、その場で命を落としたらしい。わずかな成功例もあるにはあるが、残らず早死にさ。元気に寿命を迎えた者は一人もいないはずだよ」


「それでも――」


 エレナの表情は変わらなかった。


「アベル様には預言が降りています。このロマリアを救うという預言が。――少なくとも、魔族との戦いが終結するまで、アベル様が倒れることはありません」


 竜の勇者への信頼と、竜神に対する信仰が、エレナに確固たる信念を与えているようだった。

 閉口し黙り込んだフレインとカダフィーを尻目に、シグナムは小声で愚痴っていた。


「これだから神官や巫女なんて奴らは……預言だの神託だの聖戦だのと……」


 本当にやくたいもない。そう思いつつ、シグナムの興味を惹いたのは、


「なあ、竜の勇者てのはそんなに強いのか?」


 ヨシュアへにやりと笑いかける。


「あんたの弟なら、剣も相当使えるんだろ?」


 ヨシュアのあまり動かぬ表情筋が、わずかに弛緩する。


「ああ、腕は確かだ。しかし、いかんせん若輩だからな。私から見れば、いささか太刀筋に合理性が欠けると言える」


「へぇ、竜の勇者なんて呼ばれても、やっぱりあんたよりは弱いのか」


「仕方あるまい。私とアベルとは一回りほども歳が離れている。あれはまだ十七だ」


「十七? なんだ、ほんとうにガキじゃないか」


 シグナムのその言い草に、フレインはこの場にアルフラが居なくて本当に良かった、と心底思った。


「勘違いをするな。私はアベルが弱いと言っているわけではない。あれは後三年もすれば、大陸最強と呼ばれる剣士に育つだろう。アベルは剣において、それほど稀有な才覚を持っている」


 弟の話をするヨシュアは、とても誇らしげだ。


「しかもアベルは、この私ですら呆れるほどに鍛練が好きだからな。三年といわず、二年もあれば私を越えて行くだろう」


「へぇ……」


 シグナムは半信半疑といった顔をする。ヨシュアの物言いに、弟へ対する欲目が交じっているのではないか、と考えたようだ。


「アベルを見ると、常々感じるのだ」


 かすかな憧憬すら感じさせる声で、ヨシュアは髭を撫でつけながら語る。


「私は剣の才に恵まれなかったのだな、と。稽古に励むアベルの姿を見るたびに、つくづくそう感じる」


「あんたに剣の才能がない? 冗談はそのヒゲだけにしてくれよ」


「む……」


 シグナムのかなり失礼な軽口に、ヨシュアが初めて不機嫌そうな表情を見せた。どうやら髭については何らかの思い入れがあるらしい。その背後から、くすくすとエレナの笑い声が聞こえた。

 軽い咳ばらいでエレナを黙らせ、ヨシュアは真顔に戻る。


「天賦の才を持った者に努力までされたのでは、生半(なまなか)な才になど何の意味もない」


 ヨシュアは少し(かな)しげに、顔をうつむかせた。



「私のような歳を重ねただけの凡人は、いつかは追い抜かれて行くだけだ」





「あのぉ……」


 遠慮がちにフレインが声をかけた。


「トスカナ砦の攻略を急ぐ理由というのは……?」


 竜の勇者について語るヨシュアへ、しきりと頷いていたディモス将軍が我に返る。


「おお、そうであったな……はて、どこまで話したのであったか……」


「竜の勇者殿が、切令という魔族を倒したとだけ」


 ディモス将軍がひとつ手を打つ。


「そう、その子爵位の魔族、切令(きれい)が率いておった軍勢の大半が、東の国境ではなく、北東へと潰走したのだ」


「といいますと……トスカナ砦へ?」


「いや、どうやらグラシェールへ向かったらしい」


 弟自慢が一段落ついたヨシュアが話に加わる。


「おそらく魔王口無の本隊が、グラシェールに存在するのではないかと予想している」


「降臨した戦神との戦いに、魔族の軍勢が集結しているということでしょうか?」


「確証はないが、状況から見て間違いないはずだ」


 ヨシュアが背後の略地図を指さす。エルテフォンヌ伯爵領の全体図だ。


「この地図には載っていないが、トスカナ砦からグラシェールまではそれほど離れていない」


「なるほど……切令という魔族の報復に、新たな軍勢が派遣されることを危惧なされているのですね?」


「そうだ。より具体的に言えば、さらに高位の――人の手には負えないような力を持った魔族の襲来を、我々は恐れている」


 ロマリアは、二人の貴族がもたらした戦乱により、東部から北部一帯にかけての広い範囲に、甚大な被害を被っている。

 多くの要塞、関所が落とされ、地方領主達の兵員にも多数の死傷者が出ていた。

 人的、物的双方において疲弊している現在、さらなる魔族の進攻を受ければ、ロマリアの中枢である首都へも戦火が拡がるだろう。


「我々は早急にトスカナ砦を奪還し、南下中のラザエル、エスタニア連合軍と合流する必要がある。そして来たるべき脅威に備えねばならない」


 淡々と語るヨシュアへ、シグナムが質問を投げる。


「なあ、あんたの自慢の弟は今どこにいるんだ?」


「アベルはトスカナ砦を迂回し、グラシェールへ向かっているはずだ」


 ヨシュアが簡潔に、竜神からの神託でアベル達一行がグラシェールと向かっている経緯を説明した。


「ふうん……そりゃ大変だな。グラシェールに魔族が集まってるなら、トスカナ砦との間で前後を魔族に挟まれてるってことか」


 表情を曇らせたヨシュアに気をつかうでもなく、シグナムは言葉をつづける。


「あんたも心配だろ。弟さんのためにも早くトスカナ砦を落としてやらないとな」


「いや……戦いにそういった私情を挟むつもりはない」


 きっぱりと言い切ったヨシュアへ、エレナが優しく告げる。


「私情ではありませんよ。アベル様はこのロマリアに必要な方です。竜神様の魂魄を宿した勇者なのですから」


「エレナ様……」


 ヨシュアは感謝の念を、黙礼という形でエレナにあらわした。


「微力ながら、アベル様のお役に立てるよう頑張りましょう」


「はい。ですがまずは、目先の戦いをしっかりと見据え、最善を尽くしませんと。アベルには心強い仲間達が同行している。当面心配はないでしょう」


 ヨシュアの言葉に、あっ、とエレナが声を上げた。そしてカダフィーへ顔を向ける。


「そうそう、アベル様に同行している者達の中に、メイガス・マグナ殿がいらっしゃるのですよ」


 なぜかエレナは期待に満ちた瞳をしている。


「……え?」


 カダフィーは意味が分からず、困惑したように首をかしげた。


「ロマリアの前宮廷魔導師、メイガス・マグナ殿です」


「メイガス…………ああ! 懐かしい名前だね」


 エレナがにっこりとする。


「よかった。覚えていらしたのですね。私、子供のころメイガスから勉学を見てもらっていたのですよ。レギウスの話もいろいろと聞かされていました」


「へぇ、あの男がロマリアへ帰ってから、もう二十年くらいたつんじゃないかな」


「ええ、かつては魔術士ギルドで様々な知識を学び、カダフィーさまも師の一人であったとお聞きしています。メイガスは、それは楽しそうにカダフィーさまの話をなされていましたよ」


 顔をほころばせるエレナに、カダフィーは苦笑して見せる。


「どうせロクでもない話だろ?」


「いいえ、メイガスはカダフィーさまのことを大層褒めておられました」


 少し気をよくしたカダフィーが尋ねる。


「なんて言ってたんだい?」


「いい女だ、とおっしゃられていました。とにかくいい女だ、と」


「……魔術の扱いや知識の広さについて褒めてたんじゃなく?」


「はい。すごく色っぽくて、ふるい付きたくなるほどいい体をしている、とも」


 ヨシュアがぼそりとつぶやく。


「あの助平爺め……エレナさまになんと下世話な話を……」


 カダフィーも呆れたような、そして少しがっかりしたような顔をしていた。


「まったく……あいつには随分と目をかけてやったのに……」


「メイガスはとても面白い人ですよね。レギウスで魔術を学んでいたころの彼は、どういった様子だったのですか?」


「ん……そうだね……覚えもいいけど要領もいい男だったかな。たしか無類の酒好きでね、よくギルドから割り当てられた仕事をさぼって、二人で飲みに行ったりもしてたっけ」


 あなたまでさぼっていたのですか。と思ったフレインだったが、口を閉ざしていた。


「そういえば聞いた覚えがあります。メイガスはカダフィーさまを酔わせて、寝所へ連れ込もうとしていたらしいのですけど、ことごとく先に酔い潰れてしまったと」


「なんだって!?」


 驚愕の声を上げたカダフィーだったが、フレインはもっと驚いていた。

 こんなところでバイケンをも越える(つわもの)の存在を聞かされたのだ。

 ロマリアは勇者の国だ、と畏敬の念をいだいた。

 そんなフレインの隣で、カダフィーが牙をのぞかせ怒りをあらわにしている。


「あいつめぇ、一時期毎晩のように飲みに誘ってきやがると思ったら……そういうことだったのか」


 さらにエレナが、満面の笑顔でとんでもない告げ口をする。


「メイガスも酒では勝てないと悟り、しまいには睡眠効果のある霊薬を盛ったりしていたそうですよ」


「クッ。次に会ったらあいつの血で乾杯してやるっ」


「あらあら……」


 カダフィーの不穏な発言に、エレナはちょっとだけ反省した。


「ごめんなさいメイガス」



――私、ついつい話を盛ってしまいました





 女吸血鬼はあさっての方角へ向かい、メイガスに対する悪態をついていた。

 ひとしきり罵り、満足した様子のカダフィーがエレナへと向き直る。


「ところで、さ。実はね、ひとつ姫さまに頼みたいことがあるんだけど……いいかい?」


 砕けた口調で告げたカダフィーであったが、雰囲気はすっかり真剣なものへ変わっていた。

 敏感にそれを察知したエレナも、口元の笑みは絶やすことなく用心深く応対する。


「……なんでしょう? 私に出来ることでしたら、もちろんやぶさかではございませんが」


「大したことじゃないよ。ちょっとね、ロマリア東部の地図を貸して欲しいのさ。なるべく詳細なやつをね」


 大したことではないと言いつつ、カダフィーが口にしたのはかなりの大事(だいじ)であった。

 エレナはあからさまに表情を曇らせる。


「地図、ですか……」


 地図はとても貴重、かつ重要な品だ。精緻(せいち)なものは、国家の機密として扱われることもしばしばである。また、市井(しせい)の――とくに商人などといった者が、国の許可なく取り扱うことも禁じられている。


 戦ともなれば、その精度の高さが勝敗を分けることも珍しくない。


 詳細な地図さえあれば、進軍経路から要塞、関所などといった防衛施設の存在まで明らかとなってしまうのだ。

 事実、子爵位の魔族、切令が上都への進攻半ばで討ち果たされた要因の一つは、ロマリアの街道、地形を把握していなかったからである。

 大まかな方角と道標を頼りに行軍を続けた切令は、上都へ攻め(のぼ)る最適な経路を取ることが出来ず、天然の要害とも言える大湿原に迷い込んだのだ。そして結果的に、そこが彼の死地となってしまった。

 もしも切令がロマリアの地図を所有していれば、上都攻略は成功していた可能性が高い。武装を必要とせず、身体能力も高い魔族の軍勢は機動力に秀でている。本来なら電撃的に上都を落とすことも出来たはずなのだ。


「申し訳ありませんが、カダフィー殿の頼みであってもそればかりは……」


 エレナはすまなそうに頭を下げる。

 いくらレギウス教国とは友好的な関係であるとはいえ、他国の者に貸し出せるような品ではない。


「レギウスの魔術士ギルドならば、精密なものではないにしろ、ロマリアの地図をお持ちなのでは?」


「そりゃ商人が使ってるような、大都市を繋ぐ街道だけが記載されてるのは持ってるさ。でも縮図なんかも目茶苦茶でね。あたしの目的からすると、使い物にならないのさ」


 態度を硬化させたエレナが尋ねる。


「目的、と申されますと? よろしければお聞かせ願えますか?」


 探るような目を向けるエレナへ、カダフィーはひらひらと手を振って見せた。


「ただの人探しだよ。ギルドの……まあ、裏切り者ってやつさ。そいつの故郷がセイバスって小都市らしくてね」


「セイバス……ですか……」


 エレナの表情は硬いままだったが、そこには微妙な変化が生じていた。


「なんだい? なにかまずいことでもあるのか?」


「い、いえ……ですが人探しが目的なら、セイバスへ向かわれても無駄足になると思います」


「……どういうことだい?」


 エレナの顔から血の気が引き、表情に(かげ)りが差す。


「それが……現在、ロマリアの中東部から北部の広い範囲で、黒死の(やまい)が発生しているのです」


「黒死の病だって!?」


 それは、最も恐ろしい悪疫の一つだ。

 強い感染力と高い致死率を持った伝染病。――気候や衛生環境にも影響されるが、一旦大流行を起こしてしまうと、一国の人口が数割(げん)じるような大惨事となりえる。

 黒死の病に罹患(りかん)した多くの者は敗血症を併発(へいはつ)し、全身に及ぶ皮下出血により肌が黒く変色する。また、病症が肺に至ると、咳や血痰(けったん)から他者へも伝染し、その感染力は非常に強い。そして、一度罹患してしまえば、ほぼ確実に死へと至る。適切な治療を受けられたとしても、回復する見込は薄い。

 原因となる病原菌は、主に鼠などの小型哺乳類を宿主とし、吸血性の昆虫により人間へと媒介される。そして、空気感染もすることから、流行の兆候が見られた頃には、爆発的な勢いで罹患者数を増やしていく。


「魔族の軍勢が通り過ぎたあと、犠牲になった者達の遺骸(いがい)が野ざらしとされ……そこに鼠が湧いたのです。あまりにも多くの者が魔族に殺され、夏場ですので屍の腐敗も早く、恐ろしい早さで黒死の病が広がりました。さらに、難民の流出により、被害の広域化に拍車がかかり、今では手の付けられない状態となっています」


「じゃあセイバスの街は……?」


 青ざめた表情で、エレナは首を振った。


「おそらく、全滅に近い状況かと。セイバスは、黒死の病が発生した魔族の進軍経路からも、ほど近い場所に位置します。難民となって逃れた者もいるはずですが、それもごく少数でしょう」


「そんな……」


 茫然とするカダフィーの様子を、フレインが冷静な目で盗み見ていた。


「このクリオフィスから南に点在する数ヶ所の村に、難民を集めています。そちらをあたればセイバスの住民が居るかもしれません。ただ……あまり期待はされない方がよいでしょう」


「……村に集めているってことは、難民達を隔離しているのかい?」


「……はい。黒死の病に罹患してから症状があらわれるまで、四日前後かかります。私達には感染者と健常者を見分けるすべはありません――」


 エレナはかすかに唇をわななかす。


「――ですので、感染の疑いがある者はすべて隔離しています」


 罹患の疑いがある者の隔離は、ごく一般的な黒死の病への対処法である。しかし、隔離されて生き残れる者は、非常に稀と言えるだろう。

 民家などに数名づつを隔離した場合、一人でも発病者が出れば、一戸全員が感染している可能性が高い。罹患者と数日間、寝食を共にしていたのだから当然の結果だ。

 隔離とはある意味、死刑宣告に等しい。


「……その命令はあなたが?」


 消沈した様子のエレナへ、フレインが尋ねた。


「そうです。私達はクリオフィスへの行軍中に、黒死の病発生の報を受けました。事態は急を要しましたので、私の判断で該当各所の街道を封鎖し、難民を保護、隔離するよう早馬を走らせました。加えて、近隣の村、全戸を借り上げ、難民の収容施設として転用するように、と」


「……そういうことだったのか」


 エレナの蒼白な顔を見ながら、シグナムは眉根をよせた。


「ロマリア国境へ向かっている道すがら、途中から難民の姿を見なくなったと思ったら……」


 シグナムはそれを、盗賊まがいの仕事をこなすコボルト達のせいだと考えていた。


「あれは難民達を片っ端から隔離していたのが原因だったんだな。――それで関所にやたらと人員を割いていたのか」


「ええ、魔族からの進攻を受けている現状、黒死の病が蔓延すれば、このロマリアは国として立ち行かなくなります。万が一、軍にまで病が広まれば……私達は戦わずして魔族に膝を屈することとなるでしょう」


「なるほどね。なんか違和感があったんだ。騎士の奴らは全員スティレットを装備してたしさ」


 スティレット。慈悲の短剣(ミセリコルデ)とも呼ばれる、刃のない短剣だ。

 戦場においては、その鋭い尖端で一突きにして、重篤(じゅうとく)な負傷兵へとどめを刺すことに用いられる。


「感染者はそのまま棺桶へ、それ以外はまとめて隔離してたんだな?」


 顔を伏せたエレナへ、とくに気を遣うでもなくシグナムは頷く。


「いい判断だと思うよ。黒死の病を封じ込めるにはそれしかないしね」


「……はい。難民を見過ごし、被害の拡大を許せば、とてつもない疫禍(えきか)となるでしょう。このロマリアはおろか、レギウスにまでご迷惑をかけることになります」


 その声はとても細く、悲痛なものだった。

 それも当然だろう。

 重苦しい雰囲気の中、フレインは考える。


 守るべき国民を救うため、守らなければならないはずの国民を殺すよう、命じなければならなかったのだ。その無念はいかばかりであろうか。

 為政者の責務とはいえ、のしかかる重圧と心労は計り知れない。


「私はあなたを尊敬します」


 目に見えて罪悪感と悲壮さをにじませるエレナへ、フレインは穏やかに語りかける。


「魔族の進攻を受け、黒死の病まで猛威を振るえば、今のロマリアには致命傷となりかねない。――苦渋の選択をしいられ、手遅れとなる前に正しい決断を下すことが出来たエレナ様を、私は尊敬いたします」


 エレナは、深々と頭を下げる。


「……ありがとう……ございます……」



 面映(おもは)ゆそうに微笑んだフレインへ、ヨシュアからも感謝の目礼が送られた。

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