[2-1] 妖精界(ティル・ナ・ノーグ)
今週から更新ペースが疎になります。ご了承ください。
シルヴァーユ伯爵に勧められるまま栞は椅子に腰掛けると、伯爵は向かい側に、菖蒲は栞の隣の椅子に腰を下ろした。
「菖蒲さんも、もっと楽にしていいわよ。そんな堅苦しい格好はおやめなさいな」
「はい、心遣いありがとうございます」
堅苦しい格好? と、菖蒲のヒラヒラした服を見て内心首を傾げる栞をよそに、菖蒲は「装備解除」と呟いた。
その途端、菖蒲の身体は光に包まれ、次の瞬間には別の服――学校の制服をシックにしたような、ブラウンを基調としたブレザーとスカートだった――になった。
髪の色も鮮やかな桃色から自然な髪の色になる。
伯爵は、菖蒲を見て「あら、素敵じゃない」と呟き、それから栞に向き直る。
「まずは栞さん。名前以外の記憶はある?」
「いえ、名前の他は……何も覚えていないです」
「そう……」
これには多少の嘘が混じったいた。
栞の中にはひどくぼんやりとした記憶のイメージが断片的にあるし、栞自身、自分の『知識』はまっさらな状態でないことは自覚していた。
しかし、話すのは面倒だと思ったのであえて言わなかったのだ。
それよりもまずは、相手の話を聞きたいという思いがあった。
「では、まずはこの『世界』のことからね」
伯爵はそう言うと、
「ここは『妖精界』。人と、妖精の暮らす世界よ」
「妖精……?」
「向こう側には妖精はいないものね。召喚――γ3!」
伯爵が言うと、突然空中に光が集まり、奇妙な生き物が姿を現した。
その生き物は、細長い胴体に触覚のように飛び出した目玉が二つ、鞭のように細長い腕(というより触手だろうか?)が二つついていた。
胴体の太ささ腕ほどで、長さは肘からピンと伸ばした指先までと同じくらいだ。
「お呼びでしょうか、ご主人様?」
「世界地図をちょうだい」
「かしこまりました」
γ3は恭しく頭を下げると、触手をビューンと本棚の方へ伸ばした。
触手は本棚の中の一冊の本を正確に掴み取ると、ビューンとこちら側に引き寄せ、それを丁寧に机の上に置いた。
「世界地図にございます」
「ありがとう、もういいわよ」
伯爵が答えると、γ3は恭しく頭を下げてふっと空中に消えた。
「これが妖精。今のは私の召喚妖精の一つ、γ3よ」
「これが妖精……? まるで召使いみたい」
「そうよ。これは召喚妖精だもの。妖精は他にも色々いるのよ。守護妖精に契約妖精、自由妖精……。まぁその説明は後に回しましょう」
「さっき見たとおり、妖精は人間と違って『肉』を持たないの。だから空から現れ空に消える。でもその存在は常にあるのよ。私たちから見えたりものに触ったりできる状態のことを、普通は『実体化』していると呼ぶわ」
「じゃあ、さっきの妖精は伯爵の声で実体化した、ということですね」
「そう。理解が早いわね。これが妖精。そして、この妖精たちがいるからこそ、この世界は妖精界と呼ばれるの」
伯爵はそう言うと、先ほど妖精が取ってきた本を広げ、栞に見せた。
「私たちは、閉鎖型防衛都市に住んでいるわ。人が妖精の加護を受けられるのも、この閉鎖型防衛都市のおかげなの」
本のページには地図らしきものが書かれてあった。大雑把に言うと、それは二重の円だ。
伯爵は、地図の外側の円を示した。
「閉鎖型防衛都市は二つの壁に囲まれているわ。外側の壁は通称<第一の壁>。全長約31.4km、高さは14mよ」
次に、内側の円を示す。
「内側の壁は通称<第二の壁>。全長12.6km、高さは30m。村や森は第一の壁と第二の壁の間に、街は第二の壁の内側にあるの」
なるほど、この世界――この街は二つの壁に囲まれているらしい。
となると、これを栞が疑問に思うのは当然のことだった。
「壁の外側は?」
すると、伯爵は怖い顔をして答えた。
「――荒野よ。普通の人間がおいそれと出られるところではないの」
「どうして出られないんですか?」
栞は臆さず、なおも質問を続ける。
純粋な疑問、そして好奇心ゆえだった。
「外には瘴気が満ちているからよ。人間が瘴気を吸うと意識を失って倒れてしまうの。魔法少女なら短時間居ることはできるけど、それでも長くは耐えられない」
「じゃあ、外の様子は分からないんですか?」
「ええ……周辺のごく近い場所以外はね。……さて、話をもどすわね」
伯爵はそう言うと、地図を示した。
「私たちがいるのは街からみて南の方の村、空建型村落よ。ここは気候も暖かいしのどかだけれど、森の方は注意しなければいけないわ。時折巨悪虫が出るの」
「巨悪虫?」
「さっきの虫のことだよ」
それまで黙って話を聞いていた菖蒲は言った。
「森で大きな虫に襲われたでしょ? あれが巨悪虫なの」
言われて、栞は唐突に現れたあの巨大な虫を思い出した。
「あれは、何なんですか? 森の中を歩いていたら、突然現れて……」
「巨悪虫は瘴気の塊だと言われているわ」
伯爵は答えた。
「外にはもっとたくさんの巨悪虫がいるの。閉鎖型防衛都市の中は妖精の力で満たされているから瘴気は入ってこれないのだけれど、それも完璧じゃない。だから、僅かな瘴気が集まって巨悪虫が現れるのよ」
「巨悪虫に襲われるとどうなるんですか?」
「それは瘴気と同じかな。意識を失って倒れるの」
今度は菖蒲が答えた。
「だから、もし巨悪虫に遭遇したら、ちゃんと魔法少女を呼び出ししなきゃ」
「魔法少女っていうのは?」
「私のような人のことだよ。さっき見たように、巨悪虫を倒すために戦うの」
――なるほど、まさに魔法少女だ。栞にはそれが直感的に理解できた。
「でも、どうやって呼ば出せばいいんですか?」
「それは……」
「お願いするのよ。心の中で『助けて下さい。魔法少女様ってね』」
「お願い……」
ひどく曖昧な言葉だと思った。心の中で念じれば魔法少女がやってくる? でもどうやって?
しかし、その疑問に答えが返されることはなかった。
「さて、話はこれくらいにして、食事にしましょう。もうすぐ日が沈むわ」
伯爵は雰囲気を切り替えるように言うと、パンパンと手を叩いた。
「栞さん、それに菖蒲さんも、せっかくだからここで食べていきなさいな」