惑溺
放課後の校舎。
廊下は窓から差し込む夕日によって、オレンジ色に染まっている。
机の中にテキストを忘れ、一度家の最寄り駅に着いたにもかかわらず本日二度目の登校をする羽目になった。友人達に「走れサッカー部」なんて揶揄されながら。
中間テスト一週間前の、部活禁止期間。いつもは運動部や吹奏楽部の気配を感じる校舎は、今日は静寂に包まれている。非日常感のような雰囲気。
忘れ物をするという、自分の愚かさを呪っていたが、この雰囲気を感じることが出来たのは寧ろ幸運だったのかもしれない。
そんな事を考えながら教室を出て、昇降口へ向かうため階段へと向かう。
静けさが支配する校舎では、自分の足音すら反響し自分に返ってくる。一段降りる度に、階段の縁に設置されている存在理由が不明な金属の音が響く。カン、カン──あと、一階分下りれば昇降口へと辿り着く。そう思った瞬間、階段を下りる音に混じって歌声が聞こえる。
女の人の綺麗な声。透き通った、自然な歌声。
(上、か?)
反響しながら届く歌声は、上から──屋上から聞こえる気がして、元来た道を戻るように階段を上る。
一段、一段、階段を、階数を上がっていくたびに歌声が近付いてくる。その歌声に惹かれるように、気付けば階段を二段飛ばしで駆け上がっていた。
「はぁ……はぁ……」
屋上へと続く扉。扉の周辺は掃除が行き届いていないのか、薄っすらと埃が積もっている。その中に、小さな足跡が扉へと続いている。
息を整えながら、アルミ製の扉へと手を伸ばしドアノブを回す。
扉が少し開いた瞬間に、風が吹く。校舎へと風が駆け抜け、反射で目を閉じる。体の脇を一瞬で抜けていく風に乗って、より鮮明に歌声が耳へと届く。惚れ込んでしまいそうな、そんな感情を抱きながら、風が止まったのを肌で感じ、ゆっくりと目を開ける。
開いた視界に襲ってきたのは、圧倒的な夕日のオレンジ色。雲ひとつない空一面を、オレンジ一色が支配をしている。そんな空の下で──腰まで伸びる髪を風になびかせながら、こちらに背を向け歌い続ける姿。
「テキスト……忘れて正解だったわ」
扉を開いたまま、邪魔をしないよう音を立てずにゆっくりと座る。壁に寄りかかり、歌声に耳を傾ける。
どこのクラスだろうか。同級生だろうか。そんな他愛ないことを、こちらの存在に気付き、恥ずかしさでしゃがみ込んでしまった姿を見つめながら考える。
でも、今はそんなことより、もう少しだけ、あの歌声を聴きたくて。
「続き、聴かせてよ」
自分の中での最大限の優しい声で、君へと声を掛ける──。
【惑溺 (わくでき)】:『夢中になって、心を奪われること』
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