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氷の滅慕  作者: SH
五章 絶愛
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狗頭襲撃



 二台の馬車が、レギウス教国南部中立地帯をことこと南下していく。

 先頭を行く馬車の中では不規則な揺れをものともせず、ジャンヌが読み物をしていた。

 小窓からのぞく代わり映えのしない景色に暇を持て余していたシグナムは、その熱心な様子に興味を覚えたようだ。


「なに読んでんだ? 宗教書か?」


「いえ……」


 革の装丁のなされた分厚い書物に目を落としたまま、ジャンヌはぽつりぽつりと答える。


「治癒魔法の……研究書ですわ。カダフィーから借り受けましたの……」


 シグナムは困ったような、とても微妙な顔をする。

 ありがた迷惑、という内心がそこはかとなく表情に出ていた。


「……いや、確かにお前が治癒魔法を使えれば、魔族との戦いも楽になるけどさ……」


 以前にジャンヌの癒しで、死ぬほど具合の悪くなったアルフラが身震いする。


「絶っ対、あたしには使わないでよね!」


「心外ですわ。あれからずいぶんと、わたしは治癒魔法の勉強したのです。恥を忍んでまで、あの忌まわしい吸血鬼などに教えを乞うたのですから……」


 ジャンヌはぐぐっと拳を握りしめ、一人うなずく。


「今度はたぶん……大丈夫なはずですわ」


「……たぶん?」


「……はず?」


 二人の疑わしげな視線が、ジャンヌへと向けられていた。


「き、きっと大丈夫です。わたしはダレス神の助司祭なのですから!」


「助司祭は関係ないだろ……」


「ダレス神てところが怪しいと思う……」


「本当に失礼ですわね!」


 ジャンヌはぱたりと本を閉じ、隣に座るアルフラへ向き直る。


「なんでしたら、今ここで見せて差し上げますわ」


「だからあたしには絶対やらないでって言ったでしょ!」


 ぎっ、とアルフラを一睨みし、ジャンヌはくるりとシグナムを振り返る。


「え……いや、あたしも遠慮しとくよ。戦う前に怪我させられちゃたまんないからな」


「そんな……シグナム様まで……」


 シグナムの肩を枕に安眠しているルゥへ、剣呑(けんのん)な目が向けられる。


「でしたらルゥで試して――」


「やめてやれ……そのまま永眠しちまいそうだ」


 さすがにしょんぼりしてしまったジャンヌの肩を、シグナムはがしがしと叩く。


「とにかく、だ。まずは魔族に使ってみてくれ」


「…………敵を癒してどうなさるおつもりですか」


「前にアルフラちゃんが言ってたろ。お前の治癒で吐きそうなほど気持ち悪くなったって」


 アルフラがその時のことを思い出し、かわいらしく顔をしかめる。


「うまくすれば下っ端魔族くらいならイチコロだ」


 シグナムはにやにやとしていたが、まんざら冗談でもない口ぶりだ。


「ひ、ひどいですわ。ダレス神に対する冒涜です!」


 神官娘は胸元で手を組み、悲しげに祈り始める。


「ああ、寛容なる武神ダレスよ。あなたの加護を疑うこの不心得者たちをどうかお赦し下さい」


「だから、ダレス神は関係ないって」


「うん、ジャンヌのせいだよね」


 そんな和やかな会話がなされていた馬車が、不意に大きく揺れ、ぴたりと停車した。


「おぉっ!?」


 思わぬ急制動にシグナムが前のめりとなる。その肩から、ルゥの頭がずり落ちようとしていた。


「はっ――!?」


 息を呑んだアルフラが、期待の眼差しを狼少女の唇へ向ける。


 だが――


「おいっ! どうした? なにかあったのか?」


 シグナムが御者台へ振り返り、声をかけた。そのことにより上体が振られ、ルゥの頭は横殴りにスイングされた巨大な乳房にはたき落とされてしまった。


「きゃいん……」


 弾力豊かな大腿筋(だいたいきん)の上でバウンドしたルゥが、悲鳴を漏らしてうっすらと目を開く。しかし、すぐにそのまぶたは閉じられ、ふたたび穏やかな寝息が聞こえ始めた。


――あのルゥが……瞬殺!?


 人知れず行われた攻防の勝者を、アルフラは称賛の表情で見つめる。


「さすがです、シグナムさん」


「……は?」


 不可解なアルフラの言動に首を捻りつつ、シグナムは馬車の扉を開く。すると――


「……この喧騒は……」


 かなりの距離ではあるが、遠方から怒号や剣戟の響きが聞こえてきていた。


「ロマリアへ攻め込んだ魔族が国境を越えて、こちらにまでやって来ているのでしょうか?」


 シグナムに続き馬車を降りたジャンヌが、南の方角へ耳をそばだてる。そしてアルフラは嬉しそうだ。


「爵位の魔族かな?」


「どうしますね?」


 ギルドの雇った御者がシグナムへ尋ねる。


「この近辺には馬車を走らせられるような街道は他にありませんよ。引き返して違う道を探すのも時間がかかりますし……」


 引き返すなんてとんでもない! そんな目つきでアルフラは男を睨みつける。


 もう一台の馬車から降りてきたフレインが、南方を見やりながらつぶやく。


「なにか……犬の鳴き声のようなものが混じってませんか?」


「……そういえば」


 じっと耳を傾けていたシグナムが、馬車の荷台から革鎧を取り出して身につけ始める。


「ちょっと様子を見に行ってみるか」


「あ、待ってくだせえ」


 落ち着きなく地を掻き、いななきをあげる馬車馬を御者が指差す。


「あまり近づくと馬が怯えて暴れちまいまさあ。訓練はしてありますが、軍馬とは違うんですから」


「まぁ……そりゃそうだよな。――よし、すこし歩くか」


「でしたらルゥを起こして来ますわ」


「いや、いい。何が起きてるのか遠目から確認して、一度ここまで戻ってくる。全員で行く必要もないだろ」


 馬の首をなだめるように軽く叩いていた御者が不安そうな顔をする。


「気をつけてくだせえよ。中立地帯に入ってから、南から来る難民の数が目に見えて減ってます。この騒ぎが原因かもしれねえ」


「ああ」


 大丈夫だ、と手を振り、装備を整えたシグナム達は徒歩で南へと向かった。





 しばらく歩くと、街道の先に横転した一台の馬車が見えて来た。

 周囲には激しく争った形跡があり、数人の男達が倒れている。


「……全員、死んでるな」


 手早く状況を確認したシグナムがため息をつく。


「この者達はロマリアの騎士でしょうか?」


「みたいだね。鎧にロマリアの紋章が刻まれてる」


 倒れている男達のことごとくは、真夏の炎天下にも関わらず金属鎧を着込んでいた。

 ほとんどの者が、矢傷か投げつけられた手槍が死因となったようだった。


 蒸すような血臭が鼻をつく。


 アルフラは形のよい眉をひそめて辺りを見回していた。

 どうやら人間の血には興味がないらしい。

 フレインはその様子にどこかほっとしたような顔をしていた。


「馬車を引いていた馬は逃げ出したようですわね。ほかに人も見当たら…………あれは――!?」


 ジャンヌが街道の先へと駆け出す。

 馬車から少し離れた場所に、倒れ伏す人影を見つけたのだ。

 すぐに全員が駆け寄る。


「こいつは……」


「コボルト、ですね」


 それは人間ではなかった。

 全身を体毛に覆われた人身狗頭(じんしんくとう)の亜人種である。


「どうやらあの馬車を襲い、護衛の騎士達を殺したのは彼らなのでしょう。実物を見るのは初めてですが、かなり狂暴そうな外見をしていますね……」


 おそらく剣で斬り捨てられたのであろうその屍は、すでにぴくりとも動くことはなかった。

 大型犬に酷似(こくじ)した頭部からは上下の顎が突き出し、そこからのぞく歯列には鋭い犬歯が幾本も並んでいる。

 噛み付かれでもすれば、命に関わる大事(おおごと)になりそうだ。


「人狼になった時のルゥみたい……」


 猟犬によく似た頭部を、アルフラはまじまじと見つめる。


「ですけど……ルゥと違ってあまりフサフサしていませんわね」


「たぶん、魔族の領域南部に生息するコボルト族なのでしょう。南方のコボルトは短毛種が多いと聞いたことがあります」


「ふ~ん……物知りね」


 少し感心したかのようにアルフラが相槌を打つ。


「ええ、知識の探究こそ私たちの喜びですからね」


 緋色の魔導衣をひるがえし、フレインはすこし照れたように笑った。

 それには、あまり調子に乗るなよ、といったきつい視線が返される。


「す、すみません……」


 フレインはやや理不尽な思いをしながらも、反射的に謝ってしまう。そして、かなり近くから聞こえてくる戦いの気配へと顔を向ける。


「ええと……どうしましょうか? この馬車はなかなか造りもよいですし、騎士を護衛に連れているとなると――それなりの貴人が乗って居たのではないでしょうか」


「それなりの貴人、ね……」


「ええ、まだ戦いの音が聞こえるので生き残りがいるようですが……?」


 無言で顔を見合わせた四人であったが、それほど考える時間もかけず首を振る。


「ま、あたし達には関係ないね」


「そうですわね。ロマリア人はみな、竜神を(あが)める異教徒ですし」


「コボルトなんてほっといて、早く魔族を倒しにゆこうよ」


「ええ……私たちの仕事ではありませんね」


 たとえすぐ近くで、理不尽に命を奪われようとしている者がいたとしても。

 たとえその命を救える力を持っていたとしても。

 善意と呼ばれるもののために、自分と仲間の命を危険に晒そうなどという者は、ただの一人もこの場にいなかった。


 おそらくルゥが居合わせたとしても、お腹へった、の一言で済ませただろう。



「とりあえず、どのくらいの数がいるのか確認だけしとこう。いきなり襲撃されて、この馬車みたいになっちまったらたまんないからね」





 街道を外れた四人は、横転した馬車からやや離れた場所に位置する崖の上で身を伏せていた。

 崖といっても人の背丈の倍ほどしかない、やや角度のある斜面といった感じである。


 シグナム達は息を潜め、崖下の戦いをうかがう。


「……結構な数がいるな。百五十……いや、二百くらいかな」


 シグナムの視線の先には、一個中隊ほどのコボルト達に囲まれた、十名ほどの騎士と一人の年若い娘。

 どうやらその娘を生け捕りにしたいらしく、コボルト達は弓などといった飛び道具を使っていない。

 円陣を組んだ騎士達は、じりじりと間合いを詰めようとするコボルトを必死に牽制していた。

 剣を大きく振り回し、なんとか敵を近けまいとしている。だが、その動きにはすでに疲れが見え始めていた。


「だいぶ頑張ってるようだけど……こりゃあもう駄目だね。数が違い過ぎる」


 状況から見て、崖下へ追い詰められた騎士達が全滅するのも時間の問題であろう。


「あたし達はさっさと通り過ぎちまおう。襲われてるあいつらが、なるべく粘ってコボルトどもの注意を引いてくれるのを願いつつね」


「……そうですね」


 フレインは甲高い悲鳴を上げる娘に、ややすまなげな視線をやりつつも同意する。

 アルフラとジャンヌにも異存はないようだ。とくになんの感情も見せずにうなずく。


「では、早く馬車へ戻りましょう」


 すっと立ち上がったジャンヌへ、シグナムの鋭い怒声が飛ぶ。


「ばか! 急に立ち上がるな!!」


 崖下に群がるコボルト達の動きが一瞬止まった。


「あっ……しまった」


 彼らの注意を引いたのは、不用意に立ち上がったジャンヌというより、シグナムのよく通る声だった。

 騎士達に守られていた娘もこちらに気づいたようだ。

 きんきんとした高音質の叫びが響く。


「そこの者! よいところへ来ました! 私の護衛たちに加勢なさい」


 居丈高な物言いに、シグナムは軽く眉根を寄せた。それを見た娘は、癇癪を起こしたかのような剣幕さでさらに命じる。


「なにをしているのです! 私はエルテフォンヌ伯爵家の娘なのよ! 早く助けなさい」


 その声音には、命の危険にさらされた者の切実さがあった。

 見るも恐ろしい狗頭の亜人に囲まれ、絶対絶命という状況である。それも当然のことだろう。

 だが――


「人にものを頼む態度じゃないね……」


 ぼそりとシグナムはつぶやく。


「何様のつもりだよ」


「貴族様、でしょうね。エルテフォンヌ伯爵といえば、ロマリア北方に広大な領地を持つ有力貴族です。あの方はお姫様なのですよ」


「お姫様? ……金になりそうだな」


 シグナムは現金な損得勘定をし始めた。

 万全の状態であれば、自分一人でも百人ほどなら何とか出来るのではないか、という自負がある。しかし、その倍ともなると、


――さすがにきついか……


「お前たち! 早くしなさい!!」


 一向に助けようとする意志を見せないシグナム達に、エルテフォンヌ伯爵令嬢は焦れてきたようだ。その表情には焦りや恐怖といった感情よりも、怒りが強く浮き出ている。


 シグナムの目がちらりとアルフラへ向けられた。


「まぁ、アルフラちゃんも居るし、ちょっと頑張れば追い払うくらいは出来るかな」


「まさかこの私を見捨てようなどと考えているのではないでしょうね! そうであれば、いずれお前達をきびしく処罰しますよ!!」


 問いかけるようなシグナムの瞳へ、アルフラはとても嫌そうな顔をする。


「あたし、あんな人助けたくない」


「……だよな。同感だ」


 シグナムは、エルテフォンヌ伯爵令嬢へひらひらと手を振る。


「悪いね。あたし達はロマリア人じゃないからさ。あんたがどれほど偉かろうと、何の罪にも問えないよ」


「ま、待ちなさい! お前達はレギウスの人間なのですね!? ならば正式に苦情を申し立て、外交問題にしますよ!!」


 それまでいくぶん同情的であったフレインも、これには表情を曇らせる。


「なかなか面倒な方ですね……」


「心配するな。死人に口無し、ってね」


 シグナムはくるりと背を向ける。


「シグナム様……」


「ん? なんだ?」


 ジャンヌが崖の右手を指差していた。


「あちらの方……すこし段差が低くなっているところから――」


 数人のコボルト達が崖をよじ登って来ていた。


「あっ、くそ! 時間を食い過ぎたな」


 シグナムは腰に吊した長剣を抜く。


「馬車まで連れ帰るわけにもいかない。上がって来た奴らをかたづけてから戻ろう」


 アルフラもすでに細剣を抜いていた。

 ジャンヌはダレス教団の至宝を使うまでもないと、両の拳を固める。



 そして戦端を開いたのは、万一に備えて呪文の準備していたフレインだった。





「光矢!」


 放たれた白光が、正確にコボルト達を射抜く。

 胸を押さえうずくまった三人の敵を見て、アルフラとシグナムが驚愕の視線をフレインへと向けていた。


「びっくりした……」


「お前……魔族以外が相手だと、結構役に立つんだな……」


「え、ええ、まぁ……一応、魔導士ですから……」


 フレインはすこし傷ついた顔をする。だが、総じて強い魔力障壁を持っている魔族に対しては、ほぼ無力であることはどうしようもない事実だ。


「三本の光矢に魔力を分散していますので、たぶん気絶しているだけでしょう。戦闘能力は奪えますが、即死させるほどの威力はないはずです」


 残りのコボルトは二人。

 いきなり行使された魔法に気勢を削がれ、その足は止まってしまっていた。

 棒立ちでうろたえる様子を見て、シグナムの口許が吊り上がる。その左手には一本の短刀が握られていた。


「ハッ――!!」


 鋭く息が吐き出された。

 投擲された短刀が、コボルトの喉首に突き立つ。

 短く呻いて膝を落とした仲間を置き去りにして、一人残ったコボルトは逃げだそうとしていた。


「わたしに任せて下さい」


 ダレス神の聖句を唱えていたジャンヌの拳に、癒しの光が宿っていた。

 シグナムに言われたことを律儀に実行しようと考えたようだ。


「いや、逃げるなら追わなくていい」


 シグナムは倒れたコボルトに歩み寄り、短刀を回収する。


「それよりこいつにトドメを刺してやれ。まだ息がある」


「え……治癒ではなくトドメ、ですか?」


「……やめてあげて下さい。死にかけている者を、そういった実験に使うのはよくない」


 フレインは以前、ジャンヌに治癒魔法をかけてもらい、違った意味で抱腹絶倒した経験がある。


「そのまま死なせてあげるのが慈悲というものでしょう」


 手持ち無沙汰(ぶさた)となり、細剣を鞘へ納めようとしていたアルフラが警告の声を上げる。


「見て、あっちからいっぱい登ってきてる」


 崖下での戦いはほぼ終わっていた。騎士達のあらかたが、地に転がり屍と化している。

 コボルト達は新たな獲物を求め、手近な崖に取り付き、よじ登ろうとしていた。


「ちっ、騎士のくせに使えない奴らだな! あっさり全滅しやがって」


「逃げるタイミングを見誤りましたね」



 冷静に告げたフレインが、呪文の詠唱を開始した。

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