3.猫耳と後輩
松葉形成外科を出、私は肩を落とした。
やはり明日は出勤しなきゃ駄目だ。大体、既にセールが始まっているのだ。セール期間中に有給をとるなど、普段なら許されない。
「……行くしかないかぁ」
が、案外そこまで悲観していない自分もいた。
医師に診せたことで、少し肩の荷が降りたのだ。そう、困ったら取っちゃえばいい。痛いだろうけど、日常生活を送るためには致し方ない。
時刻は十二時だ。そういえば、昨日の夜から何も食べていない。
ここはガッツリ食べちゃおうかな。
街角のうどんチェーン店に入る。ここはもう、特盛をがーっと食べようかな。
食券を購入し、カウンターに座る。青い器に温かいうどんがこんもりと盛られ、私は舌なめずりをする。
そう、腹が減っては戦は出来ぬ──
「あれ?どうしてここにいるんですか、伊藤さん」
聞き覚えのある声に、私はおっかなびっくり振り返る。
そこには、あの安岡がいた。いつものスーツ姿とは違い、肉厚のパーカーにジーンズ姿だ。同じ列のカウンターにあいつも座っていたのだ。
「な、何であんたがここに……」
「それはこっちのセリフですよ。伊藤さん、今日シフト入ってましたよね?俺は、今日休み」
言いながら安岡はうどんを横に滑らせ、私の席に寄って来た。
「伊藤さんも、社の借り上げアパートでしたよね?俺のアパートも、ここの近くで」
安岡はもぐもぐと咀嚼する。
「伊藤さんもこの辺なんですか?」
気の抜けた質問に、私はほっとする。日常に飢えていたのもあって、相手があの安岡だとしても、とにかく誰かと他愛もない話がしたい。
「私、さっき形成外科に行って来て」
「あー、あそこ!松葉医院でしょ?知ってますよ、俺は行ったことないですけど」
言いながら、安岡は「む?」と怪訝な顔をする。
「仕事休んでまで病院って、どっか悪いんですか?」
私は「しまった」と思う。
「……大したことじゃ」
うどんを目の前に、私の眼鏡は曇り、汗が吹き出して来る。
「伊藤さん、汗かいてますよ。ほら、帽子」
言いながら、いきなり安岡は私のニット帽を引っこ抜いた。
すると、ぴょこん。猫耳が飛び出す。
私は叫び出しそうになって、安岡から帽子を奪った。
安岡は信じられないといった顔で、真っ赤になる私の顔を眺めた。
「え、伊藤さん……」
私はニット帽を被ると両手で押さえる。
うかつだった。そうだこいつは、距離ナシ軽率男だったのだ。
「ちょっと、今の。もっかい見せて」
私は苦々しい顔で「は?」と声を荒げた。
「人の帽子をいきなり取るなんて失礼よ!」
「何言ってるんですか。食事中に帽子被ってるほうが行儀悪いですよ」
おいおい、ここで正論かますんかー!?
ええい、もうやけっぱちだ。私が構わずうどんを食べ始めると、やはり安岡はニット帽をそうっと外す。
あーもう、好きにしろ!
安岡は私の猫耳を眺めると、ちょんとその突端を引っ張る。
私の猫耳は、ぷいっとそれを嫌がるように動いた。
「……これ、本物?」
答えるもんか。私だって、これが何なのか分からないんだから。
ずるずる。
うどんは美味しい。けれど今日のうどんは、いつもよりしょっぱい気がする。
「わー!本物だ。すげー」
「ちょっと、引っ張らないでよ!っていうか、断りもなく勝手に私の体触らないでくれる!?」
ハエを追い払うように、しっしと安岡の手を払う。
「じゃ、触ってもいいですか?伊藤さんの耳」
「今更……」
「尻尾は?尻尾はあります?」
安岡……?今まで見たこともないぐらい、目が輝いてるんだけど……?
「ないわよ!何期待してんの!?ほんと……」
「はー、なるほど。それで病院に行ってみたってことですか?」
おう、いきなりそっちに話が進むのね?
「で、どうだったんですか?」
私は苦々しい顔で頭を押さえる。
「それが、検査の結果待ちで……」
「それ、取っちゃうんですか?」
「あ、まあ、うん」
すると安岡はずいと体を寄せ、
「取ったら勿体ないですよ、マジで!」
と低い声で叫ぶ。
「は?だってこんなのついてたら、店に立てないじゃない!」
「え?いやむしろ、それで店に立った方が今より売れるかもしれないですよ?」
ん?何だと?
「つまり客寄せパンダってこと!?」
「客寄せ猫です」
「そんなことはどうでもいいわ!私は嫌だからね、こんなものに頼って売り上げ稼ぐなんて!」
安岡の目は真剣だ。私の顔と猫耳を交互に眺め、ぽつりと呟く。
「……すっげー、いい……」
「ん?何よ」
「いいえ、こっちの話ですっ。とにかく──俺は取らない方がいいと思うなっ!」
あんたの意見なんか、聞きませんよーだ。
「まあそういうわけで、しばらくこれ、取れないのよ」
すると安岡の目は更に輝いた。
「しばらく……取れない!?」
「ん?え、ええ……」
安岡は目を閉じると、満足げに頷いて見せる。
「その、もし取っちゃうとしたら、取る日、教えて下さいね?」
「はぁ?何でよ」
「俺にも受け入れる覚悟、心の準備が必要ですから……」
こいつは一体何を言い出してるんだろうか。
「はー、でもこんなふざけた格好じゃ店頭に立てないなぁ」
「立てるように、俺からも働きかけますよ。上は前例がないとか言いますけど、熱意を持ってやればきっと……!」
安岡よ……私、猫耳への熱意なんか、別にないよ?
「伊藤さん、明日は売り場に来ますよね?」
「……そのつもりだけど」
「俺も直談判しますよ!伊藤さんが猫耳のまま仕事が出来るように、俺も尽力しますんで!」
おいおい!
ちょっと待てー!