60.入籍
「へー、これが婚姻届かぁ」
私と航平はそれをまじまじと眺める。
保証人欄には航平のご両親の名前が既に書いてある。私はごくりとつばを飲み込んだ。
ここは、都内某所の役所。
戸籍謄本も手元にある。
ここでこれを提出してしまえば、私達は晴れて夫婦となるのだ。
ここに来るまでに、私達は様々な手続きや挨拶回りをして来た。
私達のCMが流れるタイミングで、航平のご両親に会うことにした。
いきなり猫耳を見るとショックが大きいのではと思い、映像が出てから会うことにしたのだ。
けれど、それは全くの杞憂で──
「んまあああ可愛いいい!」
航平のお母様はテンション高めの上品なおば様だった。白髪をあえて染めず、グレーカラーの髪にきちんとパーマをかけて、それをふんわりひとつ結びにしている。日常でもアクセサリーを欠かさない、パンツスタイルが様になる、背が高くてとてもおしゃれな人だった。
お父様は口ひげをたくわえ、その日はゆるりと作務衣を着ていた。なんか仙人っぽい。それもそのはず、お父様は書道の先生らしい。そういえば、航平が百貨店に採用された理由のひとつに、筆耕が出来るからというものがあったはずだ。きっとこのお父様から習ったのだろう。百貨店ではのし書きの機会が多いので、航平のその能力は重宝がられていた。
私は顔を赤くし、猫耳を垂れる。
か、可愛いだって……
「ああ、こんな可愛い猫耳の女の子が娘になるのね……」
お母様、うっとりしていらっしゃる。
「うちの子どもは男ひとりだったからなぁ。こんな形で娘が出来るなんてなぁ」
お父様。そう言っていただけて嬉しいです。
航平がカバンからファイルを取り出す。
「でさ、婚姻届の保証人になってほしいんだけど」
「ああ、いいよ」
二つ返事でご両親はさらさらと名前を書いて行く。ああ!なんともあっさり……
私は小声で航平に問う。
「……大丈夫?」
「……何が」
そう返されて、私はうつむく。この輝くようなご両親を目にして、再び私の背後に影が出来る。私、釣り合っているのかな、この人たちに。私みたいな影をしょった女が、本当に──
私と航平はそれを携え、彼の実家を出る。
「あのさぁ」
航平が私の手を握って呟く。
「後戻りなんかさせないからな。もう、いい加減に前に進もうよ」
「……ごめんなさい」
もう、この後ろ向きな性格とは一生付き合うしかない。また、彼にだって一生付き合ってもらうしかないのだ。
「また結婚をためらうような真似したら……罰として一日語尾に〝ニャン〟って付ける刑な?」
あわわわわ、それだけは本当に勘弁してください!
次に行くべき場所に二人で向かう。
予約していた結婚指輪を取りに行くのだ。これだけは自分のお金で買いたくて、無理を言って彼と折半にしてもらった。
これもシンプルなものにしたけれど、裏面にお互い今日の日付を入れた。
これなら万が一落としても、自分のものだって分かるから。
箱にしまってもらい、大事にバッグの中に入れる。
そしてそのまま──我々は役所に来たのだ。
「はい、おめでとうございまーす」
役所の人が、書き込まれた婚姻届けを一瞬で受理する。
何もかも、あっさりと終了した。
これで、私達は晴れて夫婦となったのだ。
こんな簡単に、結婚って出来るんだな……私は思わず遠い目になった。
役所の中で、私はごそごそと先程受け取った指輪を取り出す。
「はい、これ」
「ああ、ありがとう」
私と航平は、何だか事務的に指輪をそれぞれはめる。
「婚姻届って、こんなにあっさり受理されるんだね……」
「うん、まあどこもこんなもんなんだよな、きっと」
「……もう、時間?」
「うーん、ちょっと早いけど、もう行くか」
私達は、かつての最寄り駅に向かう。
松葉先生の住む町へ。
今日は芝さんも加え、四人でようやく合格のお祝いと結婚のお祝いをするのだ。
あの日、私の母がぶち壊した小宴を──
電車の中、吊革につかまる。彼と私の指に、真新しい指輪。
……何でだろう。航平がちょっと余計な色香を纏った気がする。
「既婚者がモテるって、本当なのかな?」
私が真面目な顔で尋ねると、航平はぶっと吹き出した。
「だとしたら、どうする?」
「……ちょっと心配、かな」
「あはは。可愛いな、祥子は」
あのねぇ……結構こちとら真面目に心配してるんですよ?
「実はさ」
「何?」
「俺も今、同じこと考えてた。指輪した祥子が妙にきれいになった気がして」
あ、そうなんだ……
夫婦なりたてって、ちょっとこそばゆいな。
私達は久しぶりに、以前の最寄り駅に降り立った。
そこにいたのは、松葉先生と芝さん。改札の向こうに二人並んでいる。あ、こっちに気づいて手を振ってる。
四人は久しぶりに揃って落ち合う。
「あー!指輪!」
早速芝さんが気づいて声を上げた。そんな大きな声で言わなくても。何か恥ずかしいな……
「安岡さん」
松葉先生が私をからかうようにそう呼ぶ。改めてそう呼ばれると、こっ恥ずかしいです!
駅前すぐの居酒屋に入ると、松葉先生と芝さんが大きな包みをくれる。
「ありがとう。中身は何?」
「ワインよ。今年出来た記念ワイン。しばらく寝かせて、何かの記念日に飲むといいわ」
……嬉しい。
松葉先生が問う。
「お二人とも、フランスに行くのはいつですか?」
「来月ですよ。先生は?」
「僕もです。よければみんな同じ日に、一緒に成田から旅立ちませんか?」
「あら、いいですね、それ」
一方、芝さんはため息をついた。
「……芝さん?」
「私は来週、ドイツに帰るの」
ああ、そうなんだ。
「芝さんは一足先に行っててください。僕もすぐ追いかけますから」
芝さんは松葉先生の言葉を聞くと、うん……と少し寂しそうに答える。
私は少し胸が疼く。芝さんと松葉先生は、ずっとこうして同僚としてやって行くのだろうか。
「どうしたの芝さん。元気ないじゃん」
航平……。そういえば、君にはあのこと、話してなかったね。芝さんが松葉先生を想い続けてるってこと。
「うーん」
芝さんは少し額を押さえる。三人が顔を見交わしていると、芝さんは声を潜めた。
「ちょっと今、色々と研究所内がごたごたしてて」
ごたごた?予想と違うことで悩んでいたらしく、私は内心慌てる。
「ここだから、言うわ。どうやら研究所内にスパイがいるの」
……なんだか急に、凄い話が飛び出した。思ってたのと違い、重い話だ。
「情報が敵側に漏れてる。猫耳族を救える場面で、必ず邪魔が入って救えてないのよ」
松葉先生は眉をひそめる。
「そんな話、ここでは……」
「いいえ。むしろ研究所内の方が危険なのよ。だから、安岡夫妻にもここで伝えておくわね」
私は航平と顔を見合わせる。
「特に、航平さん。なるべく祥子さんから目を離さないでいて欲しいの。祥子さんも、危険な場所には行かないようにして。あとでフランスの地理について説明しておくから、危険個所は避けて。それから──」
芝さんは、きっと私に視線を移す。
「結婚式は、いつなの!?」
……はい?




