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9.恋愛より大切なもの

 私がニット帽を目深にかぶり、とにかく素早く従業員出口を出ようとすると、


「あっ、伊藤さん!」


 あっけなく見つかり、私は更に歩みを早める。安岡は女の子たちを掻き分け、さっと私の前に立つ。


「俺、伊藤さんのこと、待ってたんです」


 行き先を塞がれたが、私は無言を貫く。


「家近くでしたよね?一緒に帰ろうと思って」

「どいて」


 なるたけ低い声で、私は言う。


 安岡は少しむっとする。


「……駄目ですか?」


 私は、あの女子たちを横目に見る。あちらから、刺すような視線がぶつかって来ているのに、安岡こいつはまだ気づかないのか。


「ごめん、安岡くん。はっきり言うね?」


 私はあの子たちに聞こえるように、なるべく大きな声でこう告げる。


「もう、私に構わないでほしいの」


 安岡はその言葉に少し顔をこわばらせた後、ふっと悲し気に眉を寄せた。


「確かにあの時はとても助かったわ。でも、君が私をかばえばかばうほど、別の方向からの風当たりが強くなって来たの」

「──それって、どの方向ですか?」


 くっ……まだあの目線に気づかないと言うのか!?


 あっちだ!従業員入り口の、あっちー!!


「とにかく!そんなことにも気づかないんじゃ、先が思いやられるのよ!」


 私は力の限り怒鳴った。


「私は猫耳が生えても、ひとりでやって行けるんだから!あなたの力なんか、いらないの!!」


 その言葉が、安岡にはだいぶこたえたようだった。


「……分かりました」


 しょぼくれて、別方向へ回れ右し、安岡は都会の雑踏へと消えて行った。


 何て寂しそうな背中。


 私はうなだれた。悪いことをしたと思った。でも、この百貨店で平穏に働ける方が、今の私には大事なことなのだ。


 何度も親に踏み荒らされた、平穏な場所。


 絶対死守しなければ、私に未来はない。




 私は自室に帰ると心頭滅却を図るため、パンフレットを床に並べた。


 全て高級老人ホームのパンフレットである。これを眺めていると、自然と心が落ち着く。


 いつしか溜めたお金で、ここに住むのだ。私が老人になっている頃には、親は死んでいるだろう。その時になってやっと、私に本当の平穏が訪れるのだ。


 結婚、出産──そんなものでは私に真の平穏は訪れない。むしろ、足枷にすらなり得る。こんなことをしたらひとところに定住せねばならず、いざ親がやって来た時逃げられない。


 私はパンフレットのページを繰った。


 坂井病院系列の高級老人ホーム、グレース三崎。海の見える、人気のマンション型老人ホームである。有名保養地の近くにある上、医療系が整っているというのが利用者に安心感を与える。


「ここ、行ってみようかな」


 私はひとりごつ。


 何となく、海が見たい。


 明日はシフトが入っていない。このホームの周辺に何があるのか、将来のためにも、ゆっくり眺めてみたいな。


 ふと、安岡の悲しそうな顔が浮かび、首を横に振る。お願い、そんな悲しそうな顔しないで。


 海でも見て、忘れよう。


 そうしよう。




 私は私鉄に乗り、その終点付近の駅で降りる。


 都心からあっという間に、海風の吹きすさぶ郊外の港町に着く。


 観光地のこの町も、冬となれば閑散としている。近くの売店で浮き輪を売っているのが、どことなくその裏寂しさに拍車をかける。


 私はスマホの道案内を頼りに、海沿いを歩き出した。


 さすがは観光地。行き交う人々も、身なりがしゃんとしている。いつもの安物のニット帽とダッフルコートなどを着ていると、気恥ずかしくなって来るくらいだ。


 犬の散歩をしている人が多い。堤防から下を覗いてみる。砂浜では、犬と遊ぶ人が目立つ。


 ペットかあ。


 猫耳女が犬連れてたら、ちょっと面白いかも。


 そう思い、ひとりで含み笑いをして歩いていると


「あ」


 すれ違った人が、そう声を出した。気づけば、犬が私の足元を嗅ぎ回っている。毛足の短いヨークシャー・テリアのようだ。


 ……!?まさか私、獣臭い……?


「伊藤さん?」


 ん?と私は声を出し、足元に現れた人影を辿って見上げる。


 そこには、松葉先生が立っていた。


 いつもの白衣ではなく、私と似たようなダッフルコートを着ている。マフラーに顔をうずめ、寒そうにその切れ長の目を静かに瞬かせている。艶があるあのサラサラの黒い髪の毛は、海風に吹かれてボサボサになっていた。いつもスーツの人が私服になると、急に親近感が湧く。先生と呼ぶ方が、逆に気恥ずかしいくらいだ。


「あ!松葉先生……」

「どうもこんにちは。あれからどうですか?調子は」


 松葉先生は猫耳のことを言っているんだろうな。


「特に痛みはありませんよ!」

「……そうじゃなくてですね」


 松葉先生はにっこりと笑う。


「猫耳のまま、お仕事をされているのですか?ってことですよ」

「あ、はい。そうですね。丸出しでやってます!」

「よく許可が下りましたね」

「はい。上司や店長に相談したら、人寄せになるからいいんじゃないか、って」

「それは随分前向きな意見ですね。でも、伊藤さんの懸念事項がそれで減ったなら、良かった」


 私は、ふっと肩の力が抜ける。そうか、先生が言っていたのは症状の話ではなく、私の仕事の話だったのだ。優しさが身に染みるなぁ。


「ところで伊藤さん。ここに何をしに来たのですか?観光ですか」


 あ、と私は声を出す。老人ホーム周辺の様子を見ようと徘徊しています、とはとても言えない。


「その……そうだ、海が見たくなって」


 私がそう答えると、松葉先生は頷く。


「いろいろとお疲れなのですね」

「はい。そうなんです、実は……」


 言いながら、言いたかったことを踏みとどまる。思わずカウンセリングをさせるところだった。先生はオフなのに、仕事をさせては申し訳ない。


「そうだ。先生こそ、どうしてこんなところで犬の散歩なんかしているんですか?もしかして、この辺にお住まいとか」


 私が問うと、松葉先生は、まっすぐグレース三崎の建物を指さした。


「あそこ、母親が経営してまして」


──何ですと?


「今日は形成外科が休診だったもので久しぶりに荷物を取りに帰ったら、母に犬の散歩を押し付けられたというわけで」


 松葉先生は軽く笑ったが、私の方は思わず力が入る。


「ほほほほ本当ですかっ!」


 急に目を輝かせ身を乗り出した私を、松葉先生はきょとんと見下ろす。


「あの、もしかして見学とかって可能ですか!?」


 松葉先生は困惑の表情を浮かべていたが、何やら思い当たることがあったらしくにっこりと笑う。


「ああ、親御さんのね」


 今度は私が困惑する番だった。「違います」とは、どうしても否定出来ない。


「良ければ、案内しますよ。あ、そうだ。その前に、お食事でも一緒にどうですか?今からあの、ドッグカフェに行こうかと思っていたところだったんです」


 へー、ドッグカフェ。


 私は小宮山さんの案件を思い出した。


 後学のために、ちょっと行ってみようかな。

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