ほふく前進のマーメイド
深い森を抜けた先に、激しく流れる川があった。
濁流は岩にぶつかって白く砕け、泡立ち、吠えるような音を立てている。
拳志たちは岸に立ち、無言でその荒れ狂う流れを見つめていた。
「橋……ないわね」
アリシアが小さく眉をひそめ辺りを見回す。
風で髪がふわりと揺れ、その視線にかすかな焦りがにじむ。
「この辺に……橋があったはずなんですけど」
レインが地図を覗き込みながら言う。
だが見渡す限り、対岸へ渡る手段は見当たらない。
「ほな泳ぐか」
拳志があっさり言って、靴を脱ぎかける。
「待ちなさい。流れが早すぎるわ。あんたやガルドじゃともかく、私たちは流される」
「川幅も結構ありますし……下手に入るのは危険かも」
アリシアの言葉にレインも頷いた。
「……ん?」
ガルドが、ふと眉をひそめて前に出た。
その視線の先──
対岸近くの浅瀬に、ひときわ白いものが横たわっていた。
きらめく銀髪が濡れた岩の上に散り、陽の光を受けて淡く揺れている。
その身体の先には、しなやかな尾鰭。水面をなぞるように、かすかに動いていた。
「お、おい、あれ……」
その言葉に、全員の目が一斉に向く。
倒れているのは、少女の姿をした異形だった。
肌は透けるように白く、尾鰭は虹のような色を浮かべて水に馴染んでいる。
まるで絵本の中から抜け出したような──
あるいは、誰かの幻想が形になったような──
「……ほんまに、人魚って……おるんか」
拳志が呟いたその瞬間──
「ギャアアアアアアアアアアアッ!! た、助けてぇぇぇえええ!!」
幻想がぶち壊れた。
川辺の静寂を切り裂く、あまりにも生々しい絶叫。
尾鰭で水面を蹴りながら、地面をずりずり這いずって逃げようとしていた。──ほふく前進で。
そのすぐ後ろ──
茂みの奥から、唸りを上げて魔物の群れが現れる。
「うわー、必死……」
「神秘性、完全にゼロですね……」
「かわいそうだけど、ちょっと……」
拳志たちは、思わず無言になった。
だが──
「……あ、危ないっ!」
アリシアが目を見開いた瞬間、魔物の一体が鋭く跳躍した。
その爪が、人魚の背に迫る。
「聖結界・展開!」
アリシアの詠唱が響き、光の壁が少女を包み込んだ。
ガンッ、と鈍い音を立てて、魔物の爪が弾かれる。
「……!」
結界の内側、人魚は怯えながらも拳志たちの方を振り返る。
「ボケッとしてないで、構えなさい!」
アリシアの一喝で、場が一気に戦場へと切り替わる。
魔物は獣のような体躯に、甲殻と触手を持つ不気味な姿だった。
数にして五体以上。地面を這うように、呻き声をあげて突進してくる。
「来いや──!」
拳志が地を蹴り、一直線に一体へ突撃。
肩を低く構え、跳び上がるように突進。
次の瞬間、拳が魔物の顔面を斜め下からすくい上げた。
「ギョワヘブァァァアアア!!」
悲鳴とも鳴き声ともつかぬ声を上げながら、魔物は後方の木にめり込み、地面を抉って沈黙する。
その光景に、残りの魔物がぎょっと後退した。
「まさか……お前はッ!」
「魔王様を殴った、あの異物か……!!」
ざわつき、どよめき、震えるような呻き声が響く。
「お前、魔王にも喧嘩売ってるのか……」
ガルドが横であきれ顔を浮かべる。
「売ったんちゃう。売られたから、買っただけや」
拳志が当然のように言い放つ。
すぐそば、魔物の爪が人魚を襲う──が、その直前で結界の光に弾かれ、火花のように砕け散った。
すでに人魚を包むように結界を展開していたアリシアが、ため息をひとつ。
「……どっちでも同じよ、ほんとに」
呆れたように吐き捨てつつ、アリシアの目は戦場から逸れていない。
人魚の少女は結界の中から、ぽかんとその光景を見ていた。
その目には──驚きと、どこか安堵のようなものがあった。
魔物たちの呻き声が、川辺に響き渡る。
「まとめていくで!」
次の瞬間、拳志の踏み込みで数体の魔物がまとめて吹き飛ばされる。宙を舞った一体が人魚に張った結界に激突し──
火花と共に、弾かれた魔物が反動で地面に転がった。
「ひ、ひえええええええっ!」
結界の内側で見ていた人魚の少女が、びくっと震えた。
「お前……人魚のくせに声でかいな」
「に、人魚は声のデカさに関係ないでしょ!それに助けてなんてお願いしてないわよ!」
「いや、助け求めて叫んどったやんけ」
「叫んだだけで助けろとは言ってないわ!……でもまあ、助かったけど……」
「めっちゃツンデレやんけ……」
「うっさいわよ!」
──そんなやり取りの横で、レインが一体に狙われる。
「……腹の装甲が一番薄いはず……!」
狙って放った一撃だったが──刃が浅くしか入らない。
「くっ……浅い!」
「下がれ!」
ガルドが割り込み、渾身の一撃で魔物の腹をえぐる。
「……ありがとうございます。やっぱり強いですね……」
すぐ横、最後の一体がレインに飛びかかる。
「っ……!」
剣を構え直すも間に合わない──その瞬間。
「無理すんな、レイン!」
拳志が間に割って入り、拳が炸裂。
魔物の体が破裂したように吹き飛ぶ。
──静寂。
魔物たちの呻き声も、血の臭いも、風に流れて消えていく。
戦いは、終わった。
水辺は静寂を取り戻し、血のにおいと土煙だけが残っていた。
拳志が人魚の少女へと視線を向ける。
「……で、お前。名前は?」
「はぁ!?なんであんたに名乗らないといけないのよ!下品で乱暴で、無駄に強くて……でも、まあその……命の恩人には違いないけど」
ツンツンしながらも目は逸らし、尾びれで水面を叩くようにばしゃんと音を立てた。
「リィナよ。文句ある?」
「変な名前」
「うっさい!!」
レインがぽつりと呟く。
「……人魚、本当に実在したんですね……」
「知ってたのか?」
ガルドが眉をひそめる。
「文献にはありますが、実際に見たことのある者はほぼいません。存在自体が空想とされていた種族です。地上の八種族には含まれていませんから」
「私も、見たのは初めてよ。噂は聞いていたけど……」
アリシアが静かに言う。
リィナは、水の上に浮かびながら不機嫌そうにそっぽを向く。
「ふーん。あんたたち地上人って、本当につまらない偏見持ってるのね!」
拳志はふっと笑って、そっぽを向いた。
「……素直になれや」
「はあ!? あんたにだけは言われたくない!」
拳志は拳を肩に乗せながら、空を見上げる。
「おもろい世界やな……人魚も、ほんまにおるとか」
「ああ、世界は広いってことだな……」
ガルドが肩を竦めた。
戦いの余韻がようやく消えた頃、川辺の静けさが戻っていた。
拳志たちはしばらくその場で休憩をとっていた。焚き火の傍で干し肉をかじる拳志。その視線の先、水面に漂う人魚の少女が静かに浮かんでいた。
彼女──リィナは、水面をくるりと一回転してから、ふと視線をこちらへ向けた。
「……で、橋も舟もないこの川、どうやって渡るつもりなの?」
「考えてなかったわ」
拳志があっさり答える。
「……無計画過ぎて、逆に感心するんだけど」
レインが苦笑し、アリシアは小さくため息をついた。
「ねえ。さっき助けてくれた礼……水魔法で手伝ってあげてもいいけど?」
「ほんまか?」
「あんたたちの実力、間近で見たし。悪いやつには見えなかったから……少しだけ信用してあげる」
リィナはそう言うと、水面に掌をかざした。
すぐさま川の流れが音を立てて渦を巻き始め、数秒のうちに穏やかな水路ができる。
「今のうちに渡りなよ。長くは保たないから」
「助かるわ」
アリシアが頷き、ガルドとレインが川を渡る準備を始めた。
拳志は立ち止まって、リィナを見た。
「お前、このまま一人でええんか」
「……別に。一人のほうが気楽。あたしに群れる仲間とか、似合わないからさ」
そう言いながらも、その瞳にどこか寂しさがにじんでいた。
「でも、覚えといて。人魚はちゃんと恩を返す主義だから」
「ほな、また会うかもな」
「かもね」
そうして拳志たちは、川を渡る。
対岸に着いたところで、リィナが叫ぶ。
「ねぇ、あんた!!」
「ん?」
振り返る拳志。
「魔王をぶん殴ったって、ほんと?」
拳志はニヤッと笑った。
「売られた喧嘩は買う主義やねん」
「──ふん。バカみたい。でも……」
「……そういうヤツ、嫌いじゃないかも」
次の瞬間、彼女は片手をすっと掲げる。
小さな波紋が広がり──
その中心に、水で編まれたような輪の指輪が生まれた。
「お礼。あたしの潮の印……また会いたくなったら、それを水に落として!」
指輪はふわりと宙に浮き、拳志の前に漂う。
拳志が受け取ろうとした瞬間、指輪は手のひらに吸い込まれた。
「また会う時が来るかは──気分次第!」
リィナは、少し寂しそうに微笑んだ。
「恩は、ちゃんと返す主義だから!!」
そう言い残して、彼女の身体は水に溶けるように沈んでいく。
最後に──
波の音に混じって、微かに聞こえた。
「またね──」
「……なんだったんでしょう、あの子は」
レインが首をひねると、ガルドがぽつり。
「ま、変なのばっかだな。あいつの周りは」
ガルドの視線の先、拳志が肩を回しながらぼやいた。
「この世界……ほんま、めちゃくちゃやな。けど──」
空を仰いで、拳を握る。
「おもろいやんけ」
アリシアが呆れ顔で振り返る。
「だからって、またトラブルに首突っ込まないでよね」
「それは無理やな。俺の流儀や」
拳志はにやりと笑った。
そして、ベルンへ向けて再び歩き出す。
朝の陽が、彼らの背を照らしていた。




