10.本当の松葉先生
松葉先生の案内してくれたドッグカフェは、アメリカンテイストの内装だった。
きっと、西海岸をイメージしているのだろう。ブリキやペンキの装飾が各所に見られ、英字がそこかしこに踊っている。メニュー表を開くと、主にハンバーガーやライスバーガーなどのファストフードの写真が並んでいた。どのパンズにも、犬のイラストの焼き印が押してある。とってもおしゃれだし、美味しそう。
大きく取ってある南窓からは、水平線が見える。
先生が犬に座るよう言伝ると、犬はしゃんと座って見せた。
「お、偉いワンちゃんですね」
私がそう言いながらダッフルコートを脱ぐと、先生はじっと私の顔を見つめて来る。
「……ど、どうしましたか?私の顔に、何かついてます?」
先生はハッとすると、何かを隠すようにニコっと笑う。
「いや、帽子……取るのかな、と」
「取りませんよ、大丈夫です!先生にご迷惑はおかけしませんからね!」
すると先生はコートを脱ぎながら
「猫耳、見たいなぁ」
とぽつりと呟く。
ん?何で?
私の顔にそう書いてあったのか、先生は照れ臭そうに笑う。
「私は猫派で」
へーと私は思わず口に出す。そういえば松葉医院の受付も、猫グッズだらけだったっけ。
「正直、伊藤さんが医院に見えた時、内心ちょっと小踊りしている自分がいました」
私は思わず笑ってしまう。
「……踊っていただいて、構いませんけど?」
「そういうわけには行きません。でも、あの後伊藤さんがお帰りになって、どこか、その」
松葉先生は言い淀む。
「その……医者になってみるもんだなぁ、って」
私はぽかんとする。てっきりおかしな奴が現れて、メンドクセーと思われているだろうなと予想していただけに、意外な言葉だった。
その間に店員さんがやって来て、二人の注文を聞いて厨房に帰って行く。
「何でそう思ったんですか?」
私は素直にそう尋ねた。すると松葉先生から、すっとあのお馴染みの笑顔が消えた。
「ま、ここだけの話……別に医者になりたくてなったわけじゃないんです」
私はどきりとする。そこに先生はおらず、松葉武史その人がいる。彼は私の目に、何か訴えかけるような視線を送って来る。
「先程も申し上げましたが、母はあの老人ホームを経営しています。が、元々母は内科の女医で、父は産科の医師でした。医者同士の子どもが、医者以外になるなどということは許されない」
私の胸の鼓動が早くなる。それから、急に目の前がふわりと明るくなるような錯覚を覚えた。
この人は、私に似ている。
「親に決められた道を、決められた通りに歩かざるを得ない人生でした。不足なのに、無理矢理充足させられる、そんな子供時代でした。小学校受験に失敗し、ようやく中学受験で名門校に入りました。けれど、私はその学校では並みの学力で──努力した分、辛い思いをしました。一浪してようやく医学部に入りましたが、やりたいことではないので苦痛です。けど、それ以外の選択肢を取り上げられていますから、やるしかなかった」
そう一息に言ってから、松葉先生ははっと我に返った。
「あ、あ。すいません、何だか変な話をしてしまって……」
そして、真っ赤な顔でうつむく。
「ご、ごめんなさい。今の話はその……忘れて下さい」
私はびっくりしたが、思うところがあってこう尋ねた。
「猫耳、見ます?」
松葉先生はすぐに顔を上げた。
「……いいんですか?」
「はい、ぜひぜひ」
私はニット帽をするんと取る。ぴょこんと猫耳が現れ、先生はもごもごと口を動かした。
「どうですか?」
と私が問うと、
「癒されます、すっごく」
と先生は幸せそうにはにかんだ。ああ、やっぱり、と私は思う。
これだ。これが先生の、本当の笑顔だ。
にっこり笑うあの笑い方は、先生が先生になって身に着けた、患者向けの営業スマイルなのだ。この猫耳を見た時が、本当の笑顔になる瞬間。
私はお医者さんに少しの癒しを提供出来、ちょっと得意になっていた。親に悩まされる松葉先生の人生に、少しでも癒しを分けてあげられればいいな。
先生は頬杖をつくと、こちらを覗き込むように、その切れ長の目で私の猫耳をうっとりと眺める。
「……可愛いな」
ぽつりと呟いてから、先生は熱っぽい瞳で私の目を見る。
「……伊藤さんが見えてから、ずっとあなたのことを考えていました」
私はぽかんと口を開ける。
「……ずっと?」
「ずっとです」
先生は断言した。
「多分、これは恋です」
!?
……この人、今なんつった?
「はい?」
「だから恋したんですよ、伊藤さんに」
そのタイミングで、目の前に注文したライスバーガーランチセットが運ばれて来た。
松葉先生は実にスッキリした顔で、すぐにそれを食べ始めた。
私はというと全く思考が追いつかず、ランチを呆然と胃に流し込むしかなくなってしまう。