20.猫耳の涙
フロアマネージャーの田崎さんは、思いつめたような顔をして私を見下ろしている。
「そうか……もう、そんな事態に」
「申し訳ありませんが、しばらくバックヤードや倉庫での仕事に回して下さい」
私が頭を下げると、事務所の奥から太田営業部長が現れた。
「だーかーら、言わんこっちゃない!」
猫耳会議で、唯一反対した太田部長。結局彼の懸念の通りになった。
「もう耳を取るしかないな!大体ね、私は君の営業成績を非常に買っているんだ。だからこそ、そんなものは外してほしいんだよ。猫耳なんかなくても、君には売る力があるんだから!」
ああ、ただ文句言われるのかと思ったけど、ちゃんと叱咤激励もしてくれるんだな、部長。田崎さんは怒りながら去って行く太田さんを見送ると、こちらに向き直った。
「そういや、病院からまだ連絡はないのか?」
「そうですね。病院は六日からなので」
「うーん、そうか。もうこうなったらしょうがない。裏方に回ってもらおう」
「ありがとうございます」
「何。耳を取るまでの辛抱だ。伊藤さんは、本当に頑張ってくれてるから」
うわーん!田崎さん、それ以上言われたら、私、泣く!
「また何かあったら言えよ。じゃあな」
「はい。すいません」
私は倉庫へ戻った。
倉庫は、販売員でごった返している。大方、お客様に在庫を確認させられているのだろう。
あ、安岡もいる。
私は勇気をもって話しかけた。
「安岡くん、何か探してるの?手伝おうか」
安岡は驚いて振り返ったが、すぐに無表情になる。
「いいです」
それ以上は言葉もなく、彼は倉庫の奥へ入って行く。ああ、完全に避けられてる。
倉庫で、同僚が安岡に声をかけている。
「今度の土曜、合コンあるらしいけど、行く?」
私は猫耳をそばだてる。
「合コン?相手は?」
安岡が、少し明るい声で尋ねる。同僚は「女子大生だよ」と答える。
「へー、行こうかな」
「おっ、やったぁ。安岡が行けば女の子めっちゃ来るよ!」
聞こえないふりをしながら、私の心は痛んだ。
──当たり前、当たり前。彼は次へ行こうとしているのだ。
私は諦める。
いいんだ。これは、全部自分が蒔いた種を刈り取っているだけなのだから。
私は人知れずため息を吐く。そうだ、これでいい。
猫耳が引き寄せたものなど、猫耳と共に去って行くのだ。大体この猫耳がなければ、不特定多数の余りある好意にあずかることなどなかったわけなのだから。
私はそれから黙々と倉庫内作業をこなした。
猫耳が、私から職場をも奪おうとしている。その事実に打ちのめされながら。
初売りの夜。シフトが終わり、私は百貨店従業員出口を出る。
喧噪の中を、ベレー帽を被って家路を急いだ。あのフラッシュが脳裏に焼きついて、何だか落ち着かない。またあれを食らうと思うと、自然と足がはやる。
その時だった。
私の背後から、ひたひたと足音がした。それに気づいた刹那、帽子がすぽんと取られる。
私はある予感に、背後を振り返る。もしかして、と期待する気持ちが、ないといえば嘘だった。
しかしそこにいたのは、全く見知らぬ男。
私は猫耳を放り出したまま、固まった。
「お!やっぱりそうだ!あんた、あの百貨店の猫耳販売員さんだね?」
急にハイテンションで話しかけられ、私の思考は停止する。四十代くらいの男性だ。作業服のような格好に、紙袋を持っている。
私が呆然としていると、男は私の腕を掴んだ。
「ね、ちょっと付き合ってよ」
「……なっ、何するんですか、やめて下さい!」
「ねーえお願い。画像で一目見た時からファンなんだ」
更に、騒ぎを聞きつけて人が集まって来る。あのフラッシュが、私に容赦なく降り注ぐ。
え!?こんなに人がいて、誰も助けてくれないの!?
私は真っ青になり、何とか男の手を振りほどこうと手を捻る。けれど、相手は男性。まったく身動きが取れない。
──助けて!!
私がフラッシュに耐えきれず、目を閉じた次の瞬間。
「うわああっ!」
叫び声と同時に、私の腕は自由になる。
フラッシュもついと消える。私がそうっと目を開けると、先程の男性が地べたに這いつくばっていた。
ふいに、私にベレー帽を被せる手がある。
私はその指の感触で、すぐにあの時の記憶が呼び覚まされた。
少し硬い指先、大きな手。
そこにいたのは安岡だった。
どうやら彼は、男の背中を蹴り倒したらしい。
安岡は無言で男のポケットから落ちた財布を拾い上げると、運転免許証を手に取る。
「岡田泰明。神奈川県相模原市……」
かと思うと、急に大声で男の個人情報を読み上げ始めたではないか。男は青くなって体を起こし、通行人は面白がってそれを撮影している。
「や、やめろっ」
「お。人間の言葉が喋れるんだ、意外」
安岡は運転免許証を戻すと、男の顔めがけてその財布を投げつけた。
「お前の映像も拡散されろバーカ」
それから呆然とする私の手をぱっと繋ぐと、安岡は私を引きずるようにして、速足で雑踏へ向かう。
私は安岡の背中を眺めながら、思わず泣いた。安岡は無言だったが、その手のひらの温度はとても優しい。
安岡、ごめん。
本当に、ありがとう。