3月20日土曜日
「あ~~頭痛ぇ・・・うっぷ!っはぁ・・・、ちょっと飲み過ぎたな・・・」
目が覚めたのは窓の外に見える空がもうオレンジ色に染まりだした頃だった。最初はまだ明け方かと思いもしたが、壁掛け時計の太い針は"4"の上に居座っていた。
何か飲もうと冷蔵庫を開けたのだが、中には1.5リットルの飲み掛けの炭酸飲料のペットボトルと、実家から送られてきた乳製飲料の原液だけだった。
流石に今はどちらも飲む気にはならない。蛇口を捻れば水は出るのだが、田舎育ちの為かどうにも都会の水を飲むのは抵抗がある。アルバイト先では一応浄水器を通してはいるが普通に水を飲んでいるのは自分でも不思議だ。
「・・・食べるものもないし仕方ない。買いに行くか・・・」
普段滅多に家で食事をすることはない。平日は居酒屋のアルバイトに明け暮れているため、好きなだけ賄いが食べれるし、土日はバンド練習のあとに決まって行きつけの居酒屋かファミレスで食事とアルコールを飲みながら、自分達の音楽のことや好きなバンドの話、好きな芸能人の話題やスロットや下ネタの話などを毎回飽きもせず話している。
気持ちも悪いし身体もダルいのもあるし、近くのスーパーで済まそうかとも思ったが、足は勝手にいつも行く少し遠くのドラッグストアに向かっていた。
意外とその店のほうがいつも飲んでいる炭酸飲料とかカップ麺が安く、ついでにトイレットペーパーとかシャンプーなんかも買えるから、歩く距離を天秤にかけてもそっちを使うことが多い──というのは建前で、前にたまたまそのドラッグストアに入ったとき、朝の電車で見掛ける"アノコ"を見たことがあるからだ。
近くに住んでいるのか、アノコもたまたまこの店に寄ったのかは分からない。あのとき、店を出たアノコを追いかけたい気持ちに刈られたがなんとか俺の自制心が勝ってそれはしなかった。
それから、そうそう都合よく会えないとは分かってるし、会ったとしても何も出来ないのも分かってるけど、この店に通ってる。
「いらっしゃいませー」
よく見掛ける店員が気だるそうな声をあげる。あいつも俺並みにアルバイトに明け暮れているみたいだが、どうせなら賄いの出る居酒屋とかにすればいいのにと勝手に思う。それとも実家暮らしかなんかか?
飲み物やカップ麺などは店の一番奥に置いてあるため、必要のない化粧品や歯ブラシなんかが並べられた棚の間をすり抜ける。途中、絆創膏や消毒液が置かれた棚に目が止まる。
「・・・そういや哲のやつ、大丈夫かな」
今日は土曜日。本当ならバンドの練習がある日だ。昨日バイトの休憩中に携帯を見たら、哲の彼女から連絡が入っていた。SNSの短い文章だけだったが──
SAKI
哲が野良犬に噛まれて入院しました。明日の練習はキャンセルしたからって伝えてってことなので
──この一文だけだった。
哲はうちのバンドのギターボーカル。大体の仕切りは哲がやっていて、実質的なリーダーである。練習スタジオの予約やライヴの手配なんかも全部哲がやっているため、どんな状態かは知らないが彼女が連絡してきたのだろう。俺も短く『了解。お大事に』とだけ、返事をしておいた。
もう一人のメンバー、ドラムの優からも連絡は入っていたが見てもいない。どうせ『練習ないなら、一緒に風俗でも行こうぜ』などと、くだらない誘いに決まっているからだ。そんな場所に使う金があるなら、俺は何か旨いものを食べるか、欲しかったゲームでも買ったほうが何倍もいい。
意外とバンド活動は金がかかる。ベースの弦も高いし、毎週のスタジオ代も馬鹿にならない。ライヴもチケットノルマを売り捌くなんて不可能だから半分は自腹になる。アルバイトでそれなりに稼いではいるが、風俗なんかにはまっている場合ではないのだ。
哲と優の二人は、土日は俺なんかと一緒に『デビュー目指そうぜ』なんて言いながらバンドを高校生の頃から続けているが、しっかりと就職している。飲みに行くたびに給料上げろとか、ボーナスカットだとか言ってるが、俺なんかより全然貰っているし、家も会社の寮暮らしだから家賃も安い。
本気でデビューを目指すのなら今のうちだけでも俺の分を払ってくれと内心思う。
適当にいつもの炭酸飲料と水にカップ麺をふたつ、それとポテト菓子の袋を手に取りレジに向かう。トイレットペーパーも少なかった気がするが、まぁ明日もやることないし、明日でいいか。
三つあるレジの一番右のカウンターに手にした商品を置く。レジの女性が無機質にその業務をこなしていく。
「ポイントカードはお持ちですか?」
「え・・・あ、ああ。カードね」
本来、ポイントとかクーポンとかにあまり興味もないのだが、ここだけは頻度が高いので気まぐれで作ってみた。案外割引とか商品交換とかに使えて勝手がいい。
財布からカードを引き出し出そうとしたところ、するりとカードが手から逃げ出し足元に落ちた。
「あ──」
拾おうと手を伸ばすと、隣のレジにいた誰かの手が先にカードを拾った。
「はい。落としましたよ」
「すみません。ありが──」
え?え、え?ええっ?!
な、なんで、あ、"アノコ"がここに?えっ・・・意味が分かんねぇ・・・。
「ど、どうかしましたか?」
「えっ?!あ、い、いえっ。あ、ありがとうございますっ」
思わぬ出会いに固まってしまったようだ。慌ててカードを受けとる。あっ・・・ちょっとだけ指が触れた。
「・・・"ユメノ、マモリ"さんていうお名前なんですか?」
「っ?!え、ええっ、ど、どうして俺の名前をっ?!」
「え・・・だって、そこに名前が・・・」
彼女は俺の手を指差す。そこにあるカードには、片仮名で俺の名前が書かれていた。
「あ・・・・・・」
子供の頃から『自分のものにはちゃんと名前を書きなさい。そうしたらなくしてもきっとあなたのところに戻ってきますからね』と母親に言われていた影響で、今でも何にでも名前を書いてしまう。
流石に靴とか服には書かないけれど、ベースの裏側には気取ったサイン風の名前が書かれている。
「ふふ。素敵な名前ですね。字はどう書くんですか?」
「えっ?!ええと・・・真実の"真"に"守"で"マモリ"です。み、名字は普通に夢の野原で夢野です・・・」
これは、どうなってるんだ?なんでこんなとこで"アノコ"と俺の名前なんかを話してるんだ?
「あの~お客様?ポイントカードはよろしいですか?」
「あ、はいっ。すみませんっ!」
お互いに会計を済ませたあと、なんとなく並んで歩いている。聞くと、彼女の家もこちらの方向みたいで以外と家の近所だった。
そんな奇跡にドギマギして上手く話せないでいると、彼女のほうから話しかけてきた。
「──朝、いつも同じ電車ですよね?」
「そ、そうですね。俺もそう思って──えっ?!」
今・・・なんと言った?いつも同じ電車ですよね?間違いなくそう言った。てことはだ。彼女も俺を見てたってことか??
「ふふ。なんだか驚いてばっかりですね。私、変なこと言ってますか?」
「い、いえっ。決してそ、そんなことはっ」
変なのは今この状況だ。夕方まで寝て買い物に出たら、いつも電車で見掛ける"アノコ"と出くわして、こうして並んで歩いている。どう考えたって変だ。
「では、私こっちなので」
「え、は、はいっ。お・・・、送りましょうか?」
「すぐそこなので大丈夫です。では、また月曜の朝に」
そう言った彼女は背中を向けて遠ざかっていく。月曜の朝に──おい、真守っ!いつまでもそれだけの関係でいいのかっ?こうやって知り合えたのも偶然じゃないかもしれない。今このときぐらいやる気見せてみろよっ!
「──あ、あのっ!」
「はい。どうかしました?」
必死で絞り出した声に振り向いた彼女の顔は、街灯に照らされてとても綺麗に見えた。
「な・・・名前を、お、教えてくれません・・・か?」
情けないけどこれが今の俺の精いっぱい。まだ三月の夜だっていうのに、身体がすごく暑かった。
「──カナエ」
「えっ?」
「私は"ノゾミ、カナエ"。希望の"希"に"美"しいで希美。"叶"うに"会"うで叶会」
「・・・カナエ、さん。す、素敵なお名前ですね」
「ふふ。ありがとうございます。では、おやすみなさい。真守さん」
くるりと向きを変えた彼女は今度は振り向きはせずに、ひとつ先の角を曲がり見えなくなった。俺はしばらくそこで動けずにいた。
ポケットに入れた携帯がSNSのメッセージが届いたことを知らせていたのに気づかずに──
優
おい。聞いたか?哲が病院で暴れて看護士に噛みついたんだってよ。咲から泣きながら電話があったんだけど、明日見舞いに行くけどお前はどうする?




