全てを手に入れる筈だった
「だから最後に嘘をつく」の電子書籍化が決まり、大幅加筆中にてアップが遅れましたが、お楽しみいただけると嬉しいです。
ユーグレアスは公爵令息として、何不自由なく暮らしてきた。
可愛らしく素直で美しい妹のサーシャと、彼女に似て姉の様に寄り添う婚約者のアイリーンもいて。
兄と慕われ、婚約者として愛されて、幸せな日々を当然な事として享受し続けてきたのだ。
側近として仕える第一王子のレクサスはそこまで優秀という訳ではないが、彼の婚約者のグレイシアは補って余りあるほどの才媛で、この国は安泰だと言われていた。
だから。
学園に出現した貴族女性とは程遠いカリンという夕陽色の髪と目をもつ男爵家の令嬢も、安心して可愛がっていた。
何も本気で愛した訳ではない。
ただ、そういう型にはまらない疑似恋愛を楽しんでいたのだと思う。
女性として、妻として美しいと、そう思っていたわけではないのだ。
ユーグレアスには、何にも代えがたいサーシャという理想の女性が心の中心にいて、彼女とは別によく似たアイリーンという婚約者もいる。
彼女達の方が当然、カリンよりも魅力的だとは思っていたのに。
淑女として踏み越えない一線をあっさりと踏み越えて、体温を預けるカリンの仕草や甘えた顔や声に、胸を高鳴らせたのは事実であり、けれどそれは学園に通う間、という限定的な付き合いでもあった。
それをあっさり懐に入れたのがレクサスだ。
王子としてあるまじき行為であったものの、優秀なグレイシアならそれなりの対処をするだろう、とただ見守っていた。
短気ではないものの、貴族であり王族である特有の傲慢さをもった王子の不興を買うのは面倒だったのだ。
グレイシアは慈悲深く優秀で、レクサスの足りない所も本人がそれと気づかぬように対処する控えめさもあり、いずれ彼女の誘導でカリンも側妾にでも落ち着くのだろう、と軽く考えていた。
それ位グレイシアはレクサスを大事にしている、と思っていたのだ。
だが、結果は惨憺たるものだった。
グレイシアが何時からレクサスを見限っていたのか、ユーグレアスには全く分からなかった。
最後にレクサスとグレイシアが会話した時、一番近くにいたのに、何も変える事は出来なかったのだ。
彼女はさらりと、全てをレクサスが諸悪の根源の様に言っていたけれど、それは違う。
いや、大元はその通りなのだが、グレイシアなら上手く収める事も可能だったのだ。
だが、彼女は、レクサスを切り捨てる事を選んだ。
淑女の仮面を被ったまま、レクサスの気持ちを煽って、決定的な言葉を引き出した。
正妃になるべきではない女性を、正妃にするという言質を取った事で、彼女は簡単に妃の地位を手放したのである。
その後に起こる諍いも、彼女は笑顔で告げていた。
だからこそ、グレイシアの代わりにサーシャを求める声に逆らって、アイリーンを生贄にする事を選んだのだ。
ユーグレアスとの婚約を解消すれば、レクサスにとっても王家にとってもアイリーンは問題のない妃候補になる。
彼らはサーシャとアイリーン、どちらが妃となっても良いのだ。
ユーグレアスと違って。
大切なサーシャを王族とはいえ、他の者に気持ちを寄せる男になど渡したくは無かった。
そもそも家から出すつもりも無かったのだ。
サーシャは無垢なまま穢れを知らない乙女のまま、ただ幸せな時間を生きて欲しい。
全ての欲望も仕事もアイリーンが引き受ける。
だが、どちらかを削らなくてはいけないとしたら、迷う事は無かった。
「……は?アイリーンが何故、帝国へ」
呆然とした言葉は、目の前の父に鼻で嗤われる。
公爵家では父をはじめ家人の誰もが、王子へ妹を嫁がせる事には反対していた。
だからこそ、生贄に自らの婚約者を宛がおうとしたのに。
「何を言っている。お前が勝手にアイリーン嬢との婚約解消を進めたのだろう。何故、レクサス殿下との結婚を確約させなかった?おかげでサーシャをという声が日増しに増えている」
「いや、ですが、アイリーンは……」
ユーグレアスは焦りながらも、アイリーンとの最後の会話を思い出していた。
自分の都合の良いように解釈していたが、彼女の言葉は。
私の決断があの子の為になるかは分からない、だ。
婚約解消と王子との婚約を意味していると思い込んでいたが、それが「解消する」ことだけに向けられていたのなら。
暗にサーシャにとって悪い結果になろう事を心配する言葉でしかない。
愕然としながらも、騙された、と思ったユーグレアスは立ち上がる。
「もう一度、説得をして参ります」
「無理だ。侯爵家からは一切の交流を断つと申し入れがあった。その上で、アイリーン嬢の新たな婚約も告げられたのだ。グレイシア嬢が嫁がれる第二皇子殿下の側近との婚約で、もう約束は交わされている」
「そ、んな………」
力なく椅子に沈み込む息子を見て、しみじみと公爵は息子の失態を論う。
「他にも名の挙がった家門のご令嬢に手を回しただろう。我が家の権力から逃れる為に、他にも帝国へと逃れたご令嬢もいるのだ。……お前は今まで何を学んできたのだ。王子殿下と共に下賤な女に惑わされていたと思えば、みすみす大魚を逃して、家族を窮地に陥れるとは」
心底蔑んだ目を向けられて、ユーグレアスは何も言う事が出来なかった。
グレイシアが優秀過ぎるくらいに優秀なのは知っていたが、彼女がそこまで手を伸ばしている事には一切気づけずに。
あの最後の会話で、アイリーンの事やサーシャについて触れられた時にも、それを看破する事は叶わなかった。
釘を刺そうと思っていた、と言われれば注意をする事だけだと思い込んでいたが。
翻意のある優秀な人材を受け入れるという隠された意味があったのかと唇を噛みしめる。
「申し訳、ありません……」
ふらふらと廊下を歩き、愛しい妹の部屋へ訪う。
だが、癒されたいという思いを胸に訪れたそこで目にしたのは、敵愾心を向ける冷たい目だった。
「サーシャ……」
「話したく、ございません」
冷たい拒絶の言葉に、ユーグレアスはびくりと差し伸べた手を揺らす。
全て、妹の為に行ってきたことが意味をなさなかった。
それでもずっと愛情を注ぎ続けて来たのに。
「わたくしはグレイシア様を尊敬して、アイリーンお姉さまが大好きだったのに、何故お二人とわたくしを引き裂いたのですか」
耐えきれないように、サーシャの大きな目から涙が溢れ出す。
まだ丸く、幼さの残る頬を大粒の雫が滑り落ちていった。
「……それは、」
「本気で思われたのですか?王子殿下のお相手に、男爵家の庶子という出自の方が相応しいと?国母足り得ると本当に?王国民すべての女性達の頂点に立つ御方であるべき方だと思われたのですか?!」
そう突き付けられてしまえば、何も言う事が出来ない。
新鮮で可愛らしいというだけの女性だ。
そんなカリンが大それた野望を抱く訳は無いと思っていたし、全てにおいてレクサスを第一に考えてくれていたグレイシアが何もかも片付けるだろうと高をくくっていた。
「わたくしより、アイリーンお姉様より、お兄様はその方がお大事なのですね」
「そんな事は、断じてない!」
ユーグレアスの声が虚しく響く。
否定したところで、現実は残酷な事実を突きつける。
もし、アイリーンと婚約を解消してさえいなければ。
妹のサーシャがここまで取り乱す事はなかっただろう。
アイリーンが慰めれば、二人できっと何時ものように笑い合って。
きっとユーグレアスと共に、サーシャを守ってくれた筈だ。
「もう、お兄様と話したい事はございません。どうぞ、わたくしの事は放っておいてくださいませ」
ふいと背を向けられて、使用人達が守るように壁を作る。
「小公子様、どうぞお部屋にお戻りを」
年嵩の侍女が冷たい目と声で言う。
さすがにユーグレアスもそれ以上抗う事は出来なかった。
幼い頃から妹が何より大切だった。
だから、その妹と仲が良く姉妹のようでいて他人のアイリーンは妻に丁度良かったのだ。
利発で愛らしく、サーシャよりも気が強いところはあるが、地位や財産といった付加価値に目を向ける汚らしさもなく。
愛情を向けてくれる都合の良い存在として可愛がっていた。
けれど、姉妹同然に育ってきたサーシャを裏切るなんて、と見当違いな怒りをユーグレアスは抱いた。
今まで何度でもアイリーンはユーグレアスが強く言えば、意見を変えて来たのだ。
あと一回。
望みは全て叶えてやると言えば、きっと。
ユーグレアスは一縷の望みを手紙に託した。
***
数日後、手紙の返事が届いた。
明日、アイリーンが帝国へと旅立つというその日に。
指定された場所は、初めて二人きりで出かけた公園だったが、ユーグレアスはその事すら覚えていない。
何故、わざわざそんな場所へ?と首を傾げながらも、正装で向かう。
もし、王妃になったアイリーンが求めるなら、愛人になっても良いと伝えようと思っていた。
それとは別に妻は娶らなくてはならないが、どうせカリンとレクサスの子供が王位を継ぐのならば、公爵家でアイリーンとの子供を引き取って後継にしてもいい。
その程度の約束はレクサスとも交わせる。
覚悟を胸に訪れた公園には、しかし、アイリーンの姿は無かった。
平穏な公園は王家の所有で、出入りを許されている高位貴族しか立ち入りは出来ない。
なるほど、密会にはもってこいだという訳だな、と得心のいったユーグレアスは入り口が見渡せる長椅子に腰を下ろす。
アイリーンはユーグレアスを待たせた事は無い。
いつも先に来ていて、ユーグレアスを見つければ花が綻ぶように微笑みを浮かべたものだ。
手放すには惜しいが、愛人というのは案外悪くない、と笑みを浮かべる。
だが、遅れた事すらないアイリーンは、いくら待っても現れない。
一時間も待たされて、まさか悪戯かと不安と焦燥に駆られて立ち上がったところで、壮年の男が入り口に現れた。
入り口の衛兵と何か言葉を交わし、中へと入ってくる。
まっすぐに、ユーグレアスの元へ。
「フィラント公爵令息殿。アイリーン様よりお手紙を預かって参りました」
「………は?」
ユーグレアスは会いたい、と送ったのに、初めて反故にされた事で怒りが頂点に達しそうだった。
だが、手紙は読まなくてはならない。
男は手紙を渡すだけ渡して、さっさと踵を返して入口へと戻って行く。
普通は返事を待つものだろう、と思ったが、それならば急がなくてはならないと封蝋をむしり取るようにして手紙を開いた。
「小さい頃からずっとお慕いしていた貴方に、わたくしの宝物をお返し致します。
思い出の場所に、手紙と共に置いておきますので、お探しください。
それがわたくしの答えです」
「……くそっ!こんな忙しい時にくだらない遊びに付き合っていられるか!」
手紙を叩き付けようと思ったが、もしその宝物を見つけて持って行くことが彼女がユーグレアスの提案を受け入れる条件なのだとしたら。
結局、茶番に付き合うしかないのか、とユーグレアスは公園を見渡した。
そこで、やっとこの公園自体が彼女の隠し場所なのだと分かる。
もしも公園という指定すらなかったら、と思うとユーグレアスも流石にゾッとした。
だが、公園内だとしても思い出の場所など幾らもあって覚えていない。
ユーグレアスは手当たり次第に探す事に決めた。
公園の奥まった花園に囲まれた噴水と、その脇の長椅子にそれは置かれていた。
白銀の髪留めに、水色の石が嵌められたそれは、アイリーンを模した物だ。
だが、それを手に取って違和感を感じる。
本人に本人の色を贈る事は、あまりない。
辺りを見回せばきらりと目の端に何か映って、足を向けたそこにはもう一つの髪留めが手紙の上に置かれている。
銀の飾りに紫色の。
その時不意に、ユーグレアスは思い出した。
アイリーンとサーシャの二人がよく色違いの意匠や、お互いの色を身に纏って遊んでいた事を。
「これは、サーシャの……?」
嫌な予感がして手紙を開けば、そこには絶望が綴られていた。
「わたくしの宝物は返して頂きます」
かしゃん、と音を立てて手から髪留めが滑り落ちて、地面に落ちた。
彼女は裏切っていなかった。
アイリーンは、サーシャを裏切ってなどいなかったのだ。
裏切られたのはユーグレアスだけで、アイリーンはサーシャの望みを叶えたのだと理解する。
それは、奇しくもユーグレアスも望んだことだ。
王国から離れる事で、サーシャは無為な婚姻を愚かな王子と交わす事は無い。
だがしかし、サーシャはもう。
最後に一目会おうとユーグレアスはふたつの髪留めを持って馬を走らせて侯爵邸に向かう。
明日出発だというのなら、止められないまでも姿を見て言葉を交わすことくらいは出来るかもしれない。
最後の最後に誠心誠意謝って、もしアイリーンが受け入れてくれるのならば、サーシャと離れずにすむかもしれないのだと欲が出る。
駆け付けた侯爵邸は、数日前に見た物々しい帝国の警備兵が消えていた。
それどころか、妙に屋敷が静かに見える。
おかしなことに門番すらいない。
勝手知ったる侯爵邸に足を踏み入れて、扉を開こうとするが鍵は閉まっている。
仕方なく裏に回り込めば、大きな窓から室内が見えた。
がらんとした空間には、大きな家具に布がかけられていて、絵画や装飾品などは消えている。
出発の日時自体が嘘だったのだ、と初めて気が付いて思い返す。
思えば手紙を出したあの日以降、サーシャを目にしていない。
部屋で食事を摂ると言って現れず、部屋にも決して近づかせて貰えないまま。
その内怒りが解ければ、アイリーンが戻ってくれば元通りになるだろうと楽観視していた。
他から荒唐無稽に見えても、長年愛され続けたユーグレアスはその自信があったのだ。
アイリーンが自分の元へ戻らない筈がない、と傲慢にも。
「これは、誘拐ではないか……父上に報せないと……」
望みは叶った筈だ。
愛する妹が愚かな王子へと捧げられる運命は回避された。
でも、何もかも失うとは思っていなかったのだ。
ユーグレアスはふらふらと王城へ向かい、父の公爵に目通りを求めて執務室へ通された。
「サーシャが、いなくなりました」
「ああ、帝国へ逃がした。それが何だ?」
「父上も知っていたのですか!?」
公爵は冷たい目で息子のユーグレアスを見つめた。
「何処まで愚かなのだ、お前は。可愛い娘をみすみす不幸にする訳にはいかないだろう。愚かな王子に嫁ぐのも、愚かな兄に閉じ込められるのもあの娘の為にはならない。それならば姉と慕う者と共に、尊敬出来る淑女の元で暮らすのが幸せというものだ」
「この国は、どうなるのです!」
王子の婚約者は未だ見つからない。
有力候補を更に二人欠いた今、婚約を覆されない為に婚姻を急ぐ家だってあるだろう。
自分の欲が満たされないからと、急に大義を持ち出した息子に公爵は冷たい笑みを浮かべた。
「壊したお前達が何を言う権利も無い。だが、流石にこれ以上の優秀な人材の流出は国王陛下も看過出来ないと仰せだ。皆が優秀な王妃候補に全てを任せすぎた結果だ。見限られることを想定していなかったのだろう。我々は国を維持するために此処に残るのだ、お前もな。下賤な女と愚王の間に子が生まれたとて、誰が喜んで仕えるものか」
がくがくとユーグレアスの足が震える。
耐えきれずに、へたりと椅子に沈み込んだ。
「まさか、帝国に併呑されるのですか」
「それは分からぬが、正当な後継者を作る事が出来る血はグレイシア様にもある。王と迎え入れる時に属国となるのか同盟国として新たな王朝となるかはこの国次第だろう。それよりもお前は自分の心配をしたらどうなのだ?」
「……何を…」
言いかけてユーグレアスはハッとした。
何も結婚相手を探さなくてはならないのは、レクサスだけではない。
「お前は自由に相手を選ぶが良い。ただ、生まれた子の優秀さも母の出自も跡継ぎとして問題があるようなら、アンドレイの子供を養子として迎える事になるだろう」
「……アンドレイ………弟に後を継がせるのですか?」
「……ああ、それも気づかぬのか。アンドレイはサーシャと共に帝国に渡った。今の後継はお前しかいないのだよ。だからアンドレイの息子、と言ったのだ」
「な…、ぜ………」
サーシャを挟んで育ってきた弟だけが何故、サーシャの側にいるのかとユーグレアスは呼吸を詰まらせながら問う。
いつもユーグレアスと共に、サーシャはずっと公爵家に居ればいい、と言っていた弟が。
「あの子は姉思いだ。姉の幸せの為なら何でもするだろう。お前と違ってな」
「違、そんな、私もサーシャを守ろうと……!」
「結果が伴わぬでは意味が無い。あの子にも拒絶されているのだ、だからあの子にもし子供が出来たとして、お前がいる限りは後継に迎える事も出来ない。自分の愚かさを呪うがいい」
話は終わりだとでも言うように公爵が手を振れば、侍従と護衛騎士が来て両脇を抱えるように立ち上がらせて、ユーグレアスは扉から外へと出された。
たったひとつ。
道を踏み外しただけで、人生は転がり落ちるように音を立てて崩れ去った。
レクサスの暴走を止めさえしていれば、全て手に入ったのに。
後悔しながらも、その望みを求めたい相手は手の届かない所にいる。
手の中の髪留めを見れば、姉妹の様に寄り添う二人の如く静かに輝いていた。
ユーグレアスはこの先一生サーシャに会う事は出来ません。帝国出禁なので!いや、今後結婚してくれる相手も見つからない……気がします。レクサスとの対立までは書けなかったので、そちらはレクサス視点で書けたらと思います。
少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。寒くなって参りましたので、皆様も風邪など召されぬようお気をつけてお過ごしくださいね!ひよこも他視点をまたちょぼちょぼ追加していきます(活動報告も更新したので、お時間ありましたら是非)感想やご意見ありがとうございます!