紅い咆哮
砦の屋根。
焼けた木の匂いが鼻を刺し、風は焦げと鉄の味を運んでくる。
肩を焼かれたガルドは、歯を食いしばって立ち上がった。足裏に伝わる板のきしみが重い。
周囲の空気がゆっくりと歪み、景色が遅れて引きずられる。
仮面の男が無言で腕を持ち上げる。
足元に新たな術式が組み上がった。
さっきのものとは骨組みから違う。
砦のあちこちに埋め込まれた魔力の導管が低く唸り、光の筋が集められていく。
吸い上げられた魔力が、戦闘用の重力場に転じたのが肌で分かる。
屋根瓦が浮き、次の瞬間、真下に押し潰されるように沈む。
(……この砦自体が、こいつの武器ってわけかよ)
ガルドは喉の奥で唸り、爪を構え直した。
「回避不能、射出開始」
詠唱にも似たノイズが空気を震わせ、黒い槍が次々と生成される。
さっきより速く、鋭い。
飛び方が嫌に素直で、次の瞬間には嘘みたいに曲がる。
ガルドは低く構え、滑るように踏み込みながら横薙ぎの一閃で応じた。
爪と槍がぶつかるたび、空気が弾け、重力が逆立つ。
浮きかけた瓦礫がかすれた悲鳴を上げて落ち、粉塵が舌の上にざらつく。
衝撃で屋根が崩れ、戦いは半ば空中の押し合いになった。
爪先で瓦を踏み、反動で跳ぶ。肩口をかすめた魔弾の熱が皮膚を焦がし、汗に混じった血が苦い。
一進一退。爪が仮面の肩を掠め、反撃の光弾がガルドの頬を焼いた。どちらも傷を負いながら、速度だけが上がっていく。
突進。
爪と槍がぶつかるたび、火花が夜を裂いた。
一撃ごとに瓦が砕け、重力が軋む。
「排除完了──いや、まだだ、まだ足りない……」
機械の平板な音に、別の色が差した。人間の、湿った怨嗟。
ガルドは目の奥が冷えるのを感じる。
(……こいつ、本当に生きてんのか……?)
足元が突然つかまれたみたいに重くなり、世界が一段沈む。重力が再びうねり、身体が地面へ引きずり落とされた。
砦の屋根板を突き破って下層へ転がり落ちる。背中に走る痛みで息が飛び、肺が焼ける。
瓦礫の中で血を吐きながら、ガルドは崩れた天窓越しに空を仰いだ。
そこに、なお静かに立つ仮面の男の影。
揺らがない。
揺れているのは世界のほうだ。
「……立て、ガルド。獣が折れたら、群れが終わる」
耳元で昔の声がした。
あの背中。泥と血にまみれた肩。歯を見せて笑って、先に行く大きな背中。
そして今、砦の中央で暴風みたいに敵をかき分ける、もう一つの背中。
同じ瞬間、地上の拳志も、血まみれの拳を振り上げていた。
見えない場所で、同じ“怒り”が空を焦がす。
拳志の呼気が頭蓋の内側まで届くみたいに、鼓動が合う。息が合う。
砦の梁が低く唸り、細かい砂が天井から降った。
(この拳も、この爪も、誰かのためにあるってのが……俺たちの証だろがッ!)
腹の底で火がつく。咆哮とともに、全身から紅い光が噴き上がった。毛並みが逆立ち、爪が薄く光を帯びる。
踏み込み。板が割れる。
膝のばねで天井へ。
砕けた天窓を抜け、夜風が喉を冷やした。
仮面の男が最後の詠唱を始めていた。
砦全体が悲鳴を上げる。柱の奥を走る魔力の導管が白く過熱し、塔のような光の柱が空へ伸びる。
耳鳴り。空気が裂け、重力の波が押し寄せる。足の裏が地面に貼り付く。次の瞬間には弾き飛ばされる。
「これ以上は、誰も立っていられない」
ガルドは笑った。唇の隙間に血の味が滲む。
「それでも、俺は止まらねぇ!」
跳躍。
迎え撃つように魔弾が収束する。爪で裂く。次の束が来る。もう一度裂く。
視界の端で、光が遅れて尾を引く。世界が遅い。身体だけが、怒りだけが速い。
仮面の男が指を鳴らしかけた瞬間、腕の骨がギリと軋んだ。
それでも、止まらない。
肩甲骨から先の一切を、獣の走りに預ける。
「これが……俺たちの怒りだッ!!」
(この一撃に、全部込める。兄貴と、あいつのために――)
風を裂き、雷を裂き、空間をも裂く。
爪が仮面の中心──冷たい核へ届いた。
鈍い手応え。次いで、砦全体から絞り出されたような悲鳴。
「排除……失敗。制御……不能……任務……完遂ならず──」
仮面に蜘蛛の巣状のひびが走り、ぱきん、と乾いた音で砕けた。
黒い閃光が四方へ走り、屋根から地面へ、砦の配管を伝って走り抜ける。
同時に、地上の傀儡兵が糸を切られたみたいに崩れ落ちた。
支えを失った柱が長く呻き、砦のどこかで水がはねた音。床が、ほんの少し沈む。
光が収まった。
残ったのは、埃の匂いと、遠くで木が落ちる乾いた音だけ。
瓦礫の中、拳志が大きく息を吐き、ゆっくり笑った。
「──やったな……!」
屋根の縁から降りてきたガルドが、その横に膝をつく。膝に土が食い込む感触が生々しい。
「ったく……無茶しやがって」
一拍、静けさ。
互いの呼吸が整っていくのを、背中越しに確かめる時間。
「……お前を見てると、思い出す」
「ん?」
「昔、俺にも兄貴分がいた。命を張って、道を切り開いてくれる。お前にそっくりだ」
拳志は顔を伏せたまま、鼻で笑う。
「そいつ、なかなかのアホやな」
「──ああ。最高のアホだったよ」
二人は瓦礫を払って立ち上がった。足元に砕けた木片が転がり、踏むたびに小さく鳴る。
砦には、もう敵の影はない。風が通る。焼け跡の匂いが薄れていく。
「帰ろか。里であいつらが待ってる」
「ああ」
互いに背中を預け、崩れた通路へ歩き出す。
その足音が遠ざかったあと──崩れた梁の下で、砕けた仮面の欠片が、一度だけ、微かに光った。




