First Final
杉本雅之は約束より十分早く、四時二十分にコンビニの駐車場に車を入れ、エンジンを切った。すぐに結城恵子がコンビニの自動ドアが開くのももどかしげに飛び出してきた。雅之は車から降り、車のハッチバックドアを開け、恵子を迎える。恵子から大きな旅行バッグを受け取り、車の後部に載せる。紙バッグは後部座席に置く。
「飲み物は買ったから。お弁当はあたし、昨日の夜から頑張って作ってきたからここでは買ってないの。ほかにここで買っておくものある?」と恵子。こんなとんでもない時間に雅之と逢うことに興奮している。
「いや、こっちも自分で必要なものは揃ってる。じゃあ、行こうか」と雅之は助手席のドアを開けて恵子を乗せ、自分も運転席につく。エンジンをかけ、サイドブレーキを外す。
「じゃあ、出発します」雅之が言うと「はい」と恵子。
いよいよ初めての二人の旅行が始まる。五月中旬のこの時間、東の空には夜明けの兆しが見える。
1
雅之が初めて恵子と出会ったのは今から半年前、品川のとある高層ビルの地下一階にある和風ダイニング『しら川』という料理屋であった。十二月初めの忘年会シーズンが始まったころで、店は満員だったが、雅之はなんとかカウンターの隅に席を確保していた。そこへ恵子が勤め先のブティックのオーナー店長沢井幸枝と二人で来店し、雅之は壁際に押し付けられるようになりながらもカウンターに二人分の席を確保するのに協力した。肩を触れあわんばかりに隣に座ったのが恵子である。
「ごめんなさい割り込んで。狭いでしょう」というのが恵子の第一声であった。
「いえ、お互い様です。大丈夫ですよ」と答えたのだが、恵子はすぐに向こう隣りの幸枝と女二人の話を始めた。
また話をするきっかけとなったのは、それから一時間ほどして、連れの幸枝が化粧室に立った時である。話し相手がいなくなった恵子は隣の雅之に、
「ここへはよくいらっしゃるんですか?」と問いかけてきた。
「たまに…ですね。月に一回といったところですか」と雅之は答える。
「私は初めてですけど、連れが前に来たことがあるということで今日は連れてきてもらったの。いい感じのお店ですね、また来ようかな。次はいついらっしゃるの?」と恵子がさりげなく聞く。
雅之は「特に決まってないけど……、そうだなあ、来月は十五日の月曜日にしようかな。月曜日は比較的混んでなくていいんですよ」と勢いで答えてしまう。
「そう、あたしもまた……今度は一人で来ようかな、その日」と恵子がつぶやく。
なにか誘われているような気がして、雅之は胸がドキドキしてくる。「はい」というのが精いっぱいであった。
そこまで会話したところで幸枝が席に戻ってきて、会話は終わりになる。
その後、小一時間して恵子と幸枝は帰って行ったが、席を立つ時に恵子は先に幸枝を行かせて「じゃあ、来月十五日」と雅之にささやいて去って行った。
次の月、恵子と再会してわかったことだが、恵子は初めて雅之と会ったこの日、隣の雅之が気になり、話しかけたくてしかたがなかったという。ゆっくりと話をしたかったのだが、連れの幸枝の手前、それも難しくて、この次の機会を何とかして作ろうと決めていたという。恵子は初対面で雅之に何か感じるものがあったのだ、と後になって告白した。それを聞かされて、幸恵が席を外した数分間で思い通りに初対面の雅之から次回の約束を取り付けた恵子の実行力に雅之は感嘆したものだ。
とにかくこうして雅之と恵子のつきあいは始まったのであった。
2
恵子の住む自由が丘のマンション近くのコンビニを出た雅之のSUVは、環七から目白通りを経て、大泉から関越道に乗る。日曜の早朝とあって、他に走っている車は少ない。夜がすっかり明け、間もなく六時になろうとする頃、雅之はとあるサービスエリアに車を乗り入れる。駐車場も空いている。
サービスエリアの飲食コーナーに席を取り、恵子は自宅で作ってきたサンドイッチを取り出してテーブルに並べ、自動販売機から熱いコーヒーを買ってくる。
「いっぱい食べてね。たくさん作っちゃった。あ、そうそう、サラダもあるの」恵子はそう言って紙袋からタッパに入った野菜サラダとドレッシングの小袋を雅之の前に並べる。
「おいしそう。こんな早い時間にしっかり食べるのはなかなかない経験だね」と雅之は早速ぱくつく。
恵子は雅之が食べるのを嬉しそうに見ながら自分も「いただきます」と食べだす。
「おにぎりも作ってきたけど、これはお昼のハイキングの時にね」と恵子。
「これだけ作るにはずいぶん時間がかかったんじゃないの。ありがとう」と雅之。
ゆっくり朝食を取り、四十分程サービスエリアで過ごした後、雅之と恵子は再び車で旅を続ける。長野県に入ったところで高速を降り、S高原に向う。山々はまだ大量の残雪をまとっている。この辺りはまだ「早春」なのだ。九時半近くになってS高原に到着し、適当な駐車場に車を止め、雅之と恵子はハイキングに出かける準備に取り掛かる。二人とも今日は家を出る時からハイキングの服装である。各自の荷物からデイパックを取り出し、恵子が準備したおにぎりと飲み物を詰め込み、その他トレッキングに必要なものが入っていることを確認し、山歩き用の靴に履き替え、ジャンパーを羽織り、帽子をかぶったうえで、デイパックを背負って歩き出す。
天気は良く、日は照っているが気温はそれほど高くはない。十五度前後だろう。歩くにはちょうど良い。足元はやっと草が生え始めたところで、まだ枯草の茶色が主役である。木々の新緑も、まだか弱い。鳥が盛んに鳴いているが姿は見えない。日曜日なので、他にトレッキングを楽しんでいる人たちも多い。こんなハイキングは久しぶりだ。しかも今日は恵子という連れもいる。狭い道では雅之が先になったり、恵子が先になったりし、広い道では二人並んで手をつないで歩く。
山頂に着いた時は正午を少し回っていた。山頂からの景色を楽しみながら、敷物を敷き、昼食にする。恵子の作ってくれたおにぎりはシャケと梅干とおかか。定番中の定番であるが、ごはんにはごまがまぶしてあり、適度の塩気もあって雅之は三個を瞬く間に食べ終える。サービスエリアでの朝食から六時間も経っており、山登りで空腹が加速、何を食べてもおいしい。恵子は二つを食べ、「私はもう満腹。まだあるわよ」と促す。結局雅之はさらに二個をたべてやっと満腹になり、「これ以上食べると歩けなくなる」と終わりにする。恵子はリンゴを取り出し、皮をむいて「果物は別腹ね」と雅之に差し出す。雅之は受け取って食べながら、「こんなのが入っていたの?重かったでしょうに。この後は僕が持つよ」というと「残念でした。これ一個だけ。おかげさまで軽くなりました」と恵子。
車を停めた駐車場に二人が帰り着いた時には三時近くになっていた。雅之は今日の目的地であり、宿と決めているT市目指して車を発進させた。
3
雅之は十一月に誕生日が来ると二十八歳になる。大学院の修士課程を修了し、現在は品川にある某大手電機メーカーの研究所に勤めている。入社した年に一年間、アメリカ西海岸の大学に派遣されてコンピュータサイエンスを学んだ。滞在中に日本から個人留学していた同い年の女子学生、宮上弥生と親しくなり、一時深い仲となったが、雅之は留学期間が終わり、後ろ髪引かれる思いで帰国した。帰国後も連絡は取っていたが、帰国して三か月後、自費で彼女に会いに行ったところ、弥生にはすでに新しい相手が出来ていて、態度によそよそしさが見え、鼻白んだ気持ちで日本に戻った。雅之の気持ちも急激に冷め、今ではたまにメールのやり取りをするくらいで、友だちの一人、知り合いの一人になっている。今は現地のITベンチャー企業で働いていて、日本に戻る気はないようだ。
雅之が現在住んでいるのは、横浜、JR桜木町の駅から徒歩五、六分の山側に建つ一LDKの賃貸マンション。九階建ての八階で、目前にみなとみらいが見える、絶好の眺望である。十畳くらいのリビングダイニングと六畳プラス若干の板の間が付属する和室、それにキッチン、洗面所、バス・トイレがついており、一人住まいとしては十分すぎる広さが確保されている。一階にコンビニが入っているのも何かと便利だ。地下に駐車場があり、月極めで借りている。通勤時間は四十分程とこれまた恵まれている。
雅之の「趣味」は放送作家だ。「アルバイト」と言ってもいい。民放ラジオの番組の台本を書いている。昼の十五分番組を他の作家と交代で書く。雅之の担当は火曜日。放送日の三週間前が締め切りで、担当ディレクターから、直しの要求が結構ある。大した執筆料も出ていないので、あまり割のいい仕事とは言えない。ゆくゆくはテレビの番組を書きたいと思っているが、この道一本で食っていけるとは夢にも思っていない。土曜日曜のかなりの時間と早く帰ってきた平日はこの仕事に追われている。ラジオ局とのやり取りは主に電話とメールだが、月に一、二度はラジオ局に出掛け、直接打ち合わせをすることもあり、勤め帰りの平日の夜が多い。打ち合わせが終わった後、スタッフにしばしば飲みに誘われるが、十一時とか十二時から平気で飲み始める人たちなので、翌日の勤めを考えると週末以外は付き合えないのが残念と言えば残念である。
もうひとつの「道楽」は「合コン主催」とでも云ったらいいのか、二、三か月ごとに、雅之の部屋に男女三人づつが集まってパーティをやる。飲み、かつ食べ、話に花が咲く。いつも同じメンバーでなく、友だちの友だちといった、なるべく毎回新しい参加者が集うようにしているので、いつも初対面同士の新鮮な出会いで緊張感のある雰囲気になる。金曜の夜七時から始め、十時頃にはお開きとなる。飲み物や食べ物の手配は雅之と女性参加者の中の一人が打ち合わせて行う。後片付けは、雅之と女性のうちのだれか一人が残って担当することになっており、他の四人は帰ってしまう。彼らがそのあと別の店で二次会をやってもいいし、一対一でどこかへ消えるのも自由である。雅之は残った女性に手伝ってもらい、いろいろ話をしながら後片付けをし、終わった後、二人でゆっくりとコーヒーを飲んだりブランデーを楽しんだりするのは楽しい。片づけをさっさと終え、バタバタと帰ってしまうような女性はあまりいない。ほとんど名残惜しそうにして遅くまでいてくれる。中にはそのまま泊まっていった女性もいたことはいた。
また、ある金曜日の夜、二日後に締め切りが迫っているラジオの台本に取り組んでいると、チャイムが鳴って部屋を訪ねてきた者がいる。出てみると二週間前のパーティで来たことのある娘である。たしか大学三年生と言っていた。中華街でゼミの飲み会があって二次会にも誘われたが、ここにもう一度来たくて、二次会を断ってきてしまったのだという。かなり酔っている様子である。雅之は、仕事はあきらめ、とりあえず、女子大生に冷たい水を飲ませ、そのあとお湯を沸かして熱いコーヒーを入れてやる。娘は大分落ち着いてきて、先日のパーティは本当に楽しかった。終わってから一緒に帰った人たちと二次会に行ったのだけど、本当は後片付けでここに残りたかった、というようなことを話しだす。話を聞いているうちに日付が変わったので、車で送って行こうか、と申し出たが、娘は、今夜はここに泊めて欲しい、と言い出したものだ。親御さんが心配するよ、と言うと、自分は和歌山から上京してきて、大森のワンルームマンションで一人暮らしだからかまわないという。明日は講義がない日なので大丈夫だともいう。何が大丈夫なのか。
寝る前にシャワーを浴びたいというので、洗濯してある替えの男物のパジャマとタオルを貸してやり、バスルームを教える。娘がシャワーを浴びている間に和室に布団を敷く。シャワーから上がった娘を寝かせると、和室との境の戸を閉め、娘の眠りの妨げにならないようにパソコンのキーボードの音に気をつけながら、少しだけ仕事の続きに取り掛かり、ひと区切りをつけたあと、雅之もシャワーを浴び、リビングのソファをベッドに直して眠りに就く。
夜中に気配を感じて目を覚ますと件の娘がベッドのわきに立っている。「あたしもここで寝ていいですか」というのでしかたなくスペースを空けると娘はパジャマを脱ぎ捨てて雅之の隣に滑り込んできたものだ。まれな体験ではあったが。
そういうアバンチュールは何回かあったものの、今現在付き合っている、決まった相手はいないのが雅之の現状なのだった。
4
雅之のSUVは一日目の最終目的地であるT市に入った。時計は夕方五時半を回っている。今夜の宿、T駅近くのビジネスホテルへ到着した時には六時になっていた。車を指定された駐車場に停め、チェックインする。この日は別々の部屋を取ってある。八階の八〇六号室と八一五号室、廊下を隔てて向かい合った部屋だ。七時に夕食に出ようということで,おのおのの部屋に引き取る。早朝から起き、途中ハイキングで汗もかき、ロングドライブによる疲れもあり、ゆっくり入浴して、リフレッシュする。
雅之と恵子は七時に二階のロビーで待ち合わせ、チェックイン時にフロントで聞いた、地元の新鮮な魚介類が食べられる店に出掛ける。歩いて十分程の所だという。恵子は昼の山歩き用の姿から一変、ドレッシーなスカートにブラウス、それにカーディガンを羽織っている。雅之もジャケットに替えズボンと服装を改めている。ホテルでもらった案内図を見ながら、二人は手をつないで歩く。
『番小屋』というその店は地元の人にも人気がある店らしく、日曜日でも多くのお客でにぎわっていた。ホテルの人に予約を入れてもらっていたおかげで席は確保されていて、雅之と恵子はホタルイカをはじめ旬の海の幸を堪能した。
九時を少し回った頃に店を出て、酔い覚ましにぶらぶらと手をつないで散歩しながら宿まで戻る。町の目抜き通りであっても、そこは地方都市、ほとんどの店は閉店し、シャッターが下りている。営業しているのは飲食店とコンビニ、それにパチンコ屋程度。多少回り道をしたつもりであったが、それでも三十分もかからずに宿に帰りつく。
雅之が持参したワインを恵子の部屋で飲もうということになる。
部屋の前で、「じゃあ、十五分後に行くから」と雅之が言うと、
「三十分後にして」と恵子。
「わかった」と部屋に引き上げた雅之は三十分あるなら、歩いて少し汗ばんだ体にもう一度シャワーを浴びる時間があることに気づき、裸になってバスルームへ行く。シャワーを浴びながら、恵子が三十分後にしたわけを理解する。
時間になって、赤ワインの小ぶりのボトルを抱えて恵子の部屋をノックする。中へ入るとグラスとチーズの準備が出来ている。テーブルをはさんで雅之は椅子に、恵子はベッドの端に腰を下ろす。ワインの栓を開け乾杯する。
「今日は疲れたでしょう。朝早くから。山登りもして、一日運転もして。ご苦労様」と恵子がねぎらってくれる。
「それほどでもないけど。恵子さんこそなれない山登り大変だったんじゃ」と返すと、
「雅之さんが一緒だったから心強かった」と雅之を持ち上げてくれる。
今日の行程を振り返って話が弾むが、一通り話してしまうと、話が途絶える。
雅之はグラスをテーブルに置くと、立ち上がり、ベッドの恵子の隣に座る。恵子のグラスを取って、これもテーブルの上に置く。恵子を抱き寄せると、恵子は体を預けてくる。そうして二人はベッドに倒れ込む。
5
年が変わって正月気分も抜けた一月の中旬、『しら川』で雅之は恵子と再会した。雅之は大分早めの五時半過ぎに到着し、カウンターの隣にもう一つ席を確保してもらいながらも、本当に恵子が(最もこの時点ではお互いに名乗り会っていないので名前はまだ知らない)来るものかどうか半信半疑であった。待っても七時までだと思っている。あんな酒の場でのそれも通りすがりのと言っていい相手との約束をまともに受け止めるほうがおかしいのだ。
しかし、六時を十分ほど過ぎた頃に恵子は来た。
「ごめんなさい、待たせちゃった?」そう言って恵子はコートのまま隣に体を滑り込ませて来たものだ。店の人にコートを預け、二人は再会を祝してビールで乾杯する。
「自己紹介しなきゃね。あたしは、結城恵子。よろしくね」と自分の名前を雅之に告げる。
「杉本雅之です。こちらこそよろしく」と雅之も自己紹介する。あとは飲みながらお互い少しづつ自分のことについて相手の反応を見ながら話していく。この日は結局十時過ぎまで店にいた。ずいぶん話し込んだものだ。
さらにひと月後の二月中旬も『しら川』で恵子と会い、この時にはさらに一歩進んだお互いのことについて話をしあったことで、二人は相手についてかなりの情報を持ちあい、急速に親密になった。
雅之は「合コンパーティ」のことは話したが、さすがに部屋に泊まっていった娘たちのことまでは話さなかったものの、それ以外のことは米国留学時代の彼女のことも含め、大体正直に話した。一方恵子のプロフィールは聞いたところによると次のようなものであった。
恵子は神戸の出身。東京の女子大に入学するため上京、卒業後は中堅の広告代理店に就職。二十五歳の時八つ年上の上司と結婚して退職。しかし自由業気質の夫は、仕事のためだと称してモデルやそのほかの女性との付き合いが派手だったため、恵子は我慢できず、結局二十八歳の時に離婚した。夫の実家は資産家であったため、恵子はかなりの額の慰謝料を得たようだ。そのお金の中から、現在住んでいる自由が丘のマンションを購入した。現在は広告代理店に勤めていた時の先輩、沢井幸枝が渋谷でやっているブティックを手伝っている。離婚後四年が過ぎ、現在三十二歳。郷里の両親から再婚をすすめられるものの、今一つ気乗りがしない毎日。離婚後、何人かの男性とのおつきあいはあったが、先には進まなかった。そういう近況を恵子は包み隠さず、正直に話したものである。
店長の幸枝は、かつて同じ広告代理店でバリバリ男勝りで働いていた先輩であったが、上司との不倫が発覚して、会社を辞めたという。不倫の相手は会社に居座り、今では役員になっているという。「サラリーマンというよりはクリエーター的な半分自由業みたいな雰囲気がある会社だったので、そういうことには寛大みたい。男のひとにはね」と恵子。
「ところで、ここで店長とばったりはちあわせする、なんて可能性はないのかな」
「ここはずいぶん前に来たっきりだって言ってたし、彼女、たいがいはイタリアンに行くから、大丈夫だと思う」
「あたしが最近誰か男の人と付き合ってるようだ、くらいは、感の鋭い人だから、うすうす感じてるかもしれない」
「店長は結婚してるの?」
「ううん、独身。もうすぐ四十に手が届くけど、結婚の経験はなし。ああいうはっきりとした性格だから、自分には結婚は向かないといつも言ってる。でも、おつきあいしている男の人はいるみたい。それも一人じゃなく」
次に逢うのが一月先では長すぎるということで意見が一致して、次回は二週間後の三月上旬、『しら川』以外でということになった。
このときはまず最初に、一緒に映画を見て、そのあと銀座で食事をした。遅くなったので雅之は恵子を自由が丘のマンション近くまで送って行ったのだが、恵子の部屋には上がらずに帰った。今度の旅行に出てからこの時の話になって、恵子は「寄って行かない?」と喉まで出かかっていたのだが、雅之にはしたない女と思われるのが怖くて言い出せなかったと告白した。雅之もこのまま帰るのは何とも心残りだったのだが、「寄りたい」と言い出せなかったのは我ながら情けなかったと白状した。「コーヒーが飲みたいな」とでも言えば「じゃあちょっと部屋に寄っていく?」ということになったかもしれないのだ。孝之も恵子に図々しい男と思われたくなかったのだ。
さらにその次の二週間後、三月中旬の逢瀬には、雅之は恵子を横浜中華街に案内した。
点心のコースの食事中に恵子が、
「暖かくなったらどこかへ行きたいわね」と言うと、
「いいね、箱根もいいし、この時期南房総なんかもいい季節だね」と雅之が乗ってくる。
「箱根もいいけどもっと遠くに行きたいな」
「遠くって、日帰りじゃなくて?」
「そう、二泊くらいできればかなり遠くまで行けるし………」
「そうかあ………それいいね。旅行に行こう!」と雅之は大乗り気になる。
この日から二人の旅行計画はスタートした。
旅行の時期は五月の連休明け、雅之の車で行くということにし、一週間後に恵子が候補地とルートを考えてくることになった。
その日からほとんど毎週、雅之と恵子は会って旅行の詳細を詰めた。二人だけで行く秘密の旅行である。秘密を共有することはその人たちの距離を縮める。旅行の打ち合わせをするという名目で毎週会えるのが、雅之にとっても恵子にとっても楽しく、だんだん春めいてくるこの時期はそれでなくても気持ちがウキウキするのだが、こういう逢瀬がそれに輪をかけ、とても楽しい日々であった。
四月に入ると旅行の詳細も決まり、宿の予約も済んだ。ゴールデンウイーク明けで休前日宿泊を避ければ、どこでも比較的自由に予約が取れた。
二人が十二月に最初に会ってから数か月が過ぎ、二人とも口に出しては言わないものの、二人の関係を次のステップに進めたいと考えている時期でもあった。次のステップとは「男と女の関係」になるということであるのは言うまでもない。その場合、場所は恵子のマンションであっても、雅之のマンションであっても、またいっそのことラブホテルであってもいいわけだが、雅之は旅行の話が出てから最初は旅先がいい、と考えるようになった。恵子もそう思っているのかどうかわからないが、二人で旅行に行くということはそうなることだと思っているはずだ。二泊のうち、最初の夜はビジネスホテルの別々の部屋を予約したが、二泊目は温泉地の旅館の同じ部屋に泊まる。二人にとって「旅行」が「深い関係に進む」ことと同じ意味を持つことは明白だった。
6
ビジネスホテルの狭いベッドで目を覚ました雅之は、自分の背中に胸を密着させて眠っている恵子の呼吸を感じる。結局、自分の部屋のベッドは使わず、恵子の部屋で一夜を過ごした。二人とも昨夜の交歓の時の姿のまま、何も身につけていない。もう外はすっかり明るくなっている。
雅之は恵子を起こさないようにゆっくりとベッドを降りると、脱ぎ散らかした衣服を身につけ、恵子も目覚めていて、でも眠ったふりをしているだけかもしれないと思いながらそっと自分の部屋に戻っていく。今回は旅行で、自分の部屋は廊下の向かいなのだが、朝、女の家で一晩過ごした後、帰っていく男の気持ちがわかったような気がした。
七時に二階ロビーで待ち合わせ、昨日、ホテルの人に聞いておいた、その朝獲れたばかりの新鮮な魚介類で朝ご飯を食べさせるという食堂があるという魚市場まで車を走らせる。
車で一〇分程走ると漁港に着く。桟橋の手前に一般客も訪れる市場がある。前に広がる駐車場は三分の一ほど地元の人や、他県ナンバーの観光客の車で埋まっている。土曜日曜はすぐに満車になるという。車を停めて市場の中に入ると、その朝に獲れたばかりの魚介類を売っている間口一間ほどの売り場が並んでいて、元気なおばちゃんたちが声を張り上げて客を呼び込んでいる。昨夜堪能したホタルイカやウニやタコ、名前も知らない魚などが所狭しと並んでいて、おそらく格安なのだろう、お客が次々に買い求めていく。
ホテルの人に聞いてきた通り、市場の一番奥にその名も『市場食堂』とのれんが下がった、お店がある。朝の四時から九時までやっているというその店は、カウンター席、テーブル席合わせて二十席余り、今は半分ほどが埋まっている。
中に入ると「いらっしゃい!」と前掛け姿の元気なおばさんに大きな声で迎えられ、空いている席に案内される。壁に貼ってあるメニューの三分の一程は上に「本日売り切れ」の札が貼ってある。おいしいものはいち早く無くなるらしい。いろいろ迷った末、雅之も恵子も主力のメニューである「海鮮丼」を注文する。大きな丼に赤身の魚、白身の魚、イカ、エビ、ウニなど七、八種類の魚介類がご飯も見えないほど載っていて、アサリの味噌汁と海藻サラダそれに小鉢がついて千円以下と人気メニューなのもうなづける。
恵子は三分の二ほど食べたところでギブアップ、あとは雅之が引き継ぐ。
朝からボリュームのある食事を堪能し、二人は漁港を散歩してからホテルに戻る。
荷物をまとめた後、車に積み込み、二日目の日程をスタートする。この日は欲張らず、午前中に五箇山と白川郷をゆっくり見て回った。白川郷で蕎麦の昼食を取り、高山から木曽を経て、長野県の南部、H温泉へと向かう。H温泉が二日目の宿泊地である。
7
二日目の行程も終わりに近づき、夕方六時近くとなり、そろそろ日が暮れかかってくる。H温泉まで一〇キロ程となった山間の道を走っていると、雅之が車を道端に寄せ停車させた。
「ん、どうしたの?」と恵子。ウトウトしていたようだ。
「今ね、十歳くらいの女の子とすれ違ったんだけど」
「ごめんなさい、寝てて気がつかなかった。こんな寂しいところで?」
「うん、ひとりで、とぼとぼ歩いていた」
「間もなく日も暮れるし、どうしたのかしら、気になるわね」
「よし、戻って拾おう」
「そうね、そうしましょう」
相談がまとまり、雅之は車をUターンさせると今来た道を引き返す。
ほどなく雅之の車は女の子に追いつき、少し行き過ぎたところで、車を停める。
最初に恵子が車から降り、女の子に声をかける。
「こんにちは。こんなところを一人で歩いていて大丈夫?どうしたの?」
「………」女の子は答えない。赤いスラックスに白のパーカー、背には学業用具が入っていると思われるデイパックを背負っている。
「よかったらうちまで送るよ」雅之も車から出てきて話しかける。
「………」女の子は警戒して一歩後ろへ下がる。
「うん、そうよね。知らない人の車に乗っちゃいけないって言われてるわよね。警戒するのは当然、無理もないわ」
「でもね、もうすぐ日が暮れるし、こんなところを一人で歩いているあなたをほっとけないの。事情だけでも聞かせて」
恵子が何回かなだめて、やっと口を開いた女の子が語った事情は次のようなものであった。
女の子の名前は神林由香。小学校五年生で、雅之たちが今夜泊まるH温泉に住んでいる。週に二回、十キロ程離れたI市までピアノのレッスンにバスで通っている。今日もレッスンを終わって帰りのバスに乗ったのだが、先生の所に携帯電話を置き忘れたのに気づき、取りに戻ろうとバスを途中下車したのは良いけれど、引き返すバスは三十分しないとやって来ないので、仕方なく先生の家まで歩いて戻るところだったという。だんだん暗くなってくるし、心細くて泣きたい思いだったらしい。
「わかった。それじゃあ、この車に乗って先生の所まで戻ろう。そのあとちょうど僕たちもH温泉に行くところだから、家まで送ってあげるよ」と雅之が提案する。
「そうする?」と恵子が訊ねる。由香はこっくりと頷く。
由香のピアノの先生の家までは車で十分ほどの道のりで、由香が戻ってきたことにピアノを教えている遠藤芳江は驚き、由香が携帯を忘れたことにも気がついていなかった。携帯はグランドピアノの脇に置き忘れているのが発見され、無事に由香の手元に戻った。
恵子が由香を道で拾った事情を説明すると、
「それはそれはご親切にありがとうございました。本当は私が送って行ければいいのですが、この後にもレッスンの生徒さんが来ることになっているので……」と恐縮する。
「私達、今夜はちょうどH温泉泊まりなので、由香ちゃんを乗せていきますよ」と恵子が言うと、芳江は「ではよろしくお願いいたします。ただ………」と言葉を濁す。
「はい?」と恵子が聞くと、
「大変失礼とは存じますが、このような物騒な世の中ですので、まことに申し訳ありませんが、そちら様の身分を確認させていただけますでしょうか?」と芳江。
恵子は「わかりました。誘拐とか心配ですよね。当然のことです」と言って運転免許証を提示する。雅之もそれに倣う。「メモしてもよろしいですか?」と断って芳江は二人の住所氏名をメモする。さらに窓から外に停めてある雅之の車を確認し、ナンバーを控える。
「大変失礼いたしました。私から由香ちゃんのお母さんには連絡をしておきますのでよろしくお願いいたします」と、三人を送り出す。
8
H温泉へ向かう車の中では、先生の所へ寄って安心したのか、由香はよくしゃべった。うちが旅館をやっていること、お母さんが大好きなこと、兄が二人いて、上の兄は松本の高校に行っていること、大人になったらお母さんの後を継いで自分も旅館の女将になりたいということなど、恵子と雅之が口を出す間もなく話し続け、三十分弱のドライブでH温泉に到着した。由香の道案内で『栄楼閣』という老舗の格式のありそうな大きな旅館の玄関に車を着けると、玄関から和服姿の女将が飛び出してきて、雅之の車から降りたった由香を抱きしめる。
続いて車から降りた雅之と恵子を見ると、そばへ駆け寄り、「このたびは由香が大変お世話になりました。なんとお礼を申し上げたらいいか」としきりに頭を下げる。
「いえ、大したことではありませんのでお気になさらずに」と雅之が言うと、
「今夜はHにお泊りとお聞きしましたが、お宿はお決まりですか?」と聞いてくる。ピアノの先生の芳江からすでに連絡があったらしい。
「はい、今夜は『秀慶館』さんに予約がしてあります」と恵子が答えると、
「そうですか、ぜひうちにお泊り頂きたかったのですが、『秀慶館』さんのお客様を横取りするわけにも参りません。『秀慶館』さんは日ごろから懇意にさせて頂いている仲間ですので、こちらからもよろしく声をかけておきます」と残念そうに女将が言ったものだ。
『栄楼閣』から五分も走らないうちに『秀慶館』に到着し、チェックインする。
フロントでは女将が待ち構えており、
「よくいらっしゃいました。由香ちゃんが大変お世話になったそうで、ありがとうございました。うちでも精いっぱいサービスさせて頂きます」とあいさつする。
二階の部屋に通されると、そこは『秀慶館』の一番いい部屋ということで、廊下から入ると一坪の玄関、部屋に入ると二十畳はあろうかという真ん中に座卓が置かれた和室。左側には椅子に座って食事が出来るダイニングセットが置かれた洋間、右は十二畳はありそうな和室。ここが寝室だ。この寝室には大きな窓から信州の山々を望みながら入れるという源泉かけ流しの内風呂が付属している。他に広くて明るいトイレや、簡単なキッチンまで付属しているという眺望抜群の大層な部屋。
恵子が「こんな豪華なお部屋、私達の予約した部屋と違うようですけど」というと女将は、
「はい、どうせこのお部屋は今日空いてますから。お使いください。『栄楼閣』さんから言いつかっております。ご予算はご予約して頂いた額のままで結構ですので」という返事。
雅之と恵子は旅装を解き、露天の大浴場で汗を流す。風呂から部屋に戻ると、和室の座卓に所狭しと夕食が並べられている。刺身の盛り合わせもあるが、やはりここは信州、山菜もおひたしやてんぷらといった料理で提供されている。リンゴで育てた信州牛の最高級の肉を石焼きで堪能し、すき焼きでも味わう。
「すき焼きは『栄楼閣』さんからお客様への気持ちでございます」とすき焼きの給仕をする仲居が説明する。『栄楼閣』は部屋といい、食事といい、ずいぶん気を回してくれたようだ。おいしい地酒も頂き、食事が終わると、洋間に移り、仲居が持って来てくれたコーヒーを飲みながら二日目の行程を振り返る。
食事の片づけをし、寝室に布団を敷き終わった仲居は、
「下の大きなお風呂は一晩中いつでも入れます。このお部屋の内風呂もかけ流しの温泉で、いつでも湧いておりますのでご自由にお入りください。ごゆっくりどうぞ」と言い置いて引き下がる。
雅之が夕食後に再度、下の露天風呂に浸かり部屋に戻ってくると、部屋には恵子がウイスキーの準備をして待っていた。ナッツや裂きイカなどの簡単なつまみの用意もされていて、二人でグラスを傾ける。十時近くになったところで恵子は、
「あたしももう一度お風呂に入ってきます」と下へ降りていく。
雅之が寝室を覗いてみると布団が二組、敷布団の間隔約三十センチを取って行儀良く敷かれている。雅之は片方の敷布団を引っ張り、隙間のないようにくっつけてしまう。
恵子が戻ってきて、グラスを片付け、暗黙のうちに布団へ入る時が来たことを二人とも感じている。居間の電気を消し、寝室へ入る。寝室の明かりは枕元のスタンドだけが点いている。
雅之は羽織を脱ぎ、浴衣姿になって並べられた奥側の布団に入る。恵子も羽織を取ってゆかた姿で隣の布団に入ろうとする。
雅之は「こっち」と自分の布団の脇を空ける。
恵子は「はい」と言ってと雅之の布団に滑り込む。
*
情事の後のけだるい倦怠感。雅之と恵子は汗をかいてぐったりと横たわっている。横たわりながらも二人の手は互いに相手の体を愛撫している。雅之の布団のシーツは激しい動きの後をとどめ、くしゃくしゃになっている。
「こんなに汗をかいて、このままだと風邪をひいちゃう。お風呂へ入らない?」と恵子が寝室の内風呂を指さす。
「入ろう」と雅之は立ち上がり、恵子の手を取って起こす。
二人は裸のまま内風呂の浴室へいく。中は広くて浴槽も大きい。大人二人が並んでゆっくり浸かれる大きさだ。夜なので外は真っ暗で景色も見えない。窓のブラインドは下りている。明る過ぎない、ほのかな光の中で雅之と恵子は湯船に体を横たえ、湯を通してお互いの身体を眺める。
「あまりじろじろ見ないで。もう若くないんだから恥ずかしい」と恵子。
「そんなことはないよ。とてもきれいな身体だよ」と雅之。
ぬるめのお湯に二人は長い時間浸かっていたが、「そろそろ休みましょうか」という恵子の言葉を合図に二人は内風呂を出て、備え付けのバスタオルで体を拭いて、新しい浴衣を素肌にまとい、乱れていない恵子の布団に二人で横たわり眠りに就く。
9
雅之は朝食の希望を聞かれて、焼き魚、納豆といったトラディッショナルなしかし豪華な日本食を、恵子はクロワッサンにオムレツ、サラダ他というこれも豪華な洋食を選んで自分たちの部屋の洋室で、ゆっくりと時間をかけて堪能した。
宿を出発する際、『秀慶館』の女将から「『栄楼閣』さんからでございます」と雅之と恵子にお土産の包みが手渡される。恵子は『栄楼閣』に電話をかけ、女将に昨夜来の手を回してくれたサービスに対するお礼を言う。
『栄楼閣』の女将は、「いえいえとんでもございません。由香を助けて頂いたホンの気持ちです。今度Hにお越しの時は今度こそ是非うちにお泊り下さい」と言う。
恵子は「はい、ありがとうございます。そうさせて頂きます」と答える。このH温泉に再び来る機会があるだろうか、と思いながらH温泉を後にする。
三日目はさすがに疲れる頃だろうということで、詳細は決めていない。ただ、長野県から愛知県を通り、静岡県に抜け、昼食は浜名湖でウナギを食べることにしている。その後、三保の松原に寄り、夕食は新東名の駿河湾沼津サービスエリアの話題の店で早めの夕食を取って東京に帰る予定だ。
10
沼津のサービスエリアでゆっくりと夕食を取り、店で買った熱いコーヒーの入った紙カップを抱えて車に戻ると七時半を回っていた。運転しながらでは飲めないので、コーヒーを飲んでから出発することにする。
一口二口飲んだところで、恵子が口を開く。
「あのね」
「うん?」
「この三日間の旅行はとっても楽しかった。あなたとお付き合いしてまだ半年だけど、この三日間ずっと一緒にいてあなたがますます好きになったのは確か」
「うん、ありがとう、照れるね」
「あなたとこうして一緒に過ごすのは楽しいし、いつまでもおつきあいしていきたいというのも本音」
「………」
「でもね」
「でも?」
「あたしたちの将来がよく見えないの」
「将来?」
「そう、将来。この後一年、二年とおつきあいしていくのはいいとしても、その先にあたしたち、ゴールはないような気がするの。つまり、結婚ということにはならないということ。そう思わない?」
「必ずしも結婚を前提としたおつきあいじゃなければ意味がないなんて言ってるわけじゃないけど。あ、言ってるか」
「いや………でも」
「だってあたしのほうが五つも年上でそれにバツイチと来てる。どう考えても結婚って話にはならないのよ」
「でも、年上の女性と結婚する男はいっぱいいるし、今どき、バツイチも珍しくないと思うけど?」
「ううん、違うのよ。一般論じゃなくて、あなたと私のこと。あなたのご両親が、あなたの結婚相手が五歳年上のバツイチだと聞いて、喜んでくれると思う?ご両親だけではなく周りの人も」
「いや………それは」
「あなたにはあなたと釣り合うふさわしい人が絶対見つかると思うし、そうでなければならないのよ」
「………だから身を引きたい?別れたい?」
「そんな………別れたくないに決まってるじゃない。………ごめんなさい。………本当のことを言います」
「本当のこと?」
「実はあたし、今のお店の取引先の会社の社長さんにひと月ほど前にプロポーズされたの」
「………!?」
「わたし、あなたとおつきあいを始めてまだそんなに経ってなかったし、この旅行の計画でわくわくしていた時だったから、この縁談にはあまり興味がなくて、返事を保留していたんだけど、そのうち折をみてお断りをするつもりでいたの」
「どんな人なの?」
「年齢は四十.社長と言っても社員が十人ばかりの小さな婦人服や雑貨の輸入卸会社。
相手は初婚ということなんだけど、店長が、あの人は間違いないから、ここいらで独身生活も切り上げなさいとやけに勧めるの」
「そうなんだ」
「一週間ばかり前のことだけど、夜、お友達と食事をしてマンションに帰ってお風呂に入っていた時、ふっとあなたとの将来を想像してみたの。付き合い始めてまだ浅いので今まで考えてみたこともなかったけど、一年後、二年後、三年先くらいまでは今のままで付き合っても何とかイメージは湧く。でもそのあとは?あなたは三十を迎えるけど男の人はまだ青年よね。でも私は三十五を過ぎたオバサン。私たちに、というか私にその先はあるのかなってことに初めて気がついたの。結婚ということを別にしても」
「………」
「さぞ、計算高い女だと思うでしょうね」
「いや、そんなことはないけど………」
「その社長さんの会社とは二年くらい前から取引してて、ご本人もたまにうちのお店に見えるんだけど、気さくで、誠実ないい人であることは確か。以前店長と食事に連れてってもらったこともあるの。仕事も誠実で信用出来る取引先なの。改めて考えてみると私にはもったいないくらいのお話じゃないかって。それで、お風呂の中で、このお話を受けようって思ったの。」
「今回の旅行に来てよかったの?」
「それは全く問題ない。これはこれ、それはそれ。旅行を中止する気には全くならなかった。私は神様がタイミングをうまく取り計らってくれたんだと思ってるの」
「タイミング?」
「そう。あなたとおつきあいして半年。旅行に行こうということになって、こうしてあなたと特別な関係になることが出来た。この旅行は私の一生の秘密の宝物。卒業旅行だと思うことにしたの」
「卒業旅行?」
「そう、離婚後始まった独身生活にピリオドを打つ記念の卒業旅行」
「だからこそ、結婚を決意したからには、この卒業旅行は、相手の人に対して、悪い…んじゃないのかな」
「彼にイエスの返事を伝えた後なら、背信行為と言われてもしょうがないと思うけど、まだ返事していない今は私の立場は自由。何の束縛もないし、誰に後ろ指を指されることもない、って思っているの。だから心行くまで悔いのないようにこの三日間の旅行を楽しんだの。でも旅行は終わった。だから明日、彼にOKの返事をします」
「わかった。おめでとう。せっかく深い………関係になれた年上の素敵な彼女を失うのはものすごく残念だけど、ここは男らしくその社長さんにお譲りしましょう!」
「ありがとう。あなたには腹を立てられても仕方がないと覚悟していたけれど。本当にありがとう」
「本当はものすごく悔しいんだよ。僕は今回の旅行の計画が持ち上がってから、本当に旅行を楽しみにしてた。正直に言うと、僕というよりも僕の…“息子”が楽しみにしていた、と言ったほうが正しいかも知れない。ごめん、下品な言い方をして」
恵子は「ふふふ」と笑って、「わかるわ。男の人の正直な気持ち。女だっておんなじ。実は私も夜をどのように過ごすかで頭がいっぱいだったの」
「言われて気がついたけど、恵子さんが言うように、僕たちこのまま二年、三年とつきあっていったとして、ふっと気がついた時、僕は恵子さんにとってのまだ若くていい時期を食い散らかしただけってことになるんだよね。今なら子供も産めるしね。おっと、これは余計な事だったね、ごめん」
「ううん、あなたの言う通り」
「結婚しても今の仕事を続けるの?」
「うん、仕事はしようって思ってる。結婚しても今のお店で働いて欲しいって店長は言ってるけど、考えてみれば取引先の中の一業者の奥さんがそこのお店で働いているっていうのもおかしいでしょう。他で仕事を見つけるか、または彼の会社の仕事の手伝いをすることになるのかどっちかだと思う」
*
「ほんとはね、わたし、何もこんな楽しい旅行の時にこんな話をするつもりはなかったの。今度、会った時にでもいいんじゃないかとも思っていたの」
「でも楽しい旅行だったからこそ、今あなたにはっきり宣言しておかないと自分の決心が鈍ってズルズル後退しそうで、後戻り出来ない状況に自分を追い込む必要があったの。さっき晩御飯を食べながら言うなら今だって決心したの」
「うん、どうりで夕食があまり進んでなかったね。疲れたのかなって思ってた」
*
話に夢中になっていて気がつくと、時計は八時半になっている。一時間も車の中で話し込んでいたことになる。ほとんど飲んでいないコーヒーもすっかり冷たくなっている。
雅之と恵子は熱いコーヒーを買い直し、今度は飲みきると車を、恵子の自由が丘のマンションへと走らせる。二人とも口数は少なく、車内にはカーペンターズが流れている。
十時前に恵子のマンション前に到着する。車の外に出ようとする雅之を引き留め、恵子は体をひねって雅之の首を抱き、長い長いキスをする。
車から恵子の荷物を出すのを手伝って、雅之は再び車に乗り込む。
「じゃ」と雅之。
「さようなら」と恵子。
走り出した雅之の車が見えなくなるまで見送っている恵子をバックミラーで見ながら雅之は「さよなら」と心の中でつぶやき、横浜へと帰途につく。
明日からまた、仕事だ。今携わっているプロジェクトの中間報告書を今週末までに部長に上げなければならない。二週間後に迫っているアメリカ出張の準備もしておかなければならない。出張中に締め切りが来る分のラジオの台本も書き溜めておかなければならない。恵子との別れの感傷に浸っている暇がないのはかえっていいことなのかもしれない。そうだ、アメリカ出張の時には弥生に連絡を取って、友だちとして久しぶりに彼女と晩御飯を食べようか。いろいろなことを頭の中に交錯させながら雅之が運転するSUVは多摩川をわたってゆく。 (完)