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12.名前で呼んで欲しい

 グレース三崎のエントランスは、入るなり、受付の女性が深々とお辞儀をしてくれる。


 クロークのような一時保管場所があり、そこに互いの荷物を預けた。中央は吹き抜けになっていて、五階建てのこの建物の全体を見上げることが出来る。天井には、シャンデリア。まるでホテルのような内装だ。


 こ、これをあの松葉先生のお母さまが経営してるんだ……凄い。


「空き部屋を見ることって出来ますか?」


 松葉先生の問いに、受付の女性が二つ返事をする。見知った間柄らしく、話はすぐについた。


「今、一部屋だけ空きがあるらしいですよ。そこを見に行きましょう」


 私は緊張したまま、エレベーターに先生と共に乗り込む。


 着いたのは三階だった。ホテルのように静まり返った廊下を歩き、305号室で立ち止まる。先生は受付で貰った合鍵をドアノブに差し入れると、ふわりとドアを開けた。


「どうぞ、入って」


 私はそうっと先に部屋に入る。目の前に広がるのは、海。


 部屋に少し磯の香りが漂っている。静寂の空間。


 ビジネスホテルのような内観だ。風呂はユニットバス。テレビは壁掛け。冷蔵庫と小さなキッチンもある。想像より狭いという感想を抱いたが、


「お風呂なら大浴場が常に開いていますし、食事は食堂でいつでも食べられますよ」


と、何かを察知した先生がすぐさま補足する。なるほど。風呂とキッチンはそれを踏まえて、申し訳程度の大きさに抑えてあるということか。


 私は窓辺まで歩く。冬の海。色の浅い、そっけない海だ。


 先生は熱心に窓に貼りつく私に、そうっと声をかける。


「海、好きなんですか?」


 私は頷いた。


「辛いことがあると、海を見るのが癖で」


 先生も隣に来て、海を眺める。


「そうですか。じゃあ、今日も何か辛いことがあったんですか?」


 私はどきりとする。さすがはお医者様。私のような単純猫耳女の状態などお見通しなのだ。


「猫耳が、ちょっと辛いです」


 先生はそれで黙ってしまう。


「猫耳を面白がって、可愛がってくれる人もいます。けど、猫耳のせいでこじれた人間関係もあったりして……これから、どうするべきなのか分からなくなって来て」


 先生が、私の方に体を向ける。私はそれに気づいて、先生を見上げた。彼は言う。


「あの。帽子、また取っていただけませんか?」


 ん?何だろう、診察でも始めるのかな。


 私はするりとニット帽を脱いだ。松葉先生はそっと、ぴょこんと飛び出した私の猫耳を触る。


 外科の先生らしい、器用そうな手つき。女の人の手みたいにしっとりと湿っていて、少し冷えた指先だった。先生は猫耳を愛でると、私の頭を撫で始めた。私はちょっとくらくらする。先生の視線は、いつのまにか猫耳から私の目に移っていた。


 また、あの熱を帯びた視線。


 うっ。どうやらこれは診察ではなさそう……


「こんなに可愛いのに……」


 その言葉で、私の顔はぼうっと燃えるように熱くなった。よく考えればベッドのある部屋に向かい合う男女が二人きりって、もう何があっても言い訳出来ないアレがソレでもうアレじゃないですか……!


「あ、あのっ、先生!」


 私はおっかなびっくり退いた。


「十分見せてもらったので、もう出ましょう!つ、次は大浴場が見たいな~なんて」


 すると先生は憮然とした顔になった。


 あれ?


 この状況、前もどこかで……!


「せ、先生、怒ってます?」


 すると先生は、少しうつむいてこう呟いた。


「そろそろ〝先生〟って言うの、やめにしてくれませんか?」


 私はぽかんと口を開ける。


「その……名前で呼んで欲しいです」


 汗が吹き出して来る。そんな真剣な顔でお願いされたら、断れないよ!


「じゃ、じゃあ……松葉さん」

「下の名前じゃだめ?」

「し、下の名前呼びは、ちょっと抵抗が……」

「うーん、しょうがないか。〝お友達〟だし……」


 先生改め松葉さんは、いたずらっぽくにやりと笑う。でも、それでどうにか納得してくれたようだった。




 一通り施設の中を見せてもらい、最後に辿り着いたのは食堂だった。


 食堂は最上階にあり、また海を展望できる造りだった。身なりの良い穏やかな顔のご老人がゆったりとくつろいでいる。ああ、何て彼らは羨ましい過ごし方をしているのだろう。ここにいれば、きっとどんな悩みを抱えてても、海がとろーんと溶かしてくれるんだろうな。


 松葉さんはカウンターに何やら言伝し、コーヒーを持って来てくれた。


「どうぞ。おかわりは無料です」


 コーヒーの香りと共に、海を一望する。目の前には、笑みをたたえる松葉さんがいる。完全に守られている日常が、そこにある。そう自覚してしまった時、なぜか言葉にできない有象無象が、急に私の体の奥を突き上げ始めた。


 それは、行き場のない、どす黒い感情。周囲への嫉妬まがいの羨望。己の身の上への呪詛。


「あ、ありがとうございます……」


 言いながら、私の手は震え始めた。


 ああ、駄目だ。どうして今、急にこんな気持ちになってしまったんだろう。松葉先生が、好きって言ってくれたのに。とてもいい景色が、そこに広がっているのに。


 私の中の黒い感情が、押しとどめられなくなっていた。松葉さんは異変に気付き、私の顔を覗き込んで来る。


「伊藤さん、どうかしましたか?」


 私は泣いていた。急に、感情が抑えられなくなってしまったのだ。松葉さんは青くなって、むせぶ私を見下ろしている。


「ご、ごめんなさい。でも、松葉さんになら」


 私は目をごしごしとこする。


「松葉さんならきっと、あのことを話しても分かってくれると思って……」


 それを聞くと、松葉さんは何かに気づいて私の手をそっと握ってくれた。


 柔らかく、湿った手。


「聞きますよ。何でもおっしゃって下さい」

「……実は私、母に搾取され続けていたんです」


 唐突な自分語りにも、松葉さんは真剣な表情で耳を傾けてくれる。初めて得る安心感に、私のたがは完全に外れてしまっていた。


「母が死なないと、絶対に自由になれなくて。私も松葉さんと同じように、自分の進路を自由に選択できない人生だったんです」

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