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ファーストキスは三度目に

作者: さくらばWhy

本当の恋って、もっと切なくて、苦しいもの。今目の前にいる人に、菜摘はちっともドキドキしない。荘介への思いは、菜摘の中で、本物だった。初恋はどこまで続いていくのだろう。

 相思相愛になることは妥協することなのかと思い始めたのはいつ頃だっただろうか。

 少なくとも、高校時代までは、そんなこと夢にも思わなかった。こんな私を本当に愛してくれる人が果たしているのだろうかと疑いながら、心の奥では信じてた。いつかきっと私にも…って。


「砂糖は?」

「いらない。」

「ミルクは?」

首を横にふると、「ほー」と言う口の形のまま目を丸くしてみせた久方は、コーヒーにミルクはもちろんのこと、砂糖を山盛り二杯入れる。そしてそのまま薄い唇を猿のように尖らせて、フーフー冷ましながら飲んだ。

 誘われて二人で映画を観たけれど、初めてのデートって、もっとわくわくするもんだと思っていた。映画自体も前評判ほどではなく、肩透かしだし。まあ、期待しすぎた私がいけなかったってことね、と菜摘は自分を納得させながら、ちょっと悲しくなった。


 久方は、誠実だし、新入社員の自分に優しくしてくれるよき先輩。確かに嫌いじゃない。好き、かな?…とも思う。だから、デートをOKしたんだ。だけど、なんだか違う気がする。どうも夢中になれない。本当の恋って、もっと楽しくて、苦しくて、切なくて…。

「菜摘ちゃん、猫舌だったっけ?」

久方がおどけて視界一杯さえぎるように、両手を振ってみせる。

おねえキャラがする「バイバイ」みたいに。

「だいじょーぶぅー?」

菜摘はムリして少し笑ったけれど、久方の気遣いが痛い。自分の笑顔もたぶん痛いと思う。

「さっきの映画、いまいちだったかな。」

いつもにこにこ優しい久方にナイーブな影が見えたので、菜摘はあわてて弁解する。

「そんなことないよ、面白かった。ただちょっと、音が大きくて耳鳴りが…」

適当に濁すとそのまま信じた様子で今度は菜摘の体を心配している。菜摘は心の中で大きくため息。

――いい人。いわゆるその手の路線。だけど、そういう自分もきっと同じ部類だと思うから、つきはなせない。私のことを好きだなんて言ってくれたのは、正直久方さんが初めてで、もしかしたら、そんなの最初で最後かもしれないなんて、悲観的なことも思わないではないし。


 最近この街にも進出してきた、全国チェーンのカフェを出ると、もう街が赤く染まっていた。

「夕食、どこかで食べて帰らない?」

少し躊躇して、やっぱり断る。そんな気分になれない。

「親がうるさいから。」

ほんとはゆるい家庭なんだけど、断る口実にそう言うと、

「うん。じゃ、気をつけて。」

あまりに物分かりがいい。

――いい人ってつまらない。

でも、すぐに自分を引き合いに出して戒める。

――私だって、たいした人間じゃない。相手ばかりに期待するのは間違ってる。


 そう間違ってた。独りよがりで人を振り回した私。だけど、本当に心の底からあこがれて、恋焦がれて、この人のためなら何でもしてあげたい、傷つけられてもかまわない、思いは止まらない。そんな相手じゃなきゃ、本物じゃないと思う。

 そりゃ、まあ、片想いだったケド…。



「死にたい」、と思うのは、「死のう」と思うのとは別の感情。

初めて死にたいと思ったのは、高二の時だった。

あの日、恋も友情もいっぺんに失って、悲しみのどん底。一晩泣き明かして、一週間眠れなくて、死にたい、死にたいと思ってた。


 木戸に裏切られたショック。そして、友情がなんとかつぎはぎだらけでも戻り始めたら、今度は荘さんと木戸の仲がねたましくなった。でも、自分の気持ち押さえて、自然に振る舞って。


 荘さん。……私はまだ、荘さんが好きなんだ。

バカだね。小学校から二十歳の今までずっと一人の人を思い続けているなんて。それも、決定的な片想いなのに…。




「クラス会?」

胸の谷間を強調する薄いキャミソール。さりげなくのぞくきれいなおへそ。社員用トイレで念入りに化粧直しをする店長兼菜摘の教育係の美樹にお盆の予定を聞かれ、菜摘は正直に答えた。教育係と言っても、二つしか違わない。

「それは楽しみだねー」と意味深に笑われ、少し困惑。顔に出てる?考えすぎかな。

 短大の就職課に出ていた、地元に新店舗を展開したアパレル会社にタイミングよく採用になったけれど、いざ入社して、一か月の研修に入ると、店舗販売員には自分とはぜんぜん違う女達が多くて少々戸惑っていた。顔立ちはまあそれなりでも、みんな菜摘に比べて、どこか都会的なセンスに溢れているような気がして。いわゆる「いい女」風。研修を終え、地元店舗に正式に配属になったころには、私服も自社ブランドで統一し、見た目には菜摘もなんら彼女らに引けを取らなくなったのだけれど、気後れ感はぬぐえない。店長の美樹とも、バイトの女の子とも、表面的なおつきあいしかできなくて。

 だから、クラス会で木戸やヨウコに会えるのが楽しみで仕方ない。二年半ぶり。菜摘は地元の短大で、木戸は大阪、ヨウコは東京の大学に行ったから、卒業して、二、三度連絡を取り合ったまま、ぷっつりだった。成人式では中学の同窓会だけで、高校のメンバーとは会っていない。クラス会の案内があって、久しぶりにメールしたくらいだ。



「わー、げんきぃ?」

かるーい乗りでクラス会は始まった。形式的な近況報告が終わると後はめいめい小グループに分かれてワイワイやっている。卒業してまだ二年半だから、お久しぶりでもたかが二年半。

 始めは短大で一緒だった友達とテーブルを囲んでいた菜摘も、木戸と目が合うと、グラスとお皿を持って移動する。いすはあるけれど、ほとんど立食パーティーのような感じ。

「紀子からBDカンパニーに入ったっていうのは聞いてたけど……。」

相変わらず落ち着いた木戸の第一声。

「しっかり社会人よ。」

「いやー、すっかりきれいになっちゃって、びっくりした。」

喜んでいいのかどうか。短大時代は地味だったけど、研修の一か月で化粧も服装もガラッと変わった。今日は自社上位ブランドはり込んだし。高校時代、菜摘たちのグループは、いたってまじめなお嬢様グループで、化粧やヘアカラーは皆無だった。それにしても…。菜摘は木戸に会って、正直少しがっかりした。

 木戸は全然変わっていなかった。日に焼けた化粧っけのない顔と、ユニクロっぽい紺のざっくりしたサマーニットに生成りのサブリナパンツ。もともとスポーツウーマンタイプで、顔立ちははっきりしてきれいな部類なのだけど、何せ飾り気がない。長身の木戸には似合っていると言えば似合っているのだけれど、回りの着飾った女の子達の中では、少し色褪せて見えた。

 会社の人たちよりよっぽど土台がいいのだから、磨けば絶対光るのに……。土台から負けている菜摘はそう思わずにはいられない。私だってこんなひらひらワンピースでがんばってるのに。

 とは言え、外見なんかより、懐かしさ優先。お互いに近況話から始まり、やはり高校時代の話に花が咲いた。

「やっぱり高校の時が一番よかったよね。」

二人は三年間同じクラスだから共通の話題も多い。あの、苦い体験にはベールをかぶせて、楽しかった思い出ばかり、夢中になって話した。が、そのうち、やはり恋愛の話になる。

「いるの?」

「うん、まあね。」

きっと他の人に聞かれたら、こうは答えなかった。まだ、荘介を忘れられないことを木戸には悟られたくなかった。さりげなく、

「木戸は?」

と問い返すと、

「あたしはぜーんぜん。」

首を大きく横に振ってみせる。

「もうずっとフリーよ。」

そう言って、木戸はレモンイエローのカクテルをぐっと飲み込んだ。

――荘さん、別れたんだ。

そう思うと菜摘は嬉しくなったけど、同時に、自分の知らない別の人とつきあってるかもしれないという新たな疑惑が起こる。もしそうならなお悪い。

 菜摘に彼がいると思って安心したのか、もう、時効だと思ったのか、木戸はいともあっさりと荘介のことを話し始めた。

「荘さんとはね、卒業して最初の夏休みに一度会ったっきりで自然消滅。たまーにメールはするんだけどね。」

明るく言ってるけど、ちょっと無理してるみたい。もしかして、木戸もまだ荘さんのこと好きなのかも……。そんな風に菜摘には思えた。もっと突っ込んで、荘介のこと聞いてみたかったけど、話題はヨウコのことへと移って行った。

「ヨウコ、来るんだと思ってたのに。」

残念そうに菜摘が言うと、木戸が意味ありげに見つめる。

 二年から同じクラスのヨウコは、菜摘より、どちらかといえば木戸との方が仲が良かった。二人は結構連絡を取り合っているようだった。

「なんかね、デートだって言ってた。」

笑いながら木戸が言う。

「え?もしかして、黒田くん?」

「そう。」

「へえ、まだ続いてるんだ。」

意外だった。が、

「というわけでもないんだ。」

木戸が苦笑するので菜摘は「ははーん」と思い当たる。ヨウコと黒田は三年の2学期、電撃的につきあい初めたが、卒業までのつなぎだとヨウコからは聞いていた。

「帰省時限定?」

と木戸。

 うん、そういうことね。ヨウコはわがままなのだけれど、いつも元気でアッケラカンとしている。どこか憎めないタイプだよね。そう言って二人で納得していると突然後ろから誰かに抱き着かれた。

「なっつみぃー、げんきぃー?」

噂をすれば……元気一杯のヨウコだった。

 ヨウコはさっき木戸から言われた「きれいになってびっくりした」と言うのを三倍大きな声で言いたいくらい、美人に変身していた。土台のいい子が磨いたらこうなるのだ、と改めて感心する。高校の時から、木戸がエキゾチックな南国系の美形なのに対して、ヨウコは色白で全体的に小作りで、華奢なフランス人形のようなイメージがあった。金髪に近い髪色も、ヨウコにはなじんでいた。

「黒田くんは?」

「あそこにいるよ。」

クラスは違ったけれど、仲の良かった子が数人来ているからということで、黒田も紛れ込んだらしい。

「東京の彼に言いつけるぞ。」

木戸がわざとにらんでみせると

「どうぞご自由に。不自由してないもーん。」

とウインクする。

――性格は前のままだ。

菜摘が笑って見ていると、

「菜摘、彼がいるんだって。」

木戸が余計なことを言う。

「へー、どんな人?どこの人?ねえねえ、誰に似てる?」

木戸のおせっかいな一言で、ヨウコが根掘り葉掘り聞いてくる。人のこと、あれこれ聞くの好きな子なんだ。菜摘はまだ一回しかデートしてない久方のことなんて言いたくないので適当に濁していると、黒田を始め、数人の男達が近づいてくる。ラッキー。

「そろそろお開きだって。」

「二次会行くんだろ。」

黒田とヨウコのやりとり。

「ねえ、菜摘ちゃんも、木戸ちゃんも、一緒に行こうぜ。」

高校の時などほとんど話したこともなかったような人が、「ちゃん」付けで呼んでくる。どちらかといえば男の子を振り回すと言うより追い掛け回していたヨウコが、今ではすっかりちやほやされている。おまけに菜摘達まで。

 菜摘と木戸が顔を見合わせていると、ヨウコが不意に、なんのこだわりもなく言った。

「荘介も、来ると思うよ。」



 どうして行かなかったんだろう。ベッドの中で菜摘は、おそらくまだ続いているであろうはずの「二次会」に思いを巡らす。

 だって、あまりにも突然で。いや、そうなる予感はかすかにあった。もしかしたら、会えるかもしれない。帰省しそうなお盆やお正月、GWには必ず、この町のどこかで偶然ばったり出会うかも……なんて、漠然とずっと、会える日を待ち続けてきた。成人式の時だって、期待していたけれど荘介は欠席だった。なのに……。

 ヨウコが、あの子が言ったからかもしれない。なんとなく、ヨウコが妬ましくて。好きでもないくせにいつでも会えて、連絡とり合って、おまけに……「荘介」なんて呼び捨てにして。

 木戸だって、いつでも「荘さん」って、みんなと同じように呼んでいたのに。なんでヨウコが……。

 ふと頭の中で、さっきの着飾ったヨウコが素顔に戻り、それにつれて、くっきりと鮮やかに、高校時代のあの日の風景が目に浮かんできた。




 雨が降っていた。この前の日曜日、久々に晴れたと思ったら、月、火とまた雨。いくら梅雨だといってもいいかげんうんざり。窓の外をぼんやり眺めて菜摘は溜め息。

 図書委員の木戸は貸し出しの当番で図書館に行ってしまったし、ヨウコは五時間目の英語が当たりそうだと、今になって一生懸命人のノートを写してる。たいくつな昼休み。久しぶりにタケチに遊んでもらおうか。

 廊下に出て窓から一組をのぞいてみる。幼なじみのタケチは、菜摘と目が合うとすぐに出て来てくれた。タケチは女物の制服を着ているけれど、どっちかというと、男物の方が似合う女の子だった。二人して一階の学食で自販機のコーヒーを飲む。ブラックのボタンを押す菜摘。中学の時、「ブラックじゃないコーヒーはコーヒーとは言わない。」と荘介が言ってから、菜摘はずっとブラックだった。そんな菜摘から少し目をそらしながらタケチは、独り言のようにつぶやいた。

「元気出しなよ。」

言葉の意味がわからず、振り向いてタケチを見つめる。しかし、彼女はそれ以上何も言わない。イスに座って苦いコーヒーを飲みながら少し考えて

「あたし、元気ないように見える?」

菜摘は甘えるように聞いてみる。

「ううん。別に、そんなことない。ただ言ってみただけ。」

最初はそんなに深い意味があるとは思わなかった。だが、どうしてもおかしい。なんとなく、タケチは、菜摘の反応を伺いながら言葉を選んでいるように見えるのだ。

「へんなの、はっきり言ってよ。」

訝しむ菜摘の視線を用心深く見つめながら、もともと低い声を一層下げてタケチは、

「知らないの?」

おそるおそる尋ねる。

「何を?」

菜摘はなんだかとてもいらいらしてくる。すると、決心したように、大きく息を吸い込んで、その割に小さな声で、彼女は菜摘の耳元にささやいた。

「荘さんのこと。」

一瞬ドキッとする。胸騒ぎっていうのか、なんだか心臓が躍る。そしてさらに彼女は続けた。

「おとといの日曜日、手をつないで海岸を歩いてたって、一組で噂になってる。」

覚悟はしていた。

「誰と?」

でも、タケチは肝心なところをとばした。

「知ってるのかと思ってた。」

「ねえ、誰と。」

胸の鼓動がますます激しくなる。

「だって、あんたたち一年の時から仲いいじゃん。」

そう言われてもまだピンと来ない。突然で菜摘の脳は働かない。

 チャイムが鳴り始め、並んで小走りで階段を上りながら、腕をつかむ菜摘の圧に押されるように、タケチは申し訳なさそうにやっと答えた。

「キ、ド……。」

別れ際にポンと肩をたたいて

「言わなきゃよかった。」

ううん、ううん。菜摘は大きく首を横に振るだけで、とても声が出る状態ではなかった。

 教室の自分の席に座るともう周りのものは何も見えなくなった。


からっぽの頭の中でタケチの言葉が無作為に走る。

――手をつないで海岸を……。

――荘さんと木戸が……。


 木戸と菜摘は一年の時から妙に気が合って、仲が良かったが、二人では、不思議と男の子の話はしなかった。木戸はずっと、特に好きな人はいないと言っていた。だけどそう言えば……。菜摘はふと忘れていた木戸の言葉を思い出す。一度、笑いながら

「菜摘がいなかったら荘さんでもいいんだけどなぁ。」

と言ったことがあるのだ。

「別にあたしと荘さんは何でもないんだから気にしなくていいよ。」

そう答えると、

「冗談、冗談。」

なんて背中をたたかれた。あれは一年の二学期くらいじゃなかったか。なんとなく、芯の強い響きを感じた覚えがある。

 菜摘にしても、彼女に対して、荘介への自分の思いをはっきりと口にしたことは一度もない。中二のバレンタインデーにあっさりフラレて、それからはただの友達。自分の荘介への気持ちはあれ以来、自分一人の胸の中にしまっているつもりだった。

 でも、自分が一番荘介に近い女友達だという自信はあったし、荘介もそれを認めてくれた。だからフラレた翌年からは、義理チョコと称して、公然とバレンタインデーにチョコレートを渡すこともできたし、お返しのクッキーもしっかりもらっていた。「彼女ができたら真っ先にあたしに打ち明けてよ。」なんて言ったりもした。

――木戸は私の強がりを、ちゃんと見破っていたんだ。

今、改めて菜摘は思い出す。彼女の目が、自分の心の奥に容赦なく入り込んでくるのを何度か感じた。それは、親友だからだと思ってた。

 右斜め前に見える木戸の横顔をこっそり盗み見する。いつもと同じ。黒板を見るために上を向くと、濃いまつ毛に縁どられた大きな目が、一層大きく見開かれる。整っていながらも、全てのパーツが大きめで、芯の強い、情熱的な印象を受ける顔。

「荘さんの選んだ女」

「手をつないで海岸を」

――やっぱり信じられない。どうしてもつながらない。

――いつだって、木戸と一緒の時、荘さんに話し掛けるのは私の方。彼女と荘さんが二人で話しているところなんて見たことがない。荘さんだって、必ず私を選んで話した。荘さんと木戸の間にはいつも私がいた。


「どうしたの、菜摘。」

いつの間にか、休憩時間になっていた。木戸の大きな瞳にぶつかって、菜摘はようやく我に返る。

いつもと変わらないおだやかな表情の木戸。その手をつかんで問い詰めたい。だけど問い詰める代わりに大きな溜め息が漏れる。

「なんなのぉ、人の顔見て溜め息なんかついて。」

私は何も知りません、というような木戸の顔。かすかな期待が菜摘の心に芽生える。

 教室の後ろの方では、いつもと同じように荘介が、仲間達とふざける声が聞こえる。

――そうよ、だれかの見間違いかもしれない。

だが、菜摘の期待はすぐに打ち破られた。借りていた英語のノートを返しに一組へ行っていたヨウコが、息せき切って二人の元へ走ってきた。いきなり木戸をつかまえて

「木戸ぉー、このぉー、聞いたぞ!日曜日、誰と何をしてたか答えなさい!」

木戸の顔色がみるみる変わる。そしてその目は菜摘に。ヨウコも素早くそれを察してか、それ以上は何も言わなかった。ただ、それでもニタニタ笑うヨウコを無視して、木戸は無言で自分の席に戻った。ちょうど六時間目のチャイムと同時だった。

 たまたま自習となったその時間、さっそくヨウコが木戸とコソコソ話している。いつもなら、菜摘も加わっていくのだが、そうしよう、自然に振る舞おう、と思うのだが、どうしてもできずにいる。凍りついたように自分の席で、ただじっとしていることしかできなかった。

 放課後、木戸が部活に行った後、菜摘はまだ教室で帰宅組の男の子達とふざけていたヨウコをつかまえた。

「言わないでって言われてたんだけど……。」

そう言いながらもヨウコは聞いたこと全てを話してくれた。そしてその夜、菜摘は一晩泣き明かしたのだ。

 どうしても、涙が止まらなかった。体中の水分を出し尽くすまで止まらない。いつまでも、いつまでも。




初めて手をつないだのは小学校六年の時。……電流っていうゲームだったけどね。家へ遊びに行ったのは、中学一年の時……グループ研究の打ち合わせで、ほかにも四人いたけど。中二の時、掃除時間に重い理科室の机を、二人で一緒に運んだよね。中三の校内美人コンテストで私に投票してくれたたった一人の人。三年間同じ組だったよしみという言い訳つきで……。

 高一の時、何度か肩を並べて下校した。偶然を装って、実は私、少しだけ待ち伏せしたんだ。冗談ばかり言い合って、憎まれ口たたいてばかりいたけれど、並んで歩くうれしさで、私、とてもはしゃいでしまった。そんな些細な一コマ一コマが大切な思い出となって、胸の引き出しにぎっしり詰まってる。何も知らない部外者からは、噂されたり、冷やかされたりして、私、結構それを楽しんでた。荘さんだって、笑って聞き流していたじゃない。

 両想いになれないことなんてわかってた。荘さんにとって、私は単なるクラスメイト。何かと世話を焼きたがる私を、彼は優しさから、邪険にできなかっただけ。でも、嫌われていない以上、こうして思っていれば、いつか結ばれる日がくるかもしれない。もしかしたら、何年か先、私が荘さんの相手に選ばれる日が来るかもしれない。そんなことを、心の隅の、隅の、隅で、考えていた……。

こっそり見つめるだけでいいと思ってた。話せるだけで、顔を見て笑ってくれるだけで…。だけど、そんなのはウソ。本当は、見返りを、「愛」を求めていたんだ。決定的な片想い、なんて割り切っているつもりで、実は未来に夢を託していたんだ。

 どこかでつながるかもしれない。今は、この平行線に見える二人の関係が、ほんの少しでも角度を持つなら、きっといつか、どこかで交わる日がくるかもしれない。そう思って今まで自分の気持ち押さえて、荘さんとの距離を、一番の女友達というスタンスを、一生懸命保ってきたんだ。

私、認めない。荘さんと木戸なんて、認めてやらない。そう、今は木戸とつきあっているかもしれない。勝手につきあえばいい。けれど、いつか別れが来るなら、いやきっとくる、そしたらその次は…。全てが終わったわけじゃない。

だけど、だけどだけど…。どうしてもつながらない。なんで、荘さん、木戸なの?いつから?

去年の暮れ、仲の良い男女六人グループで、クリスマスパーティーをした。私のうちで、私が主にプランを立てて、私がメンバー集めて。本当は私と荘さんのためのパーティーだった。私の中では、荘さんとの大切な思い出のひとつ。それなのに、その帰り道、木戸は荘さんに告白されたんだ。

なんてバカなんだろう。こんなに近くにいながら、二人のこと、何も気づかなかったなんて。あの日、大富豪で一位になった私が、びりになった荘さんに、罰ゲームで手の甲にしっぺした。手と手のふれあい。そんな些細なことで、思い出がまた一つ増えたと、幸せな余韻に浸っていたのに。

木戸は確かにいい子。私だって、それは認める。彼女はもてて当たり前。だって、綺麗だし、短距離走では県大会行くほどだし、背が高くてスタイルもいい。何よりも、性格が穏やかで優しい。それに比べて私は、ブスのくせにわがままで、自分中心。ヨウコの身勝手とは少し違う。ヨウコはあれで、底抜けに明るいからどこか憎めない。顔だってカワイイし。私は三人のうちで一番最低。クラスでも、きっと評価は下の方だ。だから、荘さんが木戸を選んだのは、仕方のないこと。お似合いのカップル、誰だってそう思う。そんなこと、悲しんでも仕方ない。

でも、でも…。やっぱり許せない。今まで黙っていたこと。こんなに近くにいながら、私に内緒でつきあってきたこと。どうしても、許せない。どんな気持ちで私のこと見ていたの?私の前ではいつも一歩引いて、でしゃばる私の後ろで私と荘さんを見つめてた。義理チョコと偽って、私が嬉しそうにバレンタインデーにチョコレートを渡すのを見てた。そして、陰でこっそりと会って、木戸は荘さんに、本物の恋人としてのチョコレートを渡していたんだろうか。

私は何なの?冗談じゃない。木戸はずるい、ずるすぎるよ。あんまりだよ。


親友だと思ってた。大事な友達。木戸も、そして、荘さんも。なのに二人は私を裏切った。私にずっと嘘をついてた。素知らぬ顔で半年以上も嘘をつき続けた。

 二人の嘘が、胸に突き刺さる。マイナスの相乗効果。どんどん底に沈んでいく。

疑惑のシーンが浮かんでは消え、消えては浮かぶ。どれが本当?どれも嘘?泣き叫んで発狂したくなる。

けれど、本当はもう、十分わかっていた。認めたくない自分が頭を掻き乱していただけで、とうにわかってる。わかっているから、よけいつらいんだ。


 悪いのはすべて私。荘さんと木戸は両想い。私が二人の邪魔をしてるだけ。勝手に荘さんにまとわりついて、木戸に気を遣わせているだけ。二人の幸せを壊してるのが私。私さえいなければ、二人はこそこそと付き合う必要なんてない。そして私も何も考えなくてすむ。


 死にたい。私なんか死んでしまえばいい。死んでしまえば楽になるかな。すっきりとするかな。こんなわけの分からないモヤモヤした思いはもういや。何もかも、信じられない。誰も、信じられない。何も、何も、考えられない。


 眉毛用の剃刀を手首に当ててみた。動脈を切って、お風呂につかったら、血がどんどん流れて死ねるんだって。でも、血まみれになるのってやだな。

 それか、鴨居にひもをぶら下げて、台に乗って、首をくくって、台を蹴ってひっくりかえしたら、首つりで死ねるんだって。でも、死んだあと、全部垂れ流しらしいから絶対やだ。

 それか、ガス栓開けて、…爆発したらみんなに迷惑がかかるじゃん

 雪国で眠って凍死…って今梅雨時だし。雪国は遠い

 睡眠薬で眠るように…って苦しくて吐くらしいし

 農薬、まずそう…


 本気で死ぬ気はない。ただ、死にたいだけ。死ねば、何も、考えなくてすむから。悲しみから逃れられるから。死んだ方がましって思いたいだけ。




 

 翌朝、菜摘は登校をためらった。一晩泣きはらした顔は、おもいっきりむくんで一目でそれとわかったし、朝になってもまだ、ふっと涙ぐみそうになる。だけど、一人でいるとかえって弱気になりそうで、よけいに辛いような気がする。休んでしまうと、このまま学校へ行けなくなりそうな気もする。学校へ行かないで平気でいる自信もない。だから、いつもと変わらない朝のように自分に言い聞かせて、学校へ行った。

 木戸もヨウコも何も言わなかった。何事もなかったように、木戸は菜摘と行動を共にする。いつものように三人でいながら、三人ともほとんどしゃべらなかった。

 それから一週間、ぎくしゃくとした日々が続いた。家に帰ると毎日、「死にたい、死にたい」と布団の中で叫んで、楽に、綺麗に死ねる方法を考えていた。一週間後の夜、電話が鳴った。菜摘が受話器を取ると、木戸の啜り泣きが聞こえた。

「ずっと、謝ろうと思ってた。ごめん……。」

そう言ったきり、泣くばかりの木戸に、菜摘もなんと答えていいかわからず、電話なのにただ、首を振るばかりだった。

しばらく二人で泣いて、落ち着いてくると、菜摘はなんかすっきりした気分になった。

「私の方こそ、二人の邪魔ばかりしてたんだよね。ごめんね。」

そう言うと、木戸は

「そんなこと言わないで。これからも荘さんと、今まで通り仲良くして。私のせいで、菜摘と荘さんの関係が変わるのはいやなんだ。」

なんて、まだ菜摘に気を遣ってる。

そんなこと、できるはずない、と菜摘は思ったけれど、

「木戸の方こそ、もう、こそこそしないで堂々と付き合って。」

と答えただけ。本当は、そうなったら平静でいられるかどうか、自信なかったけれど。

 なのに、その後二人は堂々どころか、むしろ今までよりももっとよそよそしくなった。学校で話すことはほとんどなかった。だから、一組での噂も、なんとなく立ち消えになって、二人が付き合ってるかどうかは謎に包まれた。そして、菜摘の方は、普段通り荘介が接してくるのもあって、今まで同様「仲の良い友達」の関係を続けることができた。バレンタインのチョコレートはもう渡すことはできなかったけれど。


 三年になって、荘介だけクラスが分かれて、ようやく二人は普通のカップルのように、時々廊下などで話しているのを見かけるようになった。菜摘もその頃になってやっと、二人の仲を認めることができた。一年近くもかかって。それでもまだ、あの電話以来、二人の間で荘介の話題は避けられていた。たまにヨウコが不用意に口にするくらいで。


 ヨウコの化粧した顔が、ぷるぷるの薄い唇が、菜摘のまぶたに大きく浮かぶ。

 二人とも、荘介のことでは、つらい思いをしてきた。なのに……。何の関係もないヨウコが、今では一番荘介に近いところにいて、「荘介」なんて呼び捨てにして、彼のことは何でも知っているような顔をしてる。

 単なる妬み、酔っているせいもあった。

――わかってる。別にヨウコが悪いわけじゃない。悪いのは、未だに忘れられない私のこのしつこい性格なんだ。

 大きく寝返りを打って、深呼吸をしてみる。久しぶりに菜摘は、明け方まで眠れなかった。







 目覚ましにシャワーを浴びていると、脱衣所に置いた携帯が鳴っている。やりすごそうかと思ったけれど、しつこく鳴り響くし、なんとなく、電子音がぷるぷる軽快に菜摘を呼んでいる気がした。ドアを開け、床にぽとぽと滴を落としながら、手と耳の水滴だけふき取って、携帯を取って耳に当てる。発信元は登録なし。

「もしもし。」

一瞬の沈黙。そしておもむろに

「な・つ・み?」

聞いたことのあるような、どこか懐かしいような、男の人の声。少し低めの、でも結構澄んだ、胸のキュンとするような……。

「あ……」

と言ってそのあとが出ない。予感はあった。だけど、それは、ただの希望的観測で、本当にかかるはずはないと思ってたから。

「オレ、荘さん。」

わかってる。

「え……と」

何を言っていいかわからない。

「何してた?」

「シャワー。」

何も考えられないから、ありのままを答える。

「えー?悪いことしたなあ。かけなおそうか?と言ってもたいした用じゃないんだけど。」

「あ、大丈夫、今出たところ。」

うそ、まだシャンプーの途中。

「ほんと?あのさ、今日ヒマ?」

「え?なんで?」

久方とデートの約束だった。

「ヒマだったらさ、会いたいな、と思って。」

うっそー!叫びたい気分。


 約束の二時まであっという間だった。もちろん、久方にはすぐに断りのメールを入れて。お盆休みにわざわざ会いに来てくれるのに、我ながらひどいなと思いながらも、迷う余地はなかった。髪をどうしよう。洗ったばっかでよかった。昨日は縦ロールの緩巻きにしてた。でも、まず洋服決めてからヘアは考えよう。

 で、問題は服。何を着よう。昨日、気張ったからなあ。会っていないからと言って、昨日と同じってわけにはいかない。お昼だし、ミニスカートにロングカーディガン、いや、やっぱりワイドパンツにチビT……それとも、キャミソールワンピ…持ってる夏服全て引っ張り出して、鏡の前で試着を繰り返す。どれもこの春買った自社ブランドだから堂々と着て行ける。おかげでお給料全然残ってないけど。

 服を選ぶだけで、午前中一杯を費やした。結局、荘介の好みを意識して、上品な、お嬢様系のふわりとした白のワンピースに決めた。それに合わせてヘアはくずし気味のハーフアップ。美樹に教えてもらって最近マスターしたこなれヘア。

 待ち合わせの「ケーク・ウオーク」は繁華街の裏手にたたずむ、昔からあるこの町で一番おしゃれなコーヒー専門店。余裕を持って家を出たら、二十分も早く着いてしまった。

 ま、いいか、と中に入る。軽快な管楽器が奏でるシンコペーションのリズム。とりあえず、菜摘はオリジナルブレンドを注文しておく。

――やっぱ早すぎたかな。

すっかりコーヒーを飲み終えて、まだ二時五分前。

 今になって、少し化粧くずれが気になる。こなれヘア、こなれすぎてないかな。カップについた口紅の跡をそっと指で拭う。やっぱり遅れてきた方がよかったかな。ここにきて緊張。

 カラン、……あれかもしれない。けれど、早くに目が合いすぎると気まずい。だからわざとコーヒーカップの黄色いラインに視線をそらす。

 もういいかな、と目を上げると、

「ヨォ。」

久しぶりの、二年半ぶりの、恋しい人の、愛しかった人の、笑顔。

 手で押さえないと、飛び出てしまいそうなくらい、胸が躍った。

荘介は菜摘をまっすぐに見つめながら、菜摘の正面に座った。

「早かったんだね。」

飲み干したカップに目をやってそう言い、カウンターにいたマスターに、手を挙げて「ブルマン」と少し声を張った。

 ミルクも砂糖も入れなかった。ましてや「フーフー」なんてしなかった。

「おととい、二次会、どうして来なかったの?」

「うん、ちょっと疲れ気味だったから……。」

さりげなく会話が始まる。

「三組も近くでクラス会やってて、二次会で合流したんだぜ。結構盛り上がって、三時くらいまでばか騒ぎ。女の子も割といたのに。」

「へぇー。」

もっと楽しそうに明るく会話したいのに、どうも会話に乗れない。言葉がみつからない。

しばらくの沈黙の後、菜摘を覗き込むようにして、

「なんか、顔、変わったね。」

おもむろに荘介。

「髪も伸ばしてるし、すごく奇麗になった。」

顔中熱くなる。卒業してから結構聞くセリフだった。木戸も言った。でも、わかってる。みんな、一言省略してる。「前よりは」って言葉。

「前がそうとうひどかったって言いたいんでしょ。」

「オッ、口調は変わらないねえ。」

「昔から一言多かったって?」

「すぐムキになって口答えしてくるから思わずかまいたくなった。」

なんだかキュンとなった。でもすぐに、

「あたしはあんたのオモチャか。」

とやり返す。荘介は笑った。そして懐かしそうに、

「なんたって、小学校からの腐れ縁だもんなあ。」

「ほんと、クラスもほとんど同じで。」

「頼みもしないのに。」

「こっちこそ。」

よかった。菜摘は安堵する。やっとはずんできた。そうそう、このリズム。こうしてぽんぽん言い合ってきた。小学校から高校までずっと。そのくせ心の中では軽い口調と裏腹に、やけどしそうに燃えていた。二年のあの時、燃え尽くしたって思っていたけど、やっぱり不完全燃焼だったんだ。

 いろんな思い出がどんどんあふれてきて、あっという間の二時間、二人は夢中になってしゃべり続けた。サービスのお茶も飲み干していた。

 さすがにもう居づらくなって、店を出てなんとなくぶらぶらする。

「どうする?」

「どっちでも。」

帰ろうか、と言われるのはさみしい。けれど、話はし尽くしたような気がする。テンポが早かったからものすごく多くのことを話したようだった。皆、昔話だった。小学校一年から、壮介が木戸とつきあい始める高校一年、あのクリスマスパーティーまでの…。


「飲みに行こうか。」

突拍子もなく荘介は手のひらを打つ。

「今からぁ?」

冗談だと思っていたら、本人はそうでもない様子。

「大学生に時間は関係ない。」

なんて悪びれもせず。しかし、菜摘も負けていない。

「あたしはりっぱな社会人です。」

とやり返す。すると、

「One today is worth two tomorrow.」

菜摘は思わず笑みをもらす。

――懐かしい。荘さんが、昔よく口にしてた言葉。明日を生きるより今日を生きよ、って彼流に訳してた。

だが、菜摘の微笑をどう解釈したのか、すぐに荘介は、

「まあ、明日が大事なときもあるけどね…。」

なんて横目で笑いながら言う。

「お。少しは大人になったか。」

と返したけれど、菜摘は胸の奥でなにかがくちっとつぶれるのを感じた。

路地裏を歩いていると小さな公園に突き当たる。

「おー、なつかしー」なんて言いながら木陰のブランコに腰を降ろした荘介は、立っている菜摘の全身を改めて見直して、

「そういや、BDカンパニーだってね、その服、××かな?。決まってるね。」

名が知れてきたブランドではあるけれど、男の子でうちに詳しいなんて……。菜摘は少し驚く。そう言えば、荘介の身につけているものは、最近雑誌をにぎわしているブランドのものばかりだった。

――そういうタイプじゃなかったのに。流行なんて追わないし、綺麗とか、決まってるとか、あからさまに人を褒めるような人じゃなかったはず。もっとぶっきらぼうで、憎まれ口ばかりたたいて、その陰に本当の優しさが見え隠れする、そんな人だったはずなのに。

一つくちっとつぶれたら、連鎖的につぶれてしまう、つぶれた気泡から少し苦い汁が漏れる。

――ううん。荘さんが大人になっただけ。いつまでも昔のままでいるわけがないじゃない。

膨らんでくる不安を押しのけるように菜摘は自分に言い聞かせる。私だって、流行りのヘアメイクをして、自社とは言え、ブランド物を着て、自分でこんなタイプじゃないはずなのになんて思ってる。それと同じなのかも。基本的には変わってない、私も、荘さんも。きっと。

 いつの間にか二人の前に、ものめずらしそうに群がってきた子供たちと一緒になって、はしゃいだり、シーソーをしたりしている荘介の横顔は、前と同じ、キラキラした澄んだ目をしている。あの、野球部でランニングをしていた時の、真剣な目と同じ。菜摘の好きな目。


「飲みに、行くだろ。」

「うーん。」

菜摘は少ししぶってみる。ずっと一緒にいたい。だけど、こんなに長くふたりでいるなんて、信じられない気がするし、なんだか怖い気さえしてくる。

――私、誤解しちゃうよ。

誤解だとわかっているから、菜摘は今一つ本気ではしゃげない。

「黒田とヨウコでも誘おうか。」

荘介は、菜摘に気を遣ったつもりらしい。あまり乗り気はしないけれど、イヤとも言えない。

「うーん。」

憎まれ口はぽんぽんたたく割に、いざという時思い切った発言ができない。

「おととい、二次会で行った店、キープが残ってるんだ。早いもの勝ちってことになってるから。」

そう言っていたずらっぽくウインクする荘介がまぶしくて、吸い込まれそう。ついていきたい、こんな明日はもう来ない。

「あたし、あんまり飲めないし。」

菜摘はそれでもまだ、煮え切らない言葉を返す。

「あんなもの、訓練訓練。ま、とにかくその前に腹ごしらえといこうぜ。」

強引に繁華街まで歩かされ、パスタ専門店に引っ張り込まれる。

「好きだろ。」

なんて決め付けられて。

 そう、こういう強引さって、ある程度は魅力だ。もちろん、それは、相手によるけど。実際スパゲッティは好きだし、菜摘にはさして好き嫌いはないのを荘介は知っている。荘介になら、引っ張って行ってほしい。好きだから。本当に好きだから。だけど、二人の未来は真っ白で、菜摘には何も思い浮かべられない。向かい合ってスパゲッティを食べながら、まだまだとても暗くなりそうにない窓の外を、菜摘はぼんやり眺める。

 そんな菜摘の気持ちなどおかまいなしに、荘介がてきぱきと黒田に連絡をとる。

「多分来るって。まあ、ヨウコ次第だろうけど。」

きっかけができたので、菜摘はさりげなく、気になっていたことを聞いてみた。

「ヨウコとはよく会ってるの?」

「いや、そうでもない。」

「なんか、前より親しそうだから。」

「そんなことないよ。あいつの彼氏が、たまたまオレの大学の先輩なんだ。」

「へえぇ……。」

で、黒田くんは何なの?それに、そんなヨウコを非難しないの?聞いてみたかったけど、大人げないか、逆に年寄りじみているか、どちらかに思われそうで、第一ヨウコのことなんかで会話を無駄に費やすのはもったいないのでやめた。

――でも、気になる。もしかしたら、つきあってる彼って、先輩ではなく、荘さん本人じゃないの?

 90%違うと確信しながらも、菜摘は勘ぐってしまう。木戸とのこともあるし、こういうのって分からないから。

 パスタ屋を出てすぐに、「ミラーボール」、おとといクラス会の二次会の会場になった飲み屋。ついさきほど開いたばかりの店は、十人くらい座れるカウンターと、テーブルが5つ。中央には80年代風のミラーボールとダンス用のスペースもあった。

 テーブルの方に座り、最初はカクテルで乾杯をした。菜摘が選んだのは、「ミステリアスブルー」と名のついた、文字どおり青く、甘く、不思議な香りのするお酒。荘介は、ソルティードッグで。

 「二人の再会に」なんて荘介は言った。しーんとした店内に響く声。さっきのパスタ屋でビールも飲んでいたから、荘介はもうすっかりハイなのだ。

「オレ、ヨウコから菜摘が美人に変身したって聞いて、ものすごく見てみたくなってさ。会って、もっとびっくりした。想像してたよりももっと綺麗になってて。」

「もー。失礼ねえ。高校時代、どれだけひどかったんよ。」

マスターに聞かれると恥ずかしい。この手の話は昔から苦手。聞こえているのかいないのか、マスターはカウンター側で、いそいそとまだ開店準備をしていた。

 容姿には物心ついたころからずっとコンプレックスを持ちっぱなしだ。誰だか思い出せないような誰かに似ているとよく言われる目鼻立ちのはっきりしない顔、骨っぽくてやせすぎの体。顔が小さい、スレンダー、なんて褒め言葉はあっても、それが、魅力的かどうかとは、別問題だと思う。

 とにかく容姿についての話題を避けたかったから、ほこ先を他人に向ける。

「ヨウコこそ、ものすごく綺麗になってて、びっくりした。」

「ああ。」

荘介は鼻から息を吐いて意味深な笑みを浮かべる。

「あれは、綺麗というより、ケバイって言うんだ。」

…言えなくもない。まあ、派手なのは、否めない。髪の色も金髪まではいってなかったけど、かなり黄色かったし。つけまつげ重ね付けはちょっとやりすぎ感はあった。

「オレの好みは菜摘みたいに、上品なお嬢様系なんだ。それに、」

荘介は得意げにまくしたてる。

「ビッチがいくら表面だけお嬢様ぶっても、知り尽くしているボクとしては、すぐに見抜いてしまうのだ。」

「なにそれ。」

菜摘は返事にとまどう。

――ビッチ?知り尽くしてる?ヨウコのこと?何を?

 カマトトぶっているわけではなく、菜摘はその方面の話題には同世代の中でもかなり遅れをとっていた。もっとも、今の世の中、都会では、貞操なんてごみくずみたいに思っている子ばかりがクローズアップされるけど、こんな地方の田舎町では、菜摘のように清く正しく生きている子だって、結構いるのだ。まあ、貞操という観念ではなく、単にチャンスが無かっただけということではあるけれど。

 それよりも……。

「オレの好みは菜摘みたいに……」

菜摘にとっては胸にズンと来る重い言葉、聞き逃さなかった。荘介にとっては特に意味のない、口からさらりと滑り出た言葉、それも同時に感じたけれど。

――素直に喜びたい。だけどとても喜べない。荘さんの好みの清楚系、わざと意識したし。私、冷静?それともひねくれてる?

 すると突然、菜摘の正面から隣の席に移動して来て、唐突に、荘介が菜摘の肩を強く掴んだ。不意打ちのように右側から左肩を。肩を抱かれたような形になって、菜摘の身体は熱くなる。萎縮する。金縛りのように動けない。耳元に、荘介の息がかかる。そしてささやかれた言葉は

「ねえ、菜摘、男女間の友情って成立すると思う?」

まっすぐ菜摘の瞳を見つめて荘介が問い掛けた。

 肩を抱かれて、見つめられて身動きできなくて、何も、何も、考えられない。そんなに見ないで。私、アイライン、うまく引けてたかな、にじんでないかな。気になって、目をそらし、何も答えられない菜摘に荘介がまた口を開く。

「オレと菜摘って、友達だったと思う?」

その言葉に、菜摘は思わず荘介の目をゆっくりと見詰め返す。一度、聞いてみたかった。問い詰めてみたかった。はっきりさせたかった。荘さんの気持ち。ずっと、どんな気持ちだったのか、私のことどう思っていたのか。もう、過去形でも終わったことでも何でもいいから、あの時のこの人の本当の気持ち、本人の口から聞いてみたかった。今、それが実現するかもしれない。

「荘さんはどう思ってた?」

さり気なく言おうと意識しすぎて唇と一緒に語尾が震えた。

「オレが先に聞いてんだよ。」

深く見つめられる。隣に座りながら、向かい合ってる。かなりの接近。きわどい距離。鼻の毛穴、目立ってないかな。そんなことがやっぱり気になる。

――友達?そう思おうとしたよ、振られてからは。だって荘さん、中二の時、はっきり私に言ったじゃない。友達としか思えないって。女友達としてなら最高だって。私、振られても、その言葉、結構嬉しかったんだよ。

 それは私が答えることじゃない。荘さん、あなたが答えなければならないこと。だって私はずっと意思表示してきたはず。いつだって、この目は恋をしている目だった。自分から言わなくても、自然に噂にのぼる。誰が見ても、私が荘さんを思ってることはすぐに分かった。だから木戸も、あんなに気を遣って…。それが荘さんに分からなかったはずはない。だから、二人で私をずっと騙していたんでしょう?

 荘さんでしょ、素知らぬ顔で、結局私と木戸と、両方を傷つけたのは。口ではっきり言ってくれなきゃ分からない人は。

 あまりに菜摘が黙っているので、菜摘から手を放して荘介は、グラスをとってぐっと飲み干した。もう、これで三杯目。つられて菜摘もグラスをあけた。ミステリアスブルー。乾杯の時のカクテル。

 するといきなり大きな拍手。いつの間にか、黒田とヨウコが目の前に立っていた。

「どぉしたのぉ?二人ともすごい飲みっぷり。」

「負けそぉーだね。」

「もう何杯目よお、明るいうちから飲んでんでしょ。」

時計を見るともう、八時を回っていた。まだ、と言ったほうがいいのか。二時からは六時間も経っている。

 結局、肝心なことは聞けなかった。四人になると、わけの分からない会話でしっちゃかめっちゃかになった。他のお客もかなり入って来て、閉めているお店の多いお盆だということもあって、あっという間に満席。

 そのうち、ダンスタイムとなって、中央のステージのライトを残して、回りはグンと暗くなる。ぽつぽつとステージに人が集まって踊り出す。そのうち菜摘らも、躍ろうか、ということになって、四人でステージに繰り出す。

 ニ、三曲流すと結構疲れる。もう、若くない。なんて、二十歳の分際で思う。もうだめ、と思い始めたころ、お決まりのスローテンポに変わった。照明もぐっとムーディーに。

 ヨウコと黒田はしっかりと抱き合っていた。荘介も菜摘に手をかける。菜摘は腰が引ける。

「あたし、チーク躍ったことないの。」

本当のことだ。コンパで何度か誘われたことはあったけれど、躍らなかった。

「別にじっとしてればいいんだよ。」

そう言われても、菜摘としては、すんなり抱かれるわけにはいかない。そんなの刺激が強すぎる。でも、こんなチャンス、二度とないかも。でも、……。頭の中に「でも」が充満。

「じゃ、もう少し飲んでからにするか。」

あんまり菜摘が大袈裟にしり込みするので荘介もしらけた様子。菜摘は少し後悔。強引で短気。荘介は昔からそう。でも、根本的には優しい人。

 二人でテーブルに戻り、躍っている人たちをぼんやり眺めながら、菜摘は二杯目のフィズをちびちび舐める。と、偶然ヨウコ達の上半身が赤いライトに浮かび上がり、菜摘はぎくっとした。

 濃厚なキス。はっきりと見てしまった。あわてて目をそらしたけれど、まるで自分のことのように熱くなった。

 二人がテーブルに帰ってきた時、荘介がからかった。

「ヨウコ、先輩に言いつけるぞ。」

彼も見たのだ。しかし、ヨウコはちっともひるまない。むしろ不敵な笑みを浮かべてサラリと言ってのけた。

「何よ、木戸と同じようなこと言って。」

荘介と会って、初めて木戸の名前が出た。菜摘はさり気なく荘介の顔を伺う。

「元、恋人だからな。」

ふふん、と鼻で笑った。

 そうか、そういう対応のできる関係になったのか。そういう切り返しのできる人になったのか。

 菜摘の頭はまた過去にさかのぼる。木戸とのことが噂にのぼったあの、高二の六月、それをちゃかそうとしたクラスメートに彼ははっきりと言い切った。

「オレは噂話なんて興味ない。人のことも自分のことも何も言いたくない。関係ないだろ、オレが誰とどこで何をしようと。」

 とりようによっては冷たい発言だったかもしれない。木戸をかばったのか、もしかしたら菜摘に気を遣ったともとれる。あるいは単に自分がかわいかっただけの傲慢な発言かもしれない。けれど、菜摘は、木戸とのことを言われてデレデレ鼻の下を伸ばすような荘介は見たくなかった。自分のいいように解釈して、荘介の態度を男らしく、頼もしいものに感じたのだった。

「そう言えば、木戸ちゃんってぜんっぜん変わってなかったよな。ちょっとがっかり。」

黒田が無神経に口を挟んできた。

「あいつ、おしゃれに興味ないからな。」

荘介は淡々と木戸のことを話す。

「荘介が振ったから、もう、陸上一筋なのよ。」

ヨウコまできついことを言う。

「ばーか、振ってないよ。」

「そうだっけ?」

ヨウコの意味ありげな目。詮索したいけれど、もう、振り回されたくない。木戸は自然消滅と言っていた。

 荘介とヨウコのやりとりはスルーして、黒田が菜摘にちょっかいを出す。

「それに比べて菜摘ちゃんはほんと、努力してる。いい子いい子。」

頭を撫でられて、菜摘はカーっと熱くなる。荘介に褒められた時とは明らかに違う感覚。

 努力?いい子?あんたに何が分かるって言うの?関係ないのに、あんたなんか、関係ないのに。こみ上げたのは怒りだけ。勝手に触らないで。

 これ以上自分のことや、木戸のことを黒田に評価されたくなくて、菜摘は化粧室に逃げ込んだ。

 コンパクトを覗き込んでいるとヨウコが入って来た。

「菜摘、黒ちゃん、あんまりいじめないでね。」

少し足がふらついている。彼女は結構飲んでいた。

「オレ、嫌われてる、って言ってたよ。あんたって、すぐ顔に出るからね。」

嘘がつけない。だから、昔からよく損をした。要領のいいヨウコとは正反対。

「ねえ、なつみぃ。」

ヨウコが甘えた声で擦り寄ってくる。耳元で

「これからどおすんの?」

「え?どうするって?」

聞き返す菜摘に含み笑い。

「今夜は昔の彼と…初体験?」

「ばか!この酔っ払い。」

三日月目のヨウコに、ほとんど本気でどなってしまう。

「あ、ちがった?ごっめぇん。そっかそっか、菜摘、彼がいるんだもんね。もうとっくに、か。」

違う違う、そういう意味じゃない。その発想がそもそもおかしいんだ。もう、話にならない。菜摘は心の中で叫ぶ。

「でも、せいぜい一人くらいでしょ?」

酔っ払い特有のなまったるい動きでヨウコがしつこく擦り寄ってくる。

「あたし、結構こなしてんの、ふふ、わかんないことあったらどんどん質問していいよ。」

にこっと満面の笑みを浮かべるヨウコ。怒りを通り越しておかしくなる。ヨウコ、そんなこと自慢してどうするの?菜摘はヨウコを笑いながら、一方で、少しだけ、自分の堅すぎるガードもこっけいに思えてくる。違う、ガードしてたわけじゃない。ガードしなきゃいけないような状況に陥ったことがないのだ。その方がもっと悲惨かもしれない。

 男の人とつきあったのは、久方が初めてだったし、それも四月の新入社員歓迎会で親しくなって、デートはしたものの、指一本触れられていない。だいたい久方は本社勤務だから、遠距離だし。店舗周りの時に時間を作って会いに来てくれるだけで。

 短大の頃は、田舎のお嬢様学校だったこともあって、同じような境遇の子が多く、あまり気にしたことはなかった。それが、ヨウコのような話を聞くと、寝た子を起こされるような、変な気分になる。刺激されれば反応する。

――そうよ、私はバージンよ。キスもしたことがないし、迫られたことだって一度もない。けど、だって、私はずっと荘さんが、…荘さんだけが…。

「あたしと荘介ってね、よく似てるの。」

急にまじめな顔でヨウコが言う。どうしてここで荘介の名が出るのか。菜摘には理解できない。さらにヨウコは続ける。

「同じ穴の、ムジナなの。ぎゃははは。」

さすが酔っ払い、トイレ中に反響するほどの高笑い。

「二人でね、ラブホテル行ったこともあるのよ。」

「え?」

ラブホテル?それってどういうこと?どういう意味?顔中疑問符だらけの菜摘の反応に、

「やーだぁー。なにもしてないよぉ。」

ヨウコは個室に逃げ込んだ。


一人でテーブルに帰る。頭の中に重い疑惑をかかえて。

「二人でエッチしてたのかぁ?」

口の片端をつりあげて、黒田が品のない笑みを浮かべる。菜摘は一瞥。昔から、菜摘は黒田のことがあまり好きではなかった。

 見るからに軟派で軽い、お調子者。涼しげな目元と鼻筋は、ちょっと魅力的だけど、全体の雰囲気がどうしても好きになれない。口元は特に品がない。別に顔にこだわるわけではないが、やはり人柄は顔に出る。そういった意味での「顔」は大事だと菜摘は思う。

 菜摘の頭に思わず久方の顔が浮かぶ。薄くとがりがちな唇が、少し黒田に似ていた。でも久方は、目も鼻ももやっと厚ぼったくて、黒田には劣る。ただ、細い瞳の奥に、象のような誠実さが感じられる。目は優しい。だから、黒田くんより、久方さん。比べるのもおかしいか。苦笑しながら菜摘の視線は荘介へと流れる。

「何一人でにやにやしてるの?」

「え?何でもないよ。」

まともに荘介と目が合った。端正とまではいかないが、好ましい、男っぽい顔つきをしている。目はきらきら輝いているし、厚めの唇に、まじめさがにじみ出る。高校までは、野球部でスポーツ狩りだったから、余計に男っぽさが際立っていた。今の、流行を追ったような長めの髪型にすると、何だか土臭さが抜けて、遊び人風にも見える。服装にもよるのだろうけど。

 一般的な水準は上がったかもしれない。でも菜摘には、高校の時の、あの土臭さが、とても懐かしく、まぶしく思い出されるのだった。

 ヨウコが戻って来て、有無を言わさず黒田の手を引いてまたステージへと繰り出した。黒田と並んで座っていた荘介が、菜摘の隣に戻ってきて菜摘に微笑みかける。その優しい目にすがるように、思い切って菜摘は、さっきの疑惑を解くカギをつかもうと問いかけた。

「やっぱりヨウコとはよく会ってるみたいだね。聞いたよ。」

「えー?あいつ何しゃべった?あることないことしゃべったんだろ。酔っ払うとわけわかんなくなるからな、あいつ。」

「一緒に飲んだりしてるんだ。」

「ごめんだよ、酔っ払いの介抱は。今日だって、黒田と一緒だから誘ったんだ。」

「ラブホテル、行ったり……。」

意外とすんなり言えた。お酒が回ってきたかな。もう、三杯目。急に黙る荘介を前にして、結構積極的な自分の発言に、菜摘はかえって当惑する。私、ヨウコに乗せられて、荘さんに、なんてこと聞いたりしてるの。

 しかし、しかし荘介は、なんと頭を掻いた。そして、すんなり事実を認めた。開き直って、聞いてもないことの弁解までした。

「ったく、すぐしゃべっちまうんだから。けど、一度っきりだよ。やったのは。お互いあっさりしてるから、かえって自然につきあえるんだ。あ、黒田には。」

人差し指を口にあてて、「しー」というポーズ。

 もう、ショックと言うよりあきれた。おまけに荘介は、追い討ちをかけるように、菜摘にはとうてい理解できないようなことを言い始める。

「さっき、男と女の友情って言ってただろ。オレとヨウコは本当に友情。何のこだわりもなくつきあえる異性だよ、ヨウコは。何もかもさらけ出して異性を意識しない。きっと一度ああいうことがあったから、そうなれたんだと思う。」

 一人で納得している。菜摘の心にメラメラと、激しい思いが込み上げてくる。

 それじゃあ、さっきの、二人が来る前の、あの質問は何だったの?問題は、私と荘さんだったでしょ。ヨウコと荘さんじゃなくて、菜摘と荘さんの関係について、話してたんじゃなかったの?

 涙が出そうになる。お酒のせいだ。だいたいあんまり強い方じゃない。もう、これ以上は飲めない。頭がぼーっとする。ここから先はまだ飲んだことがない。飲んで、何もかも忘れて、荘さんと……。試してみたい気もする。ヨウコのように、気軽に、奔放になれるなら……。だけど、あんな千鳥足なんかになりたくない。やっぱり……私には無理。

 ずっとずっと、十数年間好きだった人と、初めてデートできた日だもの、それだけで満足。それだけでHAPPY。そう自分に言い聞かせながら、やっぱり涙ぐむ。完全に酔ったみたい。うまく頭が物事を判断できなくなってきた。

 帰ろう!時計を見る。十時半。私の長くて短かった一日。HAPPYでUNHAPPYだった一日。十一時の門限めざして、さあ、帰ろう。待っている人は誰もいないけれど。

菜摘はすっくと立ちあがる。

「そろそろ、あたし、帰るから。」

「え?まだいいじゃん。」

言いながら、菜摘の目を覗き込んで荘介は声を上げる。

「あれー?菜摘、泣いてんの?」

こんなにデリカシーがない人だったかな、私の荘さんは、ぶっきらぼうだけど、思いやりがあって…優しい人のはずだった。

「泣いてないよ。これ、」

一万円札を差し出すと、

「バーカ、おごるよ、当然だろ。」

ヨウコも来て、しきりに止めるけれど、振り切ってドアに向かう。

荘介が着いてくる。

「二人でトンズラするかぁ?」

なんて言ってにこっと子供みたいに笑う。その笑顔はやっぱり愛しくて、指先でこぼれる涙を拭う。何?私、この人の顔が好きだっただけ?もうわかんないよ。

 ヨウコの「今夜は昔の彼に……」のセンテンスが思わずよぎる。

 何をバカな。でも、悪くないかも。何をバカな。でも、本望かも。何をバカな。

「門限が十一時なの。」

意外にも、口の方がしっかりしていた。けれど、心はまだ、揺れていた。ゆらゆら揺れて、強引に手を引かれたら、どこへでも崩れ落ちそう。試してみようか、男と女の友情とやらを。

 しかし、きっぱりと断言したせいか、初めからそんなつもりがなかったのか、荘介は、あっさりと真に受けて、

「じゃあ、大通りまで送るよ。」

そう言って、すっと菜摘の手を取った。


 手をつないで二人で歩く。ずっと、憧れていた。

 望んだもの。荘さんと、手をつないでデート。ファーストキスは、三度目に。ペアのセーター。自転車二人乗り。友達のウワサ。正真正銘、両想いのウワサ。全て、木戸に奪われた夢。壊れた夢のVTR。

 これは夢。私が望んで叶わなかった夢。今、神様が実現させてくれる。

 大通り、お盆だからか、なかなかタクシーが捕まらない。街灯は、こうこうと照っているけれど、通りはひっそりと静まりかえっている。こんなぐちゃぐちゃな気持でも、月も、星も、きれい。

「菜摘?」

背の高い荘介がゆっくりと菜摘を見降ろす。

「キスしていい?」

甘く、優しい荘さんの声。夢、夢、夢。はかない夢。明日になったら醒めてしまう。だけど、思い出は心に残る。タイムスリップ。オーバーラップ。今は何も考えない。

 月も、星も、きれい。街灯もきれい。光に群がる虫達も、カワイく見えてくる。だから、

「いいよ。」

と言った。



 酔った勢いなんかじゃない。歩いたせいで、酔いはすっかり醒めた。涙だって、もう出ない。だから、荘さんも、そうであってほしい。

 ファーストキスを、十数年間思いつめて、一時は死にたいとさえ思った人に捧げたの。二十歳になってやっと実現した。けれど、明日には消えてしまう夢。そんなこと、わかってる。

 菜摘は自分に言い聞かせる。考えてみて。今日のあの人を、私は好きだっただろうか。

 もちろん、好きな気持ちは変わらない。それは、思い知らされた。だけど、違う。私が好きなのは今のあの人じゃない。

 悲しいけれど、今のあの人に、私はあまり魅力を感じていない。追いかけて、追い求めているのは、過去のあの人の面影だけ。

 だけど、あの時、死ぬほどあの人を好きだったのは事実だし、その事実は変わらない。あの頃のあの人は、今の私にとっても、永遠の男性。

 「また会いたいな」と言ってくれた。けれど、もう二度と、「私の荘さん」には会えない。私の十数年間のしつこいしつこい初恋が、今、ようやく終ったような気がした。



 もう、過去は、未来へは続かない。あえて、思い出の続きを作る必要などない。平行線だった二人の関係が、一度きりのちっぽけな接点を経て、今、外に向かって開いていく。よかった。これでよかった。


 柔らかいんだね、唇。菜摘はタクシーの中で、再び溢れ出す涙をそっと拭った。悲しみの涙なんかじゃない。嬉しいわけでもない。固まっていた感情が緩んだだけ。




 あれから、半年。激しいときめきはないけれど、菜摘と久方との関係は続いている。相変わらず好きになれない唇だけど、クリスマスの夜に、ロストバージンも果たしたし、菜摘はそれなりに大人になった。 菜摘の中で、静かにほどけた荘介への思いは、過去への思いも変えていった。死にたくなるほど泣ける夜があったのは、もしかして幸せだったのかもしれないと。

 

 



約30年前に書いた私の処女作です。公開にあたって、現代にマッチするように少し手直ししました。


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