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竜鱗騎士と読書する魔術師

竜鱗騎士と読書する魔術師3.5 まあまあ最悪の飲み会

作者: 実里晶


 史上最悪の一週間が終わった。

 もちろん翡翠女王国に来てからというもの、僕にとって悪くない日というのが存在していないわけだけれど、常に最悪を更新し続けているので直近の七日間が『一番最悪』ということで間違いないと思う。


 どう考えてもアレ以上に悪くはなりようがないだろう、という嵐みたいな期間が通り過ぎると、しみじみとそのヤバさが滲み出てくる。

 マージョリー・マガツの死から始まった一連の事件は僕の命運をピンポイントに、かつ的確に変えていった。竜卵、魔眼の尖晶家、星条コチョウ、秘色屋敷の交霊会、黒一角獣の角、その他もろもろ……。

 何もかもが変わった。

 女王国はマージョリー・マガツを失い、文字通り予測し得る可能性を喪失した。

 黒いものが白くなりカラスがウサギになった。それくらいの変化だ。

 でも変わっただけで、僕は放り出されたままだ。どうしたらいいのかわからず、ときどき突然、叫びたい気持ちにさせられる。道の真ん中で金切り声を上げてる大人って、こういうふうに作られているんだろうな、と思う。


 まだ街は瓦礫も目立つ。

 一時的に通り雨が埃っぽさを洗い流していった。


 石畳の道は街灯を反射して飴色に輝いている。

 天海市は(から)くも竜卵の攻撃から逃れた。街を去っていった人々はゆっくりと国内を移動し、日常へ回帰しようとしている。竜の危険性や避難の情報を流していたマスメディアは方針を転換し、府の対応を議論しはじめた。

 目先の災難を回避したとしても、海市は幾度も攻撃を受けて、その爪痕は癒えないまま、救世主を失ったままだ。土地や建物や人々は無数の傷を負って、血を流したままなのだ。そして時間は、そんな疲れ切った人たちを休ませるためにわざわざ止まったりはしなかった。

 彼らも同じなのだ。あの七日間に関わった人たちはみんな、千里眼を失って、どこともしれない場所に放り出されてしまった。

 だけど日常というのは残酷なもので、混乱の嵐が吹きすさぶなか、それでも息をしろとせっついてくる。

 病院や公共交通機関がいちはやく機能をしはじめ、魔術学院も三日後には通常授業を始める予定だ。


 そういうタイミングで紹介されたレストランは「世の中の出来事とは無縁ですよ」というような澄まし顔をしていた。


 硝子の戸には金文字で《大山猫亭》という店名が記述してあり、それを開けると絨毯(じゅうたん)の敷かれたやたら長い廊下に出た。

 まず最初のドアを開けると、次の扉に視界を(ふさ)がれる。ドアの足元にはブラシが置かれていて、扉にはめこまれたすりガラスにはやはり金文字で男女別に店のドレスコードがひとつずつ記述されている。

 男性は帽子と外套、ピカピカに磨かれた靴、カフスボタンと懐中時計、最後は香水だ。その度にドアを開けたり閉めたりしなくちゃならない。

 まるで『注文の多い料理店』だが、予想とは違ってひとつずつ着衣をはぎ取られたり、顔や体に牛乳のクリームを塗りたくられたり、小麦粉を叩かれたりするようなことはなかった。


 僕をこの店に誘った人物によると、


「昔はそういう魔術が働いていたようで、何人か行方不明者を出したようですが、今は法律に反するので」


 ということだそうだ。


 店の伝統がひとつずつ開いては閉じ、最後は支配人が待ち構えていた。

 バーカウンターの隣には、レストランを背景に、魔術捜査官に取り囲まれて鎖に繋がれている巨大な毛むくじゃらのバケモノの写真が飾ってあった。以前はとてもではないが、落ち着いて食事が楽しめる雰囲気ではなかったようだ。

 係の人間が外套を受け取り、クロークにしまってくれる。

 わざわざ応対に出てきた支配人だという初老の男性は、この店は竜卵の騒動の最中も、海市に残ったスタッフで営業を続けていたのだと誇らしげに語った。

 

「支配人、彼の前でするにはいささか恥ずかしい類の自慢話ですよ」


 通信ホログラムに映しだされたマスター・サカキは、苦笑いを浮かべた。

 土地勘がない僕のために、ずっと道案内をしてくれていたのが彼だ。そして、このレストランに僕を招待したのも彼だ。


「こちらにおわす御方は、我らが女王国の()えある赤薔薇、紅水紅華(こうずいべにか)殿下の騎士であらせられる。次代の王の父君となり、女王陛下と国民を守護してくださる方です。そればかりか、溢れる才能ですでに幾度も女王国の脅威を打ち払っておいでです。敬意を払ったほうがいいでしょうね」


 支配人は青ざめた顔をした。

 僕はこの手の反応にすでに辟易(へきえき)していた。


「マスター・サカキ、やめてください。自慢話をしに来たわけじゃないんです」

「あらあら謙虚アピールですか?」

「そういうの、なんの得にもならないって学習済みなんですよ!」


 異世界転移してチートを手に入れ、誰からも褒めそやされるというのは(はた)からみていればそこそこ楽しいイベントに思えるだろう。でも実際やってみると、だからなんなんだっていう話だ。

 誰かから注目されて丁重に扱われるというのは、それだけ立場が多いっていうことだ。それだけ誰かから着目されて、そのまなざしの先にいる誰かの敵になったり、利用されたりする危険性があるということでもある。

 なーんにも楽しくなんかないぞ。

 なーんにも。


「だいたい、騎士になったのは成り行きで、紅華の夫は誰か別の人物がなるよ。僕と彼女じゃどう考えても釣り合わない」

「ええ~。仮にアナタと殿下の御子様が王座を逃してしまったとしても、ひとりでも子をもうけてしまえば一生安泰なのに。そんな大チャンスを見過ごすなんて~」

「貴方と話してるとうっすら使い魔(オルドル)のこと思い出すんですけど……」

「それにヒナガ先生、研究費の助成も受けてないでしょ。企業からの助成金は条件が厳しいですし。学院で研究を続けていくなら資金源の確保は鉄の大命題ですよ」


 再度、文句を言おうと準備して、僕は口が半開きになったまま固まってしまった。


「そういえば、僕って魔術学院の教官なんだったんだな……」

「え? そこからですか?」

赴任(ふにん)してからというもの、教官らしいこと何一つしてなかったので……」

「血みどろになってましたね。いつも。私はおもしろいなと思ってました」

「助けてくださいよ。ウファーリに襲われたときとか」

「んふふ。あのときはカガチ先生が傍観とお決めになったので……、まあ別にあのときだけじゃないですけれど」

「んふふじゃないんですよ」


 クスクス、という笑い声が支配人の後ろから聞こえてきた。

 ホログラムと二重音声になる。

 支配人のうしろに、店員に車いすを押されたマスター・サカキが姿を現した。

 今日はお互い、教官服を着ていない。盛装だ。僕は服というものをほとんど持っていないのだが、リブラに相談したら慌てて用意してくれた。慌てる理由がよくわからないんだけど、それはまあいい。

 (サカキ)と相対していると…………僕と彼の関係性に限って言えば、何を着ているかなんて、それほど大したことじゃないって思える。


「僕はまだあなたの正気を疑ってますよ。あんなことがあったばかりなのに、《飲み会》だなんて……ほんとのほんとに《飲み会》なんですよね」


 サカキはニヤリと笑った。


 いろいろな意味で信じ難いことだが、マスター・サカキがこの僕こと日長椿(ひながつばき)を《飲み会》に誘ってきたのがおよそ三時間ほど前のことだった。

 未成年を酒の席に誘うことじたいが非常識だと思うが、誘ってきた相手があのサカキだっていう事実がもっと驚きだ。

 僕は三日前、この人の前で死にかけた。

 血みどろになってのたうち回ったところを見てたはずだ。

 そして何よりサカキ先生の正体も知ったのだ。

 だから、飲み会だなんて連絡が来たときはとうとう気でも狂ったのかと思った。


「私は私ですよ。どこにいて何をしていても……。わたし自身が()()()()()()()()()()()()ね」


 サカキは至極おだやかな口調で、そう答えた。


「いつか私のことを魔術捜査官が逮捕しに来るかもしれませんが、そのときのことはそのときに考えればいいのです」

「そういう態度が信じられないって言ってるんだけど」

「いつもいつも秘密を抱えたまま、閉じこもっておくわけにはいかないんですから。日常にだって我々の役はあるんです。そうでしょう? あなたは私に……自分を犠牲にする必要はないとおっしゃった」

「それはそうですけど」

「これがわたしの日常なのです」


 彼は手のひらの仕種で、周囲を示す。

 《大山猫》の客たちはめいめい着飾って、会食を楽しんでいる。高級店らしく落ち着いているけれど、厳粛といったふうではなく、それなりに騒がしい。

 大山猫に客を食わせて、その作法を伝統にしてる店だから、まあそんなものだろう……これは悪口だ。

 二階から上は個室が並んでいて、案内されたのはその一室だった。

 サカキは支配人じきじきに車いすを押され、個室に案内されていた。

 なんか見るからに高級店って感じ。


「既にオガル先生とプリムラ先生がいらしてますよ」

「この間から疑問なんだけど、マスター・オガルとどんな顔して会ってるの?」

「ウフフ。先生は意地悪ですね。腹に一物抱えた者どうし、仲良くやりましょうよ」


 到着するや否や、仕切りの向こうから孔雀色(くじゃくいろ)のドレスをまとった妙齢の女性が飛び出してきた。


「あいたっ!」


 不意打ちを受け止めそこねて廊下に押し戻されて尻もちをつく。

 女性の体からは香水のにおいと、酒のにおいが立ち昇ってくる。体に全く力が入っておらず、言葉で表現するなら「ぐでぐで」だ。けっこう飲んでるな、これ。

 ちょっと嫌な記憶を呼び出しそうになったけど、無理やりねじ伏せて現実を直視する。

 輝く紫色の瞳がふたつ飛び込んできた。トレードマークの三角魔女帽子は、今日は不在だ。華やかな場にふさわしく結い上げられた髪が無造作にゆるんで、何やら妙になまめかしい気がして僕は可能な限り素早く視線を外した。

 あぶない、魅了の魔術だ。


「ヒナガせんせえ!」


 こっちの気も知らずに、彼女は涙混じりの声を上げた。


「えええっと、もしかしてマスター・プリムラ? いったいどうしたんですか」

「ヒナガせんせえ、わたし、かわいそうなの! すっごくすっごくかわいそうなの~!」


 マスター・プリムラは僕の胸に顔を突っ込んで嗚咽(おえつ)を立て始める。


「申し訳ない。私だけじゃ力不足でどうにもなりませんでした」


 個室の奥からうつむき気味に青い頭を下げて出てきたのはマスガー・オガルだ。

 彼らも今日はプライベートなので教官服じゃない。

 濃紺のジャケットを羽織り、白いニットの上にループタイを合わせてる。

 オガルは泣きつくプリムラを抱え上げ、僕から引きはがした。

 僕は散らばったプリムラの靴やハンドバッグの中身を拾い上げ、個室の中に押し戻すのに必死だった。

 これ以上騒ぎを起こしたら人目につく。

 学院の教官服を着て来なかったのは不幸中の幸いだ。いやちがうな。

 誰かに見られたらまずいから、誰も教官服を着てないんだな。


「たぶん僕にもどうにもならないと思うんですけど、どうしたんですか」

「フラれたんです……。彼女はお付き合いしている男性にフラれるたびに、ヒマそうだからという理由で私たちを呼びつけて深酒をするんです」

「えっ!? 今日の飲み会の趣旨ってまさか、それなの!?」


 僕は驚きのあまり声を上げた。


「いいですか、ヒナガ先生。学院の最年少教官仲間として教えておきます。楽しい飲み会なんてこの世に存在しないんです。この先幾度となく季節が移ろっても、それだけは絶対です」


 マスター・サカキは精いっぱいの諦念(ていねん)を浮かべた表情で、僕にしょうもないことを説いてみせる。


「今、僕は貴方のことを軽蔑してますよ……?」


 ものすごいポジションを日常に据えてるんだな、とも思った。


「なんとでも仰ってくださって結構。ただ、この会の参加者は極めて常識的でかつ懐豊かな階層出身者で揃えてますので、最年少であるヒナガ先生は財布をポケットから取り出す必要すらありません。私どもの支払いで何でも飲み食いして頂いて結構です」

「冷静と狂気のあいだって感じで評価し難いです」

「シャンパン! シャンパンもってきて!」


 プリムラはこっちの困惑なんか気にする余裕もなく、(むせ)び泣きながら酒を求める。普段、学院でみせる落ち着いた大人の女性らしい姿とは真反対の醜態(しゅうたい)だ。

 生徒たちがこれを見たら泣くだろうな。怖くて。


「これ、いつもはどうしてたんですか?」

「カガチ先生がひたすら相槌(あいづち)をうち、死ぬほど飲ませて自宅に送り返してました」

「カ……カガチ先生が……!?」


 オガルの解答はさらに極限を越えた驚きをもたらしたが、しかし、その様子が瞼の裏にありありと思い浮かぶようでもある。

 酒と涙の狂乱をいなすには、あれくらいの器が必要だろう。

 幾千万の竜を殺し、英雄と呼ばれた器が。

 

「海千山千のマスター・カガチとくらべたら僕なんか代打にもならないでしょ。それに恋愛相談はオガル先生の方が得意分野なんじゃ?」

「自分は占えるだけで相談が得意ってわけじゃないんです……。相談が得意なら占い師になってます。むしろどちらかというとそういうの苦手なんです」

「マスター・サカキと根っこは同じ研究者タイプなんですね……」

「というか、どれだけ占ってもうまくいくわけないんですよ」


 オガルは沈痛な面持ちだ。

 サカキもうんうんと訳知り顔で頷いている。


「つまり、どういうこと?」

「マスター・プリムラは普通にモテるんですよ」

「まあ、そうだろうね」


 僕の目線からみても、美人でスタイルがよく優しくて生徒思いな先生という、モテる女性の概念に小麦粉と水を混ぜて人の形にしたような彼女がモテないなんて考えにくい。


「しかも付き合いはじめるとけっこう尽くすタイプでいらっしゃるんですよね」


 マスター・サカキがしみじみ実感をこめて言う。


「じゃあ言うことないじゃん……」

「いやいや。問題はむしろ尽くすほうなのですよ。いったん付き合いはじめると、メイクや服装が変わり始めて、最終的に趣味も変えてしまうような方なんです」

「ああ……いつもは見向きもしないゲームとかアウトドアとかやりはじめたりするやつね……」

「彼女の場合、生来の真面目さと優秀さがあるのか、けっこうやり込んでしまい、短期間のうちに急成長してしまうんです」

「……でも、恋人と同じ趣味とか遊びとかができるのは、うれしくない? いやまあ、僕は女性と付き合ったことないからわかんないけど」


 オガル先生とサカキ先生は揃ってうっすい笑みを浮かべている。


「ヒナガ先生には、永遠にそのままでいてほしいですね、オガル先生」

「そうですねえ、サカキ先生」


 もうツッコミはしないけど、これはまちがいなく生徒が聞いたらイラっとくる職員室での会話ナンバーワンだな。


「プリムラ先生の成長ぶりはちょっと普通じゃないんですよね。たとえ初心者からはじめたとしても、あっという間にプロの領域に達してしまうんです。男性と付き合う度に増える資格、コンテストや大会の優勝トロフィー……」

「あ~…………」


 僕は「あ~」としか言えなかった。

 なるほどこれは、プリムラの問題であると同時に、彼女と付き合った男性の自尊心の問題なのだ。

 プリムラの交際相手だって、かわいらしい恋人が自分の趣味に合わせてくれたら、最初は嬉しいだろう。ずぶの素人である恋人を導いていくことにある種の快感を覚えることもあるに違いない。しかし、ものの数か月で自分よりうまくなられたら、何というか……。複雑な気持ちにもなるだろう。

 はっきり言って、劣等感が刺激されて、恋愛どころじゃない。


「それで交際相手のプライドに修復不可能なほどの傷つけてしまい、結果、別れる、と……」


 僕が残酷な事実を突きつけると、プリムラの泣き声が一際、大きくなった。

 何度も繰り返してるならやめればいいのに、と思ったが、言うのははばかられた。やめれるなら彼女は今ここで不毛な飲み会を主催してはいない。

 運ばれてきた前菜は非常に繊細でおいしいものだったが、泣いてる女性と同じ空間で口に運ぶと味が十割落ちる。無だ。僕はいま虚無を食べてる。

 なんて貴重な経験なんだろうな、無を咀嚼できるなんて。


「私もね、注意はしてるのよ。今度こそは、と思うの。でも、何度も熱心に誘われると断りにくいし、愛し合って信頼してる相手がそんな情けない態度を取るとは思わないじゃない!」

「正しいけど間違ってる……」


 そう呟いた僕に、サカキ先生が大きな咳払いをした。

 この会の趣旨はプリムラ先生を(なだ)めるか慰めることであって、現実を突きつけることじゃない。

 そのとき、僕の袖のカフスが微かに輝いた。


「…………あ、すみません。少し抜けてもいいですか」

「えっ、どうして? いやよ、ヒナガ先生もプリムラを置いていっちゃうの?」

「いやと言われても、今日はもともと別の用事があったんです」

「やだやだ! もっともっとプリムラのお話きいて~!」


 冷静に説明しているのに、酒の影響もあって幼児退行しているプリムラは全然こちらの話を聞いてくれない。

 さすがに、マスター・サカキもたしなめる雰囲気だ。


「マスター・プリムラ、ヒナガ先生は人とお会いする約束があるのです。今日はその待ち合わせ場所を山猫亭にしていただいて、無理を言って飲み会に参加してもらったんですよ。きっと、すぐに戻られますから」

「やだやだ、そう言ってみんな戻ってこないんでしょ!?」


 そう言って涙をこぼすプリムラは、まるで十五歳の少女のそれだった。

 十五歳じゃないところだけが問題なわけだが。


「先生、構いませんよ。支配人に言って、個室を用意してもらっています。防音で魔術的に封じられた空間です。密談にピッタリのね」

「そうは言われても……」


 マスター・プリムラが泣いているという事実は変わらない。

 そして僕は女性が泣いているという状態が嫌なんだ。


「ヒナガ先生、いっちゃうの?」

「すぐに戻りますよ」


 僕はプリムラ先生の手を取り、そっと握り締めて真剣に謝った。

 酒でぐでぐでで正気を失っていても、彼女はマスター・サカキの大切な日常なのだ。

 そのとき、僕の頭に悪魔的発想がひらめいた。


 こんなとき、あいつだったら何て言うかな。

 たぶんこうだろう、という正解に、少し傷ついた。


 きっと彼なら……。


 僕ってこういうところがある。

 去った人を追ってしまう。いつまでも手放せないでいる。

 僕はにぎった彼女のてのひらを返して、彼女がつけた中指の、やや大振りなアメジストの銀の指輪に軽く口づけた。


「だから戻るまで僕のこと考えててくださいね」


 その瞬間、オガルが息をのむのがわかった。

 サカキは研究対象を発見した、みたいな笑顔。

 そしてプリムラは「はっ」と表情をこわばらせた。

 それは、酔いの波の中に突如として現れた正気の顔だ。


「わたし…………もしかして捕まる……………!?」


 僕は軽くうなずいて個室を出た。

 酔っ払いは……ときどき意識を失って何も覚えてない、なんてことあるけど……大抵はどこかに正気を隠しているものだ……。


「教官だからセーフじゃないですかね」とサカキが言う。


「アウトですよ。教官でも十代は十代です」


 そんな会話が後から聞こえてきた。





 用意された個室に完璧な美が、白く輝く月光を人型にしたものが座っていた。

 竜鱗騎士団団長と言うべきか、めんどくさい戦いバカと紹介すべきかいつも迷う。

 天藍アオイである。

 あいかわらず完璧な頭身を絹のシャツと限りなく薄い銀色のジャケットで包み、不機嫌そうな眼差しで空中を睨んでいる。視線の先へと突き出た銀色のまつげの立ち方でさえ、神か天才彫刻家の作為を感じるほどに、完璧である。彼のタイは驚くべきことに、蝶々結びに結ばれた白いリボンであった。


「知ってるか、ふつう、男が白いリボンをつけて出かけると処刑されるんだ」


 僕はそう言って彼の前の席に腰かけた。


「この店に出かけると言ったら姫殿下が面白がってこれを着せたんだ」


 僕は口をあけたまま固まった。

 それからじわじわと衝撃が全身を、丁寧に襲っていく。

 杏仁豆腐と同じくらい脆い心がブヨブヨに砕け散るのを感じる。


「まさかとは思うけど、それって百合白さんの服なのか……!? それとも、百合白さんがお前に着せようと思って予め用意していたのか、どっちだ!? まさか、おそろいとか言いださないよな!?」

「どう答えてほしい」

「そんなはずないと言ってくれ」

「そんなはずない」

「僕のまえで芸能人カップルみたいな真似は二度としないと言え!」

「姫殿下のご命令に背くことはできない」


 給仕がやってきて、机の上に突っ伏している僕の横に細長いグラスを置いていった。薄黄色いグラスに、緑色に発砲するドリンクが入っている。酒のにおいはしないから、酒ではないと思うが、あいかわらず何なのかはわからない。


滑稽(こっけい)だぞ」


 銀色の瞳が僕を見下しているのがわかる。

 だが、天藍が僕を見下ろしていない瞬間がかつてあっただろうか、いやない。

 もうどうでもいい。ほんとうに何もかもどうでもいい。

 天藍は天上の輝きを放つひと粒のダイヤで、僕は地面を這う蛆虫でしかないのだと思い知らされた。


「お前さ……なんだかんだいって百合白さんと普通に仲良いよな……そういうとこマジでずるいと思うんだよ……。仲悪くなれよ……」

「仲が良いとか悪いとかそういう問題ではない」

「じゃあどういう問題なんだよ」

「俺とお前も仲が良いからここにいるわけじゃないだろう。呼び出した理由を聞こう。まさか仲良くするためじゃないだろうな?」

「確かにそうだ」


 僕はむくりと起き上がった。

 マスター・サカキたちとの楽しい集まり(笑)をわざわざ中断してまで無理をして天藍を呼び出したのにはワケがある。僕からの呼び出しなど、酔っ払いのゲロ掃除くらいにしか思っていないコイツを来させるには相応の理由ってものがなければならない。僕らは楽しいお友達ではないのだ。じゃあ何だと言われると、かなり難しいものがある。考えたくない。


「考えてみると、僕には純粋な友達っていないな――クヨウ捜査官、マスター・サカキ、ウファーリもなんか違う気がする」

「愚痴を言いたいだけなら帰る」

「僕に関するびっくり話だ」

「まだ帰りそうだ」

「座ってくれ」


 僕は座るように手でも合図しながら、決断した。ここに来るまで、何度もした。

 何度も迷い、何度も考え、何度も最悪の想像をした。

 だけど、話した結果何が起きるとしても……隕石がここに落ちて全てを薙ぎ払うとしても、この話を天藍アオイという人物にすると決めてここに来た。

 それはちょうど、何枚もある扉を開けてみる作業に似ていた。

 どんなふうに開けるか毎回迷うし、全部を違ったふうにできるけれど、結末は同じだ。どこに辿り着くかは同じ。必ずここに到着するんだ。


「小さい頃出ていったきり、帰ってこなかった薄情者の僕の父親が誰だかわかった。尖晶クガイ、前女王翠銅乙女の騎士、魔眼の尖晶家のあのクガイだった」


 個室を半歩、出かけていた天藍アオイが戻ってきた。

 僕の言葉が力で引っ張ったって所定の位置に戻すのが難しい怪力の竜鱗騎士を座らせることに成功したのだ。彗星の軌道を変えた、くらいの快挙である。

 天藍はわざわざ卓上のベルを鳴らして給仕を呼び出すと、誰もこの個室に近づけるなと命じて、彼が遠ざかるのを待った。

 それから顔の右側と左側を非対称に歪めたひどい顔できいた。


「いくつも疑問がある。死ぬほど疑問だ。何故俺に話した?」

「僕は前から思ってたんだけど、その質問が最初に来るあたり、お前はわりと繊細な奴だよな……戦闘狂キャラって神経質さの反動なの?」

「お前がクソみたいにクソ内容の無いことを喋りだすのはストレスによる防衛反応だろう、質問に答えろ」

「それは後で話す。先にほかの質問に答える」


 僕達は互いに、心の柔らかいところをチクチクと刺し合い、本題に入る。


「尖晶クガイは魔術界の有名人だ。俺でも知ってる。というか誰でも知ってる」

「僕は知らなかった。君がどんなふうに知ってるかもおそらく知らない」

「自分の父親が彼だったとして、全く知らずに育てる自信がないぞ」

「現実に僕は、最近知ったんだ。しかもマージョリー・マガツに聞くという形で知らされた。母親は何も言わなかったし――というか誰も何も言わなかった。っていうか僕の生育歴なんか知りたいの?」


 天藍はうつむいて考えていた。

 そして呻くように言った。実際に苦しげでもあった。


「お前のことは、単に目がいい奴なんだろうと思っていた……。しかるべきトレーニングをして体の神経系を全部交換すれば、天才的な運動能力を発揮するだろうと」

「何が言いたいかはわかる。でもこの体質は才能じゃない。父親似の魔眼なのかも」

「間違いないんだな」

「残念ながら。僕にとってもあまりうれしい事実じゃない」

「何故、それを俺に話した」


 再度の問いは、僕を責めているような口調でもあった。

 気持ちはわかるよ。気持ちはね。


「このことを百合白さんに伝えて欲しいからだよ。同じことを、これから紅華にも話す。この事実がどんな影響を与えるのか僕には想像がつかないけど、両者に話すことで二人は同じカードを同時に手に入れることになる。僕と君とは一応、同盟関係にあるわけだろ?」


 僕はグラスの脚をつかんで、戦闘中みたいな目つきになっている天藍の視線を遮った。


「大きな問題がある」と天藍が言った。


 声音はいよいよ不穏だ。

 竜の唸り声に似てる。


「問題って?」

「もしもそれが事実だとしたら、お前は唯一の魔眼の継承者だということになる。お前には尖晶家の財産を継承する権利があり、しなかったとしても、それが大っぴらになった時点で魔眼保有者として拘束される可能性が高い」


 やっぱりな、と思う。クガイは生活に苦しんでるみたいだった。このままだと、ああいう目に僕も遭うことになるわけだ。


「ちなみに受け継いでるのは魔眼だけじゃない、クガイが手に入れた黒一角獣の角の力の一部が僕に流れこんでる。これは、どういう形かはわからないけど……。聞いてくれ」


 僕は改めて、黒一角獣の角をクガイが持っている理由を……彼に話した。


「前女王の騎士たちが消えたのは、星条コチョウの策略のせいだ」


 僕は天藍アオイにすべて話した。

 それは彼を通して百合白さんに語るという行為の枠を超えていた。

 だって、彼女はとっくの昔に知っているのだ。

 知らないのは天藍アオイだけだ。

 この情報を知ってどうするかは、僕にはコントロール不能だ。

 だけど、彼が知らないままにはしておきたくなかった。

 全て語り終えた後の天藍アオイはこの世の終わりみたいな顔をしていた。


「百合白さんを守ると言ってくれ、天藍」

「誰からだ? お前か?」

「なんで? ああ、もしかして復讐ってこと?」


 それは全くの新しい観点だった。


「それはないだろ。コチョウがクガイを罠にハメなかったとしたら、そもそも僕は存在してないんだから。それより、もしもこの事実を知ったら紅華は百合白さんを不利な立場に追いやったりすると思うか?」


 僕が紅華やリブラよりも先に天藍に話をしたかったのは、その点がよくわからなかったからだ。


「何故お前がそんなことを気にするんだ」

「僕は百合白さんのことが好きだ」

「冗談をきくつもりはない」

「百合白さんのことが好きな男なんて山ほどいると思うけど」

「茶化すのはよせ」

「真剣だよ。これ以上ないくらい真剣だ」


 僕は扉をもう一枚開ける。


「これまで僕は自分を含めて誰のことも好きにはなならかった。生まれてこの方ずっと誰にも愛されたことがないのに、これが愛だと信じられる」


 でもこの扉は、どこにも通じていない扉だ。

 僕のままならない心の中にある、開けても仕方がない扉。

 改めて認識するのはつらいけど、彼女は僕ではない男を愛している。

 それは変えられない。僕が愛しているのは、天藍アオイを好きな彼女だ。僕がどれだけ努力しても、泣いても喚いても、その事実だけは動かない。もしも何かの奇跡が起きて……彼女が天藍のことを忘れたとして……でもそれは僕の好きな百合白さんではない。


「もしも僕自身が彼女を追い詰める証拠になるなら、僕はこのまま消えてもいい。どこか遠くに」

「夢みたいなことを言ってどうする。それに、おそらくその線はない」

「なぜ?」

「お前の話が本当なら、紅華にはもっとまずい弱点がある」

「…………なんか、それ、わかるかもしれない」


 ただ、僕は天藍の言わんとするところを具体的にはまだ言葉にできていなかった。ふわっとした手触りだ。でも手を伸ばせば形になりそう、それくらいの距離に、確かにまずそうな何かがある。

 天藍アオイはしばらく黙っていた。

 それから不意に目を細めた。

 たぶん、そのときに彼も何かの決断を下したんだろう。

 しかし、その決断は僕には理解のできないものだった。


「俺は、その話を姫殿下にはしない」

「……え、何言ってるんだ、竜鱗騎士。お前、百合白さんの騎士なんだろ」

「もう決めた。反論は受け付けない。だからもう何も話すな」


 そう言って、ベルを鳴らした。給仕に酒のリストを持ってこさせると、そのリストを見ながら「ここからここまでを」と死ぬほど高級な酒を選び「このテーブルを含む全ての客に振舞ってくれ。代金はマスター・サカキが払う」とか言いだした。


「正気か? 未成年」

「いや、正気ではない。正気ではなかったこととする」


 高級酒が店中に配られると、下のほうの席から歓声が上がった。

 そして誰かが「我らが師に!」と叫んだ。歓声は鳴りやまない。誰かが歌いはじめる。なんの歌かは知らない。大騒動だ。

 じきに、マスター・サカキから感情のわからない異世界の絵文字だけで構成された短文のメッセージが届いた。

 給仕が僕らの部屋にも酒を持ってくる。

 天藍は目にも止まらない速さでグラスを掴むと、中身を僕の顔面に引っ掛けた。


「姫殿下に伝えたいことがあるなら、自分の口から言え」


 全くもってその通りである。

 僕は酒を頭から滴らせながら、苦虫を嚙み潰したような顔をしていたことだろう。

 僕が天藍を介そうとしたのは、ひとえに彼女と向き合いたくなかったがための次善の策がこれだったからだ。

 天藍はそう言いおいて、さっさと個室を出て行った。

 仕切りの分厚いカーテンを横に払い、一歩踏み出した瞬間、飛来したワインボトルが彼の左半身に体当たりし、粉々になって中身を撒き散らす。

 当然のことながら僕の魔法の仕業である。

 天藍は激しい靴音を立てて廊下の向こうに行き、早足で戻ってきた。

 僕は卓の下で構えていた金杖を持ち上げて固定する。

 ワンテンポ遅れて、天藍が個室に舞い戻ると同時に力いっぱい蒸留酒のボトルを振り下ろした。目の前でガラス瓶が砕け散った。


「危ないな。僕は人間だから死ぬんだよ」

「死ね!」


 物騒な叫び声は、店のあちこちで盛り上がっている飲み会とやらの嬌声にかき消される。

 なお、後日、この件は『マスター・サカキが未成年を飲み会に連れ込んだ挙句、乱痴気騒ぎを繰り広げ、最終的に飲酒させた』大事件として学内に知れ渡ることとなり、プリムラともども厳重注意を受けることとなった。

 そして僕はサカキに深い謝罪の意志のあらわれとして、一週間ほど彼の雑用をこなすことになるのであった。


 めでたしめでたし……には程遠い。


 まだ話さなければならないことと、対峙しなければならない相手がいる。

 その人は薔薇のドレスをまとって天市で待ち構えている。

 秘密をたくさん抱えている、僕の運命の少女のことだ。





『竜鱗騎士と読書する魔術師3.5 まあまあ最悪の飲み会 —了』


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