悪飢羅刹
「そろそろ話していただけませんか?」
荷馬車に揺られながら、フレインは不機嫌そうに問いかけた。
サリエナの町を早朝に出発し、すでに時間帯は夕刻に差しかかろうといった頃合いだ。
「これは一体どういうことなのですか!!」
彼の眼前には三つの棺が並べられていた。その内の一つはカダフィーのものだ。しかし、残りの棺は、今朝方、馬車に乗り込んでみると、いつの間にやら増殖していたものだった。
ただでさえ狭い車内がより窮屈となり、フレインはすぐさま事の次第を問いただした――のだが、カダフィーから返された言葉は、ねむい、の一言だった。
そのためフレインは、馬車のすみで膝を抱えて丸まることを余儀なくされ、ほぼ半日ほども窮屈な思いをさせられたのである。
再三の呼びかけにより、昼頃にはいったんカダフィーも目を覚ましたのだが、昨日飲み過ぎたから暗くなるまで寝かせろ、と言ったきりだんまりだ。
飲み過ぎといっても、泥酔している訳でないのは確かだ。
むしろそうであれば、どれほど気が楽かと思う。
吸血鬼の言う飲み過ぎなのだ。何を飲んだのかは聞くまでもない。その上、二つも棺が増えている。フレインはとても気が重い。そして狭い。
もちろん、新たな棺の中身は確認していない。
それを見てしまえば、とても憂鬱な気持ちになることは目に見えている。
二つの棺にも、いちおう声をかけてみたが何の返事もない。ただの屍のようだ。
「そろそろ日も暮れます。いい加減、納得のゆく説明をして下さい!」
眉間に深いシワを寄せ、じっとカダフィーの棺を睨みつけていると、中からかさかさときぬ擦れの音が聞こえてきた。
さらに、ギギギ、と軋む音をさせ、棺の蓋がうすく開かれる。
隙間からちらりと黒い瞳をのぞかせ、カダフィーは周囲の様子をうかがう。
いつもは温厚なフレインの、滅多に見せない剣幕さに、少し驚いているようだ。
ちょっとは悪いことしたと思ってるんだよ? といった雰囲気を作りながらカダフィーは尋ねる。
「……怒ってるのかい?」
「当然です! なんなんですかこの棺は!? 私はあれほど……」
怒気もあらわに詰問するフレインの目の前で、すすっと蓋が閉じられた。
「……カダフィー」
フレインが苛立ちまじりに棺をこんこんと叩く。
ふたたび蓋がうすく開き、女吸血鬼はその黒い瞳だけをのぞかせた。
「あんたは本当に、子供の時分から小煩い坊やだよ」
辟易とした調子でこぼしたカダフィーに、フレインの眉根が吊り上がる。
「自業自得というものです。あなたは昔から勝手が過ぎる。とりあえずそこから出て来て、ちゃんとした説明をなさって下さい」
不承不承といった仕種で、カダフィーが棺からはい出て来る。
「私はべつに、あんたから怒られるいわれはないんだけどねぇ……」
ぶちぶちと不満を述べるその様子に、さしものフレインも頭を抱えたい心持ちだった。
「こんな面倒な物を二つもこしらえておいて、よくそんなことが言えますねあなたは」
「だからそれは――」
「ああ、待って下さい。この件に関しては、シグナムさんも詳しく話を聞かせろとおっしゃられていました。いったん馬車を止めて彼女達も呼んで来ます。少し待っていて下さい」
「……わかったよ」
「シグナムさんもずいぶん怒っていましたよ」
「…………」
閉口するカダフィーへ、フレインは馬車から降りながら、ぴしりと釘を刺す。
「ちゃんとそこで待っていて下さい。また棺に引き込もろうったって、そうはいきませんからね。きっちり説明して貰いますよ!」
馬車の戸口に腰掛けたカダフィーが、一同に事のあらましを説明する。
あらかたの話を終え、ついとアルフラを指差した。
「元はと言えば、その嬢ちゃんが起こした揉め事さ。私はその尻拭いをしてやったんだよ」
「……事情は分かりましたが……」
「棺を持ち込んだ理由にはなってないよ。どうせ中身はあんたの“犠牲者”なんだろ?」
何でそんなもんを、と毒づくシグナムへ、女吸血鬼は何を分かりきったことを、と笑う。
「そりゃあんた、ロマリアへ着けば、あたしも忙しくなる。人手はいくらあっても困らないだろ」
「人手って……もう人間じゃなくなっちまった奴なんだろ! そんな物騒な代物と旅をするなんてゾッとしないね。しかも二人も――」
「ちがうちがう、二人じゃないよ。本当は私も人数分用意したかったんだけどね。さすがに馬車へ入りきらないから、一つの棺に二人づつ押し込んでみたのさ」
さらりと言ってのけたカダフィーへ、険悪な視線が集まる。
「……て、四人か……?」
「そうさ、四人だよ。いやぁ、意外と入るもんなんだね。私もびっくりしたよ」
」
「びっくりしたじゃねぇよ!!」
フレインに至っては頭を抱え込んでいた。
「……こっちがびっくりですよ」
なんせ丸一日、都合五人の吸血鬼に囲まれ馬車で揺られていたのだ。ゾッとしないどころの話ではない。
「でもね、悪い話ばかりじゃないんだよ」
「……じゃあひとつ、いい話ってのを聞かせてもらおうか」
怒りをにじませたシグナムの声音にも、カダフィーはどこ吹く風、といった具合だ。
「下僕にした奴らの中にね、サリエナの裏界隈で幅を効かせてる、顔役の一人が混じってたのさ」
お手柄だろ、といった顔をするカダフィーへ、さらに苛立ちを募らせたシグナムが詰問する。
「……それで?」
「いろいろと有益な情報を聞けたよ。ロマリア北部に陣取ってる魔族の話とかね。なかなか情報通の男らしい」
「魔族の話? 爵位の魔族について何か聞けたの!?」
それまでたいして興味もなく、憮然としていたアルフラが食いついた。
「そう。トスカナ砦を占拠して、周囲の町を焼き払った男爵位の魔族。咬焼って奴の話がね」
「詳しく聞かせてっ!!」
「昨夜は私も忙しかったからねぇ。大筋でしか聞いてないんだ。なんだったら今から直接、本人に話をさせようか?」
「……早くして」
カダフィーは口の端を吊り上げ、唇から白い犬歯をのぞかせる。そして、馬車の中へ入り棺をつま先で軽く小突いた。
「そろそろ夜だよ。起きてきな」
二つの棺がごとごとと揺れ、蓋が音を立てて床へ落ちた。
中からむくりと身を起こしたひげ面の男が、ぎくしゃくとした動きではい出て来る。
さらにその下からもう一人。棺に詰め込まれていた男が、青白い顔で立ち上がった。
「か、かだふぃさまぁぁ」
「かか、かだふぃさまぁぁ」
よろよろと覚束ない足取りの死者が、主のもとへと這い寄る。
つづいて別の棺からも、顔色の悪い不気味な男達が出て来た。
「あああ……かだふぃさまぁ」
「す、すってぇ……」
「チをすってくださいぃ……かだふぃさまぁぁ」
犠牲者達は、血色の悪い顔の中で、眼球だけが異様に充血し、赤みを帯びていた。
ぎょろぎょろと目を剥き、のたくるように手足をばたつかせながら、女吸血鬼へと群がり寄る。
その光景に、カダフィー以外の全員が、盛大に顔をしかめていた。
「おい……こいつらちゃんと使い物になるのか?」
「もちろんさ」
カダフィーは子供をあやすように、彼女の犠牲者達へ語りかける。
「よしよし。後でちゃんとご褒美をくれてやるから、魔族について知ってることを話しな」
「まぞくぅ……ひとをたくさんころした……ああぁ、かだふぃさまぁ」
「なんみんもぉたくさんんん……かか、かだふぃさまぁ、すってぇ」
カダフィーは擦り寄ろうとするひげ面を蹴倒して、無造作に踏み付ける。
「わかったから、もっと詳しく話しなって」
「うぅぅ、かだふぃさまかだふぃさまかだふぃさまかだだだだ――」
口から泡まじりの涎を垂らし、ひげ面は壊れたように“ご主人様”の名を連呼していた。とても恍惚とした表情で。
「……」
「……」
「……」
ただただ眉をひそめる一行に、カダフィーはこほんと一つ、咳ばらいをしてみせた。
「……ちょっと待ってておくれ。こいつは使い物になりそうもない」
ひげ面の首根っこを掴み、棺の中へ投げ込んで蓋をする。
そして今度は長身の男へ命じる。
「いいかい? 魔族についてだよ。ちゃんと答えないと後でひどいからね」
「あ、ああ、あいつら、らざえるからのぉぉえんぐんをを……」
「らざえる……? ラザエル皇国のことかい?」
「はは、はい……らざえるにそなえてぇぇとりでにぃぃ……かか、かだふぃさまかだふぃさまぁぁ」
がくがくと痙攣しだした長身の男が、カダフィーの脚に縋り付く。
「こらっ! もうちょっとがんばりなっ」
うっとうしげに蹴り飛ばそうとするが、その足を男が抱きしめる。そして足の甲を舐め回し始めてしまった。
「かだふぃさまかだふぃさまかだふぃさま――」
「ああ、もう!!」
無理矢理足を引きはがしたカダフィーが、男を抱え上げて棺へ押し込める。
今度は少し小太りの男に話をさせようとしたとき、アルフラからげんなりとした声が上がった。
「……もういい。あとであなたが聞いといて」
「ん、そうかい? すまないね。こいつらにはちょっと飴を与え過ぎたみたいだ。今晩にでもきつ~い鞭を入れてやるよ」
シグナムがうんざり顔で首を振る。
「いや、ちゃんと始末しておいてくれ。こんなの見せられたんじゃ、夜もおちおち寝られやしない」
「始末って……ひどいことお言いだねぇ。こんなに可愛いのに」
涎を垂れ流す小太りの頭を、カダフィーはぽむぽむと叩く。
「心配しなくても大丈夫さ。こいつらはまだ吸血鬼化しきってない。当分の間は血を求めたりしないよ」
だが、当然のようにフレインからも不満の声が上がる。
「そうはいっても……一日中彼らの棺に囲まれて、旅するはめになる私の身にもなって下さい。さすがに我慢の限界です」
「だから、ロマリアへ入れば人手が必要になるんだって。だいたい途中からは別行動になるんだから、それまで我慢おしよ」
「……ならせめて、棺に釘を打たせて下さい」
「あのねえ、そもそも感謝されこそすれ、そんな邪険に扱われるいわれはないよ。こいつらは馬車を荒らしたあと、あんた達の寝込みを襲おうとしてたらしいんだからね」
「それは……」
「まあどっちみち、こいつらが死ぬことになるのは、変わり無かっただろうけどね」
カダフィーの笑みが、アルフラへと向けられていた。
「私に血を吸われるか、嬢ちゃんに斬られるか……ただの死体になるよりは、動く死体になった方が――ククッ、より有意義だろ?」
「そんな詭弁が通ると……」
言いかけたフレインが、はっと振り返る。
感じたのだ。ひんやりとした冷たい空気を――すぐ背後から。
「ア、アルフラ……さん?」
その手は細剣の柄を握りしめていた。
鳶色の瞳が、街道から外れた平原の一点を、睨み据えている。
突如として臨戦態勢に入ったアルフラへ、仲間達も戸惑いの色を隠せない。
周囲には寒気が満ちていく。
「アルフラ……ねぇ、どうしたの?」
ルゥが不安そうな声を出した。
「何かいるのか……アルフラちゃん?」
答えることなくアルフラは駆け出した。
すでに細剣は抜き放たれている。
「あっ、おい!」
慌てて後に続いたシグナムが、ルゥへ叫ぶ。
「何か気配を感じるか!?」
「わかんないっ! でも、すごく遠くから、かすかに臭いがするような……」
「くそっ! たぶん魔族だな」
凄まじい速さで走るアルフラの背は、どんどん遠のいてゆく。
「また一人で勝手に――!」
フレインとジャンヌ、そしてカダフィーも後を追う。
「魔族に関しては、人狼の鼻より敏感なのかい……」
カダフィーがぼそりとつぶやく。
「本当に便利な嬢ちゃんだね」
それには少し、ルゥが不満げな顔をした。
「風向きがわるかったんだよ! そうじゃなきゃ、きっとボクのほうが先に気づいたんだからねっ!」
むきになるルゥを、フッと鼻で笑い、カダフィーは漆黒の導衣をはためかせた。飛翔するかのような速度で、次々とシグナム達を追い抜いていく。
「夜は私の時間さっ。魔族共を取っ捕まえてやるよ!」
平原を駆けるアルフラは、感じた気配のすぐ至近にまで迫っていた。
遮蔽物の少ない街道沿いから離れ、辺りには立ち木が目立つ。
急速に接近しつつある敵意を感じ取った魔族は、戦うことなく逃走を選んでいた。
アルフラは膝元まで届く夏草を踏みしだき、木々の間を縫うように走る。
逃げる魔族は二人。国境周辺という地理を考えれば、おそらく斥候なのだろう。
魔族は強くなければならない。そう教えられたアルフラは、怒りを感じていた。
――あたしを怖がって、逃げ出すなんて……
人間を恐れるなど、魔族の風上にも置けない。
込み上げる怒りと同時に、強い失望の念が湧いてきた。
――よわい、魔族だ
今のアルフラにとって、満足のいく血は得られそうにない。
それどころか、軽食にすらならないかもしれない。
それまで、どう倒すか、といったことを思考していた頭が、どう逃がさないか、という考えに移行する。
あまり手間をかけると、どちらかを取り逃がしてしまうおそれがある。
質に期待出来ないのなら、量だけは確保したい。
戦いにおいては高い学習能力を持つアルフラは、一つの手段を選択する。
水辺近くの雑木林へと逃げ込んだ二人の魔族を、奇襲するのだ。
アルフラは以前、ガルナ近辺の森で、革の鎧を一つ駄目にされている。今度は逆に、その時と同じ事をしてやろうと考えていた。
アルフラは身軽に地を蹴り、頭上に伸びる太い枝へ手をかけた。
左腕だけで上体を支え、飛びついた勢いを殺さず、振り子のように両足を高く持ち上げる。枝を支点にそのままくるりと一回転。
樹木の枝に足から降り立ったアルフラは、跳びはねるように移動を再開する。
見る者が居れば、唖然としてしまう身のこなしだが、アルフラは平然と樹上を翔ける。
枝から枝へと飛び移りながら標的へと近づく。眼下では、二人の魔族があわてふためいていた。
以前は同じようにアルフラも慌てたのだ。迫り来る気配を目視することが出来ずに。
二人の魔族も、盛んに周囲を警戒しているが、緊迫したこの状況では、頭上にまで注意は及ばないようだ。
迎撃のため胸元に火球を出現させ、女魔族が叫ぶ。
「穂純!!」
「わかってる! くそっ、どこだ!!」
穂純と呼ばれた魔族もまた女だった。成人女性としてはかなり小柄で、アルフラよりやや背が高い程度だ。
二人の狼狽する心の動きが、同じ経験をしたことのあるアルフラには、手に取るように理解出来た。
きっと、あの時の自分と似たような行動を取るはずだ。
まずは火球を構えた魔族から黙らせる。
細剣を逆手に持ち替えたアルフラは、足場とした枝を強く蹴り、躍りかかる。
「――ッ!?」
後ろへ跳びすさった女魔族の真上から、降ってきた刃が肩口へ潜り込む。
細剣の切っ先は、左の鎖骨と肩甲骨の間から入り、肋骨の内側にある心臓と肺腑を串刺しにした。
女魔族が、うめく間もなく息絶えたことにより、制御を失った火球が弾ける。
下生えが燃え上がり、炎に包まれながらも、アルフラは自身の冷気に護られ、悠然としていた。
膝をつき事切れた女魔族の右肩に足をかけ、根本まで刀身の埋まった細剣を引き抜く。
肩から噴き出した血を、少しもったいなさげに見ながら、臓物くさい体液のこびりついた刃に、アルフラは舌を這わせる。
――やっぱり、よわい
だが、思っていたほど悪くはない。
やはり斥候の任につく者は、並の魔族よりも強い力を持っているのだろう。
――二人分ならそれなりに……
アルフラの害意あふれる邪な視線が、もう一人の女魔族へと向けられた。
「貴様……人間……?」
穂純は、炎の中で微笑む少女を前に、立ち尽くして――否、立ちすくんでいた。
燃え盛る業火の中にあってなお際立つ、濡れ光る瞳に射竦められてしまったのだ。
それまで確かにあったはずの戦意は萎縮し、激しい悪寒に見舞われる。
しかし、忘我の時もつかの間。自らの生を脅かす絶対的な恐怖に背を向け、穂純は逃走を計った。
――ありえない……
少女から、とてつもない力を感じるのだ。それは、穂純の主である、男爵位の魔族をも凌駕するほどの力だった。
あまりにも破格な少女の魔力に、現実を否定する思考しか浮かんでこない。
――こんな馬鹿な話があるものか!!
戦うなど出来るはずもない。
だが――
一目散に駆け出した穂純の横合いから、凄まじい速度で気配が迫る。
もはや半狂乱となった穂純に、この場を逃れ得るすべは思いつかなかった。
最大出力で展開された魔力障壁は、一閃した銀光にあっさりと貫かれる。
「グ――ッ!!」
胸骨を貫かれ、口から苦悶の声と血が溢れた。
胸を刺し貫かれたまま、穂純の体は振り回される。
胸部を貫通した細剣の切っ先が、樹木の幹に突き刺さった。
立ち木に縫い止められる形となった穂純に、少女が顔を寄せる。
「さきに向こうを片付けてくるから、すこしだけ待ってて」
「う……あぁ……」
あまりの激痛に、まともな返事の出来ない穂純へ、少女は気遣うように語りかける。
「無理にしゃべろうとしないで。ほら、口からいっぱい血が出ちゃってる」
臓物臭ただよう少女の口が近づき、穂純の唇をペろりと舐めあげる。
「あまり暴れないで。傷口が広がったら、たぶんすぐ死んじゃうから」
心臓が止まれば、血流も止まり体温が低下する。外気に触れた血液は急速に凝固してしまう。そのことを知っている少女は、諭すように告げる。
「あんまり深く息を吸わないで、小刻みに呼吸をするの。ひっ、ひっ、ふーって。そうすればもう少しは大丈夫なはずだよ」
穂純は朦朧とする意識の中で、言われるままに呼吸を整えようとした。
しかし、気管に血が絡まり、ひゅるひゅると嫌な音しか出てこない。
「ちゃんとやって。ほら、ひっ、ひっ、ふーっ」
空気の漏れるような音しか出せない穂純を見て、少女は眉をひそめる。
「あたし、なるべく急いですませてくるから。あなたもがんばって」
一度は駆け出した少女が、なにかを思い立ったかのように、きびすを返し戻って来た。
欲望にうるんだ鳶色の瞳が、穂純を覗き込む。そして耳元で囁く。
「逃げちゃだめだからね」
細剣の柄に手がかかり、より深く押し込まれる。
「ギッ!! アアアァァァァァ……ァ……」
「すぐ戻ってくるから。それまで死なないで待ってて」
そう言い残し、少女は冥い夜闇の中へと還っていった。
「グッ……アァ……」
穂純は荒い息をつく。
涙を流しながら、決意を固める。
――そして、
「ア、ア、アアアアアァ――――」
胸に埋められた刃で、自らその身を裂いた。
飢えた目をした悪鬼が、ふたたび戻ってくる前に――己の生を断ち切るために。
穂純は、残されたもっとも確実な手段で、この先に待つ悪夢を拒否したのだ。