伏竜決起
早朝のまだ外気も心地好い頃合い、竜の勇者アベル・ネスティは、手早く武具を身につけていた。
湖に面した船着き小屋で一夜を過ごしたのだが、中では現在幼なじみの少女が着替えをしている。そのため、仲間たち男三人は昇る朝日に照らされながらの身仕度である。
アベルの隣には重厚な甲冑で身をかためた戦士ダルカン。そして、深紫の導衣をまとった初老の魔導師、メイガス・マグナもまた装備の点検に余念がない。
やがて、小屋の扉が開かれ、白い巫女衣装の上から軽金属製の鎖帷子を身につけた少女が姿を現す。
「準備できたわ」
掲げられた右手には、先端に小ぶりな鉄球のついた戦槌。左手には白銀に輝く竜鱗の手甲を装備している。
「よし、じぁあ行こうかフィオナ。皆が待ってる」
フィオナと呼ばれた少女は、金髪碧眼の美しい娘だった。
ロマリアの第二王女でもある彼女は、代々竜神を奉る巫女の家系であった。
魔族の襲来に混乱する国内を平定するため、現在では戦巫女としてアベルと共に行動している。
やや気の強そうな通った鼻筋と柔らかな色合いの瞳が、万人をして「竜玉にも勝るロマリアの宝石」と讃えられる美しさと気品を醸しだしている。
歳の頃は十代後半。アベルと同い年である。しかし、その仕種や立ち居振る舞いの洗礼された様子は、すでに完成された女性の艶やかさを身につけ始めていた。
「待って、アベル」
率先して歩きだそうとしたアベルを、凛とした声音が呼び止めた。
「昨夜、竜神様のお告げがあったの」
巫女であるフィオナは、夢という形でロマリアの守護神、古竜の英霊と対話することが出来る。
「グラシェールにレギウス神族の一柱が降り立ったそうよ」
「グラシェールに……? 戦神バイラウェが降臨するってあの噂は、本当だったんだ?」
目をみはるアベルへ、フィオナは軽く頷く。
「ええ、つい昨日のことらしいわ。竜神様は、グラシェールへ向かって戦神の助力を乞うようにと仰せだったわ。魔族に対抗するための力になってくれるだろう、と」
「でも、ロマリア王室はその……レギウスの神官達とは宗教上の問題で仲が悪いって話だよね?」
「それはレギウス神教の中でも、ごく一部の宗派の人達とだけよ。別に神族と対立しているわけじゃないわ」
「そうなんだ……」
それは竜神信仰の祭祀であるロマリア王家と、レギウス神教の信者達との間にある、古くからの確執であった。ロマリアとレギウスの国政にも絡む、込み入った問題である。
そういった話がよく解らないアベルは、曖昧に首をかしげる。
「難しく考える必要はなかろう。儂に異論は無いぞ」
「俺もだ。竜神様だけじゃなく神族まで味方に付いてくれるってんなら、怖いモン無しだろ」
口々に肯定の意を表したメイガスとダルカンの言葉に、アベルも笑顔を浮かべる。
「うん! じゃあ王都へ迫る魔族を退治したら、みんなでグラシェールへ向かおう」
「そうじゃな。まずは目先の魔族が先だ」
「ああ、今日でカタを付けちまおうぜ。そのためにこれまでちまちまと奇襲を続けてきたんだからな。そしてフローラの仇を、あの爵位の魔族を討とう」
「そうだね……僕の力が至らなかったせいで死なせてしまったフローラのためにも……」
今日という日は、志半ば、爵位の魔族に殺された仲間の無念を晴らす日なのだ。
アベルたち四人は、湖畔に開けたちょっとした広場へと向かった。
すでにそこには三百名ほどの革の防具を身につけた戦士たちが集結し、アベルの訪れを今や遅しと待ちわびていた。彼らはロマリア南東部に広がる大湿原に住む、ゲルカ族の戦士である。
ゲルカの者たちは、軽装ではあるが極めて勇猛で非常に優れた戦士だ。近隣の地方領主と常に小競り合いを行っているため、戦慣れもしている。
「おお、竜の勇者殿」
ゲルカの族長が、竜神の御霊をその身に宿す少年の前へ進み出る。
勇者殿、と呼びかけられたアベルは少し面映ゆそうにはにかんだ。
「その呼び方はやめて下さいと何度も言っているじゃないですか……」
「いえ、勇者殿。民のため、弱き者のため身を粉にして働き、強大な力を持つ爵位の魔族に怯まず立ち向かうあなたは、まさに勇者と呼ばれるに相応しい。その奮戦する姿こそが、我等ゲルカの戦士達に希望をもたらしてくれるのだから」
「はぁ……」
曖昧に頷くアベルへ、巨大な竜鱗の盾を担いだダルカンがおどけた調子で声をかける。
「勇者殿、集まった者達へ何かお言葉を一つ」
「もう、ダルカンまでからかわないでよ」
剣術においては兄弟子にあたるダルカンの冷やかしに、アベルの頬が赤らむ。
「いや、ここは一言あって然るべきであろう。皆、そなたを信じ、戦ってくれている者達なのだから」
魔導師メイガスが、手の平で虹色に輝く竜珠を転がしながら言った。それにフィオナも追従する。
「そうね。なにかカッコイイのを頼むわ、アベル」
困ったような顔で何かを言いかけたアベルを、幼なじみの少女はゲルカの戦士達の前へと引き立てる。
息を潜めた幾対もの瞳に、期待の色を見たアベルは、ため息混じりに覚悟を決めた。
腰から剣を抜き放ち、高々と頭上へ掲げる。皇竜の角から鍛え上げられた宝剣を。
そして、何人が生きて帰れるかも分からない戦場へ、共に赴く勇士達に向かい、口を開き声を張った。
ロマリア王国の中東部。この地方では、初夏に長雨がつづく。街道の南側は雨季によってもたらされた天の恵により、湿地帯が広がっていた。
現在は雨季も終わり、雲ひとつない青空が広がっている。太陽が最も高く昇るこの季節は、雨も少なくとにかく暑い。そして湿度の高さがその暑さを助長し、一年で最も肌に不快な季節でもあった。
一路、王都へと通じる街道を二千の軍勢が行進していた。
いずれもが鎧兜などは一切身につけず、刀剣の類いを所持している者も一人といない。
一見、とても軍とは呼べないような集団ではあるが、それは確かに軍勢であった。
いずれもが鎧兜などよりよほど強固な障壁を有し、刀剣とは比べようもない恐るべき魔法を扱う、魔族の軍勢だ。
細い街道に長々と連なる行列の中程に、輿に担がれた指揮官の姿があった。まだ少年とも呼べる年頃のその魔族は、魔王口無によりロマリア攻略を命ぜられた爵位の魔族、切令子爵である。
「くっ、なんでこの国はこんなに蒸し暑いんだ! おい、もっと強くあおげよ」
四人の従者が担ぐ輿の上から、苛立たしげなボーイソプラノが命じる。
一抱えもある扇をもった魔族が、慌てて両側から風を送る。しかし、湿った生温い風は照り付ける陽光に熱せられ、いっかな涼を運びはしない。
汗でうなじに張り付く後れ毛を、切令はうるさそうにかき上げた。
長く伸ばした黒髪は、社交場の淑女のように結い上げられている。
「暑くてかなわん! 伝令を出せ。休憩だ」
「おそれながら切令様。視界の利かぬこの場での休憩はあまりよろしくはないかと存じます。さきほどもたらされた伝令の報によりますれば、間もなく人間共の街が見えてくるはずですので――」
「やかましい! 私は休憩と言ったのだ! 早く行軍を止めろ!!」
キンキンとした叫びが響き渡り、魔族の軍勢は程なく歩みを止める。
街道の南側には丈の高い水芭蕉が群生し、非常に周囲の見通しが悪い。そのような状況での休憩に、兵卒達の顔にも微かな不安が見てとれた。ここ十日ほどの間に幾度となく繰り返された人間達の奇襲が、彼らの神経を過敏にさせていた。
奇襲をかけて来るのは正規の軍隊ではない。ごく少数の地方部族だった。しかし、少ない兵を更に小分けにした部隊が、昼夜を問わず襲って来るのだ。地の利を知り尽くした土着の者達が相手なのである。
当初は厄介な敵には違いないが所詮は人間、という侮りもあった。だが、すぐにそうも言っていられなくなった。
人間達の中に、並の魔族では太刀打ち出来ない程の力を持つ少年が混じっていたのだ。
機動力に富んだ兵が撹乱し、竜の勇者と呼ばれる少年が確実に魔族の雑兵達を削り取って行く。
相手の被害も甚大だが、魔族側にも莫迦には出来ない死傷者がでていた。
そして、なによりも問題なのが、指揮官である切令の気性である。
魔族としては若年であり経験も浅い切令は、人間達の戦術に対して有効な対応が取れないでいた。
我が強く、側近の助言を聴き入れることもしない。また、兵など幾ら失おうが自分一人でも人間の都を落とせるという自負心があり、戦死した者の数にも頓着しない。
おおよそ考えうる限り、指揮官としては下の下に位置付けられる愚物と言えるだろう。
だが、その力は本物である。
切令の家系は、遡れば十数代までその出自が辿れる名家中の名家と言える血筋だった。
完全な実力主義である魔族社会では、世襲する家柄にあまり意味はない。しかし、力が全てを決める制度の中で、爵位を保ち続けることを可能とする血統には意味がある。――すなわち、生まれながらの強者なのだ。
切令は思う。その自分が人間の領域まで赴き、とるに足らない者達を相手に力を振るうなど、役不足にも程がある、と。
本来であれば、グラシェールに降臨する神族に対する尖兵こそが、己の力に相応しい仕事なはずだ。それなのにこんな僻地の戦場を与えられた挙げ句、ちょこまかと姑息な戦い方をする人間風情の相手をさせられている。
切令にはそういった忿懣やる方ない思いがあった。
「なにをしている! 早く喉を潤すものを持って来い!!」
荒い声を発した切令の前に、駆け寄った副官の一人がひざまずく。
「後方よりの伝令です。周囲の水芭蕉の葉が妙な揺れ方をしているとのことです。おそらく、またも人間共の奇襲ではないかと」
「チッ! 忌ま忌ましい奴らめっ!!」
怒りの形相に顔を歪めた切令が、輿の上から立ち降りる。
「今日こそは逃がさん。あの小煩い虫けら共を皆殺しにしてやる」
「切令様。こちらも兵を分け、相手方の退路を塞ぎつつ、奴らを包囲殲滅してはいかがでしょうか」
「好きにしろ。指揮はお前に任せる。私は人間共が勇者などと呼んでいる、あの小僧を刻んでくる」
指揮官としての責務をあっさりと放棄し、切令は戦いの喧騒が聞こえ始めた軍後列へと駆け出した。
「逃げるな! 戦って死ね!!」
背後に迫る爵位の魔族が怒号を上げる。
追われる竜の勇者は、密集する水芭蕉の葉を掻き分けひたすら走る。
アベルは茎に結わえられた葦縄を目印に、仲間達が伏せている所定の場所へと切令を誘導していた。
足場がぬかるんでいるため、決して楽な仕事ではない。だが、アベルが身につけている竜鱗の鎧には、身体能力を増幅、活性化させる呪いがかけられている。地を蹴る足は加護の力もあいまって飛ぶように湿地を駆け抜けて行く。
アベルは走りながら肩越しに振り返る。追走する切令にとっても、群生する水芭蕉が追跡を困難なものとしているようだ。しかし、アベルの後方から放たれる魔力の刃が、進行上の障害物を次々と刈り取っていく。
やがて、アベルはたどり着く。
茂みの中からメイガスの詠唱が微かに聞こえてきていた。
異変を感じとった切令が足を止めた。
しきりに周囲をうかがう。――だが、遅い。すでにメイガスの呪文の詠唱は終えられていた。
身を引こうとした爵位の魔族を、放たれた大火が飲み込む。
熱気にあてられた水芭蕉が火を噴き一瞬で燃え尽きる。
「オ、オオォォ――――!」
絶叫が響く。
しかしそれは、苦悶の声ではなく単純な驚愕の叫びだった。
炎に包まれた人影に、間髪おかずアベルが斬りかかる。
「待て! アベル!!」
メイガスの警告に、刃を振り下ろしざま身を捻る。
眼前で人型の炎が弾けた。
凄まじい風圧と共にアベルの体は跳ね飛ばされ、剣が空を切る。
メイガスの炎を、燃焼させる大気――酸素ごと周囲から薙ぎ払った切令は、険しい眼差しでアベルを睨みつけていた。
「小賢しい人間共がぁ!」
飛び散った炎が雨のように降り注ぐ。
人の背丈ほどもある水芭蕉が燃え上がり、辺りはむせ返るような熱気に包まれていた。
「お前らごときが何をどう足掻こうと、私には傷ひとつ付けることすら出来ないんだよ!!」
剣を構えて間合いを取ったアベルへ、大気の断層が走る。
頭頂から縦に両断しようとする不可視の殺意を、アベルは勘を頼りに身を投げ出してかわす。
完全に避けきったと感じたのもつかの間、左の上腕から血がしぶく。
真空の刃により生み出された負圧が原因だった。
急激な気圧の高低差が、触れること無く上腕の肉をえぐり取っていったのだ。
「アベル!!」
フィオナが絹を裂くような声でその名を叫び、幼なじみの少年に駆け寄った。
すかさず竜鱗の盾を構えたダルカンが、二人の前に立つ。
「早くアベルを回復してやってくれ」
「わかってる、今やってるわ」
フィオナは竜神を讃える聖句を口ずさむ。白銀の篭手が癒しの光を帯びていた。
「快癒〈キュア・クリティカル・ウーンズ〉!!」
アベルの傷口に触れたフィオナの手から、暖かな光が流れ込む。
引き裂かれた筋繊維と表皮が、目に見える速さで再生されていく。
同時に、アベルは強い脱力感に見舞われていた。
失われた体細胞を補うために、全身の体力がごっそりと傷口へ向かい消費されているのだ。
軽い目眩を覚えたが、すぐに失われた生命力は竜鱗の鎧により補填される。身体活性の呪いが効果を現していた。
「ハッ! 竜の勇者などともてはやされても、所詮はこの程度か。徒党を組まなけれは何も出来ないゴミ共がっ!」
投げかけられる嘲りに怒りをにじませながらも、アベル達は動けない。
メイガスの呪文により機先を制し、アベルが一気に勝負をかけるという段取りが、あっさりと絶たれてしまっていたのだ。
ここからは向かいあっての真っ向勝負となる。
人間の力では傷付けることすら不可能とされる、爵位の魔族を相手にだ。
長い歴史を紐解けば、神族の助力を得て、爵位の魔族を打ち滅ぼした英雄も存在する。
だがそれも、数千年の間にわずか数人だ。
アベル達一行の誰もが、自分こそはその英雄たりえると慢心する者はさすがに居ない。この、生態系において人間よりも遥か上位に君臨する、魔族の領主を前にしては。
緊張の中、アベルは汗にぬめった剣の柄を握り直す。
受けに回って凌ぎ切れる相手ではない。それでも、迂闊に踏み出せば先程の二の舞だ。目に見えず走る魔刃を、次も避けられる確証はない。
「ハハッ、勇者が聞いて呆れる。私に怯えているのだろう? 顔色が悪いぞ」
切令の周囲から大気の軋む音が鳴り響く。
気流の歪みが起こす耳障りな擦過音が、強大な力を見せつけるかのようにアベル達を威圧する。
萎えかける勇気を、なんとかアベルは振り絞る。額の汗を拭い、軽く払った手にフィオナの柔らかな掌が重ねられた。
「フィオナ……?」
「大丈夫。私がついているわ。アベルは絶対に負けない。信じて」
しかしまた、その手も緊張と恐怖からしっとりと汗ばんでいた。小刻みに震えてすらいる。
そう、フィオナとて怖くないはずはないのだ。
信じて、と言う幼なじみが、自分を信じて共に戦ってくれていることをアベルは知っている。
信頼だけで相対すには、いささか強大過ぎる敵を倒すために。
時に思う。もし勇者と呼ばれるに相応しい者がいるとすれば、それは自分ではなくこの仲間達なのだろうと。
「信じる……いや、いつだって信じているよ。フィオナは僕が守る」
みずからの恐怖心に打ち勝とうと葛藤する竜の勇者。その様子を愉しんでいた切令は、アベルの瞳から迷いが消えたのを見て不快さをあらわにする。
「気に入らないな。もっと怯えろ! 畏怖しろ! 私にとってはお前達を殺すなど、造作もないことなんだぞ!」
充実した戦意を漂わせ始めたアベルへ、憎々しげな視線が向けられる。
「お前がすべきは、ひざまずいて命乞いをすることだ。みじめに泣き叫んで見せろ! 私の興が乗れば、見逃してやらなくもないんだぞ。お前の仲間だった、あの女のようにな」
「……それは、フローラのことを言ってるのか?」
声は硬く、震えを帯び、酷く強張っていた。
一週間ほど前に行った襲撃で、命を落とした仲間の一人。アベルが身につけている竜鱗の鎧は、もともとフローラが所持していたものだった。
遺品なのだ。生死を共にした、かけがえの無い仲間だった少女の。
「あのダルマ娘はなかなか面白かったよ」
切令の表情が、醜悪な愉悦に歪む。
「ハハッ、両の手足を斬り落としてやったら、いい声で泣き叫んでいたな。助けて、殺さないで、とな」
「貴……様ァ――!!」
「自分の作った血溜まりの中で、芋虫のように這いずり回っていたっけ――ククッ、その姿があまりに滑稽だったから、トドメを刺さずに動かなくなるまで見物してやったよ」
くつくつと、切令は厭らしく笑う。
「お前も私を愉しませろ。あの娘のように、汚らしく涙と鼻水を垂れ流して――」
「黙れ!!!!」
怒りに任せて駆け出したアベルを見て、ダルカンも盾を構えたまま後を追う。
「アベル! 感情を乱されるな! 奴を喜ばせるだけだぞ」
距離を詰めきる前に、ふたたび切令から真空の刃が放たれる。
「ハハッ、こんな安い挑発に乗るなんて。お前達は本当に愉快な生き物だ」
広範囲に渡る大気の歪みが一閃。周囲の水芭蕉ごとアベル達を刈り取ろうと襲い掛かる。
「クッ――!!」
前に出たダルカンがアベルを庇う。最後の大盾と呼ばれる、竜神の宝具でもって。
凄まじい衝撃に打ち据えられながらも、二人はなんとか生きながらえていた。しかし、ダルカンの右腕はぶらりと垂れ下がり、傍目にも肩が外れていると分かる。
「ダルカン!」
「大丈夫だ。腕は二本ある。――それより、姫さんは……」
後ろでうずくまるフィオナの巫女装束、その腹部にじわりと血がにじんでいた。身につけていた鎖帷子は何の役にも立たず、あっさりと斬り裂かれている。
「わ、私はへいき。自分で治せるわ……」
「どうするね? もう少しなぶってやろうか? それともひと思いに――」
上機嫌でほくそ笑む切令の言葉を、老いた低い声がさえぎる。
「いいや。死ぬのはお前だ」
燃え上がる炎の中から、魔導師メイガスが姿を現す。
「ん? ああ、もう一人居たんだっけね…………なんだ、それは?」
メイガスの手にする竜珠を目にし、切令が眉をひそめる。
それは赤々と輝いていた。
湿原を彩る炎すら、かすんでしまうほどの業火を内包して。赫熱の煌めきが凄まじい熱気を伝えてくる。
「お前がお喋りに興じておる間に、完成させたのだよ。六十四節からなる、長大な呪文の詠唱をな」
切令の目がすっと細められる。それでも、嘲りを浮かべた口許だけは変わらない。
「人の魔術ごときと、侮るか? だがな、我ら魔術を志す者達は、太古の昔より研鑽を重ねて来た。お前達魔族が、持って生まれた力の上にあぐらをかいておる内にな。――我々はいつの日にか森羅万象の理にたどり着く。世代を重ね、果てなき探究の果てに」
「果てなき探究の果て? 戯言を!!」
「そう、未だその途上ではあるが――この魔術はその副産物だ。お前を滅ぼすには充分な、我が研鑽の成果だ」
輝く竜珠が一際強い光を放つ。
「灼き尽くせ! 永劫火!!」
竜珠から光が失われ、それは切令に移った。
爆発的に燃え上がる業火から、爵位の魔族は強力な障壁で身を守る。
「馬鹿めっ! この程度の炎など――」
切令を中心に、大気の断層が無数に駆け巡る。空気が弾け、烈風が吹き荒ぶ。
「ウォッ!!」
煽りを食らったダルカンは片腕で大盾を支える。それでも、アベルとフィオナの前からは一歩も引かず、二人を護りきっていた。
「な、なんだ!? この炎は!!」
焦りを帯びた叫び。
ほぼ真空と化した空間にあって、なおも猛る炎が魔力障壁にまとわりつく。
「それは魔力を糧として燃え盛る永劫の炎だ。障壁を形成する魔力を灼き尽くすまでは消えん。そしてお前は死ぬ!!」
数多の碩学達が、たゆまぬ探究の末に生み出した魔術の奥義。その一端が、人では及ばぬ力を持った爵位の魔族を、今まさに打ち倒そうとしていた。
「クッ!!!!」
切令は一旦、障壁を完全に消却する。炎は弱々しく揺らめき、その勢いを衰えさせたが、吹き荒れる魔刃もなりを潜めていた。
「アベル、今だ!!」
応えたアベルが大盾の庇護から飛び出す。
皇竜の宝剣には力が満ち溢れていた。アベルに宿る、竜の英霊の魂魄が。
翔ける姿はさながら、お伽話の英雄のように――
竜の勇者は爵位の魔族に宝剣を突き立てる。
アベルの肩に、切令の吐き出した血潮が垂れかかった。
腹部を貫通した宝剣がゆっくりと引き抜かれる。
崩れ落ちた切令を、アベル達は注意深く見下ろす。
「こいつ……この深手で自己回復しようとしてやがる。……すげえ生命力だな」
ダルカンの言葉通り、切令は大量に吐血しながらも腹に手を当て、傷口に魔力を注ぎ込んでいた。
「た、頼む……」
アベルを見上げた切令の表情に、先程までの傲慢さはない。まだ少年とも言えるほっそりとした面立ちは、苦痛に歪んでいた。そして弱々しく懇願する。
「見逃して……くれ。殺さないで……」
「この外道が!! てめぇはフローラに何をしたよ! 殺さないでくれだあ!? ふざけるんじゃねえぞ!!」
怒声を上げたダルカンに、メイガスも頷いて同意を示す。
「アベル。とどめを」
「ま、待ってくれ!」
涙と鼻水で顔を汚し、切令はアベルの足に縋り付いた。
「命を助けてくれるなら、ロマリアに居る兵を全て撤退させる! もう二度とこの国には近づかない。口無さまにもそう進言する! だから――」
アベルの顔に逡巡の色が浮かぶ。
自分とあまり歳も変わらぬ容姿の切令に、その弱々しげな様に、いくらかの哀れみを感じてしまっていた。
「その見た目に惑わされるな。そやつは魔族だ。おそらく百七、八十年は生きておるはずだ。その上このロマリアで、無辜の民を大勢殺しもしている」
「うん……わかってる。わかってはいる、けど……」
「おい、アベル! こいつはフローラを殺した奴だぞ。しかも笑いやがった!! 笑いながらその事を話しやがったんだ! お前に出来ないってんなら俺がやる」
「アベル……」
くっ、とフィオナの手がアベルの腕を掴む。
一歩踏みだし、剣を逆手に持ち替えたダルカンに、アベルは静かな声音で告げる。
「待って。僕が……僕がやる」
「や、やめろっ、仕方なかったんだ! 私は口無さまから命令されて仕方なくやったんだ」
「うん、わかるよ。僕だって仕方なく戦ってるから。君達魔族が戦いを仕掛けて来たから、仕方なく……」
「だったら――」
「僕も君を殺したいわけじゃない。本当は誰も殺したり……したくないよ」
かつて楽士になることを夢見た心優しい少年は、悲しげにうつむく。
「でも君は、フローラを殺したよね? 彼女は大切な仲間だったんだ」
「た、助けて、くれ。殺さないで……」
「君を生かしておくことは、出来ないんだ……ごめんね」
剣を振り上げた姿に、個人へ向けられた怒りや憎しみといったものは、感じられなかった。
「僕は戦争なんか、大嫌いだ」
哀切のつぶやきと共に、剣は振り下ろさる。
短い断末魔の呻き声が、湿原に低く響いた。