忘れていた事は結構重要な事でした
「ううん」
ローレンが目を覚ますと、寮で同室の友人達がローレンを見下ろしていた。
17歳の、溌剌として明るい友人達。
彼女達はローレンが目を向けると、パッと笑顔になった。
「よかった、目が覚めた!」
「馬鹿ねえ、あのぐらい避けなさいよ!」
「カーリー! それは無理よ。ローレンが後ろを向いている時に玉が飛んで来たんだから」
彼女達の言葉に何があったのか思い出す。
授業でテニスをしている時に頭に何か当たったのだ。
医務室にいるという事は気を失ったのだと思われる。
右後頭部がズキズキと痛い。
「ローレン、あなたに玉をぶつけたのはケイティーよ」
黒髪でキツイ美人のカーリーは声を潜めて話し出す。
ケイティーはローレン達と仲の良くないグループの一人だ。
「絶対わざとよ。今度の授業で仕返ししてあげましょうよ」
そこに、そばかすが悩みの赤毛のアナが入ってくる。
「同じ事をしても意味がないわよ。
もっと派手であいつが悔しがるような事をしましょうよ」
「そうね、じゃあ、毛虫付きの玉を投げつけるのはどう?」
栗色の髪の一見大人しそうなジェナはえげつない事を提案する。
その玉がケイティーに当たったところを想像して、ローレンは顔を顰めた。
それは他の二人も一緒のようで、
「げえー、何て事を考えるのよ、ジェナ」
「そうよー。それにその毛虫付きの玉を誰が投げるのよ。
あたしは嫌よ」
「握った時に自分で潰しちゃうわ」
「ぎゃー、いや! 言わないでよ!」
きゃははは、とかしましく笑う友人達。
いつもの光景にローレンも笑っていると、医務室の先生がやって来た。
「あなた達! ここは医務室ですよ! 騒ぐんじゃありません!」
落ちた雷にカーリー達はびくりと体と竦ませる。
「それにローレンさんが気が付いたなら、すぐに私に知らせなければなりませんよ。
頭を打っているのですからね!」
「「「はーい、すみませんでした」」」
カーリー達はしぶしぶ返事をし、先生に場所を譲る。
「ローレンさん。具合はどう? 吐き気はある?」
「いえ、吐き気はないです。頭がズキズキと痛むけれど、それ以外は別に」
「そう、それならよかったわ。しばらくここで休んでなさい。
寮に戻っても安静にしている事、いいわね」
「はい、先生」
先生はひとつ頷くと、後ろにいる友人達の方を向く。
「あなた達はもう戻りなさい。
あなた達がいるとローレンさんが休めないわ」
「えー、先生、ひどい」
「ひどいのはあなた達の笑い声よ。全く煩いのだから。
淑女は程遠いわね。
そもそもあなた達、この学園に在籍している事に誇りと責任を持ちなさい。
この学園は由緒ある・・」
先生のお説教が始まったところで三人は脱兎のごとく逃げ出した。
「先生、ローレンをよろしくお願いします」
「放課後、迎えに来るから」
「後で作戦を練ろうね」
三人は足早に医務室を後にする。
医務室に先生の溜め息が落ちた。
「全くあの子達は落ち着きがないんだから。
仲がいいのはいいけれど、揃うと本当に煩いんだから。
ローレンさんも、一緒になって騒ぐのは程々になさい。
お嫁の貰い手がなくなりますよ」
矛先が自分に向いたのを感じて、ローレンは布団を頭まで被る。
「はーい、気を付けます」
「全く、あなた達と来たら・・」
先生の重い溜め息が医務室に落ちた。
ケイティーへの仕返しは上手くいった。
顔を真っ赤にして怒るケイティーを物陰から覗き見て、ローレン達四人は大爆笑したのだった。
何をしたのかは言えない。
お食事中の方もいらっしゃるかもしれないから。
授業を受け、放課後は近くのカフェでお茶をして、夜は寮の部屋で色々な話をして笑い転げる。
残念ながら四人とも男子とは縁がないが、年頃の四人だ。
たまにはクラスの男子や上級生で格好いい人の話にもなる。
しかし今は男子といるより、四人で笑いあっている事が何よりも楽しい。
そんなある日、ローレンに一通の手紙が来た。
差出人はアーネスト。
ローレンは首を傾げた。
アーネストという名前に心当たりがない。
内容は、最近便りがなくて寂しい。
どんな内容でもいいから便りが欲しい。
それと会いたい、というものだった。
読み返してみても、内容に心当たりがないし、アーネストと言う人も知らない。
首を傾げていると、カーリーがローレンの顔を覗き込んだ。
「どうしたの?」
「よく分からない手紙が来たの」
「どれ?」
カーリーに手紙を渡すと、それを読んだカーリーは口を尖らせた。
「何よ、 いつもの手紙じゃない。
『君に逢いたくて堪らない。今度の休暇が待ち遠しい』ですって。
ちょっとローレン、惚気ないでよ。
この幸せ者、裏切り者」
カーリーはグイグイとローレンの焦げ茶色の髪を引っ張る。
結構痛い。
「ねえ、アナ、ジェナ。
見てよ、この手紙。
情熱的よ、愛されてるって感じ」
「きゃー、『君のアーネストより。抱え切れないほどの愛を込めて』ですって。
素敵ねえ。一度会ってみたいわ。
香り付きの手紙といい、素敵な言い回しといい、洗練されたいい男なんでしょうね」
「ローレンったら、いつも手紙を見せてくれないくせにどういう風の吹き回しよ。
ようやく私達に紹介してくれる気になったの?」
三人の言っている意味が分からず首を傾げる。
「えーっと?」
「何をぼうっとしているのよ、あなたのいい人はどんな人なの?」
三人とも興味津々という顔だが、ローレンには返せる言葉がなかった。
「どうと言われても・・」
「いい男? 格好いい?」
「えーっと、そう、ね」
「前に花束が贈られてきた事があったわよね! お金持ち?」
「お金は、まあ」
「優しくて、誠実な人かしら?」
「・・多分」
ローレンはすべての問いに曖昧に答える。
その間にも頭の隅々をひっくり返すつもりでアーネストという人物を思い出そうとしたのだが。
いつも手紙を貰っている?
前に花束を貰った?
そんな記憶はない。
うんうん言いながら考え込むローレン。
三人はローレンが恥ずかしがっているとでも思ったのか、囃し立てる。
その内に三人はローレンを放ったらかして、手紙を何度も読み、アーネストはこんな人だ、いやこんな人だと言い合って盛り上がる。
情熱的な恋文にすっかり興奮してしまった三人は消灯後も話が尽きず、見回りに来た先生に怒られてやっと口を閉じた。
だから、聞きそびれてしまった。
アーネストって、誰だっけ? と。
一週間後、またアーネストから手紙が来た。
内容は体調を心配している事と、少しでもいいから会えないかというお伺い。
返事をくれと書いてあったが、手紙には宛先もないし返しようがない。
ローレンは手紙をさっと読んだ後、机にしまった。
そのまた一週間後、今度は手紙と小包が届いた。
手紙の方はアーネストではなく、また知らない人だ。
今度の差出人はジェレミー。
封筒の宛名はローレン宛だったけれど、中を見てみれば、『愛する妹、フローレンスへ』となっていた。
内容は体調を気遣うもの、父も母も自分も妹も元気である事、庭の木に花が咲いた、乳母の娘に子供が産まれたなど他愛もないものだ。
ローレンは首を傾げる。
自分には兄も妹もいない。
手紙を入れ間違えたのだろうか?
けれど、なんだろう。何かが引っかかっている。
思い出せそうで思い出せない。
その内に頭が痛くなってきた。
ジェレミーの手紙の事は後まわしにして、小包を見る。
差出人はまたアーネスト。
小包を開けると、手のひら程の箱と手紙。
箱の中には、白い花を模した髪飾りが入っていた。
手紙には、
『家への帰り道、ふと目に止まって購入した。
これなら学園でもつけていられるのではないだろうか。
この髪飾りをつけた素朴な君も素敵だろう。
私の手でつけてあげたいのに、側に居ないことがもどかしい。
君を誰の手も届かない私だけの場所に閉じ込めたい。
君を想い眠れぬ夜を過ごしている。
君が想いを返してくれる事を願っている。
そうでないと、私の足は勝手に君の元へ向かいそうだから』
「・・・・・」
ローレンは読み進める内にどんどん眉間に皺が寄っていった。
手紙を封筒にしまうと、手紙と髪飾りが入った箱を視界に入らないように遠くにやる。
これはもしかして、ストーカーという奴だろうか。
知らない人からこんな手紙を貰うと少々気持ち悪い。
嘆息していると、カーリーが側にやって来た。
「何よー、ローレン。
溜め息なんてついちゃって」
「ちょっとね、怖い手紙を貰っちゃって」
「怖い手紙?」
カーリーはアーネストからの手紙を手に取る。
「何よ、アーネストさんからの手紙じゃない。怖いって何? 見てもいい?」
「どうぞ」
カーリーは手紙を読むと口に手を当て、「こわっ!」と言った。
しかし、その言い方は明るく、表情もからかう気満々だ。
「怖ーい、ものすっごく愛されてるのねー。
こんな手紙を貰うなんて、女冥利に尽きるわね。
いや、でもちょっと引くわ。
恋人だからいいけど、知らない人だったら犯罪っぽいわね」
「・・・知らない人なの」
ローレンがぽそりと言った言葉を拾ったカーリーが眉を顰める。
「え? どういう事? 恋人じゃないの?」
「アーネストなんて人は知らないの」
「え? え? 親が決めた人で会った事がないって事?」
ローレンは首を振る。
「どういう事よ!」
混乱したカーリーが大声を出すと、ベットで寝っ転がって本を読んだり、体操したりしていたアナとジェナが寄って来た。
「何よ、どうしたの?」
「どうもこうもないわ! ローレンったらアーネストなんて人は知らないって言うの」
「え? どうしたの? アーネストさんと喧嘩でもしたの?」
「ううん、知らない人なの」
ローレンが首を振ると、アナもジェナも首を傾げた。
「何言ってるの? よく手紙を貰ってるじゃない。
ローレンも返事を返してたでしょ?」
「そうなんだけど・・」
アナの言う通り、ローレンのベットの下のカバンには、アーネストからの手紙が沢山入っていた。
しかし、どれもこれも見覚えのないもので、とても気味が悪かった。
カーリー達の言う通り、自分も返事を返していたのだとしたら、無意識にしていたのだろうか。
何だか、知らない内に誰かが自分の体を使っていたような気がして、とても怖い。
「ねえローレン、もしかしてあなた、ずっと悩んでいたの?」
神妙な声に顔を上げると、ジェナが何やら思案していた。
「あなた、前にアーネストさんからの手紙を見て、泣いていたわよね。
その時はいい事が書いてあって、嬉し泣きなんだと思っていたけど、もしかして違った?
何かどうしようもない嫌な事が書いてあったの?
私達に心配をかけまいと、何でもない、なんて言っていたの?」
「・・・・・」
ローレンはその時の記憶もないが、だんだん自分は何かを悩んでいたのではないかという気分になってきた。
「そうなのね、ローレン!
そういう事は早く言ってよ!」
カーリーが顔を真っ赤にして怒る。アナも同様だ。
「言ってくれなきゃ分からないじゃない!
変な男に付き纏われていたなんて、危ないじゃない!
これからは外に行く時は気を付けないと!」
「そうね、これからは外に行く時は四人で行動しましょう。
それと、何か武器になる物を考えておくわ。
唐辛子の粉がいいかしら、でも革袋に入れておくと臭いがね・・・。
かといって瓶に入れておいたら投げつけても割れなきゃ意味がないし・・・」
ジェナは何やらブツブツと呟く。
顔を真っ赤にして怒ってくれるカーリーとアナ。
ローレンの為に色々考えてくれるジェナ。
そんな頼もしく優しい友人達に囲まれて、ローレンは嬉しくて泣きそうになった。
三人をぎゅうっと抱きしめる。
「大好き! カーリー、アナ、ジェナ!」
周りを警戒しつつ、四人で楽しく過ごしていたある日、ローレンに来客があった。
授業中に呼び出されて応接室に行ってみれば、そこには一人の男性がいた。
二十代後半の、ひょろっと背が高く、目が細くてこちらを見ているのかいないのか分からないその人は、ローレンを見ると、恭しくお辞儀をした。
「ローレン様、お久しぶりでございます」
「・・・」
ローレンは心の中で「誰?」と思ったが、口には出さないでおいた。
派手ではないが仕立ての良さそうな服装、落ち着いて優雅な動き。
上流階級の人間、もしくはそれに準ずる人間だろうと当たりをつける。
身分の高い人間は格下の人間が自分の事を知らないと怒るのだ。
そういう人が学園に何人もいる。
ローレンは当たり障りなく、「こんにちは」と返しておいた。
席に着くと、男は手をぎゅっと握りしめ、何かを逡巡していたかと思うと、意を決した様子で口を開いた。
「本日は、主に内緒でやって参りました」
主というのは誰の事だろうか。きちんと名を言ってくれなければ分からない。
「主はその・・・、貴方様からお手紙を頂けない事を気にしておりまして。
その、私のような者が口を挟む事ではないのでしょうが、ぜひお返事を頂けないかと」
「・・・・」
恐縮しまくる目の前の男の言葉に、ローレンは眉を寄せる。
返事をくれという事は最近手紙が来た二人の内のどちらかの事だろう。
自称恋人と、自称兄。
特に自称恋人はこの一カ月で三回手紙が来ている。
自称恋人の方だろうか。
「返事が欲しいのは、アーネスト様でしょうか?」
「え? ええ」
男は一瞬怪訝な様子を見せたがすぐに頷く。
「アーネスト様は貴方様からお手紙を頂けない事を酷く気にしておりまして。
体調が悪いのではないか、自分が何かをしてしまったのだろうかと悩み、何も手が付かないご様子で。
こちらに伺おうとするのは止めているのですが、どうも思い詰めた様子で、その内にこちらに来てしまうのではないかと」
「そんな、ちゃんと止めてください!」
「ええ、分かっております。
ですがこのままでは・・・」
言葉を濁す男。
ローレンは思案する。
知らない人からの愛の手紙に返事などしたくもないが、もう手紙を寄越すなと言う、いいチャンスかもしれない。
きちんと迷惑していると伝え、決してここに来る事がないように、自分の事は諦めてもらうように書こう。
それにこの間送られてきた髪飾りも持って返ってもらった方がいい。
男には少し待ってもらい、部屋に戻って手紙を書き、髪飾り入りの箱を持って応接室に戻る。
男は手紙を受け取り、喜んで帰っていった。
これでもう妙な手紙に煩わされずに済む。
ローレンはほっと息を吐いた。
先ほどの男はローレンを様付けで呼び、終始丁寧な態度だったが、ローレンはそういう扱いを受ける身分ではない。
父母ともに平民で、父は各地を渡り歩いて品物を買い付ける仕事をしている。
そこそこ裕福で、こうして立派な学校にも通わせてもらっている。
父と母と弟の四人家族。今はローレンが寮に入っているので離れているけれど、仲の良い家族。
しかし、彼らの顔が浮かばない。
浮かんでもすぐにぼやけてしまう。
なんなのだろう。
最近変だ。
自分の知らない自分がいるようで、薄ら寒くなる。
でもこれでアーネストという人から手紙は来なくなるだろうし、兄だという人からの手紙も多分間違いだ。
忘れてしまおう。
アーネストの関係者が来た数日後、ローレンはまた授業中に呼び出された。
この間の男がまた来たのかと思ったが、今度は少し様子が違う。
学園長自らがローレンを呼びに来た。
落ち着きのない学園長にローレンは不安になる。
今度は何だろう、そう思っていると、学園長が震える声で囁いた。
「フローレンス様、ライオネル殿下がお越しです」
「・・・・」
ローレンは学園長の顔を見返す。
今、自分にとって、馴染みの言葉が一個もなかった。
なぜ学園長が平民の娘であるローレンを様付け? しかもローレンはフローレンスという名前ではないし。
しかも今、殿下って言った?
殿下って王子様の事?
ライオネル王子といえばこの国の王太子ではなかっただろうか?
ローレンは、汗を拭き拭き焦った顔をしている学園長の顔をじーっと見ると、おもむろに頭を下げた。
「学園長先生、すみません。幻聴が聞こえます。
多分具合が悪いです。早退させてください」
「そんなお待ちください、フローレンス様!
殿下がお越しなのですぞ、貴方様をお呼びなのです。
行かないわけには参りますまい」
「いえ、しかし、物凄い幻聴が・・」
「貴方様が伯爵家の御令嬢だとしても、殿下の側近の方のご婚約者だとしても、殿下の意向を無視するなど出来ないはずです。
行ってください、殿下のご機嫌を損ねたら学園が潰れます!
私の首が飛ぶ!!」
なんか色々と幻聴が聞こえたが、学園長はとにかく自分の首が心配らしい。
王太子の前にのこのこと出で行って、人違いでした、となった平民の娘がどんな目に合うか。
下手したらローレンの首も飛んでしまうではないか。
ローレンはジリジリと後ずさった。
学園長とローレンが首をかけて攻防戦を繰り広げていると、廊下の向こうから「あっ!」と声が上がった。
そちらを見れば、いつぞやのアーネストの関係者で、彼はローレンの前まで走ってくると、「失礼致します」と言って、ローレンの手を握りグイグイと歩き出す。
「フローレンス様、急いで下さい!
殿下がお待ちです。殿下は待つのがお嫌いなのですから早くして下さい!」
(ええ〜! そんな短気な権力者の所に行きたくない!)
足を踏ん張って抵抗するが、ひょろひょろしている癖に力の強い男に引きずられ、応接間にポイッと放り投げられた。
転ばないように踏ん張ってから顔を上げると、そこには二人の男性がいた。
二人とも二十代半ばぐらい、椅子に座っているのは、王太子ライオネルだ。
学長室にある王一家の肖像画で見た顔そのまま、黒髪に青い目の美丈夫で、座っていても体格の良さが窺える。
もう一人、ライオネルの背後に立つのは茶色い髪の優美な青年だ。
背が高く、剣を下げている。ライオネルの護衛だろうか。
ローレンは顔を下に向けて、相手が何か言うのを待った。
出来れば、「お前は誰だ、すぐに出て行け」と言われたかったが、そうはならなかった。
「久しぶりだね、フローレンス嬢」
優しい声に顔を上げれば、ライオネルが微笑んでいた。
ローレンはいささかげんなりする。
ライオネルまでローレンの事をフローレンスと呼ぶ。
誰だ、フローレンス。
助けを求めて護衛の男に目を向けると、冷たい目で返された。
怖い、護衛の人。
そちらは見ないようにしよう。
「あの、申し訳ないのですけれど、私はローレンという名で・・」
「ああ、ここではローレンだったね。座りなさい、ローレン」
「はあ」
座れと言われて、ローレンはしぶしぶライオネルの前に座る。
なぜこうなった? 意味が分からない。
「ローレン嬢」
「ひゃい」
ライオネルに呼ばれて、ローレンは声が上擦ってしまった。
くすくすと笑われて恥ずかしい。
「ローレン嬢、どうやら貴方は礼儀を忘れた代わりにユーモアを手に入れたようだね。
貴族の令嬢の責任を忘れて、平民として生きるのがお望みらしい」
「・・・」
言い方は優しいのだが、言われた内容にヒヤッとする。
礼儀知らず、責任を放棄していると責められている。
そんな事を言われても、王太子の前でどんな風に振る舞えばいいのかなんて分からないし、責任も何もない。ローレンは貴族ではないのだから。
何も言わずにいると、ライオネルは足を優雅に組み替えた。
「まあ、今はそれはいい。
今日ここに来たのは君に聞きたい事があったからなんだ。
ローレン嬢」
「はい」
呼ばれてローレンは顔を上げる。
しかし目線は上げずに下げたままだ。
ライオネルは首を傾げた。
「あのじゃじゃ馬が随分しおらしい。どうしたのかな。まあ、いいか。
ローレン嬢、私の知り合いが、婚約者から何の前触れもなく振られたらしくて、ひどく落ち込んでいる。
あまりに落ち込んでいて仕事をしない上に泣く、愚痴ると酷く鬱陶しくてね。
どうしたらいいのかな」
「・・・・」
なぜそんな事をローレンに聞くのだろう。
意味が分からずに首を傾げていると、
「他人事のようだね」
ライオネルの責めるような声にヒヤリとする。
ローレンは慌てて口を開いた。
「男女の事はどうしようもないと言いますし、その方には早く気持ちを切り替えていただくしかないのではないかと」
言った途端に、ガチャ、とライオネルの背後から音がした。
何だろうとそちらを見れば、ライオネルの背後の男が目を見開き、ワナワナと震えている。
どうやら剣と服に付いた金具が触れ合って音を立てているらしい。
背後にいる男の顔は目が血走っていて怖い。
もう何があっても見るのはやめよう。
「なるほど、もう彼女はそいつの事を何とも思っていないと」
「そうだと思います」
「原因は何かな? 離れていたからかな?」
「離れていたのなら、もしかして他に好きな人が出来たんじゃないんですか?」
ガシャリ!
今度はさらに大きな音がした。
けれどもうそちらは見ない。怖いから。
誰かが背後の男に走り寄り、男を羽交い締めにしている。
何だろう、すっごく怖い。
もしかして、婚約者に捨てられた男ってライオネルの背後にいるその男だろうか。
そうなら余計な事を言わない方がいいかもしれない。
後で恨まれたら怖い。
「ええっと、でも、違う可能性もありますよね。
会えなくて寂しくてついそんな事をしてしまったとか」
「会えない状況にしたのは女性の方だが?」
「じゃあ、元々好きじゃなかったのかな。離れて自然消滅を狙ってたとか?」
ボソリと声にした言葉は背後の男にも聞こえてしまったらしい。
背後の男が暴れており、いつの間にか三人がかりで押さえている。
「うーうー」と声が聞こえるので口も押さえられているのかもしれない。
「ローレン嬢、随分冷静だね。
その男は一見優しげで婚約者の言う事はなんでも聞く。
平民の振りして学園に通いたいなどというあり得ない願いも叶える。
優しく情熱的、その優秀な頭で彼女の願いを何でも叶える」
(へえ〜、すごい。王子様の後ろの人って、そんなに凄い人なんだ。
そんな人が婚約者だなんていいなあ)
そう思って背後の男を見て後悔した。鬼のような顔をしていた。
「その反面、執着心が強く彼女に振られたら何をするか分からない」
「そうみたいですね」
憎悪に歪んだ顔、ギラギラ光る目、ものすっごく怖い。
その女性には同情してしまう。
何とか元の鞘に収まればいいけれど。
「どうしたらいいかな。
このまま奴が仕事をしないと公務が滞る。
切って捨てるのは簡単だが、一応友人でもあるし、立ち直って貰いたいのだが」
「大変ですね」
背後の男の関係者の苦労を思い、同情を口にすると、ライオネルが眉間に皺を寄せた。
「本当に他人事だな。
フローレンス、分かっているのか?
こいつは君に何をするか分からないぞ」
「なぜ私に? それに私の名前はローレンで・・」
「もうその話はいい。
平民のローレンは今日限りでお終いだ。
私の命令だ。君は家に戻る事。いいな」
「な、何で? お終い? どういう事?」
意味が分からずに、ローレンは戸惑う。
平民のローレンはお終い? どういう事だ?
お終いにしたらどういう事になるのだろう。
平民でなければ、奴隷にでも落とすというの?
ただ聞かれた事に答えていただけなのに、それも不敬だというのだろうか。
ローレンの目に涙が浮かぶ。
「家に戻り、頭を冷やせ。
君は貴族の娘であり、勝手は許されない。
反省して、アーネストとよく話し合う事だ。
話し合って、どうしてもアーネストが嫌だと言うのなら、私も相談に乗ろう、いいな」
奴隷になったらもう家族とは会えない。
どこに追いやられるかも分からないし、もしかしたら海外に売られるかもしれない。
そんなのは嫌だ!
ローレンは逃げる決意を固めた。
逃げたら殺されてしまうかもしれないが、黙って奴隷にされるより、逃げられる確率にかける。
ローレンは立ち上がると、ドアに向かって走った。
「おい、どこに行く!?」
背後からライオネルの声が聞こえたが、構わずドアを開け、廊下に出る。
そのまま近くの空き教室目指して全力で走った。
空き教室に入ると、外で人が忙しなく走っているのが聞こえた。
皆、フローレンスと呼ぶが、ローレンはフローレンスではない。
人違いも大概にして欲しい。
ローレンは窓から外に出ると、身を低くして動き、裏門へと向かう。
この学園は貴族の子弟も通っているので、表門裏門共に門番がいる。
しかし、学園に通うローレンは裏門近くにに乗り越えやすい塀があるのを知っている。
学園を抜け出す生徒が、乗り越えやすいように台とか隠して置いてあるのだ。
そこに向かって走る。とーー
「いた! フローレンス様がいました!」
男の声が背後からして、見つかったと背中が粟立つ。
無我夢中で走る。
背後から何人かの声がして、恐怖で体が引き攣る。
もう少しで裏門というところで、ローレンは躓き、転んでしまった。
すぐに立ち上がろうとしたが、体が震えて立ち上がれない。
「フローレンス」
ライオネルの背後で鬼のような顔をしていた男の声が聞こえて、ローレンは「ひっ」と声を上げた。
体を縮こめて震えていると、腕を取られた。
「いや、離して!」
「フローレンス!」
「触らないで!」
ローレンは男の手を振り払おうとするが、強く握られ振りほどけない。
ジェナからもらった唐辛子の粉を思い出し、ポケットから取り出すが、片手ではうまく栓が抜けない。
焦っているうちに、唐辛子の粉が入った瓶を落としてしまった。
「フローレンス! 話を聞いてくれ!」
「離して、離してよ!」
無茶苦茶に暴れていると、ぎゅっと体を抱き締められた。
「フローレンス! そんなに私の事が嫌いなのか!
私から逃げたいのか!?」
「知らない! あなたなんて知らない!
それに私はローレンよ、フローレンスじゃない!」
「フローレンス!」
男の怒鳴り声に、ローレンはびくりと体を震わせる。
恐怖で震える体。
「ひっ、ふっ、うぅ・・・」
ローレンはポロポロと涙を零す。
ローレンはもう家族に会えないのだと諦めた。
父さん母さん、弟。
ーーいや、違う。
お父様、お母様だ。それにお兄様、妹のルイーズ。
ルイーズはまだ五歳だから、あまり会っていない姉の顔など忘れてしまうかもしれない。
それに愛しいあの人にも、もう会えない。
私の大切なあの人。
優しい人、大好きな人、困った顔が可愛い人。
今もあの人の困ったような優しい顔が浮か・・・ばない?
ローレンは首を傾げた。ローレンの涙が止まる。
あの人?
あの人って誰だっけ?
男はそっとローレンから体を離すと、ローレンの頰にそっと触れた。
辛そうな顔でローレンの頬を撫でる。
「フローレンス、私はどうしたらいい?
私はフローレンスと生涯を共にしたい。
フローレンスと離れたくない。
もし君が私の事を嫌いだとしても、離す気はないんだ。
だから、教えてくれないか?
どうしたら君は私を許してくれる?
どうしたら側にいてくれる?」
「・・・・・」
ローレンは辛そうに顔を歪める男の顔をまじまじと見た。
男の癖にキメの細かい肌、高い鼻、薄い唇、少し垂れ目で笑うととても優しい顔をする人。
ローレンは目をパチパチと瞬かせ、男を見つめる。
この人は・・・。
「・・・アーネスト?」
「なんだい? フローレンス」
「貴方は、アーネスト?」
「? そうだよ、他の誰に見える?」
アーネストは困ったように笑った。
その笑顔を見た瞬間、ローレンの中に記憶が蘇る。
子供の頃から遊んでくれた優しいお兄さん。
ローレンに甘くて、ローレンが兄に叱られていると庇ってくれる優しい人。
ローレンの我が儘を何でも聞いて、でも本当に駄目な事は駄目だと言ってくれる人。
お兄さん、優しい人、我が儘を聞いてくれる人。
そして、愛しい人。
確かに彼はアーネストだ。そして、ローレンの本当の名はフローレンス。
伯爵家の長女で、アーネストの婚約者だ。
「アーネスト」
ローレン、もといフローレンスの目からポロポロと涙が零れる。
「アーネスト、会いたかった」
フローレンスはアーネストに抱きついた。
「フ、フローレンス?」
「アーネスト、アーネスト」
フローレンスは子供のように泣きじゃくり、アーネストをぎゅうぎゅう抱きしめる。
それはもう、離されそうになっている子供が必死でしがみつくが如く強さだったが、アーネストは感極まったようにフローレンスの名を呼び、抱き返した。
「アーネスト、怖かった」
「ごめん、怖がらせて。でも君が逃げるから。
フローレンス、もう離さないよ」
「アーネスト!」
二人の世界に入ってしまったフローレンスとアーネスト。
周りの者は何が何だが分からない。
多分アーネストも分かっていないだろうが、フローレンスが戻ってきた今、どうでもいいのだろう。
硬く抱き合う二人を見ながら、どうしたものかとライオネルは思う。
フローレンスは子供の頃から、よく言えば天真爛漫な娘だ。
貴族の子弟が集まる茶会はつまらなそうで、アーネストと遊んでいる時は目を輝かせていた。
ライオネルもいる集まりの場でも、アーネストアーネストと、彼に纏わりつく。
アーネストもそんなフローレンスを大層可愛がり、周囲を呆れさせていた。
アーネストに甘やかされたじゃじゃ馬娘は、平民の振りをして学園に通い、自由に過ごしてみたいと言い出した。
もちろんそんな事は貴族の娘に許されるはずもないが、アーネストの説得と最後の我が儘だというフローレンスに彼女の父親は渋々了承したと聞いている。
アーネストもまさか、フローレンスの心が自分から離れるとは思っていなかったのだろう。
やっと来た手紙。
そこに書かれたフローレンスからの拒絶に絶望し、机の下で1日過ごしたかと思えば、何やら怪しい算段をし出した。
本気ではないだろうが、フローレンスを軟禁する為に別荘を改装しなけば、などと呟いていたのにこれはどういう事だ?
二人は愛を確かめ合うかのように抱きしめ合っている。
今は抱き合っているだけだが、気持ちの盛り上がった男女がこのまま終わるとは思えない。
公衆の面前でラブシーンを始める前にど突いて引き離すかと思っていたところ、ここにはいない声が割り込んだ。
「これはどういう事ですかな?」
低く発せられた声の主は、フローレンスの兄、ジェレミーだ。
横にスッと立った筋骨隆々の男。
強面の男が顔を歪めて不機嫌に言い切る様は恐ろしい。
「ジェレミー、なぜここに?」
「殿下こそなぜこのような場所におられるのですか?
私は妹の様子がおかしいと聞き、参った次第です」
「おかしい? どういう事だ?」
「はい、妹はひと月ほど前に頭を打ったのですが、その頃からどうも、記憶が混乱しているのではないか、という報告を妹を見張らせているものから受けました」
「どういう事だ?」
ライオネルは眉間に皺を寄せ、続きを促す。
「一見普通なのですが、どうも本気で自分を平民の娘だと思っているようで。
家族やアーネスト殿の事に対して反応を示さないと言うのです。
もしや、記憶が部分的に失われているのではないかと言われ、参った次第ですが・・・。
取り越し苦労だったようですな」
ジェレミーは抱き合う二人を見て、呆れたように呟く。
しかし、ライオネルは盛大に顔を引きつらせていた。
思い当たる節があり過ぎる。
フローレンスとアーネストは二週間と間を空けずに手紙のやり取りをしていたのに、突然来なくなった。
やっと来た手紙は他人に送るような内容で、本人に会ってみれば、王太子の前だというのに碌に礼も取らず、萎縮するばかり。
アーネストを見ても、何とも思わないようだった。
アーネストとフローレンスの事を話しているのに、どこか他人事で。
おまけに、家に帰れと言っただけなのに逃げ出した。
まるで取って食われるかのような取り乱しようだった。
自分が貴族の令嬢だという記憶がなく、平民だと思っているのなら、王太子を前にして随分混乱しただろう。
ライオネルの後ろに立っていたアーネストの事も、知らない人から睨まれていると思ったなら随分怖かっただろう。
しかし、今のこの甘々な空気は何だ。
記憶が戻ったのか。
愛の力か。
そうか、愛の力は素晴らしい。
ライオネルはついに熱烈な口付けを始めた二人を止めるべく、アーネストの背中を思い切り蹴り付けた。
フローレンスはジェレミーが背中に隠した。
「時と場合を考えろ、馬鹿者が」
愛の力は素晴らしい。
しかし、アーネストと会った瞬間に記憶を思い出してくれてたら、もっと素晴らしかった。
周りをすっかり野次馬に囲まれ、ライオネルは重い息を吐くのだった。
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