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氷の滅慕  作者: SH
五章 絶愛
111/251

天地鳴動



 たき火の光が届かぬ闇の向こうで、複数の気配が揺らめいた。


「――きた」


 アルフラが立ち上がり細剣を抜く。


 周囲の暗がりを透かし見るように、首を巡らしたシグナムが尋ねる。


「正確な数は分かるか?」


「たぶん、六人」


「多いな……」


 今回はお荷物となるルゥを(かか)えての戦いだ。魔族が六人も相手では、守りきることが出来るか少々心(もと)ない。

 アルフラも少し違った意味で、六人という数は多過ぎると感じていた。

 すりすりとお腹を撫でている。

 どうやら腹具合が心配なようだ。


 そんなアルフラを、呆れたような目で見ながらシグナムは頷く。


「よし。ルゥ、お前は戦いが終わるまで、馬車の中で隠れてろ」


「うん」


 その言葉に従い、ルゥはすごすごと馬車へ入っていった。そして扉の前に、ジャンヌが仁王立ちする。


「馬車の守りはわたしが」


「任せた」


 一声(こた)えたシグナムが、大剣片手に軽く腰をおとす。


「囲まれてるな……」


「しょうがないね。あまり役には立たないけど……」


 カダフィーが荷馬車の扉を叩く。


「お前たち、出番だよ!」


 ぞろぞろと這い出て来た犠牲者達を見て、シグナムとフレインが嫌そうな顔をする。


「役に立たないなら、そんな物騒なもん出すなよ」


「弾よけくらいにはなるさ。あんたらはともかく、フレインに死なれちゃ困るんだよ」


「えっ? 私、ですか?」


「そうさ。あんたは、私とホスローの将来設計には欠かせないんだからね」


 複雑な表情をしたフレインをよそに、カダフィーは下僕達へと命じる。


「お前たちは盾になってフレインを守りな」


 青白い顔をした死者達が、主の命じるままにフレインを取り囲む。

 しかし、フレインの顔も蒼白だ。


「や、やめて下さい! むしろ生きた心地がしません」


 だらだらとよだれを垂れ流す犠牲者達の口許からは、伸びかけの犬歯がはみ出ている。

 いつ、本能の赴くままに食いついてくるか知れたものではない。

 いくら守れという命令があったとしても、四人の吸血鬼に囲まれたのでは、命の危険しか感じなかった。


「贅沢お言いでないよ。魔族は嬢ちゃんたちに任せとけばいい。私たちは高みの見物と洒落込もうじゃないか」


「そういう訳には――」


「お黙り、来るよ」


 馬車を包囲し、こちらの様子をうかがっていた魔族達が、ゆっくりと前進を開始した。


 したたかに地を蹴ったアルフラが、手近な気配へと殺到する。

 突然の動きに、標的とされた魔族は瞬間戸惑っていた。そして戸惑いのまま、一刀のもとに斬り伏せられる。

 舞った血煙の中、アルフラは上体を朱く汚しながら転進する。

 低い姿勢で一直線に、新たな獲物へと食らいつく。

 さらにもう一人がアルフラの餌食となったとき、魔族達のあいだから焦りの声が上がった。


「障壁を抜いてくるぞ!? 散開して距離を取れ!!」


「待て! ()()りになってはまずい。一所(ひとところ)に固まるんだ!!」


 指揮官である穂純(ほずみ)を失った魔族達は、的確な指示が出せる者を()いていた。

 命令系統が混乱し、動きがもたついてしまう。


 誰の声に従うのかを逡巡しているうちに、重い衝撃音が響き渡る。

 シグナムの大剣により、一人の魔族が叩き潰されていた。


「一撃か……」


 少し驚いた顔をしたシグナムが、ひしゃげた肉塊を見下ろす。


「こいつら……ガルナで戦った魔族より弱いな」


 会敵直後のわずか一瞬で、襲撃者の数は半分となっていた。

 魔族達もさすがに悟る。

 どう考えても、自分達の手に負える相手ではないのだと。


「無理だ! 引けっ、引く――」


 戦況を正しく把握した魔族が撤退をうながす。――しかし、その口から出た叫びは、途中からくぐもった呻きと吐血に変わっていた。

 喉元に突き込まれた細剣が、ぐるりと捻られ頸動脈が裂ける。

 口と喉から血を溢れさせた屍を押しのけ、アルフラは逃げようとする魔族の追跡に移った。


 一連の戦いを馬車の前で見守っていたジャンヌは、不満げにつぶやいた。



「……することがありませんわ」





 魔族の斥候、明石は、森へと向かってひた駆けていた。

 とても戦いなどとは呼ぶべくもない殺戮の場から、唯一逃れることの出来た生き残りだった。

 背後から聞こえた断末魔の悲鳴を振り切り、明石は身を隠すことの可能な木立を目指して走る。


 だが――そんな彼の前に、漆黒の導衣を羽織った一人の女が立ち塞がった。無意識のうちに舌を鳴らし距離を開く。


「チッ! 貴様もあいつらの仲間か!?」


 問いながらも、明石は忙しく頭を働かせる。

 女がただの人間でないことは、瞬時に見抜いていた。

 選択肢から抗戦を除外する。

 ちらりと後方へ視線をやり、女との間合いを外す。

 ここで手間取れば、仲間たちを殺した少女に追いつかれてしまう。

 そうなれば明石はおしまいだ。


「何をそんなに怖がってるんだい?」


 退路をうかがう明石へ、女が語りかける。


「安心おしよ。あの嬢ちゃんと違って、私は品がいいからね」


 くすりと笑みを漏らした女の双眸が、妖しく煌めく。


「あんたを貪り喰ったりはしないからさ」


「な――」


 らんらんと輝く両の(まなこ)へ、思わず視線が行ってしまう。目があわさったとたん、明石の身体から急激に力が抜けていく。


「な、んだ……これ、は……?」


 凄まじい脱力感に身じろぎする明石を、女はじっと見つめる。


「なるほど……私の妖視にこうも易々とかかるなんて」


 女の手が伸ばされ、明石の肩を鷲掴む。


「凱延の使っていた斥候より、数段劣るね」


 これなら、と長い犬歯を唇からのぞかせ、女が首筋へ顔を寄せた。


「う……あぁ……」


 明石は身を縛り付ける妖魅の魔眼に、渾身の力で抗う。

 ぶるぶると震える腕を持ち上げ、女へ掌を向ける。

 しかし、呪縛の影響で、魔力を上手く集約させることが出来ない。

 拡散した力が物理的な圧力を生み、つむじ風が巻き起こった。


「さすがに効きが悪いね……暴れるんじゃないよ」


 女の指先から、音も無く爪が伸び出た。

 短刀ほどの長さとなった鋭利な凶器が、ずぶりと明石の首へ刺し込まれる。


「イギッ――!?」


 首の血管を避け突き刺さった爪は、食道を貫通し、溶解性の神経毒を分泌する。

 注入された毒により、表皮と肉がふやけ、辺りに異臭が立ち込めた。


「ア、グゥ……アァ……」


 明石の体がびくびくと痙攣し、やがて筋肉が弛緩しはじめる。


「さあ、いい声でお()き」



 ぐずぐずに(ただ)れた首筋へ、女吸血鬼がかぶりついた。





 カダフィーが馬車の傍まで戻ってみると、どんよりとした顔のシグナム達がたき火を囲んでいた。

 すでに戦いは終わり、ジャンヌだけはいつものように、神への祈りを捧げている。

 ルゥは馬車の中で寝ているのだろう。

 そして、シグナムとフレインの表情は、これ以上もなく暗い。

 まるで通夜のような面持ちだが、べつだん死んだ魔族達を(いた)んでいるというわけでもなさそうだ。


「……どうしたんだい?」


 シグナムとフレインが口を開くことなく、ちらりと同じ方向を目でさし示した。

 釣られたカダフィーがそちらへ目をやる。

 膝丈ほどの薮がうっそうと茂り、そのあちら側から、ぴちゃぴちゃと湿った音が聞こえてきていた。


「ああ……嬢ちゃんが食事中ってことかい。さっき二人も飲み干したのによくもまぁ……」


「……ちょっと待て。なんだそれ?」


 シグナムがカダフィーの後方、よたよたと主人のあとを歩いてきた、新たな犠牲者を睨みつける。


「なんで増えてんだよ」


「おや。魔族を噛めって言ったのはあんたじゃないかい」


 また棺が増えるのだろうか? とフレインがげっそりとした顔をする。


「かんべんして下さい……」


「でもね、今回はちゃんと情報を引き出せたよ。戻ってくる道すがら、なかなか有用な情報を聞けたのさ。さすがに斥候だけのことはある」


「……へぇ」


 気のない相槌をうったシグナムの前に、カダフィーが座り込む。

 信用がないねぇ、とこぼし、女吸血鬼は仕入れた情報を披露し始めた。


「まず、トスカナ砦を占拠した魔族の数は約三千。それを率いてる男爵位の魔族は、おそろしく気性の荒い奴らしいね」


 トスカナ砦は、エルテフォンヌ伯爵領の最北端に位置する要塞である。

 爵位の魔族、咬焼(こうしょう)は、ロマリア北部へ攻め込んだ後、すぐさまエルテフォンヌ伯爵の居城を攻略し、付近の町や村を焼き払いながら北上した。

 魔族の軍勢は、抵抗する兵士のみならず、老若男女の違いなく、多くの命を奪っていった。

 押し寄せる軍勢から逃れようと、領内では北進する多くの難民が生まれ――その結果、わずか数日でエルテフォンヌ伯爵領北部では、ほとんど人の姿を見ることがなくなってしまった。


「エルテフォンヌ伯爵(よう)する白竜騎士団は半壊。隣接するアラド子爵の領地へ逃げ込んだらしいね。伯爵の生死は不明だとさ」


「ロマリア国軍は首都防衛のため動けないのですよね?」


「そのようだね。白竜騎士団は、アラド子爵の助けを借りて軍を立て直し、トスカナ砦の奪還を計っているらしいけど――」


 カダフィーは、後で立ち尽くす魔族を振り返る。


「こいつらは北部国境地帯から進軍してくるラザエル皇国軍を捕捉するため、数日前にトスカナ砦から派遣されたそうだよ。だから少し情報が型落ちしてる。現状どうなっているかは……」


「アラド子爵はそれほど有力な貴族ではありませんよね?」


「さあね。よくは知らないけど、地方貴族の私兵なんて、多くても数千てとこじゃないかい? 白竜騎士団の残存兵と合わせても、一万には届かないはずだよ」


「では……まともに機能している軍は、ロマリア北部に存在していないということですか。……参りましたね」


 フレインが考え深げにまぶたを閉じる。そして、今後の行程を思案しながら口を開いた。


「とりあえずはこのまま南下して、軍を再編中のアラド子爵のもとへ向かいましょう」


「……なあ」


 それまで静かに話を聞いていたシグナムが、渋い顔で口を挟む。


「何日かこの辺りで野営して、進軍して来るラザエルの軍勢と合流したほうがいいんじゃないか? 三千の魔族相手に一万足らずの兵じゃ、どう考えても無理があるだろ」


「そういう訳にはいきませんよ。トスカナ砦に居座る爵位の魔族は、方々に斥候を放っているようですからね。挟撃されることを嫌い、ラザエル軍の到着前にエルテフォンヌの残存兵を潰しにかかるかもしれません」


「……エルテフォンヌって、あの小生意気な姫さんとこの騎士達なんだろ? 助けてやる義理なんて――」


「いえいえ」


 しかめっつらのシグナムに、フレインは困ったように笑う。


「私たちはあくまでも、ロマリアへ差し向けられた援軍なのですよ。義理はなくとも義務があります。――いくらなんでも、援護するはずの軍を見捨ててはまずいでしょう」


「援軍て言っても、相手は三千からの魔族だぞ? 白竜騎士団とかいう奴らじゃ、爵位の魔族を倒すための露払いすら出来ないだろ」


「だからといって見殺しには出来ませんよ。私たちは、レギウスから正式に派遣された部隊なのですから。――それに、魔族の斥候が往来する街道で、あまり時を過ごすのも得策ではありません」


 これにはカダフィーがくすくすと笑い声を上げた。


「魔族が通りかかっても、嬢ちゃんのおやつ代わりになるのがオチだろ」


 フレインはその言葉で、藪の方から聞こえて来ていた水音(みなおと)が止んでいることに気がついた。


 食事を終えたらしいアルフラが、たき火の前を横切り馬車へと歩いてゆく。


「アルフラさん……?」


「なんだい嬢ちゃん。食事は終わったのかい?」


「……もぅ無理……寝る……」


 アルフラの足取りは重い。顔色も悪く、さすがに少し飲み過ぎたらしい。

 一歩あるくごとに、腹の中からちゃぽちゃぽと音が聞こえてきそうだ。


 馬車の扉を開いたアルフラへ、シグナムが声をかける。


「……おやすみ。アルフラちゃん」


「うん。おやすみぃ」


 閉じられた扉を見つめ、シグナムがひとつ大きなため息をこぼした。


「夜が明けたら、とっととアラド子爵とかいう奴のとこへ行こう」


「おやおや、どういう風の吹きまわしだい? さっきまではあんなに渋ってたのに」


「……こんなとこに長居したら、アルフラちゃんがまるまる太っちまいそうだ」


 カダフィーはおかしそうに笑う。


「いいじゃあないか。ちっとは背も伸びるかもしれないよ?」


「肉付きがよくなる分にはかまわないけどさ……これ以上、血の気が多くなられても困る」



 おそらく、血で肥え太ったアルフラを想像してしまったのだろう。

 陰欝な顔をしたシグナムが、たき火にまきを投げ込んだ。





 翌朝。日の出間もない刻限から馬車を走らせた一行は、午前中のうちにアラド子爵領へと入っていた。


 それまで、ずっと同じような景色だった見渡す限りの平原に、変化が見え始めた。

 街道の随所に民家が散在し、周辺には農耕地が広がっている。

 一見のどかな風景ではあるが、よくよく見てみるとほとんどの畑には、何者かにより踏み荒らされた痕跡が見て取れた。


「コボルトの仕業でしょうか……」


 膝立ちになり、小窓から外を眺めていたジャンヌが、誰にともなくぽつりともらした。


「いや。難民に荒らされたんだろう……(いくさ)になればよくあることさ」


 戦火を逃れ、着のみ着のまま食うに困った者達が、道すがらの田畑から作物をむしり取る――戦時中であれば、往々(おうおう)にして起こりうることだ。


「ひどいですわ。丹精込めて育てた作物を、こんな……。それに、まだ収穫前で煮ても湯がいても食べられたものではないでしょうに……」


「それだけ餓えてたってことだろ。まあ、大貴族のやんごとない姫さまであるジャンヌにゃ、草木の根でも食っちまうような飢餓なんて想像もつかないだろうけどね」


 皮肉げに言ったシグナムへ向き直ったジャンヌが、静かに首を振る。


「餓えなら知っています。わたしは月始めの五日間は、毎月断食を行っておりますもの」


「いいや、分かっちゃいないね」


 返されたシグナムの視線には、ほんのわずかではあるが侮蔑の色が含まれていた。


「終わりがあって先の保障もある断食には、餓えて死んじまうかもって怖さはないだろ」


「それは……」


「本当に餓えた人間てのはね。餓死した自分の肉親すら食っちまうんだよ」


「……」


 絶句してしまったジャンヌへ、シグナムはにやりとして見せる。


「ま、そんなもん、知らないに越したことはないけどね」


 ジャンヌは黙り込んだまま肩を落とす。


「気にするな。戦なんてもんはさ、人一人の力じゃ何をどうやったって無くなりゃしない。どうしようもないことなのさ。――特に傭兵なんてやってるあたしや、武神の神官であるジャンヌにはね。……考えるだけ、無駄だ」


 神官娘が珍しく気弱げなため息をついたとき、馬車の小窓から強い光が差し込んだ。

 それはほんの一瞬ではあったが、しばらく目がくらんで、視界が効かなくなるほどの光量だった。

 馬車を引く馬が大きくいななきを上げ、車体が激しく揺れる。


「なんだ――!?」


 前方の仕切り戸を開け、シグナムは御者台の男へ叫ぶ。


「おい! どうした!?」


 御者はたずなを引き絞り、暴れる馬を抑えることに精一杯だった。とても返答を期待出来るような状況ではない。


 ジャンヌは扉を開き地面へと降り立つ。シグナムもそれにつづき、つい先程まで昼寝をしていたアルフラとルゥも、馬車から飛び降りてきた。

 荷馬車から出てきたフレインとカダフィーも、ただ事ではないと判断したらしく、その表情は険しい。


「なんだったんだ、さっきの光は……」


「よく分かりませんが、東の空が白く光ったようでしたが……」


 伸び上がるようにして東の方角を仰ぎ見ていたシグナムは、ふと気づく。


「……おい、なんか地面が揺れてないか?」


「なんでしょう……地鳴りのような音も……」


 一同は息を潜めて耳を澄ます。

 その、地の底から響いて来るような鳴動は、よくよく気をつけてみないと感じ取れないような、ほんのささやかなものだった。


「地震……でしょうか……」


「妙な揺れかただけど、たいした――」


 それほどの規模ではない、と感じたのもつかの間――揺れは急速に強さを増し、地鳴りは大気を震わすほどの轟音へと変わっていった。


「うぉっ! なんかまずいぞ!!」


 立っていることが困難となり、全員が腹ばいに伏せる。

 しかし、大地は波打つようにうねり、体重の軽いアルフラとルゥの体が跳ね上げられてしまう。


「ひゃわ――!!」


 慌ててシグナムが二人の上から覆い被さる。

 なかなか収まらない揺れと地響きに、馬が竿立ちとなり御者台から男が投げ出された。


「くそっ! 何なんだこりゃ!!」


 その叫びも轟音に掻き消される。

 さらに、東の方向へ緩やかな空気の流れが出来ていた。

 カダフィーが、はっと息を飲む。

 覚えがあったのだ。

 風というより、まるで引き寄せられるような空気の流れ。


「気をつけ――」


 言いかけたところで、とてつもない突風が叩きつけられた。


 凄まじい風圧の吹き返し。


 馬車が横倒しとなり草地を滑る。

 引きずられた馬が金属を引っ掻いたような甲高いいななきを上げた。


 必死の面持ちで地にしがみついていたフレインが吹き飛ばされ、馬車に背から打ちつけられる。

 巨大な体躯のシグナムですら上体が浮き上がっていた。


「クッ――オォ!!」


 それでもアルフラとルゥを抱え込んだまま、シグナムはなんとか凌ぎきる。


 烈風が駆け抜けた後も、揺れと地鳴りはやや勢いを弱め、なお続いていた。


「……すげぇな……。なんだったんだ今の……」


 シグナムが地面に手をつき、バランスを取りながら立ち上がる。


「お姉ちゃん……あれ……」


 まるく目を見開いたルゥが、東の空を指さしていた。


「これは……」


 シグナムは二の句も継げず、言葉を詰まらせる。アルフラもまた、大きく口を開け空を見上げていた。


「なに……あれ……」


 遥か東の空に、巨大な黒煙が立ち上がっていた。

 霞みがかった雄大な山並みの中央。その山頂付近が黒く染まり、もうもうとした煙を吹き上げている。


「あれは、グラシェールじゃないかい」


 カダフィーが目を細めて空を見上げる。

 冬の晴れた日であれば、はっきりと稜線の見える天山グラシェールであったが、高温多湿な夏のロマリアでは、あまりにも距離がありすぎてその偉容も判然としない。


「まさか、グラシェールが噴火したのか!?」


「神域のあるグラシェールが噴火なんてするもんかい。だいたいあれは火山なんかじゃない」


 朧げに見えるグラシェールの頭上には、立ち込めた黒煙が膨れ上がるように傘を広げていた。


「始まったのですわ!!」


 感極まったと言わんばかりに両手を揉みしぼったジャンヌが、歓喜の声を上げる。


「戦神バイラウェの降臨より十日! ついに魔族を滅ぼす聖戦が始まったのです!!」


「神族と魔族の戦い……? いや、それにしてもこんな……」


 広がりゆく黒煙を呆然と見上げたシグナムは、信じられないといった顔をしていた。


「きっとバイラウェさまの鉄槌が魔族たちに降ったのです。――あぁ、なんと凄まじいお力なのでしょう。これなら邪悪なる神敵の命運など、すでに決したも同然ですわ。忌まわしい魔族共の栄華も、遠からず(つい)え去ることでしょう」


 うっとりとするジャンヌから、アルフラが気持ち身を引く。

 そんな神官娘には目もくれず、シグナムはカダフィーに尋ねた。


「なぁ……いくら神族だからって、こんな天変地異を起こせるもんなのか?」


「私にもわかんないよ。でもね、グラシェールが火山じゃない以上、神族と魔族の戦いで余波が来たとしか考えられない」


 皆が東の空を注視する中、膨張し続ける黒煙が太陽を覆い隠し、辺りは夕闇が降りたように薄暗くなってきた。

 しばらくじっとその様子を見つめていたシグナムが、大きく息をついた。


「とにかくこうしててもしょうがない。先を急ごう」


「そうですわね。わたしも魔族を滅する聖戦へ馳せ参じたいところですが、今は爵位の魔族を倒すという大切な使命があります」


 ようやく我に返ったらしい神官娘の額を、シグナムが軽くこづく。


「きゃうっ」


「お前は勝手について来ただけだろ」


「とりあえず、馬車とフレイン坊やをなんとかしないとねえ」



 横転した馬車へもたれ掛かるようにして、フレインが気絶していた。

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