だし巻き卵と朝の味
カタン、と小さな音を立てて、アキラは角の取れた卵焼き器をコンロに置いた。
「今日は……だし巻き卵、だな」
卵を割る音、箸で溶きほぐす音、出汁を注ぐ静かな音。
どれも耳に心地よく、彼の暮らしのリズムを作っている。
地下のこの施設に季節の移ろいはないが、今日は少しだけ“春”を感じる気がした。
それは、卵と出汁の香りが鼻をくすぐるからかもしれない。
《記録者No.0243、夢反応パターンに「朝食の再生」が確認されました》
AIのミレイが静かに報告する。
「朝食、か……。ああ、わかるよ、その気持ち」
アキラの記憶にも、似たような朝があった。
父は新聞を読んでいて、母は小さな弁当箱に卵焼きを詰めていた。
「焦げちゃったけど、ちゃんと食べてね」――母のそんな一言すら、今では宝物だ。
焼きあがった卵焼きを、アキラは丁寧に巻いていく。
やわらかく、でも崩れないように。まるで記憶をひとつひとつ巻き込むように。
夢の中で、記録者の少年は制服に袖を通していた。
小さな食卓には、味噌汁、白ごはん、そして、だし巻き卵。
それを一口食べて、彼はぽつりとつぶやいた。
「これがあると、なんか、ちゃんと生きてる気がするんだ」
アキラは笑った。
「わかるよ。ちゃんと食べて、ちゃんと眠って。……それだけでいいんだよな」
焼き立てのだし巻きを切ると、じゅわっと黄金色の断面から出汁がにじんだ。
それを一切れ、口に運ぶ。
やわらかくて、あたたかくて、ほっとする味が広がった。
《記録者No.0243、精神安定度95%に回復》
《関連夢領域、安心・家庭・朝の記憶》
アキラは空になった皿を見つめ、静かに息を吐いた。
「大丈夫だよ。まだ大丈夫。今日も“ちゃんと生きてる”からな」
だし巻き卵は、日常の中のささやかな祈り。
そして、忘れかけた人と人とのぬくもりを、夢の中に優しく残してくれる。