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顔の熱が完全に冷めてから、美亜は席に戻った。香苗と綾乃は時間差で、戻ってくるだろう。その辺りの連携は取れている。
昼休憩まであと5分。パールカンパニーは福利厚生が充実していて各階に休憩スペースがあり、最上階はワンフロア全てが社員のためのカフェスペースになっている。
しかも昼食時には無料のデザートまで用意される。ただし数には限りがあり、雇用形態に関係なく早い者勝ちのルールだ。
暗黙の了解として、本来なら正社員に譲るべきなのだが、美亜は遠慮はしない。
だって用意されているデザートは駄菓子だけではなく、自社ブランドの高級菓子”花珠シリーズ”と、コンビニコラボで大ヒットした真珠大福もある。淡く輝くそれを何としても食べたいのだ。
美亜は机の上を片付けながら、綾乃たちが戻ってくるのをソワソワしながら待つ。時刻は11時57分。どうか内線が鳴らないでと祈ったその時、甘い香りとともに頭上から声が降ってきた。
「星野君、ちょっといいかな」
空気を読まずそう言ったのは、コスプレ課長……もとい、指宿亮史だった。
「は、はい。なんでしょう」
チャイムと同時に駆け出したい美亜は舌打ちしたい気分だが、立場上嫌とは言えない。引きつった笑顔を浮かべて指宿に続きを促す。
「お昼前に悪いが、先ほどミーティングでちょっといい案がでなくてね。申し訳ないんだが、派遣の皆さんにも意見を聞きてみようと思ったんだ」
「……はぁ」
こりゃあ、話が長くなるなと美亜はうんざりする。何も今じゃなくていいじゃんと、心の中でぼやいていたら綾乃と香苗がトイレから戻ってきた。
「あ、課長お疲れ様です」
「お……お疲れ様ーす」
「ああ、お疲れ」
二人はぎこちなく指宿に挨拶をして席に着いたが、動揺を隠せないでいる。
無理もない。営業企画課に席を置いて半年近くがたつが、これまで美亜は一度も指宿から声を掛けられたことはない。これは派遣社員にとっては事件である。
しかし好奇心はあっても、面倒事に巻き込まれたくないと思うのは当然の発想で、二人はこちらを見ようとはせず、ただただ仕事をするフリをしてチャイムが鳴るのを待っている。
「で、話は戻すが今度の商品のターゲットが──ああ、昼か」
再び指宿が口を開いたと同時に、昼休憩を告げるチャイムがフロアに響き渡る。
すぐさまざわざわし始める社員達を一瞥した指宿は、なぜかニコッと笑って美亜にこう言った。
「ちょうどよかった。お昼を食べながら話そうか」
瞬間、美亜を中心に半径5メートルが静寂に包まれた。
冷酷上司が笑っただけでもセンセーショナルな出来事なのに、派遣社員を食事に誘ったのだ。刃物のような女性社員の視線が美亜を刺す。
「あの……申し訳ありませんが、私……お弁当を持ってきてまして」
「そうか。それは残念だったな」
「はい」
体の良い断り文句を紡げば、幸いにも指宿は引き下がってくれた。……と、思ったのだけれど、
「そのお弁当は夕飯にしてくれたまえ。では、行こう」
「え?……えー!」
悲鳴に近い声を上げる美亜だが、無情にも指宿は無視してフロアを出ようとする。
「花珠シリーズは、うちらにまかせて。はい、いってらぁー」
「どこでランチしたか後で教えてね。んじゃ、行ってらっしゃい」
他人事だと思って香苗と綾乃は、オロオロする美亜の背中と肩を軽く叩く。
嫌だ嫌だと思っても上司の命令は絶対。派遣社員である美亜は、評価向上のためトボトボ歩きで指宿の後を追った。
甘い香りは、指宿のコロンなのだろうか。彼に近づくごとに、香りが強くなっていく。