2.猫耳、医者に診てもらう
上司と言えば、フロアマネージャーの田崎義文。
彼も数年前までは家具の販売員だった。とても物腰の柔らかい聡明な上司で、現在四十歳。三人の子どものお父さんだ。
あの人になら、こんな馬鹿げた相談も出来る気がする。
私は震える手で携帯を手に取り、田崎さんに繋ぐ。と、
「もしもし?」
彼はすぐに出た。わっ!と声を上げそうになったが、何とか踏みとどまる。
「どうした?こんな朝早く」
「え、えーっとですね……」
まず、あのことを言おう。
「その、今日、有給使っていいですか?」
「どっか具合でも悪いのか?」
私は田崎さんの返しに唸る。
「え、ええ、まあ」
「分かった。セール準備で忙しかったもんな。ちょっと休んどけよ」
あわわ、何という理解の速さ。私は滑り込むようにして言葉を挟んだ。
「あの、ちょっとご相談がっ!」
「何だよ、明日聞くよ」
「あのですね、猫耳が生えまして」
沈黙。
「あー、はいはい。酔ってるね?」
「ち、違います!あの、今日田崎さん出勤ですよね?」
「そうだけど」
「その、猫耳が生える病気になりまして、一度田崎さんにお話ししなければと」
「えっ、病気!?」
そのワードには引っかかった田崎さん。
「医師の診断は?」
「医者はまだ……」
「一度医者に診てもらってよ。話はそれからだろ」
ここに来て正論。私は額を掻いた。
「あ、そうですね」
「ま、病気の程度によっては福利厚生もあるから、んー。何とも言えんが頑張れよ。じゃ、今日は有給というわけね、了解」
「はい!」
そうして通話は切れた。私は猫耳を撫でつけるようにして、びょんびょんと掻く。
「医者か……」
保証人を探さなくっちゃな。
ああ、嫌だな。
そんなわけで私は帽子を深々と被り、隣町の形成外科にやって来た。
松葉形成外科という、割と新しい病院だった。何の因果か、猫グッズが受付に所狭しと並んでいた。私は受付に声をかける。
「あのう」
「はい、どうぞ。今日はどのような症状で?」
「えーと」
私はするんと帽子を外す。
ギャッ!と受付のお姉さんが叫んだ。
「ね、猫耳……!?」
私はしゅんと耳を垂れた。かと思えばぴんと立ち上がるその耳に、受付のお姉さんは目を白黒させている。
「ちょ、ちょっとお待ち下さいね。あの、混乱を避けるために、帽子は被ったままでお願いします!」
意外と冷静な指示に、私は
「やっぱりプロって凄いな」
と感心する。
緊急事態というわけで、すぐに診察室へ通される運びとなった。私はようやく診察室で汗ばむ頭から帽子を外せて、満足していた。
忙しく医師がやって来た。
まだ若い。三十代ぐらいだろうか。黒い髪で妙にきれいな肌をしていて、切れ長の瞳。文学青年っぽい、知的で儚げな雰囲気を纏った医師である。名札には「松葉武史」と書いてある。
彼は私を見るなりぎょっとして、だがすぐに冷静な表情に戻った。やっぱりプロって凄い。
「えーと、症状は……ふむ、猫耳が生えて来た、と」
松葉先生はこんな馬鹿げたことをしっかりと確認した上、電子カルテに書き込んでいる。
「ちょっと、見せてもらっていいですか……」
松葉先生は、私の耳をああしたりこうしたりと触りながら、
「引っ張ったら、どうですか?」
などと聞いて、引っ張って来る。
「痛いですね」
その拍子に少し眼鏡がずれたので、先生はそっと私の眼鏡を上げて戻してくれる。
「うーん、世界でも類を見ない症例だな……一応細胞診、しておきますか?」
「細胞診?」
「悪性腫瘍などではないか確認するということです。症状が症状ですからどちらにせよ、ご希望とあらば大病院を紹介しますよ」
「それって、やはり手術ですよね?」
「んー、まあそういう話にはなると思いますがね……」
そう言うと、松葉先生は私の猫耳を興味深そうに触り、
「……私は、あってもいい、とも思いますが」
と、なぜかにっこりとこちらに笑いかけるのだった。
「え?この異物を?」
「確かに、あなたには人間の耳があるし、頭の猫耳は明らかな異物です。けど、うーん、何て言ったらいいか」
先生は悩まし気に腕組みをし下を向くと、
「……個性?」
などという言葉を投げ、顔を上げた。私はあんぐりと口を開ける。
「体のこぶを、取る人取らない人がいるように、もし悪性でなければそのままにしてもいいと私は思いますよ。だってそれ、とっても可愛いじゃないですか」
か、可愛い?
可愛いは、正義?
正義だからとて、そのままにしておけるものなの?
「帽子の中にも納まりますし。変な話、一芸になるかも」
何を言ってるの?この先生は。ちょっとおかしい医者に当たっちゃったかな?
「では、細胞診の準備をしましょう」
顔色をころころ変える私を尻目に、先生は看護師たちに的確な指示を出した。麻酔が打たれ、猫耳にちくりと刺す感触がある。
「じゃ、今日はここまでにしましょう。年始には結果が出ますので、それまで我慢していて下さい」
へっ、と口から変な声が出た。
「え、じゃあ年始まで、このまま……!?」
「そうです。結果を待ちましょう」
そ、そうだった。
いきなり行って、いきなり手術で取るなんて、そんなこと、どんな悪性腫瘍だって出来っこないんだ。
手術するにも、検査とか書類とか、そういう前段階がいっぱいあるのだ。すっかり失念してた。
どうしよう……!