宇都宮春菜は、運がいい! 孤児でも彼氏ができたし、その彼氏に振られた後、妊娠が発覚して、一人で子供を産んでも、運がいいから大丈夫でした涙!
わたし、宇都宮春菜、二十二歳。
大学四年生で、春からは卒業を控えている。
両親はいない。物心ついたころから施設で育ったから、「実家に帰る」という感覚も、「血のつながった家族」という言葉も、どこか遠い世界のものだった。
それでも、これまで大きな不幸があったかと聞かれたら、わたしは首を振ると思う。
「わたし、運がいいから」
それが、昔からの口癖だった。
アルバイト先は、大学近くの小さなカフェ。
そこで彼、宝積寺大地と出会った。二十九歳の社会人で、なかなかのイケメンである。
こんなイケメンと付き合えて、本当に、わたしは運がいい。
常連客だった彼とわたしの様子を見て、すぐに両想いだとわかった店長の岡本カヨエさん42歳が、二人のキューピット役になってくれた。
大地は落ち着いた声で、ブラックコーヒーを飲む人だった。
付き合い始めたのは、自然な流れだったと思う。
年上で、社会のことを知っていて、わたしの話をきちんと聞いてくれる。孤児だと打ち明けたときも、変に同情したりしなかった。
「春菜は可愛いから、それだけで十分だ」
そう言ってくれたのが、嬉しかった。
だから、別れは本当に突然でびっくりした。
「転職することになった。海外だ」
そう告げられたのは、カフェの閉店後、店の前だった。
彼は悪びれた様子もなく、でも少しだけ困った顔をしていた。
「ついてきて、とは言えない。向こうでの生活は不安定だし……」
分かっている。
わたしはまだ学生で、未来が定まっていない。
彼の人生に、わたしを組み込む余裕がないことも。
泣かなかった。
引き止めもしなかった。
「そっか」
それだけ言って、笑ったと思う。
別れたあと、ひとりの部屋で思った。
ああ、これも運命のうちだ、と。
人を好きになれて、ちゃんと終わりを迎えられた。きっと、それだけでも幸運だ。
わたしは運が良いのだからと、一人で涙を流した。
それから一か月後。
体調の異変に気づいた。
結果を見た瞬間、頭が真っ白になった。
妊娠。
最初に浮かんだ感情は、恐怖だった。
お金のこと、就職のこと、彼のこと。誰にも頼れない現実。
でも、そのあとに、別の感情が胸に広がった。
――血のつながった存在が、わたしの中にいる。
それは、思っていた以上に、温かかった。
悩んだ。何度も。
彼に連絡したが、連絡が不通だった。海外に行ってしまったのだろう。
これは運が良いと思って、それ以上、彼には連絡しないことにした。
産むことが、正しいのか。
産まない選択も、間違いではない。
頭では分かっていた。
それでも、夜になるとお腹に手を当ててしまう。
まだ小さくて、何も感じないのに、そこに「家族」がいる気がした。
わたしは、これまでずっと一人だった。
でも、今は、この子がいる。
だから、わたしは、もう一人ではないのだ。
「わたし、運がいいから……大丈夫、きっと上手く行く」
そう呟いてみると、不思議と涙が出た。
大学は、予定通り卒業した。
周囲には詳しく話さなかったけれど、誰もわたしを責めなかった。これも、運が良かったのだと思う。
四月。桜が散り始めた頃。
わたしは出産を決めた。
怖くないと言えば、嘘になる。
でも、不思議と「大丈夫だ」という気持ちも、同時にあった。
アルバイト先のカフェの店長、岡本カヨエさんは、お母さんみたいな存在だ。
出産することを打ち明けたとき、わたしは怒られる覚悟をしていた。
「……そう」
カヨエさんは、少し黙ってから言った。
「大変だろうけど、あんたが決めたのならあたしも協力するよ。あんたは一人じゃないよ」
その言葉に、胸がいっぱいになった。
やはり、私は運が良いのだ。
わたしは痛みに耐え、そして、8時間の激闘の末、母親になった。
子供は娘だった。春に生まれたから心桜と名付けた。
出産後も、カヨエさんはわたしを助けてくれた。
シフトを融通してくれて、心桜をあやしてくれて、時々、叱ってくれた。
「運がいいなんて言葉、甘えに使うんじゃないよ。でもね」
そう前置きしてから、彼女は言った。
「あんたは、ちゃんと人に恵まれる運を持ってる」
小さな手が、わたしの指を握る。
それだけで、胸がいっぱいになる。
娘がいる。
血のつながった、たった一人の家族。
わたしはもう一人ではないのだ。
そう思うと嬉しさで、胸が熱くなるのだった。
未来は、まだ不安定だ。
でも、わたしたちは大丈夫だ。
これまでだって、なんとかなってきた。
これからも、きっと。
「わたし、運がいいから」
そう言いながら、今日もわたしは、心桜と一緒に生きていく。
◇ ◇ ◇
うちの子。
その言葉が、胸の奥で何度も反響した。
オーディション会場の白い廊下は、少しだけ冷たくて、蛍光灯の光がまぶしかった。長椅子に並んで座る子どもたちは、みんな同じような色の服を着て、同じように前を向いている。でも、心桜は違った。わたしの膝にちょこんと座って、足をぶらぶらさせながら、小さな声で歌を口ずさんでいた。
「緊張してる?」
「ううん。たのしい」
そう言って笑う。四歳の、屈託のない笑顔だ。
ララカちゃんは少し背筋を伸ばして、お姉さんみたいな顔をしていた。ララカママはスマホを握りしめ、落ち着かない様子で時計を見ている。わたしはというと、心臓の音が耳の奥でうるさくて、深呼吸を何度も繰り返していた。
大手企業のCM。全国放送。そんな言葉が、現実味を持って胸にのしかかる。
――もし選ばれたら?
――もし選ばれなかったら?
どちらでもいい、と頭では思っている。ここまで来られただけで十分だ。特待生に選ばれたのだって、十分すぎるほどの幸運だ。なのに、欲が出る。期待してしまう。
「次の方、どうぞ」
名前が呼ばれて、心桜はぱっと立ち上がった。
わたしの手をぎゅっと握ってから、離す。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
背中に、そっと声をかける。
扉の向こうに消えていく小さな背中を見て、わたしは祈った。
どうか、楽しめますように。結果なんて、二の次でいい。
待ち時間は、やけに長く感じた。
ララカちゃんが先に出てきて、少しだけ泣きそうな顔でララカママに抱きついた。その姿を見て、胸がきゅっと縮む。子どもにとっても、親にとっても、こういう場は残酷だ。
しばらくして、心桜が戻ってきた。
頬がほんのり赤くて、目がきらきらしている。
「どうだった?」
「えへへ。たのしかった!」
それだけ。
それでいい。胸の奥が、少し軽くなった。
結果発表は、全員のオーディションが終わってからだった。
名前が一人ずつ呼ばれていく。落選の人は、その場で解散。合格者だけが残る。
呼ばれない名前。
増えていく空席。
ララカちゃんの名前は、呼ばれなかった。
ララカママは笑って「いい経験だったね」と言っていたけれど、目の奥が少し赤かった。心桜は気づかずに、ララカちゃんの手を握っている。
そして――
「宇都宮心桜さん」
一瞬、時間が止まった。
聞き間違いかと思って、周りを見回す。
「……こはる?」
「はーい!」
元気な声。
心桜は手を挙げて、ぴょこんと跳ねた。
わたしの喉が、ひくりと鳴った。
涙が、勝手ににじむ。
選ばれた。
うちの子が。
説明を受ける間も、わたしは現実感がなくて、何度も心桜の顔を見た。いつもと同じ顔。わたしの娘。四歳の、小さな命。
帰り道、夕焼けが街を染めていた。
心桜は紙袋を大事そうに抱えて、鼻歌を歌っている。
「ママ」
「なあに」
「また、おうた、うたっていい?」
「もちろんだよ」
その声を聞きながら、五年前のことを思い出す。
不安でいっぱいだった妊娠。
一人で産む決断。
「運がいいから」と自分に言い聞かせてきた日々。
あの言葉は、ただの逃げじゃなかった。
人に恵まれ、出来事に導かれ、ここまで来た。
努力もした。泣いた夜もあった。
それでも――振り返れば、確かに、運が良かった。
カフェに戻ると、カヨエさんが待っていた。
「どうだった?」
「……受かりました」
「そう!」
大きな手で、わたしの背中を叩く。
「やっぱりね。あんたたち、持ってるよ」
店の窓から、街の明かりが見える。
この場所で、わたしは働いて、心桜を育ててきた。
これからも、きっとここが、わたしたちの居場所だ。
未来は、相変わらず不確かだ。
でも、今日だけは、胸を張って言える。
「わたしたち、運がいい」
心桜が、わたしの指を握る。
五年前と同じ、小さな手。
その温もりを感じながら、わたしは歩き出す。
――うちの子と一緒に。
これから先の、まだ見ぬ幸運へ。
◇ ◇ ◇
それからの毎日は、少しだけ速度を上げて進み始めた。
事務所に所属することが決まり、最初の打ち合わせの日。心桜はお気に入りのワンピースを着て、わたしの手をぎゅっと握っていた。ガラス張りのビルは大きくて、エレベーターの中の鏡に映る自分が、少しだけ場違いに見える。
「だいじょうぶ?」
「うん。ママがいるから」
その言葉に、肩の力が抜けた。守ってもらっているのは、実はわたしのほうかもしれない。
応接室で待っていると、ノックの音がして、背の高い男性が入ってきた。黒縁の眼鏡に、柔らかい笑顔。
「はじめまして。担当になります、蒲須坂純也です」
三十二歳、独身。資料で見た名前と一致する。名刺を差し出され、慌てて受け取る。
「宇都宮さんですね。今日はありがとうございます」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
心桜は、少しだけわたしの後ろに隠れていたけれど、蒲須坂さんがしゃがんで目線を合わせると、ぱっと顔を上げた。
「心桜ちゃん、今日は来てくれてありがとう。緊張してる?」
「ううん。あのね、おうた、すき」
その一言に、蒲須坂さんは目を細めた。
「それは知ってるよ。オーディション、とってもよかった」
心桜は照れたように笑って、わたしの服をつまむ。――ちゃんと見てくれている。その安心感が、胸に広がった。
打ち合わせは、思っていたよりも穏やかだった。スケジュールの話、撮影の注意点、子どもの負担にならないようにという配慮。専門用語が多くて頭が追いつかないわたしに、蒲須坂さんは何度も言い換えてくれる。
「分からないことは、遠慮なく聞いてください。心桜ちゃんが一番大事ですから」
「……ありがとうございます」
形式的じゃない。その言葉に、思わず頭を下げていた。
その日から、連絡は増えた。撮影前の確認、体調のこと、保育園との調整。夜遅くならないように、メールは控えめで、急ぎのときだけ電話。
「無理はしないでくださいね。宇都宮さんも」
「はい……あ、すみません、わたしのことまで」
「心桜ちゃんは、ママが元気じゃないと困りますから」
さらりと言われて、頬が少し熱くなる。そういう言い方、ずるい。
初めての撮影現場では、心桜が途中で眠くなってしまった。泣きそうになるのを、わたしが必死でなだめていると、蒲須坂さんがそっとタオルケットを差し出してくれた。
「五分、休憩もらいます」
「でも、時間が……」
「大丈夫です。子役は、これが普通ですから」
現場の空気が、ふっと和らぐ。心桜は膝の上で丸くなり、すぐに寝息を立てた。
「……すみません」
「謝らなくていいです。今の顔、すごく安心してましたよ」
わたしのことを見て、そう言った気がして、胸がきゅっとした。
帰り道、駅まで一緒になった。
「大変ですよね。お仕事しながら、子育て」
「いえ……慣れてます。運がいいので」
「またそれですか」
蒲須坂さんは笑う。
「でも、分かる気がします。運って、待ってるだけじゃなくて、掴みに行った人のところに来るものですよね」
「……そうかもしれません」
カフェに戻ると、カヨエさんがカウンター越しににやっとする。
「最近、よく連絡くる人、誰?」
「担当さんです」
「へえ。優しそうな声だね」
「……仕事の話です」
そう言いながら、否定しきれない自分に気づく。
数週間後、次の仕事の打ち合わせ。心桜は塗り絵に夢中で、わたしたちは少し離れた席に座っていた。
「宇都宮さん」
「はい」
「もし……もしですよ。心桜ちゃんが、この仕事を続けたいって言ったら、どうします?」
「……本人が楽しんでいるなら、応援します。嫌だって言ったら、すぐやめます」
即答だった。迷いはない。
「そうですよね」
蒲須坂さんは、少しだけ安心したように笑った。
「実は、それが聞きたかった」
沈黙が落ちる。窓の外では、夕方の光が街を染めている。
「宇都宮さんは……強いですね」
「強くなんてないです。ただ、運が良かっただけで」
「それ、謙遜です」
視線が、少しだけ重なる。言葉にしない何かが、空気に滲む。でも、踏み込まない。その距離感が、ありがたかった。
帰り際、心桜が蒲須坂さんの手を引いた。
「じゅんやさん、またね」
「またね。今度は、どんなおうた聞かせてくれる?」
心桜は、元気にうなずく。
夜、布団に入って、天井を見つめる。
不安が消えたわけじゃない。未来は、相変わらず分からない。
でも――
人に恵まれている。
子どもが笑っている。
少しだけ、心が温かい。
やっぱり、わたしは思う。
「わたし、運がいい」
隣で眠る心桜の寝顔に、そっと毛布をかける。
この小さな幸運を、大事に抱えて。
明日へ、また一歩。
――うちの子と一緒に。
◇ ◇ ◇
朝のカフェは、静かな戦場だ。
ミルを挽く音、エスプレッソマシンの蒸気、焼き立てトーストの匂い。開店準備をしながら、わたし――宇都宮春菜は、いつものようにエプロンの紐を結び直す。
「おはよう、春菜ちゃん」
「おはようございます、岡江さん」
岡江さんは、この店の店長で、五十代。口は悪いけど、情に厚い人だ。心桜のことも、実の孫みたいに可愛がってくれている。
「今日は幼稚園お休みだっけ?」
「はい。午後からお迎えです」
そう答えながら、カウンターを拭く。ガラス越しに差し込む朝の光が、やけに眩しい。
常連客が、ぽつぽつと入ってくる。
その中に――片岡順二さんがいた。
「おはよう」
「おはようございます、片岡さん」
三十六歳、バツイチ。スーツ姿が多く、仕事の合間に必ず立ち寄ってくれる。ブラックコーヒー一択。砂糖もミルクも入れない。
「いつものですね」
「頼む」
短いやり取り。でも、その視線はいつも少しだけ長い。
最初は気のせいだと思っていた。
でも、心桜の話をするようになってから、明らかに違った。
「この前の撮影、どうだった?」
「無事に終わりました」
「そっか。心桜ちゃん、すごいな」
まるで、親戚のおじさんみたいに、目を細める。
悪い人じゃない。
むしろ、すごくいい人だ。
忙しい時間帯を過ぎた頃、片岡さんはカウンターに肘をついて、少し声を落とした。
「今度さ」
「はい?」
「遊園地、行かない?」
一瞬、手が止まる。
「……え?」
「心桜ちゃんも一緒に。三人でさ」
ああ、やっぱり。
胸の奥が、ちくっとする。でもそれは嫌悪じゃない。困惑に近い。
「ありがとうございます。でも……」
「忙しいよな」
言い切らせないように、片岡さんが先に笑った。
「無理にとは言わない。ただ、子どもって、そういう場所好きだろ?」
「そうですね。でも……」
言葉を選ぶ。
「今は、仕事と子育てで、いっぱいいっぱいなんです」
「そっか」
残念そうではあるけれど、押してこない。
「じゃあ、また機会があったら」
「はい」
それで終わる。その距離感が、ありがたい。
片岡さんが帰ったあと、岡江さんがにやりとする。
「春菜ちゃん、モテるねえ」
「違いますよ」
「いや、あの目は完全にそうだ」
わたしは苦笑いする。
「いい人なんです。でも……」
「でも?」
「今は、それどころじゃなくて」
心桜の顔が浮かぶ。
撮影の日の笑顔。眠そうに目をこする姿。小さな手。
「再婚とか、考えてない?」
「考えてません」
即答だった。
「ふうん」
岡江さんは、コーヒーを啜る。
「まあ、あんたはそうだと思った」
昼過ぎ、心桜を迎えに行き、店の奥の小さなスペースでお絵かきをさせる。
「ママ、これなあに?」
「観覧車だよ」
「いったことある?」
「ないねえ」
片岡さんの言葉が、頭をよぎる。
でも、今は――違う。
夕方、片岡さんがまた顔を出した。
「お疲れさま」
「お疲れさまです」
心桜が、ぴょこんと顔を出す。
「こんにちは」
「こんにちは」
片岡さんは目を細める。
「元気だね」
「うん!」
その様子を見て、胸が少しだけ揺れる。
この人なら、優しくしてくれるだろう。
でも――それだけだ。
閉店後、片付けをしながら、岡江さんがぽつりと言った。
「悪い話じゃないと思うけどね」
「分かってます」
「でも、今は無理か」
「はい」
わたしは、正直に言う。
「心桜の人生が、いちばん大事なんです」
「母親だねえ」
帰り道、心桜はわたしの手を握って歩く。
「ママ」
「なあに」
「きょうも、たのしかった」
「そう」
その一言で、全部が報われる。
恋愛をする余裕がないわけじゃない。
ただ、優先順位が違う。
人に恵まれている。
仕事がある。
子どもが元気。
それだけで、十分すぎるほどだ。
夜、布団に入って、心桜の寝顔を見る。
未来は分からない。
誰と一緒にいるのかも、分からない。
でも、今は言える。
「わたし、運がいい」
静かな部屋で、その言葉は、確かな重みを持って胸に落ちた。
――うちの子と一緒に。
この日常を、大切に抱えながら。
◇ ◇ ◇
その日は、いつもと同じ平日の午後だった。
ランチタイムが一段落し、カフェの中には穏やかな空気が流れている。窓際の席では、常連の年配夫婦がケーキを分け合い、カウンターでは岡江さんが伝票をまとめていた。
わたしは、カップを拭きながら、次に何をするか考えていた――そのときだった。
ドアのベルが鳴った。
顔を上げた瞬間、心臓が一度、強く跳ねた。
見覚えのある背中。
少し広い肩幅。
あの頃と変わらない、落ち着いた立ち姿。
……まさか。
「――春菜?」
呼ばれた名前で、逃げ場がなくなる。
宝積寺大地。
わたしの、元恋人。
三十六歳になった彼は、少しだけ大人びて見えた。海外生活のせいか、肌は日焼けしていて、スーツも前より似合っている。でも、目だけは変わらない。あの、優しくて、少し遠い目。
「……久しぶり」
それだけ言うのに、喉が渇いた。
「春菜に会えるなんて思わなかった」
大地は、少し照れたように笑った。
「日本に戻ってきたばかりなんだ」
「……そうなんだ」
頭の中が、ざわざわする。
五年前のことが、一気に押し寄せてくる。
岡江さんが、空気を読んで奥に下がる。
心桜は、そのとき、店の奥で色鉛筆を並べていた。
「元気そうだね」
「……うん。なんとか」
大地はカウンター席に座った。
わたしは、条件反射みたいに、コーヒーを淹れる。
「ブラックでいい?」
「覚えててくれたんだ」
「……忘れないよ」
そう答えてから、胸がちくっとした。
忘れたかったのに。
「向こうでは、ずっと仕事だった」
「うん」
「正直、余裕がなくて……連絡も、取れなくなって」
責める気はなかった。
今さら、答え合わせをするつもりもない。
「それでね」
大地は、少し間を置いて言った。
「春菜のこと、時々思い出してた」
その言葉に、心が揺れる。
ああ、だめだ。これは。
「……近況、聞いてもいい?」
「……うん」
逃げられない。
聞かれたら、答えなきゃいけない。
「子ども、いるよ」
その瞬間、大地の目が見開かれた。
「……え」
「女の子。心桜っていうの」
心臓の音が、うるさい。
「……何歳?」
一瞬、迷った。
正直に言ったら、どうなる?
計算すれば、すぐ分かる。
「……四歳」
口が、勝手に動いた。
大地は、数秒黙ったまま、カップを見つめる。
やがて、静かに息を吐いた。
「……俺の、子じゃないんだよね」
「……うん」
嘘ではない。
でも、全部でもない。
「結婚したの?」
「してない」
即答だった。
「じゃあ……相手は?」
「……遠くに、逃げちゃったから」
それだけ言うと、胸の奥が少し痛んだ。
逃げたのは、彼だけじゃない。
わたしも、向き合うのが怖かった。
「……そうか」
大地は、目を伏せた。
「大変だったな」
責める言葉は、ひとつもなかった。
それが、余計に胸に来る。
「今……付き合ってる人はいる?」
また、核心を突かれる。
「いないよ」
そう答えた瞬間、大地は少し安心したような顔をした。
そして、困ったように笑う。
「……実はさ」
「なに?」
「頼みがあるんだ」
嫌な予感がする。
「母親に、見合いを勧められてて」
「……うん」
「断るために、恋人がいるって嘘ついたら」
「……うん」
「じゃあ連れてきなさい、って言われた」
思わず、瞬きをする。
「それで……」
大地は、まっすぐにわたしを見た。
「春菜に、恋人のふりをしてほしい」
……やっぱり。
「そんな」
「無理ならいい。ほんとに無理なら」
「……どうして、わたしなの」
「一番、信頼できるから」
即答だった。
「それに……今でも、好きだ」
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
簡単に言わないで。
五年分の時間が、そんな一言で埋まるわけじゃない。
そのとき、心桜が、ひょこっと顔を出した。
「ママ、できたよ」
色鉛筆を持った、小さな手。
無邪気な笑顔。
大地の視線が、そちらに向く。
驚きと、戸惑いと、そして――優しさ。
「……この子が」
「うん。うちの子」
心桜は、ぺこりと頭を下げる。
「こんにちは」
「……こんにちは」
大地は、ぎこちなく笑った。
その様子を見て、胸の奥が、少しだけ緩む。
怖れていたほど、悪い反応じゃない。
「今日は、ここまでにしよう」
大地は立ち上がった。
「返事は、急がなくていい」
「……また来るの?」
「うん。また、カフェに来るよ」
軽い言い方。
でも、その目は、真剣だった。
「そのときでいい。考えてくれれば」
ドアが閉まる。
ベルの音が、やけに長く響いた。
奥から、岡本さんが出てくる。
「……あれ? 宝積寺君じゃない?」
「……はい、日本に戻ってきたそうです」
「厄介そうだねえ」
「……そうですね」
でも、不思議と、気持ちは沈んでいなかった。
夜、布団に入って、心桜の寝顔を見る。
規則正しい寝息。
小さな手。
過去が、追いついてきた。
でも、わたしはもう、一人じゃない。
どうするかは、まだ分からない。
答えも、決められない。
それでも、思う。
人に恵まれている。
選択肢が、ちゃんとある。
迷えるということ自体が、きっと幸運だ。
だから、今日も、わたしは言う。
「わたし、運がいい」
小さな幸運を、胸に抱いて。
――うちの子と一緒に、明日へ進む。




