31.松葉先生、倒れる
結婚かぁ……。
その話が出てから、私は何をするにしてもぼんやりとそれについて思考する癖がついてしまった。
今、私は教習所で初めての座学をしている。でもそわそわして、授業に身が入らない。
今日は常川さんと共に都内を回った。我が百貨店にはインテリアコーディネーターを呼べる条件があり、その条件とは「インテリア及び家具を一括で十万円以上購入したお客様であれば誰でも」である。それゆえ新築や引っ越しにより百貨店でこられを揃えると軽々とその金額に達してしまい、結構皆さん興味本位で利用されるのだ。
今日も、色々なお宅にうかがった。
新築三件、新居が二件。前者は結婚したてとか、子どもが生まれたばかりの家が多い。真新しい家具に囲まれ、家族に恵まれ、好きな家具やカーテンを選ぶ時の、お客様の輝く瞳。以前はそれを見ても何とも感じなかったのに、最近の私はそれを目の当たりにするとふわっと浮足立つようになってしまった。
単純に幸せそうな家庭への羨望がそうさせるのかと思ったが、どうもそうではないらしい。
私は彼らの希望に共感し、彼らと同様に胸を膨らませていたのである。
ただ家具を売って、ボーナス査定に一喜一憂していたこの私が。
私は航平と付き合って変わってしまったらしい。
私も彼らのようになれるかもしれない。その希望が、私を変えた。
家具を売るという意味を、ようやく私は理解したのだった。私は希望を売っている。なぜそのことにずっと気がつかず、数字ばかりを追っていたのだろう。私は今まで接客した人に、何だか申し訳ない気がしていた。
教習所の講習が終わる。私は家路につき、閉店準備をこなす時間帯の、せわしい商店街を歩いていた。
商店街を離れ、松葉医院の前を通りかかる。ふとその玄関を見やると、一枚の見慣れぬ張り紙が目についた。私は何となく近づき、その内容にはっと息を呑む。
〝松葉武史医師急病につき、しばらく増田幸喜医師の代診となります〟
きゅ、急病!?
私は震える手で、スマホを手にした。松葉先生の身に、一体何が起こっているの?
急病だから、下手に電話なんかしない方がいいのかもしれない。私は考えあぐね、とりあえずラインに書き込みをした。
「松葉さん、張り紙見ました。体調大丈夫ですか!?」
すると意外なことに、即、既読の文字が踊る。私が目を丸くしていると、
「過労です」
すぐに返事が来たではないか。過労!?それは大変だ。
「どなたか頼れる人はいますか?何か私に出来ることがあればおっしゃってください」
私はそう入力し、家に向かって歩き出す。すると
「なんでもいいのでたべものください」
という、妙に切迫した内容が飛び込んで来る。
「わたしのいえはまつばいいんのうら」
全部ひらがな!これは大変だ。
「待っててください。コンビニで幕の内買ってきます」
私はそのまま、コンビニへ走った。ポカリと幕の内弁当、ウィダーインゼリーなどを買い込み、再び松葉医院まで戻って来る。
先生の言った通りに松葉医院の裏手に回ると、確かに平屋の小さな家があった。私は玄関の戸を叩く。
すると、扉が少し開いた。その向こうには、少しやつれた松葉先生の姿がある。
私がコンビニの袋を見せると、先生は扉を大きく開いた。
「……すいません、なんか。伊藤さんを使い走りにしちゃって」
私は首を横に振る。
「いいえ、先生にはお世話になってますもん。ところで……」
私は、玄関から少し奥までを眺め、驚愕する。
玄関にはゴミ袋の山。奥も、取っ散らかっている。私のただならぬ表情に気づき、先生は声を落とす。
「このところ忙しくて、何も出来なくて」
今まで新築の素敵な家や、片付いた室内ばかりを見て来た私には、その光景はショックだった。いつも身ぎれいにしている松葉先生の部屋が、こんなに荒んでいるという事実。
「先生、このゴミは……」
「あ、はい。伊藤さん、ではこれで失礼して」
「ちょっと待った!」
私は弁当を先生に押しつけると、玄関を上がった。よかった、床は見えている。まだ手のつけようがある。
「先生、ここ、片付けましょう。こんな部屋じゃ、いくら休んでも体調良くなりませんよ!」
振り返った私を、先生はちょっと思いつめたような顔で見つめている。
「……どうしましたか?」
「あ、いいえ。その……ウィッグ」
「ああ、これですか?これのおかげで、快適に仕事出来てますよ」
「……」
松葉先生の様子がおかしい。何だか、ひどく落ち込んでいるようだ。
あ、そうか。
「猫耳でも見て、元気出します?」
「……違うんです」
あ、違うの?
「あの、僕、伊藤さんに言わなくてはならないことが」
まさか、また告白……!?私は身構えたが、先生から出た言葉は、思いもかけないことだった。
「他にも、猫耳の女性がいます。ドイツの不法移民の中に、紛れていたんです」
私は固まる。
「は、はいいい?」
「あの、あなたにも見ていただきたいものがあって」
先生は使命感からか急に元気になって、部屋の隅にある雑然としたデスクから、タブレットを引っ張り出して来る。
「これです。この画像」
私は暗い部屋の中、煌々と照る板を凝視する。
それは真正面から撮った、いかにも記録用の写真。
そこにはまだあどけない、小さな猫耳の少女が映っていた。