[2-2] 食文化(フードカルチャー)と食卓作法(テーブルマナー)
伯爵が食事を宣言すると、光る魔法陣とともに四体の召喚妖精が現れた。
先ほどと同じように細長い身体と触手を持ったそれらのうち、三体は壁際に並ぶ棚から蓋付きの銀色のトレイを一つずつ、残りの一体は別の棚から丸い蓋のついた銀色の大盆を持ってくると、トレイは各々の手元に、大盆は大机の真ん中に置いた。
さらに、妖精の手によって各々の手元に銀色のフォークが用意される。
フォークの端がなぜか波打っているのが特徴的だった。
「さぁ、いただきましょう」
そう言うと、伯爵と菖蒲は手を合わせて「いただきます」と唱和した。
栞も慌ててそれに習う。
これも食事前の慣習なのだろうか。
しかし、栞は不思議と違和感は感じなかった。
銀色のトレイの蓋を取る。
すると、そこには四角い形をしたパンのようなものがいくつか並んでいた。
一つは白く、もう一つは黒く、残りのものは白黒の二つよりも小ぶりで赤や緑など色とりどりのものがある。
それらのパンを反射的に手で掴もうとして、伯爵と菖蒲がフォークで切り分けているのを見て慌てて真似た。
フォークなんかでパンを切るのには苦労しそうだと思ったが、案外簡単に、さっくりと両断できる。
パンといってもふわふわした感じではなく、しっとりとして重く、やや脆い。
切り分けた一片をフォークに突き刺して口に運ぶとわなんとも言えない芳醇な香りが広がった。
「うん、おいしい」
そう言ったのは菖蒲だった。
確かにおいしい、と栞も思う。こんなシンプルな料理なのに、なぜか旨みがあるのだ。
「そう、良かったわ」
伯爵は満足気に頷く。
「今日の食事はそんなに多くないのだけれど、全部、第一御厨所から取り寄せたものなの」
「どおりで違うわけですね。普段の配給食は味気なくってどうも好きになれないんです。……いつもこんなもの食べてるんですか?」
「まさか。いくら伯爵でもそこまで見境がないわけじゃないわ。高級食品は高いもの」
二人は談笑しながらフォークを進めていく。
栞もそれに習って二人の談笑に相槌をうった。
色とりどりのパンはものによって味が違い、その都度驚きと面白さがある。
一方でテーブルマナーが大丈夫かと不安だった。
「そんなにテーブルマナーは気にしなくてもいいわよ」
伯爵はそんな栞の内心を見透かしたのか、伯爵は苦笑して言った。
「貴族同士なら面子の問題もあるでしょうけど、今日は私とあなたたちだけだもの。無礼講で充分よ」
伯爵の言葉にホッとした栞は、マナーを気にするのをやめるのではなく、ずっと気になっていたことを訊くことにした。
「そういえば、ここに台所はないんですか?」
「台所?」
栞の言葉に、伯爵は不思議そうな顔をする。
「台所が家にあるわけないじゃない。食事は御厨所の台所で作られるのよ?」
「そう、なんですか……」
御厨所という言葉は知らなかったが、単語からなんとなく意味を連想することはできる。
ここは自分の知っている常識とは違うのだ、と改めて栞は思った。
しかし、だとしたら、記憶を失ったはずの栞の常識――知識は一体どこのものなのだろう?
栞は、質問を変えることにした。
「ここの食事は、いつもこういう風にパンだけを食べるんですか?」
「今日はデザートとお茶も用意してるけど、普通はそうね。私はこれでも貴族だから、多少の贅沢は許されるの」
「このパンも高級なパンなんだって」
伯爵の説明を、菖蒲が補足する。
「私たちみたいな平民が食べるのは、配給食って言ってね。パンも一種類だしもっと味気ないの」
「そうなんですか……」
パン一種類だけの食事。
栞からすると質素すぎて想像がつかないが、この世界では日常的だと言う。
「そういえば、飲み物は?」
「飲み物は食事が終わってから飲むのが一般的ね。食べながら飲むのはみっともないって言われるわ」
飲み物があったほうが食べやすいのに、と思ったが口に出さなかった。
パンの後はデザートとお茶があるらしいから、それでいい。
栞たちはパンを食べ終わると蓋をトレイの上へ戻した。
それを召喚妖精たちが回収し、代わりにまたフォークと、小さなナイフ、取り皿を出してくる。
今度はさっきのものより一回り小さく、端が波打っている独特の形状もない。
ただ先が三又ではなく二又で、しかも先は針のように細く鋭く尖っていた。
ナイフのほうは先端が尖った銀色の刃を持っており、柄の部分は木製だった。
取り皿は一見陶器に見えたが、どうやら違う材質のようだ。樹脂だろうか?
「さあデザートよ」
伯爵が蓋を開けると、そこには色とりどりの果物があった。
「すごい、生の果物が出てくるなんて……」
菖蒲は目を丸くしてそう言った。
「その代わり食べるのに手間はかかるけどね。だからこれは貴族の道楽なの」
伯爵はそう言うと、林檎のような果物の一つを手に取り、ナイフで縦半分に割ると、するすると皮を剥いていく。
それを、フォークを使って口に入れた。
「お上手ですね、伯爵様」
「慣れればどうってことないわよ。さぁ二人とも、やってごらんなさい」
「はい」
「……はい」
栞は、伯爵の真似をして果物を手に取り、もう片方の手にナイフを持つ。
これも林檎のようだ。どこか見覚えがある。
考えるより先に、手がするりと動いた。
栞は果物を二つに割り、さらにそれを正確に6等分していく。種をナイフの角で抉り取り、皮を剥く。最後まで向き切らず、端のほうでナイフを止め、反対側に三角形の切り込みを入れる。
気づけば、一個の果物は全部で12個に、ウサギを模した形で綺麗に切り分けられていた。
「ほえ……」
ふと栞が我に返ると、菖蒲が呆然とこちらを見ている。
伯爵も、唖然としていた。
「え? ……え?」
二人の視線に栞は困惑する。
「あ、あの、良かったらみなさんも――」
「栞さん。それはどこで学んだの?」
林檎を勧めようとした栞の言葉を遮り、伯爵が鋭い口調で問い詰める。
「どこで、って……。う……!」
それを意識した瞬間、急に頭痛して、栞は頭を抑えた。
「どこだろう。私、こんな……なんで?」
繋がらない。技術はあるのに、それを獲得した根源に、どうしても繋がらない。
まるで、自分の中の歯車がいくつも抜け落ちているみたいだ。
「ああ、ごめんなさいね。私、刃物をこんなに上手く使える人なんて初めて見たから、びっくりしてしまって」
「すごいよ栞! 私なんて全然できないのに」
菖蒲のほうを見ると、いびつな形に剥かれた果物があった。
皮がぐちゃぐちゃになって取り皿に散乱している。
(何をそんなに驚いているんだろう……?)
自分の向いた林檎を伯爵と菖蒲に配りながら、栞は思った。
(これって、そんなに難しいこと?)
おかしいのは自分なのか、それとも周りなのか。
記憶のない栞にはそれを判断する術はなかった。
果物を食べた後はお茶が出てきた。召喚妖精によって出されたティーポットに葉を入れて、伯爵はティーカップにみんなのぶんを注いだ。お茶は赤みのある茶色で、良い香りがした。
「本物の葉なんて珍しいですね」
「ええ、今日は奮発しちゃったのよ」
そんな会話を聞いて、栞は「お茶の葉」が高級品だと知った。普段は粉末を使うらしい。
しかし、なぜか栞には本物の葉のほうが馴染みがある気がする。
粉末の茶のことを考えると、なぜか「回転寿司」という言葉を連想したが、それが何なのかはわからなかった。
お茶を飲み干すと、それまで気にしていなかった下腹部の違和感が強くなる。
自然、栞の足はもじもじと落ち着きなく動いた。
「あの……すみません」
栞は顔を赤くして訊いた。
「お手洗いはどこですか?」
しかし、伯爵はきょとんとした顔をするだけだ。
ややあって、栞の様子を見てとった菖蒲が「あ、『地下』に行きたいんだって!」と言った。
「ああ、そうね。向こう側では言い方が違うのね」
伯爵は納得したように頷いて、言った。
「じゃあ菖蒲さん、あなたが連れて行ってあげなさいな。適任でしょう?」