算数苦手
胸を張ったルゥは、見下すような目でディモス将軍を見上げていた。彼は体も大きく、ずいぶんと偉そうな態度ではあるが、この天幕内においては弱い部類の個体だ。ウドの大木である。
そして、かなり強そうなヨシュアという口ヒゲの男も、アルフラには及ばない。さきほどから、何やら難しいことをぺらぺらと喋ってはいたが、結局のところ、アルフラは強いということが言いたかったらしい。
人間はほんとうにおバカさんだね、とルゥは思う。
だいたい、アルフラが普通でないことくらい、理屈抜きに一目でわかる。
初めて遭遇する相手の危険度を量れない者は、自然淘汰の対象だ。まず生き残れない。
ウドとヒゲはいい大人なのに、これまでどうやって生き延びてきたのか不思議でならない。
きっと、人間は石の街で暮らすから、大切なことを学べなかったのだろう。そういった意味で、この二人は格下だ。
初対面時に、アルフラをおちびちゃん呼ばわりしたルゥは、自分のことなど棚に上げ、
――ボクがめんどうを見てあげないとね
そんなことを考えていた。
だが、今はとりあえず、
「ねぇ、お姉ちゃん。ボク、お腹へった」
シグナムの背をつついた。
「ん? ああ、まだ話の途中だからちょっと待ってな」
シグナムは、ルゥの頭に手を置き苦笑する。
「こいつは獣人族のルゥだ。難癖つけられる前に言っとくが、並の兵士なんかよりずっと役に立つ。ナリは小さいけど心配いらない」
「獣人族、ですか?」
ロマリア人達は、物珍しそうな顔をする。
ルゥの真っ白な髪と深紅の瞳は、人族ではめったに見ない色合いだ。白子でもない限り、通常では有り得ない。
「このロマリアにも数種の獣人族が存在しいてます……けれど彼らは皆、他種族との交流を避け野山で暮らしています」
あまりじろじろと観察するのも不躾かと思ったエレナは、視線をシグナムへ移す。
「レギウスではこうやって、人間と行動を共にする獣人族も多いのですか?」
「いや、レギウスでも同じだ。ルゥが特別変わり者なんだと思う」
えへへ、とルゥが笑う。
「ルゥ、“変わり者”は褒め言葉ではありませんわ」
軽いツッコミを入れたジャンヌへ、シグナムが声をかける。
「お前もとりあえず、自己紹介くらいしときな」
だが、ジャンヌはぷいっとそっぽを向く。
「異教徒に名乗る名など、持ち合わせて――」
「こちらはジャンヌ・アルストロメリア様です」
素早くフレインが割って入った。
「名前でお分かりかと思いますが、武神ダレスの司祭枢機卿、アルストロメリア侯爵のご息女であらせられます」
「それは、また……」
エレナが何とも言えない微妙な表情をする。
アルストロメリア侯爵は、レギウス南部に広大な領土を有する大貴族だ。国は違えど、王族であるエレナとアルストロメリア侯爵とでは、もちろんエレナの方が家柄は上だ。しかし、治める領地の広さや保有する私兵の数、そして国への影響力といった総合的な政治力では、おうおうにして一介の王族よりも権勢を誇る貴族も存在する。アルストロメリア侯爵も、そういった大貴族の一人だ。レギウス教王やロマリア女王ですら、幾分かは機嫌を伺わなければならない相手である。そのアルストロメリア侯爵を父に持つジャンヌへ向き直り、エレナは居住まいを正す。
「我がロマリアは、中立地帯を挟み国境を接するアルストロメリア侯とは、密接な関係にあります。互いの繁栄のためにも手を携え、末永く共存の道を歩んでゆきたい。それがロマリア王室の見解です」
一旦言葉を切ったエレナは、深く頭を下げる。
「ロマリアの危局に際し、ご息女自らを遣わして頂いたアルストロメリア侯爵へ――そして、遠路はるばるこの地に参られ、お力添え下さるジャンヌ様へ、心よりの感謝を」
「あ、いえ……これはご丁寧にいたみいります……」
根は素直なジャンヌも、釣られてお辞儀をしてしまう。そんな神官娘へ、エレナはにっこりと微笑む。
「武神を信仰する方々が、竜神を奉る者をよくは思われて――」
「ダレス様の神官だけではありませんわ! 神王レギウスの信徒すべてが――」
「ジャンヌさん! この場では、信仰にまつわる軋轢はしまっておいて下さい」
それでも何事かを口にしようとするジャンヌの背中に、ルゥが飛びつく。空腹待ちの狼少女は、早く話を終わらせたい一心で、ジャンヌの口を塞いだ。
「かつて、このロマリアの前身であった古代王国は、地母神信仰の中心地であったと伝えられています。ロマリア建国にたずさわった五人の巫女も、もとは地母神ダーナの神官だったのですよ。いわば神王レギウスの信徒と私達は、親を同じくする姉妹のようなもの……」
ルゥを背負ったまま、もごもごと口を動かすジャンヌの目には、敵意しかない。神王レギウスへの信仰と竜神信仰を、姉妹に例えられたのが、ことのほかお気に召さなかったようだ。
「これまでに不幸な行き違いがあったとしても、同じく魔族を敵とする私達は、互いの手を取れるはずです。今は一刻も無駄に出来ない状況ですが、ジャンヌ様とは一度ゆっくりとお話をしてみたいと思っています」
もう一度、ジャンヌへ頭を下げたエレナは、ディモス将軍に命じる。
「ジャンヌ様には警護をつけ、くれぐれも身の安全を計って下さい」
「はっ、かしこまりました」
若干、思うとこがありげのディモス将軍だったが、とくに異論を唱えることはしなかった。
本来であれば、警護に人員を割きたくはないのだが――
「回復魔法を使える者は貴重だ。後方で怪我人の手当に従事していただければ、命を落とす兵も減りましょう」
神官だから回復魔法を使えるという先入観は、逆に死傷者を増やしますよ? と思ったフレインだったが、とりあえず黙っていた。
気の立ったジャンヌが、拳の届く範囲内に居たからだ。
「そちらの若い方々は、隣の天幕に移り、旅の疲れを癒されてはいかがですか?」
アラド子爵が提案した。
「隣接する指揮官用の天幕を提供いたします。食事なども運ばせましょう。この後は、行程に関するこまごまとした説明になりますので、全員が残る必要もありませんよ」
エレナも頷く。
「そうですわね。アルフラ……さんも先程から退屈そうにしていらっしゃいますし」
嬉しそうにするルゥを横目に、シグナムはアルフラへ尋ねる。
「どうする、アルフラちゃん?」
「あたし、お腹はへってないけど買い物がしたい」
「買い物? 何が欲しいんだ?」
「ええと、ね……」
アルフラは懐紙を取り出す。白蓮の髪を包んだものだ。
「これを入れて、首からぶら下げられるような小物がほしいの」
「ああ、そうか……なんかの弾みで中の髪が散らばるといけないしね」
「髪、ですか?」
興味を惹かれたらしいエレナが、アルフラの手元をのぞき込む。
「もしかして、恋人の髪をお守り代わりにしているのですか?」
アルフラが、頬を染めてはにかむ。
「うん」
とても幸せそうにするアルフラを見て、エレナは目を細める。そして、ちらりと意味ありげにヨシュアへ視線を流す。
「うらやましいですわ……」
自然な感じで目を逸らしたヨシュアへ、エレナは心の中で舌打ちする。
「ああ、ごめんなさい。アルフラさんは小物が欲しいのでしたわよね。――そうですね、でしたら隊商通りにゆけば、良い品が見つかるかもしれませんよ。案内の者を付けましょう」
「じゃあ、アルフラちゃんとルゥはゆっくり買い物でもして、隣の天幕で休んでな。……あっ、ジャンヌ。お前もだ」
シグナムは小銭の詰まった革袋を取り出し、ジャンヌに渡す。
「食い物屋があっても、あんまりルゥに無駄遣いさせないでくれ」
「わかりました」
天幕の外で待機していた騎士へ、アラド子爵が声をかける。
エレナはにこやかな笑顔でアルフラを見つめながら、ひとりごちる。
「ほんとうに可愛らしい娘ですね。あんな子が爵位の魔族を倒しただなんて……」
「まったくです。ヨシュア殿の見立てを疑うわけではないが、この目で見るまではどうにも納得がいかん」
ディモス将軍は、小柄で華奢な体つきの少女へ、疑念まじりの視線を向けた。その顔立ちは可憐で、女戦士に頭を撫でられ、花のような微笑みが浮かべられている。
「同じ戦場に立てば、目にする機会もあるでしょう」
憂鬱そうな声音で、フレインはディモス将軍へ告げる。
「アルフラさんの戦いぶりを見れば、味方であっても……たぶん胆を冷やしますよ」
案内役の騎士二人が、アラド子爵に何事かを指示されているあいだ、シグナムもアルフラへ厳しく言い含める。
「もし絡まれたりしても、殺しちゃダメだからね。それと、人が多く集まる場所で、剣を抜くのもダメだ。短刀もね」
「うん、だいじょぶ」
エレナの微笑ましげな視線の先では、こういった物騒なやり取りがなされていた。
「あっ、そうだ。あたし短刀もほしかったの」
「短刀? だったら予備が幾つかあるから――」
「ううん。両刃のやつじゃなくて、刃の薄い片刃のがほしいの」
「え? そういうのだとすぐ刃が欠けて、使い物にならなくなるよ?」
二人の会話を聞いていたカダフィーが、口を挟む。
「嬢ちゃんが言ってんのはさ……狩りなんかで使う狩猟刀のことじゃないかい?」
「あ、うん。それ」
「それ、って……まさかアルフラちゃん……」
眉をひそめたシグナムに代わり、カダフィーが尋ねる。
「あんた……獲物を解体すつもりかい?」
アルフラは答えることなく、じっとカダフィーを見つめる。その顔に、先程までの温もりはない。微笑みだけはそのままに、温度がスッと抜け落ちてしまっていた。
「……まったく。つくづく正気のさたじゃないね。なんでそこまで……」
「なあ、アルフラちゃん……」
顔色を失ったシグナムが、心配そうにアルフラの目を覗き込む。
「べつに、魔族をばらばらにしようなんて思ってない」
その声音は、普段と変わらず落ち着いていた。シグナムの表情に安堵が浮かびかけ――――つぎの一言で凍りつく。
「ちょっと腑分けすれば、いつもより多く血がとれるかなって……」
愕然とするシグナムへ、アルフラは淡々と告げる。
「ほら、今度の相手は爵位の魔族だから、少しでも“無駄”にしたくないし」
その意図を悟り、シグナムはがっくりと膝を落とす。
アルフラは、効率化を計ろうとしているのだ。
農村で育った子供なら、家畜や野鳥の腑分けが出来てもおかしくはない。
おそらくアルフラにも、血抜きや臓取りの知識があるのだろう。
だが、それを平然と人体に応用しようと考えるアルフラの思考は……
「嬢ちゃん。あんたさ、頭の中の大切なネジが、なん本か抜け落ちてるんじゃないか? そのうえ余計なものが混じっちまってるとしか思えない」
呼吸を必要としないカダフィーが、器用にため息をついてみせる。確かに彼女も血を啜りはするが、夜の貴族とも呼ばれる吸血鬼は、アルフラがやろうとしていることはしない。食事に関するマナーも貴族的なのだ。
「でもね。あんたがやろうとしてるのは、素人がおいそれと出来るような仕事じゃないよ。人の体ってのはね、家畜と比べて内臓の位置が違うし、大きさや形もまったく別物――」
「そんなの知ってる」
そう。アルフラは知っている。
家畜の腑分けだけではなく、人体の急所を事細かに知っているのだ。
どの部分に多くの血が集まり、どこを刺せば短時間で失血死させられるのかを。そしてどこを壊せば致命傷になりうるのか。どの箇所なら瞬時に行動不能となるのか――それを、高城から教えられていた。
「たぶん、そんなに難しくはないと思うの」
血流が止まると、臓器に溜まった血を啜り出すことは非常に困難だ。それをアルフラは、これまでの経験から学んでいた。
ならば――
摘出してしまえばよいのだ。
胸骨と肋に守られた五臓。腹膜に包まれた六腑。アルフラにとって大切なのは五臓の方だ。
心・肺・肝・腎・脾。五つの臓。そこには常に多くの血液が供給されている。
稀有な力を宿す、爵位の魔族の血は、一滴たりとも無駄には出来ない。すべて呑み尽くしてやるのだ。
「アルフラちゃん……」
らしくない不安そうな顔をしたシグナムを、冷たい腕が抱きしめる。
「心配しないで。シグナムさんには迷惑かけないようにするから。絡まれても騎士の人が居れば平気でしょ?」
アルフラの視線を受け、二人の騎士は飛びすさるようにして距離を取る。背中が壁に当たり、それ以上さがれないと悟り、恐怖に顔を引き攣らせる。
今のアルフラは、女吸血鬼をも凌ぐ禍々(まがまが)しい気配を発していた。
「いや、アルフラちゃん。そうじゃなく……」
膝をついたシグナムは、頭の位置がほぼアルフラと同じだ。
頬と頬を合わせ、アルフラは歌うように告げる。
「だいじょうぶ。だいじょうぶ」
すっかりと冷たくなってしまったシグナムの首筋から腕を離し、アルフラは騎士へ声をかける。
「早く案内して」
「はっ、はい。ただいまっ!」
二人の騎士は、逃げ出すように入口へと駆け寄った。そのあとをアルフラが追う。ぎくしゃくとした動きのルゥをともなって。
「ジャンヌ。アルフラちゃんを頼む」
凍えたような声でシグナムが言った。
「ええ……」
やはり表情を硬くしたジャンヌが、戸口に消える。
アルフラ達三人が去ったあとの天幕では、しばらく口を開く者はいなかった。
冷たい沈黙が落ちる中、呆然と身を竦ませるロマリア人達へ、フレインが声をかける。
「理解して、いただけましたか?」
応える者もなく、フレインは言葉をつづける。
「トスカナ砦を占拠した者達には、ご愁傷様としか言いようがありませんね……」
魔族の血を捧げるため、このロマリアへとアルフラを誘った魔導士は、暗い目で戸口を見つめていた。
「咬焼という魔族……あまり楽な死に方は出来なそうだ」
蒸し暑い夏のロマリアであるにも関わらず、天幕内にはまるで、朝靄のような白い冷気が漂っていた。
街の城門へとつづく街道の両脇には、いくつもの出店や屋台が立ち並んでいた。
騎士団に随伴し、上都から行軍して来た隊商である。
そこかしこから売り子達の大きな声が聞こえ、人の流れを呼び止めようとしていた。戦時中であっても、利益の追求を忘れない商魂逞さが、あたりに活気を振り撒いている。
アルフラは騎士の一人に付き添われ、出店のひとつを覗いていた。
横長の板を、地べたに直接並べただけの商品棚。いくつもの銀細工が、きらきらと陽光を跳ね返している。店構えは貧相だが、揃えてある商品の質は良い。
やはり白蓮のイメージは、色なら白、金属なら銀。そんなことを考えながら、アルフラはにこにこと笑う。
シンプルな円筒形のペンダントを手に取り、太陽の光へかざしてみる。少し悩んでから、こんどは菱形のものを手にする。
あまりべたべた触ると、くすみの元になるのだが――普段は口うるさい店主も、アルフラの背後に立つ騎士に気を遣って、無言で様子を見ている。
「うん。これにしようかな」
あまり時間をかけることなく、アルフラは最初に立ち寄った店で、気に入ったものを見つけたようだ。
値段を告げた店主へ、アルフラは銀貨を渡す。
短時間で購入を決めたうえ、値切ることもしない上客に、店主もほくほく顔だ。すぐに銀の鎖を金床に乗せ、鐫と木槌で長さを調整する。
出来上がった品物を受けとったアルフラは、白蓮の髪をペンダントに入れ、首からかける。
「うん」
満足げにひとつ頷いて、ペンダントを革鎧の中へと仕舞った。
ご機嫌なアルフラが辺りを見回すと、近くの屋台でルゥとジャンヌがなにやら話し込んでいた。
近づいてみると、二人の背後に立った騎士が苦笑しているのが見てとれた。
ルゥの口の端には、白いクリームが付着している。すでにどこかで買い食いをして来たらしい。おそらく結構な量を食べたのではないだろうか。この店で最後ですわよ、というジャンヌの声が聞こえてくる。
ルゥがねだっているのは、パイ生地に鹿肉と香草を包んで焼いた料理だった。
屋台の奥には、煉瓦を積み重ねた急造の釜が二つ並んでいる。そちらからとても香ばしくよい匂いが漂って来ていた。
少し空腹を感じたアルフラは、屋台に立てかけられたお品書きの板をのぞき込む。
「あら、アルフラは字が読めますの?」
「うん、ちょっとだけ」
声をかけたジャンヌは、アルフラの答えに少し感心したような顔をする。
レギウス教国の識字率は、周辺国と比べれば高めである。だがそれも都市部に限った話だ。
「ん~……あたし、川魚と茸の包み焼きが食べたい」
「ボクはお肉っ!」
はいはい、と呟いたジャンヌが店主を呼ぶ。そして注文を伝えると、
「両方とも銅貨七枚だよ」
「え、えと……銅貨……ななまい……ふたつだと……」
ジャンヌは頭上をにらんで長考に入った。
「……ねぇ。もしかして足し算出来ないの?」
アルフラの問いかけに、ジャンヌの頬が赤くなった。
「そ、そんなわけございませんでしょ!! ダレス速算術を極めたわたしにかかれば……」
ジャンヌはすさまじい速さで、指を折り曲げていく。
ぼうっと様子を見ていたルゥは、なんかダメな流れっぽい、と察した。
「うぅぅ……ゆびの数が足りませんわ……」
両手を駆使して計算にはげむジャンヌだったが、もちろん指は十本しかない。
「なな、足すことの、なな……ですから……」
どうやら、二桁の繰り上げが出来ないようだ。
ジャンヌの後ろでは、順番待ちの行列が出来ていた。よほど美味い店なのかと、道行く人も歩みを止め、神官娘の周囲に集まってくる。
ええと、ええと、とジャンヌはしばらく唸り…………ぽむっと手をたたいた。
「銅貨七枚、足す、銅貨七枚で――銅貨七十七枚ですわ!! 間違いありま――」
「十四枚だよッッ!!!!」
その場に居合わせたルゥ以外の全員から、鋭いツッコミが入った。