23.彼の部屋
松葉医院を出、私と安岡は時計を眺める。
「お昼、どうしましょうか」
私はまた商店街にあるうどん屋へ行こうかと思っていた。が。
「うどんはどう?」
と尋ねると、安岡はどこか訴えかけるような目線を送って来た。
「……何よ」
「伊藤さんの得意料理って何ですか」
ははーん。そういうことか……甘いわ、安岡!
「やだよ、今から料理なんて。外か、コンビニがいいな」
すると安岡は少し声のトーンを落とし、
「俺、カルボナーラの練習しておきました」
と告げる。思いがけない反撃に、私は顔を赤くした。
「カルボナーラの練習!?」
「それでよければ食べます?」
まるで隠そうとしない下心に、私はどぎまぎする。
「私たちまだ付き合ってちょっとだよ?部屋は早すぎる!」
「えー。じゃあどこでいちゃいちゃすればいいんですか?外ですか、部屋ですか?」
何よそのクロージングトークは!安岡は微笑むと、私の肩を抱いて囁く。
「しょうがない、外でしますか?」
「わ、分かったよ、もう……!」
私はちょっと悔しくなる。男の人とこういう関係になった事実にまだ慣れないから、もう少しだけ時間が欲しかったのに。
安岡はこらえきれないと言った様子でとても嬉しそうに笑うと、私の手を引いて歩き出した。
途中で食材を買わなかったところを見るに、家に全て揃っているということなんだろう。
さすがは元モデル──ぬかりなさすぎる。
安岡の住むアパートは、駅から商店街を私のアパートと反対方向に進んだ場所にあった。
その三階まで階段を上る。安岡はカギを開け、私を室内へと促した。
あ、思ったより片付いている。キッチンも、きちんと整理整頓されている。コンロには銅のお鍋がちょこんと乗っていた。小さな廊下を抜けワンルームに入ると、
「ただいま」
と安岡がねだるように私の目を見て言う。私はそのいじらしさに速攻で根負けし、
「おかえり……」
と返す。安岡は私のベレー帽を取ると、がばっと抱き着いて猫耳に頬ずりをした。
「わっ!きゅ、急に何……」
「あー、ずっとこうしたかったんです。ずーっと……」
髪を撫でられ、私はばくばくと胸を鳴らして固まる。やっぱり、こうなるのか!私は何もかも初めてのことで、動転し眩暈がする。男の人の体の厚さ、匂い、その力、初めての感覚がわんさと押し寄せて来る。情報の処理が追いつかない。
「や、安岡くん……放して」
「やだ」
「ねえ、お願い。ちょっと眩暈が」
そう言うと、ようやく安岡は体を放してくれた。
「……大丈夫ですか?」
「う、うん。ちょっと、びっくりしただけ」
安岡は少し中腰になって私の顔を覗き込むと、
「百貨店では我慢するから、ここでは祥子って呼んでいい?」
と尋ねて来る。私は再びくらくらと眩暈を起こす。
「い、いいけど」
「祥子も、俺のこと、ここでは航平って呼んで」
「ええええ」
私は安岡の攻勢にもはや打つ手がなく、ベッドにへたり込んだ。
「無理、急にそんな。安岡くんは安岡くんよ!」
「そうですか?うーん、まあその呼び方も興奮するといえばするんですが」
「するんかいっ」
「後輩呼びって感じで、いいんです。お堅い感じが、よりエロいっつーか」
「航平!!」
私はまたも負けた。
駄目だ、完全にあっちのペースだ。
安岡……もとい、航平はくすくす笑うと台所に立つ。
「祥子は休んでて。ぱぱっと作っちゃうから」
ああ、はい。
私はコートを脱いでハンガーにかけると、ぼうっとベッドの上に腰を下ろした。
私は彼の部屋を眺める。
転勤族らしからぬ、きちんとあつらえた家具がそこにある。日本の、古い箪笥。古道具好きにはたまらない、階段状になっている箪笥だ。
思わず立ち上がり、近づいた。ちょいと引き出しを引いてみると、中には下着の類が入っていた。
「えっち」
お茶をちゃぶ台に運びながら、航平がからかって来る。私は真顔で引き出しを閉めた。
よく見ると、そのちゃぶ台もかなりの年代物だった。座布団のカバーも、よく見ると着物のリメイクだ。
思いがけず、良いものに囲まれて生活している彼の実態が明らかになった。私はそれを眺め、己の部屋と比べ愕然としていた。
私の部屋なんか。
テレビは床に直置き。服はプラスチックの衣装ケースに詰めて放置。本当に、食べて寝るだけの空間だったのだ。私は内心、冷や汗をかいていた。
ちゃぶ台にカルボナーラが運ばれて来る。私は座布団に正座した。ああ、使い込まれた古い絹の感触。とっても贅沢だ。
向かいに航平が座る。
あ、よく見たら、器は益子焼。赤茶けた滑らかな釉薬の上に、無造作に乗っけられたカルボナーラ。何だかもう、お皿のせいもあって三割増しで美味しそうに見える。
「いただきまーす」
私はぱくりと口に入れ、至福の時間を享受する。美味しいし、家具の景色はいいし、最高。
向かい側に座っている航平も、満足げに笑う。
「ふふふ、何だか古民家風の景色だね。航平、こういうの好きなんだ?」
「うん。親がこういうの好きで、ひとり暮らしの時に持たされたんだ」
へえ。航平の、親。
「贅沢は目でしなさいって言うんだ。本物を見ていると、本当のことが見えるようになるって」
私は少し気まずくなって視線を落とす。
そんな風に言ってくれ、持たせてくれる親がいるって、とっても羨ましいな。