46.さよなら、素敵な夢
私と松葉先生は走って走って、先に居酒屋に到着した。
二人で椅子席にへたり込む。
「な、何で母が、あそこに」
「……何の前触れもなかったんですか?」
「ない、ないですよ。本当に突然現れて──」
再び電話が鳴る。私はようやくその電話に出た。
「あ、航平」
「祥子?何かさ、今祥子の母親が祥子の家に行きたいって言ってるんだけど」
私は目の前が真っ白になる。
「……はぁ?」
「今日、祥子の家に泊まる予定なんだって?」
それから、目の前が真っ暗になった。
そんな女、すぐに追い返せ。
私はそう思った。だけど事情を何も知り得ない彼に、そんなことを言ったら、どう思われるだろう。
きっと今まで私と出会った人々のように、私を非難するだろう。
──たったひとりのお母さんじゃない、大事にしなよ
──そんなひどいこと、親がするはずがない。作り話だろう
──薄情な娘だ
もし彼にそんな風に思われたら、私、生きて行けない。
航平にだけは絶対嫌われたくないよ。
「……分かった。今どこにいる?」
「祥子の部屋」
なんと。あの女はどんな手口で彼を騙し、私の部屋に転がり込んだと言うのだ?
航平も航平だ。騙されたとはいえいきなり母を名乗る見知らぬ女を入れるなんて、無警戒すぎないか。
「……先生」
私は声を落とした。
「母がもう、私の家にいるって」
松葉先生の方が、さーっと青ざめた。
「……え?どうやって、入り込んで」
「分かりません。分かりたくもない……」
私は目をこすった。
ああ。
航平と一緒に暮した幸せの部屋。二人のものが揃った部屋。
全部、あの女が、ブチ壊した。私の愛した場所を。
私は再び電話に戻る。
「分かった。今、行くね」
松葉先生が尋ねる。
「行って大丈夫ですか?もう下手したら、全てかなぐり捨てて逃げた方が」
さすが毒になる親をお持ちの松葉先生。分かっていらっしゃる。
「私も、そうしたいです。でも、通帳と貴重品だけでも回収しないと、全部使われますから」
松葉先生は絶句した。
「……そ、そっか」
「とにかく、一度行きます。それから逃げます」
「……どこへ?」
私は黙る。どこへ。
「お金ならあります。しばらくはホテルを転々と」
松葉先生が言う。
「大丈夫ですか?何なら、僕の」
「いいんです。最悪のパターンは、人間関係を熟知されることです。母は私の人間関係を壊しに回るのが生き甲斐なんです。だから、松葉先生は今日、ついて来ないでください」
先生は悲しそうな顔で黙った。
「人間関係を……壊す?」
「私を操りやすくするためです。新興宗教の監禁も、そういうことでしょ。同じです」
「……伊藤さん……」
先生は何かを思い出したらしく、目をこすっている。多分この人も、似たような体験をしたひとりなのだろう。
「とりあえず、行きますね。先生、ごめんなさい。今日は……」
「あ、いいんです。日本をたつのはまだまだ先のことですから」
「……本当に、ごめんなさい」
駄目だ。強がりたいのに、声が震えてしまう。
「また何かあったら、先生を頼るかもしれません」
「いいですよ。いつでも連絡待ってます」
私は居酒屋から出て、すぐに自宅アパートへと向かう。
通帳を持ったら、何が何でも、全てを振り切って逃げよう。今はいているパンプスを脱いででも。
私は自宅に戻り、愕然とした。
母は早速家探しを決行している。そして部屋の隅では、あぜんとする航平が佇んでいる。
「あら」
私の顔を見て、母がとびかかるようにやって来る。
「遅かったじゃない!今まで三年も行方をくらまして、どこへ行ってたの?」
私は無視した。母を見下ろし、威嚇の視線だけ送る。
「ねえ、また私、住んでる所を追い出されちゃったのよ。また一緒に住もう?祥子。お母さん、ご飯も作るし掃除もするからぁ」
私はまっすぐクローゼットに歩いて行くと、下着入れから通帳を取り出した。それを無造作に持っているかばんに突っ込んで、部屋を出ようとする。
「祥子、待って」
航平が歩いて来る。私は振り返って彼を見上げた。
「一緒に飲み屋に行くよ。先生は今……」
「ごめん、航平」
私は覚悟を決めて言った。
「私、もう、ここには戻らない」
そう言い置き私が出ようとすると、母が走って来た。
「祥子!」
私は立ち止まる。
「私が何をしたって言うの、祥子。あんなに仲良くして来たじゃない、私達」
ああー、出た!泣きの演技。ほんとイライラする!!
「もう、お母さんに辛く当たるのはやめて!お願いよ祥子……」
母は嗚咽し、膝から崩れる。するとお人好しの航平が思わず母の背中をさする。ああ、航平、君は優しいよ。優しすぎるほどにね。
「なあ、祥子」
航平が口を開く。私は嫌な予感に眉根を寄せた。
「ちょっとだけでも、一緒にいてやれよ。お母さん、苦しんでるじゃん」
私は黙る。
「たったひとりのお母さんだろ」
あ。
「ちょっと冷たいぞ、祥子」
その瞬間、私の中で全てが崩れた。
そっか。
君はやっぱり、そっち側の人間だったんだね。
何となく、そんな予感はしてたんだ。私みたいな女が、君のような輝く人間の隣にいるべきではなかったんだ。
猫耳が生えたぐらいで、私、調子に乗ってた。
私なんか、本来光の当たる場所に出てはならない人間だったんだ。大体、親のことを隠して付き合ってしまった私が悪い。彼は何も知らないだけで、何も悪くない。
全部私のせいだ。私が撒いた種を、私が刈り取っただけのことだ。
「別れましょう、私たち」
航平が顔色を失う。
「え?それってどういう」
「私、この町から消えるね……さよなら」
私はパンプスから運動靴に履き替えると、走り出した。もうこれ以上、ここにいたら窒息して死んでしまいそう。
母から逃げられることと彼と暮らすことを天秤にかけたら、前者の方が私には大事なのだ。
さよなら、航平。
少しの間だけだったけど、素敵な夢を見せてくれて、本当にありがとう。




