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ゆかり

作者: まなつ

「着物とかメッチャ憧れるんだけどぉ!」

今どきの若者らしい言葉遣いで畳の部屋に何着も飾られた色とりどりも着物を指さしながら今井由真は目を輝かせた。足音にすら気を使うような落ち着き払った静寂の中に響く由真のその声に、その場にいた大人達は一斉に由真達の方に目をやる。

「由真! そんな大声出さないでよ、恥ずかしい。」

由真の隣で由香は囁くように、しかししっかりと怒りをあらわにした声で場違いなほどの大声を上げる由真をたしなめた。内心、なんでよりによって由真を誘ってしまったのかとひどく後悔していた。

京都の山のふもとにある会館で不定期に行われている着物のお披露目会は、若い人達にも着物に慣れ親しんでもらおうという趣旨で六年前から行われているものの行楽シーズンを過ぎたこの時期、着物目当てに会館を訪れる人は少なかった。

「いらっしゃい。こんな若い人達に来てもらえるなんて、嬉しい限りだわ。」

由真の大声に部屋の奥からやってきた着物姿のご婦人はニコリと笑って由真たちを招き入れてくれた。部屋に飾られた着物を一通り紹介してくれたそのご婦人は二十畳近くはある部屋の一角で足を止めた。四畳ほどのスペースが板で仕切られ、中には何着かの着物と大きな姿見が置かれていた。

「お着物で街を散策する事も出来ますよ。いかがですか?」

ご婦人のその言葉に由真と由香は顔を見合わせた。もともと着物に興味があるわけではない由真だが、隣で遠慮しがちに自分の反応をうかがっている親友のためにもここは二人で着物を着て街に繰り出そうと、二つ返事で着付けをお願いする事にした。

そんな二人にご婦人は上品に笑うと、二人を試着室の中に招き入れた。

「それじゃぁ、この中から気に入ったものを選んでちょうだいな。」

試着室の中には、着物が四着、袴が三本、草履や小物が所狭しと並んでいた。着物はどれも綺麗だけれど、これでは少し息苦しい。

「これだけしかないの? 外には綺麗な着物がたくさんあるのに。」

そう言って、吊るされている着物を手に取りながら由真は不満そうに言った。そんな由真の失礼な態度にも笑顔を崩さないご婦人は申し訳なさそうに言った。

「そうね……。外にもレンタル用のお着物はいくつかあるけれど、少しお高いわよ? それでも構わないのなら持って来ましょうか?」

その言葉にそれまで大人しかった由香の耳がピクリと動いた。

「それって、あの奥にある振り袖もですか!?」

いきなりの事にご婦人も目を丸くした。戸惑いながらも頷く。

「ええ。少し値は張るけれどレンタルできるわ。そうね……着付けもヘアセットも、すべて合わせて十万円かしらね。」

「じゅ!!」

その金額に由真も由香も驚きの声が漏れた。自分達とはあまりにも世界が違いすぎると耳打ちし合う二人にご婦人はクスリと笑い、ある提案をした。

「じゃあ、記念撮影だけしたらどうかしら?」

「記念撮影?」

「あなたなら髪を流すだけでもお着物に映えると思うわ。お金はいただかないから安心して?」

「良いんですか?」

由香は目を輝かせた。そして何故か由真も目を輝かせていた。『タダ』という言葉にはめっぽう弱い。

そんな二人にご婦人は再び微笑むと、二人を試着室に残して、その場を離れた。


「あなたはどのお着物にする?」

由香の着替えを待ちながらスマホをいじり始めた由真にご婦人は声をかけた。

「せっかくだがらあなたもどれかに袖を通して見たら?」

そう言われて由真は部屋中に並べられた着物達に視線を移す。まったく着物に興味がない由真。どれも綺麗だとは思うが、別に期待とは思わない。この短時間の間に由真の興味は確実に薄れていた。断ろうとした時、試着室のカーテンが開いて、中から薄いピンクにバラや蝶の刺しゅうのはいった振り袖を着た由香が現れた。それは今までの由香とはまるで別人のようで、由真は由香のあまりの変わりように言葉が出なかった。そして由真の中の何かがカチッと音を立てた。

「着ます……。」

「え?」

「私、着物 着ます!!」


「まあ、お二人ともとってもお似合いよ。」

結局、由香はあのピンクの振り袖を、由真は一番近くにあった白地に牡丹の刺しゅうが入った着物を着て記念撮影をする事になった。

「それじゃあ、セットに移動して記念撮影を始めましょうか。」そう言ってご婦人を先頭に部屋を移動する二人だったが、優雅に歩く由香に比べ、今にも転んでしまいそうな足取りの由真に後ろからついてきた着付け師の女性がそっと囁いた。

「両足の親指をすり合わせるように内股で歩くと楽ですよ。」

人生で初めて着物を着たのだからしょうがない。自分達のスマホを職員に預けて写真を撮ってもらおうとするのだが、自然な笑顔の由香に比べて由真はいっこうに顔のこわばりがとれなかった。何度目かのシャッター音の後、「もー、無理だ!」という言葉を残して由真はその場に屈みこんだ。

「ゆ、由真!?」

「あらら、疲れてしまったのね。少し休憩しましょうか。……西岡さん、少し彼女の帯を緩めてあげて下さい。」

ご婦人はそう言って着付け師の女性にお願いすると、女性は由香の隣でうなだれる由真に歩み寄った。

「あなたは大丈夫?」

「はい、平気です。ありがとうございます。」

着物を着ると、体が楽だ。由香の母親は普段から着物を着ることも多く、由香自身も幼い頃から着物を着る機会は周りの大人たちよりももしかしたら多かったかもしれない。以前から着たいと思っていたこのお披露目会に来れた事は嬉しかったが。自分のわがままのせいで由真に無理をさせてしまったと、隣で着付け師の女性にされるがままになった親友を見つめながら申し訳なく思った。

その時、ふと、異変に気がついた。

「……由真?」

その異変に一番最初に気付いたのは由香で、遅れること数秒のちに着付け師の女性がご婦人を振り返った。

「どうしたの?」

「分かりません。彼女の様子が……。」

そして、肩をゆすりながら女性は由真の名を数度呼んだ。するとうなだれた首をゆっくりと持ち上げ、まるでここが初めて訪れた場所であるかのように辺りを物珍しそうに見渡した。

「由真、大丈夫?」

由香の問いに由真はスクッと立ち上がった。今までのぎこちない動きが嘘のように、それは長年着物に慣れ親しんだ人の動きだった。

「ここは、どちらに御座いますか?」

その一言に現場は凍りついた。

まるで別人のように柔らかな表情で、由香の着物姿を見つめる由真。

「とてもお美しいお着物をお召しなのですね。もしかして、ここは宴の席なのかしら。」まるで時代劇のように着物の袖口で口元を覆いながら微笑んだ由真は周りの様子に気づき驚いたように言った。

「あら、いやだわ。私ったら…。」

そして、その場に正座をして深々と頭を下げた。

「私の名は“ゆかり”で御座います。江戸の下町で商売人の妻をしておりますゆえ、不作法がありましたらお許しください。」

由真の姿をしたゆかりと名乗る女性に、ご婦人も微笑むと畳に手をついた。

「とんでも御座いません。どうぞごゆっくりおくつろぎ下さいませ。」

それにつられて由香達も畳に手をついて頭を下げた。一応は流れでそうしたものの由香の頭の中は混乱していた。由真とは中学校からの付き合いだが、冗談でもこんな芸当ができるような人間であっただろうかと、疑問に思う。

「ところでゆかり様、どうしてまたこのような所においでになったので御座いましょうか?」

ご婦人のその言葉にゆかりは思い出したように目を丸くした。

「そうだったわ! 今日は何日ですか!?」

「一月の二十日、ですけど……。」

いきなりの質問に動揺も収まらないままに答えた由香に礼を言うとゆかりはそのまま部屋を飛び出したのだ。

「ちょ、ちょっと!」

後を追おうとするが、頭に十万円という金額がちらついた。慌てて立ち止る由香はどうしたものかと辺りを見渡した。意を決し、帯に手をかける由香にご婦人と着付け師の女性が立ち上がった。

「彼女は私達が追うから、あなたは戻って着替えていらっしゃい!」

部屋を飛び出したところで、ご婦人たちはゆかりを追い、一階に下りる階段の方へ、そして由香はお披露目会場のある方へと駆けだした。


「ここは何処なのでしょう……。」

当てもなく館内を歩き続けたゆかりはいつの間にか一階のロビーへと辿り着いた。辺りをキョロキョロと見渡すゆかりを気にかけた職員が歩み寄る。

「どうかされましたか?」

気の良さそうな若い男性職員は着物姿のゆかりに少し緊張した面持ちで声をかけた。

「今日は寄り合いで主人が遅く帰ってくるので、久しぶりにごちそうを作ってお迎えしようと思っていたのですが、買い物に行く途中にこちらへ迷い込んでしまったらしく……、助けていただけませんか?」

職員の手を取り潤んだ瞳で懇願するゆかりに職員はしどろもどろになりながらも、ここの住所を口にした。

「ここは観光地ですからね……。スーパーなら車で少し行った所にありますよ。まさか歩いて行かれるんですか?」

「もちろんです。道順を教えていただけますか?」

そう言ってゆかりは懐から紙とペンを取り出し、地図を書いてくれるように頼んだ。職員に描いてもらった地図を頼りに会館を後にしたゆかりだったが、外に出た瞬間に言葉を失った。

「私ったらいつの間に無意識に海を渡れるようになったのかしら……。」

洋服を着た人々、見た事ない景色、そこはまるでゆかりにとって外国にいるも当然の光景だった。それでも言葉が通じるという事実はゆかりに少しばかりの安心を与えていた。地図を片手に歩きだしたゆかりを物珍しそうに見る通行人たちを気にする様子もなく、ゆかりは木枯らしの吹く通りを歩き続けた。しばらくすると、ゆかりの前方から制服姿の女子高生の二人組がやってきた。

「すいません。写真撮ってもらってもいいですか?」

ブレザーのポケットからスマホを取り出した女子高生たちは、戸惑うゆかりの返事も待たず、ゆかりを真ん中にポーズを決める。それにならってゆかりも見た事ないきらびやかな四角い板に微笑みかけた。

「ありがとうございます。」

そう言って去って言った女子高生たちの後姿を眺めながら、いったい今のは何だったのかと首を傾げた。

「せわしない子達だわ。」

初めて目にする車や建物に興奮と少しの恐怖を感じながら、ゆかりは地図を頼りに道を進んで行く。しばらくすると住宅街に出た。

「ずっと思っていたけれど、本当にここは日本なのでしょうか……。」

自分の住んでいる長屋とは全く違う作りの家々が立ち並ぶ光景に、ゆかりは思わず立ち止まり息を飲んだ。すると不意に着物のたもとを誰かに引っ張られた。

「ねぇねぇ、お姉ちゃん。」

振り返るとそこにはまだ七つくらいの女の子が目を爛々と輝かせて立っていた。ゆかりは少女と目線を合わせるように屈みこむと、ニコリと笑って「どうしたの?」と尋ねた。

「きれいな服だね。お姉ちゃん、どこから来たの??」

「私、実は迷子なのです。江戸はどちらでしょうか?」

少女は首を傾げた。

「ここは京都だよ。東京はずっと向こう。お姉ちゃん、もしかしてタイムスリップしてきたの?」

その無邪気な問いにキョトンとした表情を浮かべるゆかりの手を取り、少女は自分の家に招き入れた。

「ママ! 江戸からタイムスリップしてきたお姉ちゃん連れて来たよ。」

玄関が開くと同時にそんな事を叫ぶ娘に、少女の母親は前掛けで手を拭きながら怪訝そうな顔つきで顔を現した。娘に手を引かれた着物姿のゆかりに戸惑いながらも会釈をする。そしてそのみやびな雰囲気に、なるほど娘がタイムスリップなどと口にする気持ちも分からなくないと思ったのだ。

「娘のお知り合いの方でしょうか……?」

ゆかりは慌てて首を振る。

「お姉ちゃんね、迷子なんだって。」

「まぁ、そうでしたか。このあたりは道が入り組んでいますからね。それで、どちらへ行かれるのですか?」

少女の母親は前掛けを外し、サンダル姿で玄関を下りてきてくれた。

「だから! お姉ちゃんはタイムスリップしちゃったんだよ!!」

自分の話など聞いていない母親に少女は頬をふくらました。

「黙ってなさい、恵美子。……それで、どちらへ?」

「いったん家へ帰ろうかと思いまして。」

ためらいがちにそう言ったゆかりは、自分が江戸にある我が家へ帰りたいのだと話した。すると少女の母親は、娘の冗談に付き合う必要はないのだと言って笑った。

「いえ、冗談ではありません。私の夫は江戸で商いをしております。もともと私は京の都の出身で御座いますが、今は江戸住まいにございます。」

「はぁ……。」

どうにも解せない話に少女の母親は困惑した。しかし、それ以上にこんな若い子が古めかしい言葉を使い、しかも結婚しているなんて冗談としか思えなかったのである。

「ちなみに、おいくつなの?」

少女の母親は恐る恐る尋ねた。

「今年で、二十三になります。」

「とても、二十三には見えないけれど……。」

まだ十代、高校生ほどに見えるゆかりの姿に少女の母親はますます表情を曇らせた。中身はゆかりでも、姿かたちは高校二年生の由真のままなのだから、そう思うのも無理はない。

その時、家の外から聞いた事のある様な声が聞こえてきて、ゆかりは振り返った。誰かを必死に呼んでいるその声に、ゆかりは思わず家の外へと姿を現した。

「由真!」

ゆかりに地図を書いて渡した職員に話を聞いた由香が、汗だくになりながらその道のりを走って来たのだった。由真の姿を見つけた由香は、ゆかりと手をつなぐ少女と、その奥の母親と思われる女性に、謝罪を口にしながら家の敷地内へと足を踏み入れた。

「この子私の友人なんです。ホント、ご迷惑をおかけしました。」

由真の姿をしたゆかりの手を引き、慌ててその場を立ち去ろうとする由香に少女は再び目を輝かせた。

「じゃぁ、お姉ちゃんもタイムスリップしてきたの!?」

「え?」

「こら! 恵美子、いい加減にしなさい。」

「タイムスリップ……?」

その言葉に、驚いたように目を丸くした由香は、まるっきり状況が理解できていないというように柔らかい笑みを浮かべるゆかりに目をやった。

「この前、テレビでやってたもん。お姉ちゃんみたいにタイムスリップしてくる人の事!」

「もう、恵美子。それはドラマのお話でしょ?」

「えー。でも、お姉ちゃん、その時の人と同じ服着てるよ?」

「着物を着ている人がみんなタイムスリップして来た人とは限らないでしょ? ほら、田舎のおばあちゃんだって着物着てるじゃない。」

母親の言葉にシュンとするする少女。

しかし、由香の耳にそんな親子の会話など入って来ない。『タイムスリップ』という言葉が頭の中で反芻して、吐き気がする。そんな事ありえるはずがないという疑念と、だとしたら本物の由真はどこにいるのかという恐怖が由香の体を震わせた。

「でも、お知り合いの方が迎えに来てくれてよかったわ。」

帰り際、少女は悲しそうにいつまでも手を振っていた。自分の隣でそんな少女ににこやかに手を振る由真の姿に由香は浮かない顔だった。

「ゆか…りさん?」

なんともぎこちない由香の言葉にゆかりは首を傾げた。

「何でしょうか。」

「たぶん、ここはあなたの暮らしていたころよりも、もっと先の世界だと思うの。さっきの子が言ってたでしょ? あなたはきっとタイムスリップで江戸からここにやって来たのよ。さっき佳代子さんて言う着物会の会長さんに聞いたんだけど、その着物は、昔、あなたが来ていた着物で、着物に宿ったあなたの意思が、今のゆかりさんを作ってるんじゃないかって……。」

由香は言い難そうに言った。自分でも、こんな夢物語じみた事を口にする日がやってくるなんて、それこそ夢にも思わなかった。

話を静かに聞いていたゆかりはゆっくりと口を開く。

「それは違いますよ……。」

「え?」

「その佳代子さんのおっしゃった事が本当なら、今の私はこの世には存在しないのです。つまりそれは――――。」

「……っ!」

由香は言葉に詰まった。

「実態を持たない。ただの着物に宿った『意志』。あなたの大切なご友人の姿を借りたただの霊……。」

「それはそう、かもしれないけど……。」

由香は俯いた。冬の冷たい北風が二人の間に吹き抜ける。

「それでも、ついさっきのように思い出すのです。愛しい夫のためにと買い物に出かけた時の事を。その夫ももうこの世にはいないのですね。」

「ごめんなさい。」

「なぜ、あなたが謝るのですか?」

「……。」

由香は黙り込んだ。会館へと歩く足取りは重い。

「あなたのご友人はどうやったらこの身体に戻れるのでしょうね。」

川沿いの遊歩道を歩く自分の足元を見つめ、ゆかりは静かに呟いた。小さく華奢な肩が恐怖に震えていた。

「この着物を脱げば戻るやもしれませんね。」

その言葉に由香は顔をはね上げた。ゆかりの言葉があまりにも悲しげで、かける言葉が見つからなかった。

二人が会館に着いたころには会場は綺麗に片づけられていて、戻ってきた二人を佳代子が出迎えた。

「寒かったでしょう? 一階でお茶でもいかがかしら?」

「頂きます。でも、その前に着替えてもよろしいでしょうか? 借りているお着物を汚してはいけませんし。」

「もともとは、あなたのお着物でしょ?」

「今は、違いますので。」

ゆかりはそう言うと何事もなかったように、着替えるためにその場を離れようとする。そんなゆかりを由香は思わず呼びとめた。それでも、次の言葉が見つからず、口ごもる由香にゆかりは一言「ありがとうございます。」と小さく礼を言った。

由香がゆかりを見たのはそれが最後だった。ゆかりが部屋に入った後、一足先に一階の食堂に向かった由香と佳代子は、二十分以上経っても現れないゆかりを心配して、再び二階のゆかりが着替えているはずの部屋まで様子を見に行ったのだが、そこにゆかりの姿は見当たらず、着物だけが乱雑に脱ぎ捨てられていた。もともとの由真の洋服もなくなっていたため、ゆかりはそれを着て部屋を出て行ったはずだ。

「ホントにどこ行ったんだろ、ゆかりさん。」

快感を隅々まで捜したが、ゆかりの姿はない。もしかしたら外に出て行ったのかもしれないと一階のロビーに降りてきた由香と佳代子の慌てた様子に、ロビーにいた一人の若い男性職員が歩み寄って来た。それは昼間、ゆかりにスーパーまでの道順を教えた職員だった。

「あの人、ゆかりさんって言うんですか?」

会館を走り回り、肩で息をするゆかりに変わり、佳代子が不思議そうにその男性職員に尋ねた。

「知っているんですか?」

「はい。昼間、スーパーへの道を尋ねられて……。ついさっきも、今度は洋服で会館を出て行かれましたけど。」

「その時、何か気付かなかった!?」

噛みつくような勢いの由香に若い男性職員はたじたじになりながら聞き返した。

「な、なにかって……?」

「例えば、最初会ったときとは雰囲気が違ってた、とか。」

「そりゃ、着物の時と洋服の時じゃ雰囲気はまるっきり違ってたけど。さっき会館を出て行った時は、小走りで後ろを振り向きながら、やけに急いでるみたいだったよ。」

「逃げてた……。」不意にそんな言葉が由香の脳裏によぎった。

「ゆかりさんが? いったい何から……。」

二人の間に沈黙が流れる。その空気に若い男性職員は怪訝な表情を浮かべてその場を立ち去った。すると佳代子が何かを思いついたようにハッと表情を変えた。

「もしかして、身体を由真さんに返すのが嫌になって逃げ出したのでは。」

その言葉に由香は首を振った。

あの時、愛する人がこの世にはいないと、ゆかりは悲しげに呟いた。着物を脱げば由真に身体を返すことができるかもしれないと最初に言ったのもゆかりだった。その表情からはゆかりの優しさが伝わってきた。

「もしかしたら、もう由真に戻ってるのかも。」

「だとしたら、逃げる必要はないでしょう?」

「ゆかりさんが言ってた、着物を脱げば戻るかも知れないって。なのに戻らなかった……。だから慌ててもう一つの可能性がある場所に行った。」

「可能性って?」

「お墓、とか?」


「こう言っては申し訳ないのですが、少し安易すぎたのではないですか?」

あの着物が見つかった『勘掠寺』という寺に向かう途中、佳代子が少し不満そうに言った。勘掠寺に向かうと決まってからここまで佳代子は終始機嫌が悪かった。

寺から少し離れた駐車場に車を止めて、歩き出した二人の前方から一人の坊主が駆けてきた。

「佳代子様、おかえりなさいませ。八年ぶりでございますね。」

坊主は満面の笑みで、佳代子の持っていたカバンにさっと手を差し出すと、佳代子の荷物を持ち、佳代子の隣を歩き始めた。

「お客様は?」

佳代子を挟んで、由香の顔を覗くように尋ねる坊主に佳代子は静かに咳払いをした。

「昨年、蔵で見つかった着物のことで知りたいのです。お父様はどちらに?」

「着物……、あのいわくつきの気味の悪い着物でございますか?」

「いわく?」

聞き返した由香に坊主は、再び佳代子の体の影からひょこりと顔を出して答えた。

「ええ。何でも、着た者は悪霊に取りつかれてしまうとか……。」

「悪霊……。」

ゆかりの姿を思い浮かべてみるが、悪霊という言葉がどうも似つかわしくない。由香の腑に落ちないといった表情に、さらに口を開こうとする坊主に佳代子も再び咳払いをした。今度は少し、眉間にしわも寄っている。

「住職は離れにおります。」

「離れに?」

苦笑いを浮かべる坊主に佳代子は聞き返した。

「はい。」

「ああ、確かお父様はあそこの掛け軸がお好きだったわね。」

どうやら佳代子はここの住職である自分の父親が好きではないようだ。だからここに来るのを渋っていたのだと由香は理解した。

離れは母屋の南側にあって、駐車場からも多少の距離があった。雑木林を抜けた先に小さな建物があった。離れに近づくと何やら話し声が聞こえる。住職の声とは別に聞こえる落ち着いた若い女性の声は、もしかしてゆかりではないかと顔を見合わせた二人は急いで離れの木戸に手をかけた。その時、隙間から漏れ聞こえる会話に二人は驚きのあまりその場に立ちつくした。

「泣いてる……?」

中から聞こえるすすり泣く声。住職に助けを求めるゆかり――いや、由真の姿は由香が今まで見た事もないほどに弱々しかった。

「頭の中が混乱して……、自分が分からないの。気がついたら部屋で一人、着物を手に泣いてたの。それでいてもたってもいられなくなって……。私、ここに来た事ないのに――――!」

静かに由真の話を聞いていた住職は、部屋の外の由香達に気付いたようで、「お迎えのようです」と口にするとスッと立ち上がり木戸を開けた。

驚いたように振り向く由真は涙で腫らした目を大きく見開いた。

「由真、ごめんなさい。私があんな所に誘ったから。」

「私、変なんだ……。」

「うん。たぶんゆかりさんが由真の中にいるんだと思う。」

「ゆかりさん?」

そして由香は、由真の身体にゆかりさんが乗り移ってからの事を包み隠さず由真に話した。その話を神妙な表情で聞く由真の傍らに立っていた住職は娘である佳代子の顔を睨んだ。佳代子は面倒くさそうに肩をすくめ、父親を睨み返す。

話し終えた由香に佳代子は歩み寄り、言った。

「由真さん、心配しないで。今は少し心が混乱しているだけ。心の中に少しだけ、ゆかりさんが残っているだけなのよ。じきに元に戻るわ。」

「でも、私の心は私のものよ?」

「もちろんそうよ。でも、少しの間、心の片隅をゆかりさんに貸してはあげられないかしら?」


その言葉から数日後、由真は自宅のマンションのベランダから飛び降りて、自殺を図った。幸い、庭の草木がクッションとなり、一命は取り留めたが、意識はまだ回復していない。

心電図と点滴に繋がれたベッドの上で、今もうわごとのように呟いているそうだ。


今ゆきます――――・・・


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