19.「猫耳女を出せ!」
「……ごめんなさい。私」
そう言いかけると、
「仕事が忙しいからここでお別れですね」
と、松葉さんはにっこりと、あの営業スマイルで私の話を遮った。……多分色々察したのだろう。私は梯子を外された形になり、結局あの覚悟は伝えられずに終わった。昼食を終えると、言葉の通りに非常にあっさり現地解散となる。
ああ、だめだ。
私は自室に戻ると、ひとり部屋の中でコートとキルトスカートをハンガーにかけ、安岡に貰ったベレー帽を眺めた。
私は自分の気持ちに向かい合う。
必ず、安岡の誤解を解こう。松葉さんはお友達というよりも、やっぱり先生、お医者さんである。よく考えれば、終始カウンセリングの一環みたいな関係だったではないか。
語弊があるかもだが、松葉さんは本当に都合の良い人であって、恋人にはなり得なかったのだ。それに、安岡の誤解を解くことの方を、今の私は切望している。
新年の夜にベッドの中で私は悶々とする。眠れない。
安岡の顔を思い出す。
私、本当にあの子のこと、好きなのかな?松葉さんと友達以上になれないことははっきりとしたけれど、じゃあ安岡とどうこうするというのも、また想像がつかない。
ああ、顔がいいとかですぐ男の人を好きになっちゃえる女の子って、羨ましい。
安岡ファンを恐れていたはずの私は、いつの間にか彼女たちを羨ましがっていた。
次の日は、新年初出勤。
初売りの福袋の用意をするべく倉庫に向かう。と、そこに常川さんと安岡の姿があった。私は緊張しながらも
「おはよう」
と二人に声をかけた。二人ともすぐに「おはようございます」と返してくれる。けど、笑顔で目を合わせてくれた常川さんと違って、安岡は顔を向けてもくれなかった。
私はうなだれる。
やっぱり、懸念した通りだ。
百貨店の外では、既に多くの人が列を成している。家具フロアで混乱が起こるとは到底思えないが、一応インテリア雑貨の福袋を用意してあるので、気は抜けない。
いつもはコーディネーターで忙しい常川さんも、今日はスタッフとして入るみたい。
安岡の姿もある。
ふたりきりで、話が出来ないかな。そういえば私は安岡の連絡先すら知らないのだ。何としても今日、誤解を解いておきたい。
今日は猫耳も、しょげ返っている。こんなにしょげていては、気持ちがバレバレだろうというくらい。けれど、今日の私はそんなことなどどうでもよかった。むしろ、この状態を安岡に確認しておいてほしいとすら思った。
百貨店が開店し、人がなだれ込んで来る。始まったぞ。気を抜かずに行こう。
猫耳をぴんと立て、臨戦態勢に入る。いよいよ、エスカレーターからお客様がやって来た。きっと、お目当てはこの福袋ね。私が福袋のワゴンの前で構えていると、
カシャカシャカシャ。
機械音がする。同時に、眩しいフラッシュの数々。
余りの眩しさに、目がかすむ。
気がつくと、おびただしい数のスマホが私の眼前に並んでいた。お客様は福袋には興味がなく、私の写真を撮っていたのだ。
私はあんぐりと口を開ける。これは一体?
「伊藤さん!」
常川さんが、私の腕を引っ張って来る。
「いけない、バックヤードに行くわよ。こんなのあんまりよ!」
私は疑問符を浮かべたまま、常川さんに引っ張られバックヤードに舞い戻った。途端に、閉められた扉の向こうから口汚い罵声が聞こえて来る。
「猫耳女を出せ!」
「早くしろ!」
「何だよ、せっかく来たのによぉ」
私は青くなって震える。どういうこと?
常川さんも、その惨状に息を呑んでいる。こじ開けようとする音がしたので、私は慌てて鍵を閉めた。
「……何?何が起こってるの?」
常川さんはスマホを取り出し、何やら検索をかけている。
「多分……こういうことかな」
見せられた画面には、私の写真が載っていた。
「なっ……何これ!」
「早いなぁ。もう全国にバレちゃってるね」
いわゆる、SNSだ。その中で噂がたちどころに広がり、私の顔まで割れていた。あずかり知らぬ内に、こんなことになっていたとは。
「多分、東京の、それも固定客ばかり接客していた時は、猫耳姿のままでも良かったんだと思う。でもお正月の観光客が押し寄せる時期は、大抵えげつないのが来るのよ。多分そういうお客さんが、買い物ついでに観光名所扱いでこっちに来ちゃってるんだよ」
そんな。じゃあ私、しばらく店頭に立てない。
「伊藤さん、悪いけど今日は裏担当でお願い。田崎さんにも、そう伝えておいて」
常川さんは忙しそうに、再び売り場という名の戦場に出て行く。
私はぞっとして震えた。不特定多数にカメラのレンズを向けられることが、これほどの恐怖感を植え付けられるのだということを初めて知る。
どうしよう、怖い。
そう考えた時、私は急に安岡のことを思った。
「伊藤さんは、僕が守ります」
あの言葉。
きっともう、彼は二度とそんなことを言ってくれないだろう。
私は倉庫に入ると、呆然とベッドに腰を下ろした。震えが止まらず。私は目をぎゅっとつぶると、凍えるように自らの両腕を撫でさすった。