3月22日月曜日①
静まり返った深夜の住宅街を自転車で駆け抜ける。
家を出たのが1時半くらいだったから、今は45分くらいだろうか。この辺りは都会とは思えないほど何もなく、一軒家や高くても3階立てくらいのアパートなんかがほとんどだ。
眠りについた町並みはいつもと何も変わらない。少し先の橋の向こうでは何が起きているのかも分からないというのに、我々日本人は自分の手の届かない場所で起きたことは、遠い外国で起きたことと同じ。
それが災害だろうが戦争だろうがテロや通り魔、未知のウィルスだろうがお構いなし。騒ぎ立てるのはいつも、テレビと週刊誌だけと決まっている。俺もつい数時間前まではそんな日本人だった。
頼りない街灯に照らされた道はどこか不気味に思え、たまに道沿いに見えるコンビニやすれ違うタクシーのライトに安堵感を覚える。
自転車の前カゴに入れた鞄には、必要なのかどうなのか分からないが使えそうなものを片っ端から詰め込んだ。自らの背中には捨てるに捨てれず、ずっと部屋の隅で埃を被っていた学生の頃に小遣いを貯めて初めて買った"練習用のベース"を背負っている。
本当は金属バットとかがあれば良かったんだろうけど、あいにく家にそんなものはないし、近くに便利なホームセンターやスポーツ用品店なんかも無かったから仕方なくこれを久々に引っ張り出した。少し重いが振り回すのに問題はない。
道の先に人工島へと繋がる橋が小さく見えて来た。橋の上には煌々と赤い光が見える。家を出る前まで流れていた深夜のニュースでは、封鎖は今も続いているらしいことと、報道規制でも出されたのか夕方に聞いた警察官の発砲のことだけを何度も繰り返していた。
このまま橋に向かったところでどうにもならないことは分かってる。俺が目指してるのはそこではない。もうひとつある橋も、地下鉄も封鎖されていて人工島へ渡る手段は無いように思ったが、ひとつだけ可能性があることを思い出したからだ。
その場所を目指して橋の二つ手前の交差点を、何もいない信号など無視して勢い良く左に曲がる。
人工島の埋め立て工事は俺が産まれる前から始まっていたらしい。二つの橋と地下鉄の建設も並行して進められていたが、地下鉄だけは橋の完成から4年ほど遅れて開通した。理由は単純、穴を掘るのが大変だったから。
しかし、もうひとつ橋があったことを、段々と誰しもが忘れ去っていった。
それは、人工島の西側に架かる橋から1kmほど北に行ったところにある朽ち果てた鉄橋。地下鉄が完成するまでの間、車などの移動手段を持たない人々を新たな希望の島へと運んでいた架け橋。
俺も6年前、田舎から都会に出てきてすぐの頃この橋を渡り、朝日に照らされた海面と運転席のガラス窓へと近づいてくる大きなビル群に感動したひとりだった。
それからすぐ地下鉄の完成とあわせて、強い海風のせいで運休することが多く殺到したクレームのせいや、人工島の周囲を遊覧するナイトクルーズ計画のせいや、ただ単に利用者が減ったせいで、その役目は地下鉄に奪われた。
今はもう取り壊されるのを待つばかりだった。
鉄橋に繋がる線路はもうすでに取り払われ、鉄橋の入口は高いフェンスで囲われている──のだが、高いと言っても2mほどしかないし、有刺鉄線があるわけでもないし、電流も爆破もしない。
さすがに明るいうちは人の目があるため、よじ登るわけにもいかないが、この時間にこんなところにいるのは夜遊び目的の中高生くらいのものだろう。今夜は誰もいなかったことにほっと胸を撫で下ろす。
ベースとパンパンの鞄を降ろしたあとに自らもフェンスの向こうに飛び降りる。自転車はフェンスの柱にチェーン鍵をかけて止めておいた。安物の自転車ではあるが、俺の大事な移動手段だ。都会で自転車に鍵をかけないなど自殺行為に他ならない。
「・・・さあ、行くぞ真守。勇気を出せ・・・」
途端に震えだした膝を手で無理くり止めようとするがまったく止まらない。掴んだ手で引っ張るようにして、なんとか足を一歩先に進める。
波の音と海の匂いが漂ってくる暗闇の向こうへ、一歩、一歩、足を運ぶ。かなり進んだつもりだったが、後ろを振り向くとまだすぐそこにフェンスが見えた。足元は人が歩くことなど想定していないのは当然で、枕木の間には暗く静かな海が口を開いているのが見えた。
優に助けてと言われた。哲もどうなったか分からない。哲の彼女の咲もいる。アルバイト先の居酒屋もその仲間もいるはず。そして──叶会さんがいる。
正直、俺なんかが行ったところで誰かを助けるなんて出来るはずないと自分自身が一番分かっている。行ったところで俺も助けを求める側に回ることは確定的だろう。
それでも俺は行くことを決めた。何も出来ないかもしれない。暴徒化したなにかに襲われるかもしれない。もしかしたら──死んでしまうかもしれない。
目の前で起きようとしている異変は、まだとこか遠い外国のことなのかもしれない。
でも、俺は足を前へと進めた。
ベースを始めたばかりの頃の指使いのように、辿々しい足使いで──