ゆでたまごと記憶の王女
蒸気の音が、無人の通路に微かに響いていた。シェルター第07区、居住セクター。そこに人の足音はない。ただひとつ、奥の厨房ブースだけが静かに稼働していた。
男はキッチンの前で、腕組みをして茹で鍋をじっと見つめている。
「7分30秒……いや、今日は8分でいこう」
静かに語りかけるようにして、彼はコンソールのタイマーに指を伸ばした。タイマーがカウントを始め、薄曇りの照明の中、卵は鍋の中で静かに揺れている。
地下1300メートルのこの空間で、人類は眠り続けている。数百人の命が、冷却ポッドの中で、異世界ファンタジーの夢を共有しながら、忘却の中に安らいでいた。
その中で、目覚めているのはただ一人。
彼の名はアキラ。かつては技術員であり、今は管理者。眠り続ける人類を維持する最後の役目を担う“目覚めた者”。
アキラの一日は、設備点検、データ監視、そして――食事で始まり、終わる。
「昨日の夢ログ、再生してくれ」
彼は背後の端末に声をかけた。AI「ミレイ」が無機質な返答を返す。
《再生します。対象:夢世界ログ・記録者ID104「イシュラ王女」》
空間にホログラムが浮かび上がる。白銀の城、青空に映える尖塔。そこに立つのは、金髪に透き通る瞳を持つ少女。イシュラと呼ばれる仮想人格――いや、夢の中の“彼女”は、王族であり、現実の人類の一人でもある。
彼女は夢の世界で、小さなテーブルの前に座っていた。眼前には、半分に割られた、絶妙な半熟のゆでたまご。
「これは……?」
アキラの目が微かに揺れた。
その茹で加減、黄身のとろみ、白身のやわらかさ。それはまさに、彼が昨日、失敗したゆでたまごの理想像そのものだった。
「まさか……俺の料理が、夢に影響を?」
タイマーが鳴る。
彼は、鍋から卵をすくい上げ、即座に冷水に浸ける。湯気とともに立ち上る匂いの中、アキラは思う。
人類の夢の中にある“異世界”が、彼の現実に触れているのか。それとも、彼の現実が夢に干渉しているのか。
どちらにしても、今日のゆでたまごは、ただの朝食ではなかった。
殻を割ると、卵の中から黄金色の黄身がゆっくりとあふれ出した。とろみを保ちつつも液状になりすぎず、白身はぷるりと弾力を保っている。
「――完璧だ」
アキラはそう呟くと、塩をひとつまみ指先で弾き、白い表面に振りかけた。人工培養された鶏卵の味は、昔のそれと比べれば劣るかもしれないが、手間をかけたぶんだけ確かに“食べ物”としての存在感を増す。
ゆっくりと口に運ぶ。黄身が舌の上で溶け、塩気と旨味が静かに広がっていく。
「……やっぱり、これだよ」
この味を知っている。子どものころ、母がつくってくれた朝ごはん。まだ地上に太陽があったころの、あの温かい食卓。
卵を口にするたび、そこに戻れる気がする。
夢では、イシュラ王女が一口ごとに驚きの声を上げていた。王国の宴で供されたその卵料理は、「禁呪によって調理された“神の食物”」として賓客に振る舞われていた。
AIミレイの報告によれば、彼女の夢はログ上、今朝になって急に“料理への感情値”が跳ね上がったとのこと。
「なあ、ミレイ。俺の作った料理が、夢に影響した可能性は?」
《理論上はありえません。夢生成AIは記憶と人格データから構築されており、現実との直接的なフィードバックは……》
「でも、おかしいよな。この卵……昨日の失敗を反映して、今日ようやく成功した。で、今朝になって夢の中の王女が、これと同じものを食べてた」
《……不確定因子を検出。記録者ID104の夢世界における“食文化構造”に異常な発展傾向を検出。関連データの統計再分析を推奨》
アキラは立ち上がり、残りの卵を冷蔵庫に戻す。心の中に芽生えた不安と、かすかな期待が入り混じる。
もしかしたら、このシステムは思った以上に、人間の意識と連動しているのではないか。
そしてもしそれが事実なら――
「……俺の食事が、あいつらの世界を形作ってるってことか?」
窓の外、分厚い防爆ガラスの向こうでは、氷に閉ざされた世界が青白く光っている。風はない。ただ、永遠に凍った地球の静寂が広がっている。
その静寂の中で、彼のゆでたまごだけが、確かに温かく、世界に小さな波紋を広げていた。
その夜、夢世界では新たな噂が生まれた。
「禁呪卵を食べた王女は、“遥か地の底の調理神”と繋がった」という神話めいた伝説が――