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氷の滅慕  作者: SH
五章 絶愛
109/251

悪飢羅刹



「そろそろ話していただけませんか?」


 荷馬車に揺られながら、フレインは不機嫌そうに問いかけた。

 サリエナの町を早朝に出発し、すでに時間帯は夕刻に差しかかろうといった頃合いだ。


「これは一体どういうことなのですか!!」


 彼の眼前には三つの棺が並べられていた。その内の一つはカダフィーのものだ。しかし、残りの棺は、今朝方、馬車に乗り込んでみると、いつの間にやら増殖していたものだった。

 ただでさえ狭い車内がより窮屈となり、フレインはすぐさま事の次第(しだい)を問いただした――のだが、カダフィーから返された言葉は、ねむい、の一言だった。


 そのためフレインは、馬車のすみで膝を抱えて丸まることを余儀なくされ、ほぼ半日ほども窮屈な思いをさせられたのである。


 再三の呼びかけにより、昼頃にはいったんカダフィーも目を覚ましたのだが、昨日飲み過ぎたから暗くなるまで寝かせろ、と言ったきりだんまりだ。

 飲み過ぎといっても、泥酔している訳でないのは確かだ。

 むしろそうであれば、どれほど気が楽かと思う。

 吸血鬼の言う飲み過ぎなのだ。何を飲んだのかは聞くまでもない。その上、二つも棺が増えている。フレインはとても気が重い。そして狭い。


 もちろん、新たな棺の中身は確認していない。

 それを見てしまえば、とても憂鬱な気持ちになることは目に見えている。

 二つの棺にも、いちおう声をかけてみたが何の返事もない。ただの屍のようだ。


「そろそろ日も暮れます。いい加減、納得のゆく説明をして下さい!」


 眉間に深いシワを寄せ、じっとカダフィーの棺を睨みつけていると、中からかさかさときぬ擦れの音が聞こえてきた。

 さらに、ギギギ、と軋む音をさせ、棺の蓋がうすく開かれる。


 隙間からちらりと黒い瞳をのぞかせ、カダフィーは周囲の様子をうかがう。

 いつもは温厚なフレインの、滅多に見せない剣幕さに、少し驚いているようだ。

 ちょっとは悪いことしたと思ってるんだよ? といった雰囲気を作りながらカダフィーは尋ねる。


「……怒ってるのかい?」


「当然です! なんなんですかこの棺は!? 私はあれほど……」


 怒気もあらわに詰問するフレインの目の前で、すすっと蓋が閉じられた。


「……カダフィー」


 フレインが苛立ちまじりに棺をこんこんと叩く。

 ふたたび蓋がうすく開き、女吸血鬼はその黒い瞳だけをのぞかせた。


「あんたは本当に、子供の時分から小煩い坊やだよ」


 辟易とした調子でこぼしたカダフィーに、フレインの眉根が吊り上がる。


「自業自得というものです。あなたは昔から勝手が過ぎる。とりあえずそこから出て来て、ちゃんとした説明をなさって下さい」


 不承不承(ふしょうぶしょう)といった仕種で、カダフィーが棺からはい出て来る。


「私はべつに、あんたから怒られるいわれはないんだけどねぇ……」


 ぶちぶちと不満を述べるその様子に、さしものフレインも頭を抱えたい心持ちだった。


「こんな面倒な物を二つもこしらえておいて、よくそんなことが言えますねあなたは」


「だからそれは――」


「ああ、待って下さい。この件に関しては、シグナムさんも詳しく話を聞かせろとおっしゃられていました。いったん馬車を止めて彼女達も呼んで来ます。少し待っていて下さい」


「……わかったよ」


「シグナムさんもずいぶん怒っていましたよ」


「…………」


 閉口(へいこう)するカダフィーへ、フレインは馬車から降りながら、ぴしりと釘を刺す。



「ちゃんとそこで待っていて下さい。また棺に引き込もろうったって、そうはいきませんからね。きっちり説明して貰いますよ!」





 馬車の戸口に腰掛けたカダフィーが、一同に事のあらましを説明する。

 あらかたの話を終え、ついとアルフラを指差した。


「元はと言えば、その嬢ちゃんが起こした揉め事さ。私はその尻拭いをしてやったんだよ」


「……事情は分かりましたが……」


「棺を持ち込んだ理由にはなってないよ。どうせ中身はあんたの“犠牲者”なんだろ?」


 何でそんなもんを、と毒づくシグナムへ、女吸血鬼は何を分かりきったことを、と笑う。


「そりゃあんた、ロマリアへ着けば、あたしも忙しくなる。人手はいくらあっても困らないだろ」


「人手って……もう人間じゃなくなっちまった奴なんだろ! そんな物騒な代物と旅をするなんてゾッとしないね。しかも二人も――」


「ちがうちがう、二人じゃないよ。本当は私も人数分用意したかったんだけどね。さすがに馬車へ入りきらないから、一つの棺に二人づつ押し込んでみたのさ」


 さらりと言ってのけたカダフィーへ、険悪な視線が集まる。


「……て、四人か……?」


「そうさ、四人だよ。いやぁ、意外と入るもんなんだね。私もびっくりしたよ」


「びっくりしたじゃねぇよ!!」


 フレインに至っては頭を抱え込んでいた。


「……こっちがびっくりですよ」


 なんせ丸一日、都合五人の吸血鬼に囲まれ馬車で揺られていたのだ。ゾッとしないどころの話ではない。


「でもね、悪い話ばかりじゃないんだよ」


「……じゃあひとつ、いい話ってのを聞かせてもらおうか」


 怒りをにじませたシグナムの声音にも、カダフィーはどこ吹く風、といった具合だ。


「下僕にした奴らの中にね、サリエナの裏界隈で幅を効かせてる、顔役の一人が混じってたのさ」


 お手柄だろ、といった顔をするカダフィーへ、さらに苛立ちを募らせたシグナムが詰問する。


「……それで?」


「いろいろと有益な情報を聞けたよ。ロマリア北部に陣取ってる魔族の話とかね。なかなか情報通の男らしい」


「魔族の話? 爵位の魔族について何か聞けたの!?」


 それまでたいして興味もなく、憮然(ぶぜん)としていたアルフラが食いついた。


「そう。トスカナ砦を占拠して、周囲の町を焼き払った男爵位の魔族。咬焼(こうしょう)って奴の話がね」


「詳しく聞かせてっ!!」


「昨夜は私も忙しかったからねぇ。大筋でしか聞いてないんだ。なんだったら今から直接、本人に話をさせようか?」


「……早くして」


 カダフィーは口の端を吊り上げ、唇から白い犬歯をのぞかせる。そして、馬車の中へ入り棺をつま先で軽く小突いた。


「そろそろ夜だよ。起きてきな」


 二つの棺がごとごとと揺れ、蓋が音を立てて床へ落ちた。

 中からむくりと身を起こしたひげ面の男が、ぎくしゃくとした動きではい出て来る。

 さらにその下からもう一人。棺に詰め込まれていた男が、青白い顔で立ち上がった。


「か、かだふぃさまぁぁ」


「かか、かだふぃさまぁぁ」


 よろよろと覚束ない足取りの死者が、主のもとへと這い寄る。

 つづいて別の棺からも、顔色の悪い不気味な男達が出て来た。


「あああ……かだふぃさまぁ」


「す、すってぇ……」


「チをすってくださいぃ……かだふぃさまぁぁ」


 犠牲者達は、血色の悪い顔の中で、眼球だけが異様に充血し、赤みを帯びていた。

 ぎょろぎょろと目を剥き、のたくるように手足をばたつかせながら、女吸血鬼へと群がり寄る。

 その光景に、カダフィー以外の全員が、盛大に顔をしかめていた。


「おい……こいつらちゃんと使い物になるのか?」


「もちろんさ」


 カダフィーは子供をあやすように、彼女の犠牲者達へ語りかける。


「よしよし。後でちゃんとご褒美をくれてやるから、魔族について知ってることを話しな」


「まぞくぅ……ひとをたくさんころした……ああぁ、かだふぃさまぁ」


「なんみんもぉたくさんんん……かか、かだふぃさまぁ、すってぇ」


 カダフィーは擦り寄ろうとするひげ面を蹴倒して、無造作に踏み付ける。


「わかったから、もっと詳しく話しなって」


「うぅぅ、かだふぃさまかだふぃさまかだふぃさまかだだだだ――」


 口から泡まじりの涎を垂らし、ひげ面は壊れたように“ご主人様”の名を連呼していた。とても恍惚とした表情で。


「……」


「……」


「……」


 ただただ眉をひそめる一行に、カダフィーはこほんと一つ、咳ばらいをしてみせた。


「……ちょっと待ってておくれ。こいつは使い物になりそうもない」


 ひげ面の首根っこを掴み、棺の中へ投げ込んで蓋をする。

 そして今度は長身の男へ命じる。


「いいかい? 魔族についてだよ。ちゃんと答えないと後でひどいからね」


「あ、ああ、あいつら、らざえるからのぉぉえんぐんをを……」


「らざえる……? ラザエル皇国のことかい?」


「はは、はい……らざえるにそなえてぇぇとりでにぃぃ……かか、かだふぃさまかだふぃさまぁぁ」


 がくがくと痙攣しだした長身の男が、カダフィーの脚に縋り付く。


「こらっ! もうちょっとがんばりなっ」


 うっとうしげに蹴り飛ばそうとするが、その足を男が抱きしめる。そして足の甲を舐め回し始めてしまった。


「かだふぃさまかだふぃさまかだふぃさま――」


「ああ、もう!!」


 無理矢理足を引きはがしたカダフィーが、男を抱え上げて棺へ押し込める。

 今度は少し小太りの男に話をさせようとしたとき、アルフラからげんなりとした声が上がった。


「……もういい。あとであなたが聞いといて」


「ん、そうかい? すまないね。こいつらにはちょっと飴を与え過ぎたみたいだ。今晩にでもきつ~い鞭を入れてやるよ」


 シグナムがうんざり顔で首を振る。


「いや、ちゃんと始末しておいてくれ。こんなの見せられたんじゃ、夜もおちおち寝られやしない」


「始末って……ひどいことお言いだねぇ。こんなに可愛いのに」


 涎を垂れ流す小太りの頭を、カダフィーはぽむぽむと叩く。


「心配しなくても大丈夫さ。こいつらはまだ吸血鬼化しきってない。当分の間は血を求めたりしないよ」


 だが、当然のようにフレインからも不満の声が上がる。


「そうはいっても……一日中彼らの棺に囲まれて、旅するはめになる私の身にもなって下さい。さすがに我慢の限界です」


「だから、ロマリアへ入れば人手が必要になるんだって。だいたい途中からは別行動になるんだから、それまで我慢おしよ」


「……ならせめて、棺に釘を打たせて下さい」


「あのねえ、そもそも感謝されこそすれ、そんな邪険に扱われるいわれはないよ。こいつらは馬車を荒らしたあと、あんた達の寝込みを襲おうとしてたらしいんだからね」


「それは……」


「まあどっちみち、こいつらが死ぬことになるのは、変わり無かっただろうけどね」


 カダフィーの笑みが、アルフラへと向けられていた。


「私に血を吸われるか、嬢ちゃんに斬られるか……ただの死体になるよりは、動く死体になった方が――ククッ、より有意義だろ?」


「そんな詭弁(きべん)が通ると……」


 言いかけたフレインが、はっと振り返る。

 感じたのだ。ひんやりとした冷たい空気を――すぐ背後から。


「ア、アルフラ……さん?」


 その手は細剣の柄を握りしめていた。

 鳶色の瞳が、街道から外れた平原の一点を、睨み据えている。

 突如として臨戦態勢に入ったアルフラへ、仲間達も戸惑いの色を隠せない。

 周囲には寒気(かんき)が満ちていく。


「アルフラ……ねぇ、どうしたの?」


 ルゥが不安そうな声を出した。


「何かいるのか……アルフラちゃん?」


 答えることなくアルフラは駆け出した。

 すでに細剣は抜き放たれている。


「あっ、おい!」


 慌てて後に続いたシグナムが、ルゥへ叫ぶ。


「何か気配を感じるか!?」


「わかんないっ! でも、すごく遠くから、かすかに臭いがするような……」


「くそっ! たぶん魔族だな」


 凄まじい速さで走るアルフラの背は、どんどん遠のいてゆく。


「また一人で勝手に――!」


 フレインとジャンヌ、そしてカダフィーも後を追う。


「魔族に関しては、人狼の鼻より敏感なのかい……」


 カダフィーがぼそりとつぶやく。


「本当に便利な嬢ちゃんだね」


 それには少し、ルゥが不満げな顔をした。


「風向きがわるかったんだよ! そうじゃなきゃ、きっとボクのほうが先に気づいたんだからねっ!」


 むきになるルゥを、フッと鼻で笑い、カダフィーは漆黒の導衣をはためかせた。飛翔するかのような速度で、次々とシグナム達を追い抜いていく。



「夜は私の時間さっ。魔族共を取っ捕まえてやるよ!」





 平原を駆けるアルフラは、感じた気配のすぐ至近にまで迫っていた。

 遮蔽物の少ない街道沿いから離れ、辺りには立ち木が目立つ。

 急速に接近しつつある敵意を感じ取った魔族は、戦うことなく逃走を選んでいた。

 アルフラは膝元まで届く夏草を踏みしだき、木々の間を縫うように走る。


 逃げる魔族は二人。国境周辺という地理を考えれば、おそらく斥候なのだろう。


 魔族は強くなければならない。そう教えられたアルフラは、怒りを感じていた。


――あたしを怖がって、逃げ出すなんて……


 人間を恐れるなど、魔族の風上にも置けない。

 込み上げる怒りと同時に、強い失望の念が湧いてきた。


――よわい、魔族だ


 今のアルフラにとって、満足のいく血は得られそうにない。

 それどころか、軽食にすらならないかもしれない。


 それまで、どう倒すか、といったことを思考していた頭が、どう逃がさないか、という考えに移行する。

 あまり手間をかけると、どちらかを取り逃がしてしまうおそれがある。

 質に期待出来ないのなら、量だけは確保したい。


 戦いにおいては高い学習能力を持つアルフラは、一つの手段を選択する。

 水辺近くの雑木林へと逃げ込んだ二人の魔族を、奇襲するのだ。

 アルフラは以前、ガルナ近辺の森で、革の鎧を一つ駄目にされている。今度は逆に、その時と同じ事をしてやろうと考えていた。

 アルフラは身軽に地を蹴り、頭上に伸びる太い枝へ手をかけた。

 左腕だけで上体を支え、飛びついた勢いを殺さず、振り子のように両足を高く持ち上げる。枝を支点にそのままくるりと一回転。

 樹木の枝に足から降り立ったアルフラは、跳びはねるように移動を再開する。


 見る者が居れば、唖然としてしまう身のこなしだが、アルフラは平然と樹上を翔ける。


 枝から枝へと飛び移りながら標的へと近づく。眼下では、二人の魔族があわてふためいていた。


 以前は同じようにアルフラも慌てたのだ。迫り来る気配を目視することが出来ずに。


 二人の魔族も、盛んに周囲を警戒しているが、緊迫したこの状況では、頭上にまで注意は及ばないようだ。

 迎撃のため胸元に火球を出現させ、女魔族が叫ぶ。


穂純(ほずみ)!!」


「わかってる! くそっ、どこだ!!」


 穂純と呼ばれた魔族もまた女だった。成人女性としてはかなり小柄で、アルフラよりやや背が高い程度だ。

 二人の狼狽する心の動きが、同じ経験をしたことのあるアルフラには、手に取るように理解出来た。

 きっと、あの時の自分と似たような行動を取るはずだ。

 まずは火球を構えた魔族から黙らせる。


 細剣を逆手に持ち替えたアルフラは、足場とした枝を強く蹴り、躍りかかる。


「――ッ!?」

 後ろへ跳びすさった女魔族の真上から、降ってきた刃が肩口へ潜り込む。

 細剣の切っ先は、左の鎖骨と肩甲骨の間から入り、肋骨の内側にある心臓と肺腑を串刺しにした。

 女魔族が、うめく間もなく息絶えたことにより、制御を失った火球が弾ける。

 下生(したば)えが燃え上がり、炎に包まれながらも、アルフラは自身の冷気に護られ、悠然としていた。


 膝をつき事切れた女魔族の右肩に足をかけ、根本まで刀身の埋まった細剣を引き抜く。


 肩から噴き出した血を、少しもったいなさげに見ながら、臓物くさい体液のこびりついた刃に、アルフラは舌を這わせる。


――やっぱり、よわい


 だが、思っていたほど悪くはない。

 やはり斥候の任につく者は、並の魔族よりも強い力を持っているのだろう。


――二人分ならそれなりに……



 アルフラの害意あふれる(よこしま)な視線が、もう一人の女魔族へと向けられた。





「貴様……人間……?」


 穂純は、炎の中で微笑む少女を前に、立ち尽くして――否、立ちすくんでいた。

 燃え盛る業火の中にあってなお際立つ、濡れ光る瞳に射竦(いすく)められてしまったのだ。

 それまで確かにあったはずの戦意は萎縮し、激しい悪寒に見舞われる。

 しかし、忘我の時もつかの間。自らの生を脅かす絶対的な恐怖に背を向け、穂純は逃走を計った。


――ありえない……


 少女から、とてつもない力を感じるのだ。それは、穂純の主である、男爵位の魔族をも凌駕するほどの力だった。

 あまりにも破格な少女の魔力に、現実を否定する思考しか浮かんでこない。


――こんな馬鹿な話があるものか!!


 戦うなど出来るはずもない。


 だが――


 一目散に駆け出した穂純の横合いから、凄まじい速度で気配が迫る。

 もはや半狂乱となった穂純に、この場を逃れ得るすべは思いつかなかった。


 最大出力で展開された魔力障壁は、一閃した銀光にあっさりと貫かれる。


「グ――ッ!!」


 胸骨(きょうこつ)を貫かれ、口から苦悶の声と血が溢れた。

 胸を刺し貫かれたまま、穂純の体は振り回される。

 胸部を貫通した細剣の切っ先が、樹木の幹に突き刺さった。


 立ち木に縫い止められる形となった穂純に、少女が顔を寄せる。


「さきに向こうを片付けてくるから、すこしだけ待ってて」


「う……あぁ……」


 あまりの激痛に、まともな返事の出来ない穂純へ、少女は気遣うように語りかける。


「無理にしゃべろうとしないで。ほら、口からいっぱい血が出ちゃってる」


 臓物臭ただよう少女の口が近づき、穂純の唇をペろりと舐めあげる。


「あまり暴れないで。傷口が広がったら、たぶんすぐ死んじゃうから」

 心臓が止まれば、血流も止まり体温が低下する。外気に触れた血液は急速に凝固してしまう。そのことを知っている少女は、諭すように告げる。


「あんまり深く息を吸わないで、小刻みに呼吸をするの。ひっ、ひっ、ふーって。そうすればもう少しは大丈夫なはずだよ」


 穂純は朦朧とする意識の中で、言われるままに呼吸を整えようとした。

 しかし、気管に血が絡まり、ひゅるひゅると嫌な音しか出てこない。


「ちゃんとやって。ほら、ひっ、ひっ、ふーっ」


 空気の漏れるような音しか出せない穂純を見て、少女は眉をひそめる。


「あたし、なるべく急いですませてくるから。あなたもがんばって」


 一度は駆け出した少女が、なにかを思い立ったかのように、きびすを返し戻って来た。

 欲望にうるんだ鳶色の瞳が、穂純を覗き込む。そして耳元で囁く。


「逃げちゃだめだからね」


 細剣の柄に手がかかり、より深く押し込まれる。


「ギッ!! アアアァァァァァ……ァ……」


「すぐ戻ってくるから。それまで死なないで待ってて」


 そう言い残し、少女は(くら)い夜闇の中へと還っていった。


「グッ……アァ……」


 穂純は荒い息をつく。

 涙を流しながら、決意を固める。


 ――そして、


「ア、ア、アアアアアァ――――」


 胸に埋められた刃で、自らその身を裂いた。

 飢えた目をした悪鬼が、ふたたび戻ってくる前に――己の生を断ち切るために。



 穂純は、残されたもっとも確実な手段で、この先に待つ悪夢を拒否したのだ。

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