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氷の滅慕  作者: SH
五章 絶愛
112/251

甘い一夜(前)



 ロマリア王国東部平原。

 魔族の領域にも程近い田舎町に、剣を振るう竜の勇者の姿があった。


「メイガス! 町の南側から火の手が上がってる」


 数人のコボルトに囲まれ、身動きの取れないアベルの叫びが響いた。

 すぐさま後方に控えていた老魔導師が応える。


「心得た」


 おそらく、町を襲撃したコボルトが、家屋に火を放ったのだろう。

 深紫の導衣をはためかせ、メイガスは火消しのために南へと駆け出した。

 その背を見送ることなく、アベルは細剣を構えたコボルトを斬り倒す。

 足元にはすでに狗頭の屍が無数、のみならず、町の衛兵が数人事切(ことき)れ転がっている。


「アベル、あっちで女の子が襲われてる!」


 肩を並べて戦槌を構えたフィオナが、城壁に近い町の一角を指さす。


「くっ!!」


 逃げ遅れた者を避難させるため、戦士ダルカンが住民の誘導に向かったのだが、その彼もすべての民衆をまとめられるはずもない。


「助けにゆこう!!」


 強引に包囲の輪を斬り開き、アベルは甲高い声を上げる娘の方へと走りだした。その背を護るように、フィオナは大きく戦槌を振り回し後を追う。

 いち早く悲鳴の主のもとへ駆け付けたアベルは、町娘の頭髪を掴み引きずって行こうとしていたコボルトを斬り倒す。

 さらに左右から襲いかかってきた狗頭の獣人を苦もなく撫斬る。

 危ないところを助けられた娘は、恐怖のあまり腰が立たなくなったのか、震えながらへたり込んでしまっていた。

 コボルトに衣服を掴まれ振り回されたらしく、はだけた乳房を両手で抱いて泣きじゃくっている。


「怪我はない? 立てる?」


 フィオナが戦槌を持ち代え、右手を娘に差し延べる。それとほぼ同時に、アベルが左手を出していた。


「あっ……」


 手の甲同士が触れ合ってしまい、アベルの口から軽い当惑の声がもれた。


「ふふ、気が合っちゃったわね」


 悪戯っぽい笑みを浮かべたフィオナだったが、すぐにその顔はピクリと引き攣る。

 助けた娘が、先に手を伸ばしたフィオナではなく、アベルの手を握ったのだ。しかも、腕の間からこぼれ落ちた大きめの乳房を、思わず直視してしまったアベルが赤面していた。

 慌てて横を向いた竜の勇者は、冷たいフィオナの視線と出逢う。


「え、フィオナ……なんで、怒ってるの…………ですか?」


 無意識の内に、語尾が丁寧語になってしまう。だが、それが余計フィオナの機嫌を損ねてしまったようだ。


「べ、べつに怒ってなんかいないわっ!」


 その顔色はアベルよりも、よほど赤くなっていた。


「ああ、勇者さま。ありがとうございます! わたし、とても怖くて……」


 アベルの腰へ、ちゃっかり抱き付こうとした娘を、慌ててフィオナが引きはがす。


「ちょっと! アベルにひっつかないでよ!」


 感情的に叫んでしまってから、取り繕うように、こほんとせきばらいを一つ。


「そ、その、まだ戦いの最中なんだから、あ、危ないと思うわ」


 普段は落ち着きのあるフィオナの、そのどもりようにアベルは不思議そうな顔をする。


「フィオナこそ危ないよ。ちゃんと周囲に気を配らないと――ほら、新手が来てる」


「わ、わかっているわ」


 こちらへ向かってくるコボルトの一団から庇うように、フィオナは娘の前に立つ。


「あなたは私の後ろに隠れてなさい」



 それは気遣う言葉のようにも取れるが――どちらかというと、好意を寄せる少年に半裸の娘を近づけまいとする、恋する乙女の情の(こわ)さが感じられた。





 戦いが終わり、アベルの許へ三人の仲間達が集まって来ていた。


「城壁を越えて侵入したコボルトたちは、あらかた掃討出来たみたいだね」


「ああ、しかし町の衛兵もかなりやられちまってる」


 大盾を背負ったダルカンが、周囲に散乱する屍に視線を落とす。


「警備隊の奴らは城壁の護りで手一杯だろうから、俺達ももうひと働きしないとな。夏場だし今日中に死体を処理した方がいい」


「そうだね……力仕事になるから、フィオナとメイガスは少し休んでて」


「じゃあ、私は怪我した人たちを診てくるわ」


「ふむ、では儂も老骨に鞭打ち、薬学の知識を役立てるかの」


 役割分担をしていた四人に、数人の青年が近付いてくる。


「勇者さま、町を救っていただきありがとうございました」


「あ、うん……」


 深い感謝の念が込められた眼差しに、アベルは面映(おもは)ゆそうな表情ではにかむ。


「そんなたいしたことじゃないから気にしないで。それより、戦いに倒れた人たちを(とむら)わないと。どうすればいいかな? どこか一カ所に遺体を――」


「いえ、それは我々自警団でやります。そのようなことに勇者さまの手をわずらわせる訳にはいきません」


「え、でも……」


「幸い、町の住人に怪我した者もほとんど居ませんでした。これもすべて勇者さまのおかげです。どうかしばし、お体を休めて下さい」


 少しでも襲撃を受けた町の者達の力になりたい、と考えていたアベルは思案する。他に何か、自分に出来ることはないだろうかと。


「あ、あの、勇者さま」


 さきほどアベルに助けられた娘が、駆け寄ってくる。


「よろしければ、わたしの家で休まれてはいかがですか? そのぉ、いろいろとお礼もしたいですし」


 頬を染めた娘が、自らの肩をアベルの体へ付きそうなほどに寄せる。

 これにはフィオナが血相を変えた。


「あっ!! また――」


 しかし、やや嫉妬深いたちの巫女姫が割って入る前に、アベルは娘から身を引いていた。


「ごめんね。気持ちはありがたいけど、僕らにはまだやらなきゃいけないことがあるから」


 真摯な態度で申し出をことわったアベルへ、ダルカンが含みのある笑みを向ける。


「いいじゃないか。せっかく“色々”お礼をしてくれるって言ってるんだしよ」


「はい。もしまだ今夜の宿が決まってらっしゃらないのでしたら、わたしの家にお泊りいただいても――」


「だ、だめよ」


 娘の視線から隠すように、フィオナがアベルの前に立つ。


「ええと……四人でお世話になるのは、さすがに迷惑だと思うの」


「いいえ、わたしの家は商家で客室もいくつかございますから」


 なおも食い下がる娘へ、フィオナは空気を読みなさいよ、といった視線で圧力をかける。


「わ、私はちゃんとした宿に泊まりたいの。だからご遠慮させていただくわ」


「そ、そうですか……残念です」


 王族の気迫を全開にした視線で、フィオナは娘を見事撃退した。

 ごめんなさいね、と声だけはおしとやかに笑う。女の闘いを制した、勝利の笑顔だ。

 それを見ていたダルカンがアベルへ囁く。


「惜しかったな。あの娘、ぜったいお前に惚れてたぞ」


「え……?」


「それにしても……姫さんのガードは鉄壁だぜ。俺の大盾より守りが固い。アベルも大変だな」


 言われている意味があまりよく分からず、アベルは曖昧な笑みを浮かべる。


「尻に敷かれるなよ」


「ダルカン!! 聞こえてるわ!」



 フィオナがダルカンをきつい眼差しで睨みつける。淑女の仮面は完全に脱ぎ捨てられていた。





 アベル達一行は、フィオナの望み通り一夜の宿を取ることとなった。

 町で最も大きな宿屋に二部屋押さえ、酒場となっている一階で夕食の席につく。


「明日は、町を襲ったコボルトたちの本陣を叩こう」


 あらかた食事を済ませたアベルが提案した。


「相手の数は多いけど、町の守備兵と力を合わせれば、コボルトたちを魔族の領域まで押し返せると思うんだ」


「アベル――」


 メイガスが渋い顔をする。


「儂らは神族の助力を得るため、グラシェールへ向かうのが目的のはずだぞ」


「うん。それは分かってるよ。でも、この町の人達を見捨てることは出来ない」


「見捨てろとはゆうておらん。じゃがな、目につくものすべてを助けておったのでは、いつまで経ってもグラシェールに着けん」


 ため息混じりの言葉にも、アベルは確固たる信念を持って反論する。


「だけど、町の人たちのためを思えば、そんなこと言ってられないよ」


「アベルよ……儂らはだいぶ本来の道行(みちゆき)から東に逸れてしまっている。それも、魔族の残党に襲われる人々を助けたいと言う、お前の意思を()んだがためだ」


「それはそうだけど、このまま町の外に布陣してるコボルトたちを放っておけば、今日よりもっと多くの人が死ぬんだよ」


「本来の目的を見失ってはならん。戦神が降臨してすでに九日。まっすぐに向かっておれば、儂らはすでにグラシェールへ到着していたはずなのだ」


 穏やかだったメイガスの言葉が、やや強い語調となってくる。


「戦神と魔族の戦いが始まれば、神の宮へ近づくことも困難となる。儂らは一刻も早く、グラシェールへ辿り着かねばならんのだ。これ以上、道草は食えん」


「道草!?」


 アベルの言葉も熱を帯びてくる。


「メイガスは人の命を助けることを、道草だって言うの!?」


「いくらアベルでも、すべての者を助けられる訳ではない。お前もすでに、道理を()かれる歳でもなかろう。より多くの者を救うためには、優先順位をつけることも大事だ」


 それまで静かに耳を傾けていたダルカンが、口を挟む。


「なあ、アベル。お前の言ってることは正しいよ。ただそれは、家族に対してしか責任を持たない市井の者の道理なんだよ」


 エール酒のジョッキで口を湿らせたダルカンが、真剣な眼差しで語る。


「でも、お前は違うだろ。ロマリアの守り神である竜神さまから、この国を救うための力を授けられた、勇者様なんだよ」


「だから僕は、一人でも多くの――」


「違うだろ。そうじゃない。俺たちが救わなけりゃなんないのは人じゃない。国そのものなんだよ」


「じゃあダルカンは、この町の人がコボルトたちに殺されてもいいって言うの!?」


 激昂するアベルを宥めるように、メイガスがことさらゆったりとした口調で語りかける。


「じゃから、そうは言って――」


 しかし、ダルカンが被せるようにメイガスをさえぎる。


「いや、そういうことだよ。言葉を選んでもしょうがないだろ。大を生かすためには小を見捨てることも必要になってくる」


 ダルカンは強い眼差しでアベルを見据える。


「コボルトなんぞをいくら倒しても、戦いは終わらない。大本である魔族をどうにかしなきゃならないんだ。そのためには、爵位の魔族を送り込んできた魔王口無。そしてさらにその上に立つ、魔族の皇帝を倒すしかない」


「その通りじゃ。儂らがこの町で時間を食っておる間に、あらたな魔族どもが、このロマリアを攻めてくるかもしれんのだぞ。――忘れてはならん。儂らには竜神様から与えられた使命があるのだ」


 アベルは唇を噛み、顔を伏せる。あまりにも正論すぎて、返す言葉が見当たらなかった。彼に宿る竜神の加護は、魔族の進攻からロマリアを守るために与えられたものである。そして、あまりに強大な力を持つ魔族に対抗するため、グラシェールへ赴き戦神に助力を乞えとのお告げが下っているのだ。

 強く握り締めた拳を、アベルはじっと見つめる。その悲壮な表情を見兼ねたフィオナが、助け船を出す。


「私は、アベルの意見に賛成だわ」


「フィオナ……」


 嬉しそうに顔を上げたアベルへ、フィオナは優しく微笑む。


「こんな小さな町ひとつ救えないで、国を救うなんて無理だと思うの。町の人達一人一人にだって、暮らしというものがあるわ。ささやかな幸せを糧に、真面目に生きている人だっていっぱい居る。国を支える民衆を見捨ててまで行う使命? そんなものに、なんの価値があるというの?」


「姫さん――」


 ダルカンが、呆れたように軽く眉根を揉む。


「あんたは女王である母君に似て、とても頭の回りがいい――でもな、アベルのことが絡むと、途端に目が曇っちまう」


 (とが)めるような視線を向けられたフィオナであったが、怯むことなく真っ直ぐに見返す。


「――なるほど」


 後ろめたさの存在しない澄んだ瞳に見つめられ、ダルカンは嘆息する。


「自覚がないってのも、たちが悪いな……いいかい、姫さん」


 居住まいを正し、フィオナの美しい碧眼から目を逸らすことなく語る。


「あんたは病弱な姉君に代わり、玉座を継ぐかもしれない立場だ。支配者としての教育だって、きっちり受けてるはずだろ?」


「ええ、もちろんよ」


「為政者の成すべきは、人民一人一人の――個の救済じゃない。国を富ませることだ。市井(しせい)の者を数人助けたくらいじゃ、国の繁栄には結び付かない」


「目の前に助けられる人が居ても……その手を取るなというの?」


「その考え方は、立ち位置が違うんだよ。民の目線から(まつりごと)を行えば、国が傾くって話だ。――国を活かすためには、小事に捕われず大局を見なけりゃならない。国を繁栄させれば、多くの民が豊かになる、救われる。大を助けるために小を切り捨てられるのも、為政者には必要な心構えってもんだ。その辺を履き違えるな」


 一旦言葉を切ったダルカンが、揺らめく瞳をのぞき込む。


「姫さんの母君は、それが出来る聡明な女王だ」


 名君として讃えられる母を引き合いに出され、フィオナの表情が硬く強張った。

 悔しげに口をひき結んだ巫女姫へ、ダルカンは言い聞かせるように告げる。


「厳しい言い方だが……綺麗事じゃ国は回らない。世の中は渡れない。誰も――助けられないんだよ」



 張り詰めた空気の中、長い沈黙が降りる。

 すっかり冷え切ってしまった料理を前に、口を開く者もなく、ただ時間だけが過ぎていった。





 大通りの雑踏が届かぬ宿屋の一室。

 すでに日は沈み、辺りには夜の帳が落ちていた。

 明かりの(とも)されぬ暗い室内で、アベルは一人、物思う。

 三つ列べられた寝台の一つに寝転び、じっと深い闇を凝視する。

 仲間達を階下の酒場に残し、さきほどの会話を脳裏で反芻(はんすう)していたのだ。

 アベルも、ダルカンやメイガスの言葉を頭では理解していた。しかし、感情がそれを否定するのだ。


 今現在。目の前で虐げられ、散っていこうとする命がある。それなのに、力ない人々から目を逸らし、見捨てろと言われたのだ。アベルにはどうしてもそれが納得出来ない。

 これまで長きにわたり平穏だったロマリアを襲った魔族の軍勢。理由も分からず蹂躙される多くの人達。強者が私欲のために弱者を殺すということは、いわば究極の理不尽だ。

 にも関わらず、アベルの仲間達は目をつぶれと言う。一刻も早く戦いを終わらせるためには、見捨てることも(いた)し方なし、と。


 一言も言い返せなかった。

 まだ年若いアベルは、自分の内なる思いを論理的に言葉へ換えることが出来なかったのだ。

 あまりの悔しさにギリギリと奥歯を噛みしめる。

 それでも、アベルはまだ諦めてはいなかった。

 今は一晩かけて、ゆっくりと考えをまとめることが必要だ。そして明日もう一度、仲間達に自分の思いを伝え、話し合わなければならない。


 つらつらと考え事をしていると、不意に室内の空気が微妙に揺らいだ。音はしなかったが、アベルには扉の開かれた気配が感じられた。

 一瞬、ダルカンかメイガスが戻って来たのだろうか、と思ったのもつかの間。しかし、無言で室内に踏み入って来たのが、フィオナであることに気づく。


 ゆっくりと規則的な、かすかな息遣い。つま先からそろりと落とす、かるい足音。


 月明かりもない闇の中であっても、相手がフィオナであればすぐに分かる。なんせよちよち歩きの時分から、数日と置かずに顔を合わせて来た幼なじみなのだから。


 それはフィオナにとっても同様だった。――いや、アベル以上の精度を持って、彼女は想いを寄せる少年の気配を感じることが出来た。

 光源も持たず、フィオナは正確にアベルの横たわる寝台の前に立つ。


「フィオナ、どうしたの?」


 言葉を発さぬ幼なじみを、アベルは少し不審に思ったようだ。

 上体を起こし、ごそごそとサイドボードの上を手探り、カンテラを掴む。


「待って。明かりは点けないで」


「え……?」


 すぐ近くできぬ擦れ音がする。(くゆ)るような花の匂いが、アベルの鼻先に届いた。以前、フィオナにねだられプレゼントした水仙の香油。彼女がとても大切にしている、一番のお気に入りだ。

 そして――ぱさり、と何やら軽い布地が床へ落ちる音。つづいて寝台がぎしり、とアベルのすぐ傍で軋む。その音源から、水仙の香気とともに、フィオナ自身の清涼で甘やかな体臭が漂ってきた。


「な、なに? なんなの!? フィオナ……??」


 上擦った声を出したアベルの頬に、細い指が触れる。

 びくりと身を硬くした幼なじみの少年に、フィオナがくすりと笑い声をもらした。


「アベルが泣いてたら、慰めてあげようと思ってたのだけど……」


 なめらかな指先が、涙の跡がないかを確かめるように、アベルの頬を撫ですさる。


「……ざんねん」


「ぼ、僕をからかってるの!? 泣いたりなんか――」


「アベル、よく泣いてたじゃない」


「え?」


 そんなことはない。――ないはずだった。物心ついて以来、今まで人前で涙を流した覚えはない。


「悔しいことがあったりすると、よく自分の部屋で枕を抱きしめて泣いていたでしょ?」


 その言葉で、アベルは自分の頬が、カッと熱くなったのを感じた。


「それは子供の頃の話じゃないか!!」


 確かにフィオナの言う通り、アベルにはそういった癖があった。

 決して人前で涙を見せることはしなかったが、剣術の修練などで自分の無力さにいたたまれなくなったとき、自室に篭り、一人涙したことは数えきれない。


「僕はもう昔とは違――」


 強い口調で言いかけたアベルだったが、背筋になにか冷たいものを感じ、言葉を詰まらせた。


「な、なんでフィオナは、そんなこと知ってるの?」


「幼なじみなんだから当然でしょ。何年一緒に居ると思ってるの?」


「え……あ、うん……」


 釈然としないものの、アベルは思わず頷いてしまっていた。

 無意識の内に、これ以上その件について掘り下げてはいけない、という自制が働いたのだ。


「ふふふ、私はアベルのことだったら……なんでも知ってるんだから。だって――」


 アベルの首に、しなやかなフィオナの腕が回される。


「フィオナ!? ちょ、ちょっと待って。どうしちゃったのさ」


「ずっとアベルのことばかり、見てきたのだもの。誰よりも前から、私が……」


 なのに、と細い声でフィオナは訴える。


「アベルはすぐに他の女の子を見ちゃう……」


 うろたえるアベルは答えに(きゅう)する。


「今日だってそう。あの娘の胸、見てたよね?」


 フィオナの声は優しいが、なぜか怖い。

 戦場に飛び交う鋭い殺気とは別種の、骨が軋むような重圧を感じる。

 その優しげな口調に頷いてしまいそうになる首を、アベルは意思の力で固定する。


「可愛い娘だったよね?」


「フィオナのほうが……何倍も綺麗だと僕は思うよ、うん!」


 冷汗を流しながら、自分の答が正解であることを切に願う。

 世の中には、命のやり取りよりも恐ろしいことがあるだと、アベルはこのとき初めて知った。

 見通すことは出来ないはずの暗闇の中で、アベルの顔をのぞき込む気配がする。


 竜の勇者と呼ばれる少年は、金縛りにあったかのように動けないでいた。

 フィオナはもしかして魔眼持ちなのだろうか、と真剣に思ってしまう。

 黙して語らぬ無言の闇が、アベルの神経を削り取っていく。


 心臓が張り裂けそうなほどに、鼓動と緊張が高まる。

 沈黙を堪えることに限界を感じ始めたとき――フィオナがぽつりとつぶやいた。


「……嬉しい」


 ぐっ、と抱き寄せられ、フィオナの身体が押しつけられる。


「わわっ――!?」


 意外な量感を持った双丘が、アベルの胸の上でぐにゅりと潰れる。

 このとき初めて、フィオナが一糸まとわぬ姿であることに気づいてしまう。


「な、なな、なんで服着てないのさ!?」


「びっくりした?」


 笑みを含んだ声音が、アベルの耳朶をくすぐる。


「当然だよ!!」


 押しのけることも出来ないほど、アベルは硬直していた。金縛りは絶賛継続中だ。


「私もびっくりした」


「え? えっ?」


「アベルの胸って……こんなに広かったんだ……」


「は……うぁ……」


 意味をなさない呻きがもれる。

 フィオナはぴったりと体を密着させる。自らの残り()をアベルの身体へ付着させ、その所有権を主張しようとするかのように。

 呆然自失といった(てい)のアベルは、ただただ狼狽していた。

 無抵抗をいいことに、フィオナはアベルの胸に鼻先を擦り付ける。


「うん、大丈夫。あの娘の臭いはしないね」


「フィオナ……」


「ふふ、アベルの匂いがする……ちょっと汗くさいね」



 嬉しそうに笑ったフィオナが体重を前にかけ、寝台の上にアベルを押し倒した。

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