エジプトのピラミッドは墓ではない説は正しいのか? ④
多くの資料から古代エジプトの王墓造営は即位した瞬間から死を迎えるときまで永遠と続けている。
当然お金のかけ方もそれに比例する。
ただし、それはエジプト人が特別だったかといえば、そうではない。
古代中国の始皇帝陵、現在は大仙陵古墳と呼ばれる日本の仁徳天皇陵を見てもわかるとおり、権力を持つ者はその最高のものを自身の陵墓とした。
そして、その墓には王の遺体を守るという重要な役割があるわけなのだが、エジプトのピラミッドはその立地によってその役割が果たせなくなりかけたものがいくつかある。
ダハシュールにあるふたつのピラミッドである。
スネフルの屈折ピラミッドとアメンエムハト3世の黒ピラミッドである。
このふたつのピラミッドは岩盤に上に造営しなかった、というか造営したつもりだったのだが、建造中に内部構造に罅が入った。
下手をすれば崩壊する。
そこで別の場所にピラミッドをつくり直した。
これがひとりの王が建てた複数のピラミッドが存在する根拠とされる。
さらにスネフルに関しては、階段ピラミッドから真正ピラミッドに形状変更をおこなったことによりさらにもう一基のピラミッドができたというものである。
一応、これを踏まえて、その歴史を並べてみれば、こうなる。
まず、メイドゥムに階段ピラミッドを建造する。
現在外側部分が剥がれ落ちたためにその過程がわかりやすくなっているのだが、このピラミッドは数段階に分けて拡張されている。
ついでにいえば、エジプト最初のピラミッドである階段ピラミッドも同様の拡張過程が確認されている。
これについては、おそらくまずは完成を優先させたものの、自身の健康状態から拡大しても問題ないとしてさらに大きくする工事をおこなったと思われる。
一応、ほぼ完成が見えたところで、王は新しいピラミッドをつくり始める。
それが屈折ピラミッドである。
このピラミッドは傾斜角度60度というとんでもない急傾斜のピラミッドに挑んだ。
さすがに不安だったのかかなり小さなサイズだったことはこのピラミッドの加工通路に残された痕跡から確認できる。
そして、過去の例に漏れず拡張が始まるわけなのだが、工事の難易度の高さから角度を緩めたにもかかわらず内部構造に罅が入り始める。
重量軽減を図るため角度を緩めるものの、不安は残る。
やむを得ず、さらにもう一基、ダハシュールにあるもうひとつの巨大ピラミッドである赤ピラミッドの建造を始める。
だが、さすがにここから工事が始まれば、王の寿命が尽きるのとピラミッド完成はどちらが早いかわからない。
そこで思いついたのが、メイドゥムに放置されていた階段ピラミッドを真正ピラミッドに改装する案である。
それがメイドゥムのピラミッドの第三段階となる。
ちなみにメイドゥムのピラミッドの別名崩れピラミッドが示すとおりこのピラミットの外装部分は大きく崩れているのだが、一般に言われている工事途中で崩れたというものはその土砂から発見された遺物から否定され、崩れたのは千年以上経ってからということになっている。
案外ピラミッドの外装石に使用された質の良い石灰岩を再利用した、この手の所業の常習犯の時代にそれが起こったとも考えられる。
それから、最後につくり始めた赤ピラミッドであるが、完成したことはそのピラミディオンの破片が発見されたことから証明されている。