[2-6] 忌火即(ファイアハビット)
部屋の隅に置いてあったのは、燭台だった。
三又の枝に蝋燭が差し込んである。ただし、火はついていない。
栞はこの部屋に燭台があることに違和感を覚え、さらに違和感を覚えたことを不思議に感じた。
部屋に燭台がある。それの何がおかしいのだろう。
「ああ、これね」
しかし、伯爵は栞の考えがわかったかのようにあっさりと頷いた。
「蝋燭なんて普通置かないものね。驚くのも無理はないわ」
言われて初めて、栞は思い出す。ここで使われている灯りは、ほぼ全てが魔法照明だ。
「蝋燭って……そんなに特別なんですか?」
「そりゃそうよ。あれは魔法の無かった前時代の遺物だもの」
「魔法の無かった時代……」
「そうよ。言い伝えによると、昔は『魔法』というものは存在しなかったらしいの。だからこそ人は限りある資源を巡り、欲望を剥き出しにして醜く争う……と、話が逸れたわね」
伯爵は、ふと真剣な顔になって、栞に言った。
「栞、よく覚えておきなさい。この世界では、火とは忌むべきものなのよ」
「忌むべき、もの……?」
栞は伯爵に名前を訊かれた時『日』は良くないと言われたことを思い出した。
「そう。火は木を燃やし、人も燃やす。命のあるものを灰に変えてしまう、恐ろしいもの。火は卑にして非。卑しく、この世に非ざるべきもの。だから、火はこの世界では禁忌とされている。一般に、このことを忌火即と言うわ」
「じぁあ、どうして蝋燭があるんですか? それ、火を使うものですよね?」
「よく知ってるのね……。そう、蝋燭は火を使う照明。魔法が無かった時代のね。普通は明かりが欲しければ魔法照明を使えばいいのだから」
「じぁあ、どうして蝋燭なんかを……?」
栞の質問攻めに、伯爵はため息をついて答えた。
「色が見えるからよ」
「色が見える……?」
「そうよ、これは魔法照明全般の特性なんだけど、魔法照明を使うと色がわかりにくくなるの」
言われて始めて、栞はそのことに気がついた。たしかに、あのオレンジ色の光で照らされたものは色がわかりにくい。
「……どうして?」
「さぁ? わからないわ。でもそういうものなのよ」
伯爵は肩を竦めた。
「でも、色がわからなくてもそこまで困ることはないでしょう? ところが、ある古い大貴族が禁を破ってこの蝋燭を持っていたの。どこから手に入れたかは知らないけどね。それを私が押収したって話」
「じゃあ、この蝋燭は……」
「使えないわよ。だって火をおこす道具がないもの」
「あ、そっか……」
着火用具って何だっただろう? と栞が意識する前に、伯爵が怖い目をして栞の顔を覗き込み、
「栞、覚えておきなさい。目の前にあるものが便利だからといってその危険性を省みずに使うと、後で必ず大変なことになるわ。火はその利便性で人の欲につけこんで惑わし、滅びをもたらす存在なの。一時の『便利』がそれ以上の『不幸』を生むことになるのよ」
伯爵が部屋から去った後、栞は一人でベッドに倒れこんだ。
それから反射的に枕元の時計を確かめようとして、次の瞬間、そんなものは存在しないことを思い出す。
それと同時に『時計』という概念が栞の頭の中で想起できなくなっていた。
「……」
違和感がある。
例え明確に何がそうであるか説明できなくても、違和感だけは栞の中に蓄積されていた。
記憶はない。
しかし無意識に当たり前と思っている常識に齟齬がある。
それは伯爵の言うように『別の世界』から来たからだろうか。
「だったら……どうして言葉が通じるの?」
栞は窓の外を見た。二階から見える景色は視点が高く、隣の家や遊歩道が見える。
その向こうにはなだらかな緑の丘陵が、遠くの方には森が。
そして、上には煌々と輝く満月。
それだけが、見える景色の全てだった。
「それだけ?」
栞は呟いた。
「世界って……こんなに狭かったっけ? こんなに、何もなかったっけ?」
答える者はおらず、時刻もわからないまま夜が更けていった。