13.都合のいい男?
「私の両親は、私が小さいころに離婚しました。それから私は施設に放り込まれて過ごしました。母は面会なんか一度も来なかったのに、私が高校へ行き出すと、登校先に現れるようになって」
松葉さんは私の汗ばんだ手をずっと握っていてくれる。
「アルバイト代をむしり取って行くんです。最初はようやく母に会えた嬉しさで何も感じませんでしたが、段々お金の無心に耐えられなくなりました。施設にも話して、どうにか距離を取ろうとあがいたんですが」
私は高校時代の自分を思い出し、ぼろぼろと涙を流す。
「就職した先にも押しかけて来るようになったんです。それからは男の人と話したら駄目だとか、忘年会が駄目だとか、束縛して来るようになって。私は住居を転々としました。そのたびに見つかって」
松葉さんはずっと頷いて聞いている。
「母はすぐお金を使ってしまうんです。今働いているところは転勤が常にあり、母を撒けるからと就職しました。実際、私の実家のある宮城県方面には転勤にならないよう、人事部には伝えてあります。でも、いつまた見つかるか怖くて……。私、母が死なないと自由になれないんです。だから母が死んだら絶対こういうホームに入って、のんびりしながら安心して死のうって決めてて、私……」
その後は言葉にならなかった。周囲が異変に気づき、私たちを遠巻きにしている。ああ、あんまり泣いたら、松葉さんのご迷惑になってしまう。
けれど松葉さんは周囲に目もくれず、ずっと私の手を握り続けて話を聞いてくれた。
「……それは、大変苦労なさいましたね」
私は頷いた。誰にも恥ずかしくて喋れなかったこと。人によっては、きっとふがいない私を軽蔑するだろう話。
「話してくれて、ありがとう伊藤さん」
私はきょとんとする。松葉さん、何でお礼なんか言うんだろう。私は、勝手に話し始めたのを申し訳なく思っているのに。
「きっとここは、伊藤さんの──劣等感とか、嫉妬を刺激する場所なんだ。僕も先程、親御さんのために、とか言ってしまってすみませんでした。早く帰りましょう、我々の住む町へ」
私は泣き笑いしながら頷いた。ぬるくなったコーヒーを、互いにぐいっと飲み干す。
そうだ。私の帰る街には、今日、松葉さんという味方が出来た。
ほんの少しの理解が、私の栓を抜いたのだ。不幸でパンパンになった、私の体の栓を。
松葉さん、ありがとう。こんなに心が軽くなったのは、初めてだ。
クロークから荷物を受け取ると、私たちはグレース三崎を出た。
夕焼けの海にさしかかると、
「……恋人同士にはなれないでしょうか」
と松葉さんが尋ねる。
私は首を横に振った。
「ごめんなさい。松葉さんは頼れるお医者さんだし、色々相談したり、話したいっていう気持ちはあるんです。でも、恋人には──」
松葉さんは「ふーん」と呟く。
「じゃ、都合のいい男ってわけですね」
私は松葉さんの思いがけない呟きに身悶える。そんな定義づけされたら、何だか私、とても悪い女になってしまった気分だ。
「ところで伊藤さん、彼氏とかはいないですよね?」
改めて松葉さんが尋ねて来る。その瞬間、脳裏になぜか安岡が浮かび、私はびっくりしてその姿を打ち消した。
「えっ!!いないです、いないです」
自分の脳と松葉さん両方に宣言し、私は汗をかく。
「うーん、じゃあまだ僕にもチャンスがあるってことで大丈夫ですか?」
駅が見えて来る。
「な、ないことはない……とだけ」
私の返答に、松葉さんがぶっと吹き出す。
「本当に、伊藤さんは可愛くて不思議で面白いです。また会って話がしたいな」
「また、そういう風にからかって……」
「そうだ。元日はお暇ですか?」
うわわ。松葉さんったら、見た目に反して結構積極的!
「んー、確かに百貨店は休館で、暇ですけど……」
「じゃあ、会いましょう。初詣なんかいかがですか?」
初詣!?
「もうそれ、デートじゃないですか!」
「だって次会うとしたらそこぐらいしか」
うーん。
「……伊藤さんはそうでもないかもしれませんけど、僕はあなたに会いたくて会いたくて仕方がないんです」
うー、そっか……。
「また連絡します。返事はその時でいいですよ」
すると松葉さんの湿った手が、私の手にそうっと伸びる。私はびっくりして手を引っ込めた。
「……」
松葉さんがじっと自らの手を見る。
ああ、ごめんなさいごめんなさい。あそこまで泣きの自分語りしといて、素直に手を握られおいて、こんな時だけ他人面してごめんなさい!
松葉さんは顔で笑いながらも心が泣いているのか、少し肩を落としている。あぁー!何か、めっちゃ期待させちゃって、本当にごめんなさいっ!
「ま、いいです。……虎視眈々と狙って行きますから、覚悟して下さいね」
気を取り直したように松葉さんがにっこり笑い、私は再び顔を赤くした。
改札を通り、共に同じ特急電車に乗る。周囲を見渡す。きっとこんな風に男女が身を寄せ合って並んでいたら、周りには恋人と思われるんだろうな。
二人は同じ町へ帰る。私はアパートの前まで送ってもらって、そこで松葉さんと別れた。
自室に戻り、ベッドにぐったりと身を投げ出す。
急展開すぎる。