6.「猫耳、もっと触らせて」
会議が終わると私はロッカールームに向かい、ようやく制服に着替え始めた。
帽子をひょいと脱ぎ、制服に身を包む。
大きな姿見でその姿を確認し、いつものように鏡に向かって「接客用語の練習」をこなす。
鏡には、猫耳販売員がひとり。
はぁ……ため息が漏れる。山方店長は面白がって販売員継続を認めてくれたけど、太田部長は怒り心頭だったな。
人見副店長と田崎さんは様子見っぽいかな。
安岡は……
その時だった。がちゃりとロッカールームが開き、一部の女子販売員たちがどやどやと入って来たのだ。時刻は既に十一時半を回っている。早番の人は、この時間から昼休憩なのだ。
「おはようございます」
私は彼女たちに挨拶をする。いつもは返事があるはずなのだが、今日に限って、それがない。
彼女たちの目線は、私の頭の猫耳に注がれている。
また騒がれるかな?と思ったが、案外皆どこか白けた顔で、猫耳を眺めている。
そしてまるで私が見えないようにさーっとロッカーに荷物を取りに来ると、またさーっとロッカールームを出て行くのであった。
んー?何か、変だぞ。
なるべく関わり合いになりたくない、ということだろうか。
そうだよね、そりゃ……ひとりで納得すると、私もロッカールームを出て行く。
と、その廊下で安岡が待っていた。
私は違和感の正体に気づいた。彼女たちは猫耳を避けていたのではない。
安岡に構われる私を、無視していたのだ。
あちゃー……これは困ったことになったぞ。
そんな私の心情を知ってか知らずか、安岡はニコニコと話しかけて来る。
「一緒に家具フロアに行きましょう。猫耳のまま、販売出来ることになって良かったですね!」
なんて能天気な奴。私はまた別の問題を抱え、くらっと眩暈を起こした。
うーん、これはそろそろ潮時かな……。人間関係の溝がこれ以上大きくならないようにしなければ。
「悪いけど、安岡くん」
安岡は、何かの予感を察知したように真顔になる。
「その、色々とありがとうね。でも、もう私、大丈夫だから」
「……何がですか?」
んん?何で安岡、怒ってるの?
「ほら、安岡くんのおかげで、また現場に復帰出来るわ。私、安岡くんに、次こそ負けないように頑張らなきゃ……」
安岡は不貞腐れるように頭をぼりぼりと掻いている。
「ええと」
場を仕切り直すように、安岡は言う。
「俺が何で伊藤さんの売り上げを抜かそうと頑張ったか、分かります?」
私はきょとんと固まる。
「え?ボーナス査定の評価を上げるためでしょ?」
すると安岡は、これみよがしに大きなため息をついた。
「……ま、いいや。伊藤さんが元気になってくれたなら、それで」
ずいと安岡が私に近寄る。私は身構えた。
「でもさ……ちょっと見返りが欲しいかな」
私はそれで気がつく。そうだ、こんなに親切にしてもらっておいて、私、お礼のひとつもしていない。
「あーそっか、ごめんね!そうだなぁ、何か美味しいものでもご馳走しようか?」
「いや、ちょっとお願いがあるんですけど」
「おっ、何か欲しいものでもあるの?」
すると安岡はうっすらと微笑んで
「猫耳、もっと触らせて」
などと言う。そんなことでいいなら、お金もかからないし、お安い御用だけど……?
「そんなんでいいの?」
「はい」
言うなり安岡は私の頭を撫でて来る。まるで猫を可愛がるように。両の手で猫耳をびょんびょんと撫でつける。私はくすぐったかったけど、お礼だと思って耐えた。
安岡の指先は、どこかごわごわとして固い。でも大きな手だから、とても安心感がある。
安岡はしばらく猫耳を愛でていたが、いつの間にかその指を私の黒い髪に滑らせる。私の肩まである髪を撫で、ふと私の頬に触れる──
私ははっとして後ずさった。
「や、安岡くん。そろそろいい?」
安岡は憮然としている。その駄々っ子のような顔を見て、私の心拍数は急激に跳ね上がった。
今、彼は何をしようとしていたの?
私は青ざめて混乱する。安岡は何かを我慢するような顔で私を見下ろすと、
「……売り場に行きましょうか」
と踵を返し、廊下を歩いて行く。私はその後を追いながら、ぎゅっと胸を押さえる。
ああ、駄目だ駄目だ。
念じるように、唱えるように、同じ言葉を頭の中で繰り返す。
こういうのに、乗っては駄目だ。
どうせ傷つく。ろくなことはない。
私は平常心を取り戻そうと焦りながら、脳裏にちらつくあの最低な父の陰に怯えていた。
脳内に棲む母が言う。
──男はみんな、ああなのよ。
私は彼らに抗うように、家具フロアの扉を開けた。
明るい売り場に、新しく輝く家具たち。
さあ、今日も頑張って家具を売って、顧客を獲得して、ボーナスアップに繋げないとね。
信じられるのは、お金だけなんだから。