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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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世界平和はあくまでついで


 ぷちん、と。

 頭の中で響いた音が何であるのか、エヴァは正しく理解した。


 星の導きにより聖女に選ばれたあの日からずっと、ずうっと、エヴァの堪忍袋の緒は引っ張られ放しだった。

 聖女さま、聖女らしく、聖女なのだから、聖女として、聖女聖女聖女――……。


 ――うるっっっっさい!!


 聖女らしくって何だ。聖女らしくとは、不誠実で浮気性な婚約者が繰り返す不貞を、笑って許すことなのか。夜空のように寛大な心で受け止めて、己が至らないから傷つくのだ、己が至らないから彼の心が移ろうのだ、と。そうやって己を省み、過ちは許しそれでも愛さにゃならんのか。冗談じゃない。


 聖女なのだからって何だ。聖女なのだから、美味しい食事も十分な睡眠も娯楽も、すべて諦めて勤勉に誠実に努力を重ねて当然なのか。贅沢な食事は堕落だと、惰眠を貪るのは怠惰だと、娯楽は無駄だと。そうやって訓練と勉強だけで日々を使い果たし、それでも人々の幸せを祈らにゃならんのか。冗談じゃない。


 聖女としてって何だ。聖女として、己の幸福より他人の幸福を優先し、人々が笑顔で健やかに過ごせているのならそれで己は幸福だと考えるのが普通なのか。そうやって己を犠牲にして、不幸のどん底にいてもあなたが幸せなら私も幸せと、笑顔で過ごさにゃならんのか。冗談じゃない。


 冗談じゃない、冗談じゃない、冗談じゃないふざけるなっ!!


 ふらふらと浮気しては、フラれるたびにエヴァの元へ戻ってくるクソバカ王子。王家が聖女の力を独占したいその一点で結ばれた婚約はしかし、あまりに形だけだった。王位継承順位が三位である婚約者は劣等感の塊で、劣る自分を言い訳に何もかも中途半端に諦めていた。そのくせ優劣を見せつけられるときっちり落ち込むので、傷心の慰め先である女性は少しも減らない。……聖女として婚前交渉ダメ絶対と教会から厳命されているエヴァでは、彼の求める慰めは与えられなかった。

 その結果がこれか、と思うと、涙よりも罵声の方が飛び出す思いだ。


 魔王復活。世界を震撼させたニュースは瞬く間に人類を不安の沼に沈めた。

 前触れもなくポンと復活した魔王はどんな理屈なのかポコポコ魔物を生み出してガンガン人類を蹂躙した。人間同士で殺し合ってる場合じゃない、と各国が一致団結するのは早かった。


 魔王討伐の為に多くの部隊が編成された。世界中から強者が集められ、いつの間に建っていたのか気づけば出現した魔王城を目指す。エヴァが所属するのはその中でも切り札と呼ばれている、勇者が率いる部隊だった。


 魔王復活のすぐあと、どっかの国で古文書が発掘された。魔王が復活するとどっかにいる勇者も力に目覚めるから、討伐は彼とその仲間に任せれば大丈夫、というようなことが書かれていた、らしい。仲間は五人、勇者、戦士、聖騎士、魔法使い、そして聖女。エヴァはこの聖女に抜擢されたのである。現存する聖女の中で最も力が強いから、らしい。

 いつものように睡眠不足でふらつきながら、クソバカ神様に祈りを捧げていたら急に国の偉い人がやって来て攫われるように勇者のところに連れて行かれてじゃあよろしく、と言われた身だ。詳細は何も知らない。知らないけれど、エヴァはここまで来た。


 すべては世界の安寧の為。災厄をばらまく魔王を打ち倒し、人々が安心して暮らせる世の中を取り戻す為。その為の聖女、その為のエヴァだった。


 あと少し、あと少しで全部終わる。

 長い長い旅を終え、ようやくたどり着いた魔王城。幾多の戦場を駆け抜け、数多の魔物を打ち倒し、残すは魔王ただ一人。

 そんな段に至って。あとはもう、この重厚な扉の先で偉そうにふんぞり返って待っているであろう魔王を、勇者が切り刻み、戦士が殴り倒し、聖騎士が叩き折り、魔法使いが削ぎ落し、弱ったところをエヴァが封印する。あとはそれだけ、それでおしまい、その状況で。エヴァの堪忍袋の緒はブチ切れた。


 まずは勇者。清廉潔白を地でいく彼は、疑うということを知らずすぐ騙された。借金があると女が泣けば旅費を丸ごと渡してしまう。騙されていたと気づけば、借金で苦しんでいる女性はいなかったのか良かった、と快活に笑った。愚直で誠実、絵に描いたような純真さ。正義感の塊のような彼はしかし、部隊から金という金を湯水のように流させた。極貧を余儀なくされた生活を支えたのはエヴァだ。ぶっちゃけ、聖女という肩書きはそれだけで金になる。鍛え抜かれた表情筋をフル稼働させ、叩き込まれた聖女の微笑みを浮かべてありがたいような話を聞かせれば、勝手に寄付が集まってくる。世界平和の為に役立たせていただきますね、と言えばすべて丸く収まった。世界平和の為に頑張っている勇者一行の生活に役立てたのだ。嘘は一つも言っていない。


 次に戦士。血気盛んな彼は下半身も元気いっぱいで、行く先々あっちこっちで女を引っかけた。彫刻のような肉体はなるほど確かに誇れるだけの美しさがあるだろう。顔の造形では勇者に敵わずとも、ベッドの中で女を悦ばせるのは顔だけではないのだから。モテる男はしかし、痴情のもつれから生じる数多の厄介事からもそれはそれは大いにモテた。やれ子どもができた、やれ結婚してくれ、私とは遊びだったのね。たとえ一夜の火遊びだと割り切っても、翌日同じ町で別の女を宿に連れ込んでいるところを目撃すれば腹も立つだろう。彼はその辺、あまりに無頓着だった。この問題を解決したのもエヴァだ。魔女……そう、魔王の手下である魔女が、彼に定期的に誰かに愛を注がなければ肉体が爆発四散する呪いをかけたのです。だから彼は毎夜のように誰かを愛さねばならず、かといって一人を深く愛してその人を巻き込むこともしたくない。癒すには魔王を倒さねばなりません。これは口から出任せだ。全部、嘘。でも聖女が呪いを語るのだから内容がめちゃくちゃでも説得力はあった。魔王への恨みも高まっていた。女たちは泣く泣く彼を許し、ついでに打倒魔王の資金も少し置いて行ってくれた。


 次に聖騎士。信心深く真面目一辺倒でとにもかくにも融通が利かない彼は、思いこみも激しかった。聖女という神聖な存在は繊細でか弱くて大人しい人だから、優しく大事に守ってあげないといけない、と。教会で語られる一般的な聖女のふんわりした理想像を、そっくりそのままエヴァに押し込めた。これには大変、苦労した。理想から逸れた行動をとろうものなら、偽物ではないかと言い始める。現実ではなく理想を信じ込む彼を説得するのに、エヴァは心をすり減らして頑張った。最終的に、魔王を倒そうとしてるのに、繊細でか弱くて大人しくて優しく大事に守ってあげなきゃいけないような聖女じゃすぐ死んじゃうでしょ!? 魔王を倒す為に死ぬほど頑張ってるんだから黙ってろ! という内容をものすごく丁寧にものすごく遠まわしに三日ほどかけて説明したら納得してくれた。


 最後に魔法使い。潤沢な魔力を有し様々な魔法を使いこなす彼女は非常に優秀で、しかしとんでもなくこじらせていた。回復魔法も防御魔法も優れているのに、それだけでは満足できなかった。聖女が操る回復魔法は神聖魔法と呼ばれ、一般的な回復魔法とは区別される。神の奇跡を宿すそれは、回復魔法とはまったく別の魔法だった。しかし彼女は受け入れられない。自分より優れた回復魔法を使う者がいるなら自分は必要ないじゃないかと泣き喚き、勇者一行をやめると嘆く。防御魔法もそうだ。聖女のそれは魔を封じる際にも用いる結界の応用で、防御魔法とは別物だ。しかし彼女は自分より優れた防御魔法が使えるのだから前衛に出ろと泣き叫ぶ。エヴァが使えるのは回復と防御だけ。戦えないのだから前に出られるはずがない。戦闘のたびに泣く彼女への対策として、エヴァは意味もなく魔力回復薬を飲みまくった。なけなしの金を全部つぎ込んで買い込んだそれを、戦闘のたびにがぶ飲みした。私の魔法は消費魔力がバカみたいに多いから長くは戦えない。あなたがいないと勝てないの。時には戦闘中でもふらつく演技を挟みながら、ビクともしない魔力を使い果たしたフリをし続けた。


 金もなく、積み重なるのは気苦労ばかりで、ごりごり心をすり減らし、金も精神力も使い果たしたエヴァは、疲れていた。もうクタクタで、何もかもやーめたと放り出して、三年くらいぐっすり眠り続けたい気分だった。

 そんなエヴァの気も知らず、最終決戦前の仲間たちが言ったのだ。


『色々あったが、ようやくここまで来たな!』

『あぁ、本当に色々あった。大変だったが、あと少しだ』

『まったくです。色々あり過ぎですよ。これが終わったらしばらくはゆっくりしたいですね』

『そうね、色々あったよね。でもあと少し、頑張るわよ!』


 ……マジか、こいつら。エヴァは本気で絶望した。確かに色々あったけれど、そんな軽ーい感じでさらっと済ませていいような『色々』ではなかっただろう、と。


 他の部隊は定期的に送られてくる軍資金できちんとした宿に泊まり、きちんとした食事をとっているのに、エヴァたちは釣りや狩猟で食料を自前で調達する必要があった。なぜなら、軍資金を騙し取られる勇者がいたから。金がなかった。明日の食事もままならない極貧の旅だった、切り札なのに。

 勇者だから、と無償で宿や食事を提供してくれる町もあったが、半分は善意に甘えるようなことはできないと聖騎士が断ってそれに勇者が賛同するものだから、エヴァたちはほとんど野宿だった、切り札なのに。


 絶望が臓腑を焼く。爛れた灰が腹の底に溜まって、真っ黒な渦を生む。


 正義感と使命感で盲目になっていた仲間たちは、終ぞ気づくことはなかった。あいつらヤバい、というドン引きした他の部隊から向けられる視線に。

 それでもここまで来られたのは、切り札と呼ばれるだけの規格外の戦闘能力だった。ヤバい、と表現するしかない、人類の枠から外れた力。ただ強い。ただただ強い。それだけでエヴァたちは魔王城までたどり着いた。エヴァたちだけが、たどり着けた。


 あとはもう、魔王を倒すだけでいいのに。やっとここまできたのに。

 浮上しかけたよろしくない思考は、頭を振って掻き消した。


 玉座の間へ通じる扉を勇者が開いた。

 エヴァの役割は魔王の封印。魔王との戦いの最終盤こそエヴァの出番。だから、玉座の間に入ったのも、座す魔王を視界に入れたのも、エヴァが最後だった。

 それは、巨大な獅子だった。燃えるような(たてがみ)は金、抜き身の剣のような鋭い瞳は赤。偉そうとかふんぞり返っているとか、そんな表現がバカらしくなるほど、それは堂々たる支配者の姿だった。


「ようやく来たか」


 低く、冥府の底から響くような声は重厚で、深い。立ち上がる動作はひどく緩慢であったのに、動けた者はいなかった。

 ハッとしたように仲間たちが武器を構える。


「さあ、終わらせよう!」


 声をかけたのは勇者。しかし応えたのは、エヴァたちではなかった。



「――でも、ちょっと……今日は無理」



「は?」


 間の抜けた声は誰のものだったか。ぽかん、と口を開けたエヴァたちの様子に気づかないのか、魔王は言葉を続ける。


「風邪引いたんだよ。くしゃみ止まらないしくっそ寒い。こんなもふもふしてんのにちっとも温くない。だから今日は無理」


 そう言って己の肩を抱きしめる姿は、まるで人間のよう。


「ちょっと一晩寝て様子見たいから、明日でいい?」

「な、何を馬鹿なことを! そんな戯言に騙されるか!」


 いち早く正気を取り戻した勇者が駆け出す。


「あ、こっち来んなっっくしゅんっ!」


 ぱあん、と。

 軽い破裂音と閃光の後、勇者の姿が消えた。


「あー……だから今日無理だって、俺。力が調節できないんだよ」


 人間は許容範囲を超えて驚くと、固まる。わずかに鼻をかすめた何かが焦げたようなにおい、そこに混じる血のにおい。最初に察したのは、魔法使いだった。耳を塞ぎたくなるような絶叫が反響する。


 がむしゃらに撃ちまくる魔法攻撃は、手当たり次第に壁を抉り床を穿つ。しかし、魔王にはかすり傷一つ付けられない。当たっているにも関わらず、魔王はケロッとして鼻をかんでいる。挙句、


「どうせ撃つなら炎熱系にしてくんね? さっむい」


 などと言う始末。


 雄叫びをあげたのは戦士。苦楽を共にしてきた愛斧を振り上げまっすぐ魔王に突っ込んだ彼はしかし、


「だから! こっちくっっしゅん!!」


 勇者と同じく、魔王のくしゃみの前にあっさり弾けた。


 魔法使いがくずおれる。カタカタと震える彼女はもう、杖を握ることもできていない。

 そんな彼女に駆け寄ったのは聖騎士。庇うように前に立ち、震えながら盾を構える。


 ――ああ、ヤバい。


 エヴァだけが、その場から一歩も動けずにいた。

 胸を満たすこの感情は、いけない。そんなことを思ってはいけない。わかっているのに止められない。醜いこの胸の内は、誰にも知られてはいけない。


 ずっと一緒に旅をしてきた仲間だ。人間だもの、欠点の一つくらいあるだろう。困ったところもあるけれど、みんな根は良い奴なんだ。正義感にあふれ、親切で、善良で。欠点一つ、それさえなければ完璧な仲間たちだ。だから、嫌ってはいけない。憎い、とそんなことを思ってはいけない。

 

 私は聖女。幾度となく言い聞かせ、心の安寧を保ってきた。でもここに来て、魔王を前に手も足も出ない仲間たちがあまりにも呆気なく散っていく様を見て。


 ――ああ、すっきりした。


 そう思ってしまった。


 エヴァはどこまでも聖女で、聖女たらんと気を張り詰め過ぎていた。無理をして、自分の心に嘘を吐き続けて、今がその限界だった。


 人間だもの欠点の一つくらいあるだろう。しかしエヴァの仲間たちは、どいつもこいつもその一つが致命傷だった。仲間だから、世界平和の為だから、切り札だから。そんな言葉で誤魔化すには、あまりにひどい欠点だった。庇いきれない。だってどうせ彼らに魔王は倒せない。

 魔王を倒せる唯一だから許されてきた欠点だ。彼らなくして平和はない。だから目を瞑ってきた欠点だ。けれど今、この場の誰も魔王に敵わない。だったらもう、エヴァにとって彼らはお荷物で厄介で面倒くさくてくそったれな、最低な人間でしかない。


 風邪を引いたから今日は無理。そう言って戦いを拒否した魔王の方が、余程人間味あふれるように見えてしまうほど、エヴァの中で仲間だった彼らの価値は低くなっていた。


 やーめた。頭の奥で声がした。


 ずい、と一歩前に出る。杖を構え、震える仲間を振り返る顔は、恐怖に染まっているが使命の為に踏ん張っている聖女のそれだ。鍛え抜かれた表情筋を思いのまま動かすことなど、エヴァにとっては朝飯前だった。


「ここはわたくしが引き受けます。必ず魔王を封印します。だからあなた方は、」


 どうか生きて。


 最期を感じさせる渾身の儚げな笑み。ぽろり、と聖騎士の目端から滑り落ちた涙を見て、エヴァは内心ガッツポーズした。


「で、でも――」

「わたくしの命と引き換えに女神様の奇跡を使える秘儀があります。それを使えばきっと封印できます。けれどわたくしではその力を制御できません。巻き込んでしまいたくないのです。だからどうか、あなた方は逃げてください。生きて、そしてわたくしの婚約者様に愛していました、と伝えてください」


 お願いします、と一粒の涙をこぼして見せる。嘘泣きだってお手の物。

 もちろんそんな秘儀はない。嘘っぱちだ。婚約者のことだってちっとも愛していない。けれど今、この言葉が最も彼らの心を打つと、エヴァは知っていた。伊達に長年、聖女らしさを極めていない。弱った人間の心、どうすれば傾くかどう言えば震えるか、エヴァは知り尽くしていた。だってエヴァが相手にするのはいつだって、疲弊した心を苛まれた弱り切った人間だった、今の彼らのような。


「せ、聖女様……」

「ごめんなさい……!」


 支え合うように立ち上がり、泣きながら逃げていく背を見送って。玉座の間へ続く扉がしっかり閉じられるのを確認して。たっぷり深呼吸三回分、待って。エヴァは魔王の方を振り返った。


「お待たせしました」

「いや、待ってないけど……」


 目を丸くしてパチパチと瞬く姿はちょっと可愛い。


「え? 命と引き換えって何? そんな技あんの?」

「あるわけないです」

「は?」

「ああ言えば逃げてくれるかなって思って。これでも嘘は得意なんです」


 不本意ながら、と言いつつ魔王のそばに寄る。幸いにも、魔王はエヴァが距離を詰めるまでの間、くしゃみをしなかった。


「風邪、辛いですか?」

「え? あ、はい」


 エヴァは、ありったけの力を込めて回復魔法を練った。


「へ? は? あ、嘘!? あんた何やってんの!?」

「話がしたいので。うっかりくしゃみで殺されたくないですから」

「いや、でも俺、魔王なんだけど!?」

「はい。……あ、聖女の回復魔法って逆効果でしたか?」

「そうじゃねえよ!? めちゃめちゃ良くなったよすげえなあんた!? 何か風邪以外のとこも良くなってるよありがとう!?」


 ありがとう。そう言ってもらうのは、とても久し振りのことだった。聖女として、人を助けるのは当たり前のことだと言われてきた。旅の最中も、お礼など不要です当然のことをしたまでですから、と笑ってきた。それでもお礼を言ってもらえることは多かったが、それも魔王城に近づくにつれぐっと減った。


 被害が甚大な場所ではなぜもっと早く来なかったと罵られる。蘇生魔法を懇願されることも、一度や二度ではなかった。けれどそんな魔法は使えない。死者は余さず女神の元へ還るとされている。聖女といえども、女神のものを勝手に現世に連れ戻すことは許されない。聖女という役職柄、大切な人を失った悲しみの中、八つ当たりで恨まれるのはエヴァが最も多かった。


 仲間からも、お礼はいつしか言われなくなった。それぞれが、それぞれにできることを。そういう考えは大切だが、過酷な旅を続けるうち、いつの間にかそれが義務のようになった。義務を果たしただけの人間を褒める人はいない。当然のことをした人間にお礼を言う人もいない。


 やれ二日酔いだ、やれ疲労だ風邪だ、と。本来の目的とは関係のないことにも回復魔法を要求されても、聖女だろ、と言われれば断れなかった。だから風邪を治した程度のことで誰かにお礼を言われるなんて、本当に久し振りだった。


「えーと、それで? 俺と何を話すの?」

「あなた、死にたいですか?」

「なんてこと聞くのあんた? 生きてたいよ、そうポンポン死んで堪るか」


 生きていたい。やはり、この魔王は人間みたいだ。


「で? 俺が生きたかったら何? 助けてくれんの?」

「助けが必要なんですか?」

「え……まあ、うん。可能であれば」


 妙に歯切れの悪い魔王が、ポリポリと頭をかく。


「えーと、どのような助けが必要なのでしょう?」

「何でそんな前向きに検討してんのあんた。聖女なんだろ? 俺のこと殺しに来たんだろ?」

「聖女としてはそうですが、私個人としては別に」


 エヴァはある日突然、じゃあよろしく、と言われただけだ。何が『じゃあ』なのか何を『よろしく』なのか。知ったのは旅に出てからだ。必要なのは力の強い聖女であってエヴァではない。


「え、そうなの? 俺のこと殺さないの?」

「いえ、世界平和を果たすくらいは最後なのでしようと思います。でもその前に、あなたを助けるお手伝いくらいはしますよ」


 エヴァの中で魔王は、溜まりに溜まったストレスを一瞬で発散してくれた、いうなれば恩人くらいの存在になっている。恩を返すのは人として当然のことだ。


「あ、最終的には殺すのね」

「殺さず済むなら殺しません。むしろ、世界が平和になったら私を殺してください」


 魔王を封印してしまえば、エヴァの存在意義はなくなる。また教会に戻って、聖女さま、聖女らしく、聖女なのだから、と言われながら何もかも縛られ奪われフラフラになってもなお眠れず、クソバカ女神に祈りを捧げる人生が待っている。

 空腹なのも寝不足なのも、人類の切り札と呼ばれるようになってからも変わらなかったけれど、外の世界を自分の目で見て回れることだけは嬉しかったのに。それも終わる。

 エヴァは疲れていた。人類の悲願とやらを達成したら、もう全部おしまいにして、ぐっすり眠りたい。それだけを夢見て、ここまで来た。


「死ねば女神の元へ行けるそうなので、さっさと死んで女神をぶん殴りたいんです、私。文句の一つくらい言ってやらなきゃ、私の人生全部、無駄になっちゃうから」


 だからどうか、全部終わったら私を殺してください。

 深々と頭を下げるエヴァを見て、魔王は顔を歪めた。何だそれ、と。思った言葉は勝手にこぼれた。


「やだよ、人殺しなんて」


 顔を上げたエヴァがきょとん、と目を瞠る。


「だってあなた、これまでたくさん殺してきたじゃないですか。私一人をその他大勢に加えたって変わらないでしょう?」

「やりたくてやってるわけないだろ。さっきの二人も、来るなって言ってるのに勝手に突っ込んできたの! 魔物だって俺が生み出してるわけじゃない。この城の地下にコアがあって、それが勝手にポコポコ生んでるの。で、生まれた魔物は俺のことガン無視で勝手に外に出てってボコボコ人間殺してるの。魔物は俺の魔素で構成されてるから俺が殺しても意味ねえし。俺があんたに封印されるまでは、永遠にやってるの! 俺の努力でどうこうなることじゃねえの!」


 毎日、毎日、息をするように積み上がっていく死体を見て、瞬きをするように奪われていく命を見て。いつしか倫理観は麻痺し、死に対する感情は削げ落ちた。嘆くことも泣くことも何の役にも立たなくて。喉が嗄れるほど呪詛を吐いて、コアの破壊のために寝る間も惜しんで頑張っても無駄で。全てを諦めて死を待っていた、それでも、どうにかできるなら、何とかしたい、と。


 何それ、と今度はエヴァが言った。


「あなたが彼らの王なのでしょう? 勝手にって……そんなこと」


 あるはずない、という言葉は魔王が遮った。


「あるんだよ、それが。コアは俺と繋がってるけど、俺はコアを制御できねえの。俺の体は無限に魔素を作り出せるようにできてて、魔素がある限りコアは無限に魔物を生み出す。魔物は世界中に散って人間を殺すついでに瘴気を吸収する。吸収した瘴気はコアを通じて俺の体から放出して魔王城一帯に溜まる。そうこうしてると勇者一行が俺を倒しにやって来る。俺の体を封印することでこの世界に溜まった瘴気丸ごと一気に浄化する、そのための定例行事なんだとさ」

「そんな話……誰が、そんなこと」

「さあ? なんか女神だとか言ってたけど」


 女神、と聞いて、切れたはずの堪忍袋の緒が再び切れた。


「魔王さん、必要な助けってどんなことでしょう?」

「え? 何でそんな怒ってんの? ……えーと、コアを壊せないかなって」


 コアがなければ魔物は生まれない。瘴気はともかく、生産され続ける魔素に関しては大量に魔力へ変換して適当に魔法を使っていれば散らせる。世界を壊さないよう使う魔法は選ぶ必要があるだろうが、それでも魔物による脅威を取り除くだけでも人類にとっては良いことだ。


「女神のために死んでやる気なんてないし、でもこのままだと人類が滅びそうじゃん。新しい魔物だけでも生まないようにして……今いるのはほら、俺が瘴気ごと食ってもいいし」


 体内に瘴気を溜めて、それこそ死ぬかもしれないが、神なんて存在から押し付けられて死ぬよりは、きっとずっとマシだと思った。どうせ死ぬのなら、今度は事故や強制ではなく己の意志で。


「魔王さん、あなたは女神をどう思いますか?」

「え? よくわかんねえけど、友達にはなれないかな。彼女にもしたくない。性格最悪じゃんあの女神」


 パァッとエヴァの表情が輝いた。思わず、といった風で魔王の手を握り声を張る。


「コアを壊しましょう! 任せてくださいこれでも私、この世で一番強い聖女なので! ついでに瘴気も浄化してしまいましょう! 伊達にクソバカ女神に毎日いやいや祈りを捧げてきたわけではありません! お祈り貯金なら世界一だという自負があります! 渾身の浄化魔法で世界を平和にして、それから二人で女神をぶん殴りに行きましょう!!」


 晴れやかな笑顔で物騒なことを言う聖女に、魔王は思わず破顔した。


「ははは、結局それ死んでんじゃん俺たち」


 敵同士だった二人が手を取って世界平和を成し遂げて、けれど二人は死んでしまう。それは何だかまるで、安っぽいけど切ないラブロマンス映画のようだと思った。


「うん、いいよ。あんたとなら死後の世界でもなんとかなりそう」


 ふわり、と微笑むその顔はとても優しくて、綺麗で。エヴァの中で、何か知らない感情が胸をキュン、と締めつけた。


「は、はい任せてください」


 なぜか声が裏返った。顔が熱くて目を合わせられない。


「どうした? 大丈夫か風邪か?」

「そ、そうですねきっとあなたのが感染ったのです! 大丈夫ですから、さあ、早く行きましょう!!」


 早く、と急かす声に引っ張られ、よくわからないまま地下へ移動した。


 それからのエヴァの勢いは凄まじかった。


「はあ!? コア風情が結界で身を守ろうなんて小賢しいんですよ! 私が寝る間も奪われ訓練した結界魔法に勝てると思わないことです!!」


 魔王がどう足掻いても近づけなかったコアの結界は、それはもうあっさりこじ開けられた。まさか素手で行くと思っていなかった魔王が慌てて駆け寄るも、エヴァはケロッとしていた。


「あぁん!? こんなひょろい回路でよくもまあそれだけの魔素や瘴気をやり取りできますね! バカにしてます!? 私が食事の時間を削られ会得した魔法を舐めてます!?」


 魔王では目視もできなかったコアとの繋がりは、これまたあっさりと引き千切られた。これも素手だった。


「はんっ! 何の力か知りませんけど、ただ魔力があるだけでは私の魔法を防げません! どれだけ訓練したと思ってるんですか!? こちとら禿ができるほどのストレスの中やってきたんです! 硬いだけのコアが壊せないわけないでしょう!?」


 これはさすがに杖を使った。とはいえ、凄まじい量の魔力を杖の先に集中させてコアに突き立てるという、ほとんど力技だったが、でも壊れた。コアは壊れた。


「だ、大丈夫か? ちょっと休憩した方が――」

「何を言ってるんですか!? あとはもうこの辺一帯を浄化したら終わりですよ!?」


 くわっと目を見開いたエヴァの気迫に押され、魔王はただ、はい、としか言えなかった。


「城のてっぺん行きましょう! どれくらいの規模で浄化魔法を展開すればいいか目視で確認します」


 さあ行きましょう! と急かす声に押され、今度は上へ移動した。その道中、エヴァは買い込んだ魔力回復薬をがぶ飲みした。今日ばかりは無駄にならなくて良かった、と胸を撫で下ろしながら次々飲み干していく。


「う~ん、やりがいがありますね」


 城のてっぺんに到着し辺りを見渡したエヴァは唸った。


「厳しいか? まあかなり広範囲に溜まってるから――」

「いえ、これくらいへっちゃらです」

「ふぇ?」

「お祈り貯金なら世界一だと言ったでしょう?」


 せーの、と。それは実に軽い口調だった。


 魔王には、何が起きたのか理解できなかった。目が眩むほどの閃光に、思わず目を瞑ってしまったからだ。次に目を開けた時、世界は一変していた。

 暗く澱んでいた空気が澄んでいる。じめじめしていたのが嘘のように、眼前に広がるのは晴れやかで清らかな空間だった。どこにも、瘴気の『し』の字もない。


「すっっげぇ……」

「うふふ、そうでしょう? 私ってばすっげぇんです」


 二ッと笑うエヴァは誇らしげで、美しくて、心臓がドクン、と大きく跳ねた。


「あ、はい……すっげぇです」


 声が裏返った。顔が熱い。もふもふで良かった、とこれほど思ったことはない。


「さて、これでおしまいですね」


 ぽつり、とどこか寂しそうな呟きにハッとする。


「じゃあ、女神を殴りに行きましょうか?」


 どうしよう、とそんなことを思って、何も考えず叫んだ。


「まだ終わってない!!」

「はい?」

「ま、まだ世界中に散らばってる魔物がわんさかいるし、コアがなくなったからそいつらが溜めてる瘴気はこっちに来ない。魔物を全部消して、瘴気も浄化してやらないといけないから」


 だから、まだ終わらせないで。

 祈るような声が出た。どうか、これでおしまい、なんてそんな寂しいことを言わないで。


「でも、じゃあ……これからどうするんです?」

「お、俺の体はどんどん魔素を生成するから、俺はそれをじゃんじゃん魔力に変換して放出しないといけないんだけど、俺は当然、その……浄化魔法とか使えないから、だから……助けてくれない?」


 身長差でどうしたって見下ろすことになるエヴァを前に、魔王は限界まで体を縮こませて、精一杯の上目遣いをしてみせた。


「し、かたないですね、助けてあげます」


 可愛い、と飛び出しそうになった声をぐっと飲み込み、エヴァは頷く。


 パァッと魔王の表情が輝いた。思わず、といった風でエヴァの手を取り声を張る。


「じ、じゃあ俺の魔法でこの城に足を生やすからそれで移動しよう! そんで世界を巡って俺は魔物を、あんたは瘴気を片っ端から潰して行こう!」


 コアとの繋がりが切れた今なら、魔物を丸呑みして自身の魔力に変換できる。そうすれば魔法として人間に害なく放出することも可能だ。

 城を丸ごと維持するためなら、どこにも被害を出さず魔素を湯水のように消費することができる。魔王城だとバレないように結界を張る必要があるが、防御魔法と幻術魔法を応用すればなんとかなる。


「全部終わる頃にはおばあちゃんになっているかもしれませんよ」

「その方が殴り行った時、女神が油断して一発多く殴れるかも」

「ふふ、良いですね、それ」


 聖女としてはどこまでも後ろ向きな生き方で、もしかしたら女神のところへは行けないかもしれない。でも、聖女はやめると決めてしまったから後悔はなかった。それに、久し振りに心から笑えていることは、エヴァの心を大いに満たした。

 死んで女神を殴るより、生きて魔王と笑っていたい。その方がずっと楽しそうで、幸せそうだ。


「じゃあ決まりで。とりあえず、今日はもう寝ようぜ。ぐっすり眠って、目が覚めたらご飯にしよう」


 そんな当たり前のことを、言ってくれる人はいなかった。

 ずっと、ずうっと、エヴァがやりたかったこと。当たり前に眠って、当たり前にご飯を食べる。人間らしい生活を、してみたかった。


「エヴァです。名乗ってもいませんでした」

「あ、ああ……ダイスケ、です」


 名乗るのは久し振りのことで、とっさに思い出せなかった名前を記憶の底から引っ張り出す。字までは思い出せなかった。


 エヴァは聞き慣れない珍しい名前に首を傾げて、すぐに、まあいいか、と思い直す。


「これから頑張りましょうね、ダイスケさん」

「あ、はい。よろしく、エヴァさん」


 大好き、という言葉に似た音をした名前のことが、エヴァはとても好きになった。

  

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― 新着の感想 ―
[良い点] 切れて嫌になったのに最後まで聖女演技をやり通すとか、聖女はマジで聖女様だった。ブラック企業の社畜の様になってたけど、幸せになって本当に良かった。 獅子の魔王が可愛かった。特に「こんなもふも…
[良い点] これからの二人に幸あれ! [気になる点] 清濁併せ呑む事が出来ず綺麗事しか吐けない勇者 ただの猿以下な戦士 妄想も大概にしろな聖騎士 めんどくさい魔法使い 人間性に難がありすぎる....…
[良い点] 天使も神も基本的には慈悲や慈愛など持たないシステム的な存在でしかないからねえ むしろ対価を元に願いを叶える悪魔の方が余程優しいという説もあるくらいだ [一言] 日本神話とか北欧神話の神は人…
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