序章 ボクは大型犬が苦手な平凡な学生だった
日もすっかり暮れた帰り道。
文化祭の出し物として演劇に参加することになったボクは、
一人帰っていた。
科学教諭の真山先生が「お前には類まれなる才能がある」とか
調子の良いことをいったので参加した演劇だったが、
その才能は「道化師」としての才能とのことで、
芝居で一番出番と台詞は多いのだが、役柄としては主人公の下男だ。
いや、役に不満があるわけではない。
人を笑わせる役で、いわゆる狂言回しだから、ボクがしっかりしないと話が進まない。
楽しいし、やりがいもあるのだが
「疲れたなぁ・・・全体練習のあと、ボクだけ個人レッスン2時間はどうなんだろうか」
口さがない友人に夜の個人レッスン呼ばわりされるのも、
思春期真っ盛りのボク的にはつらいものがある。
実際はスポ根アニメも真っ青の猛特訓を施されているのだが。
「本番まで後半月かー・・・」
「バウッ」
ボクの独り言に応えるかのように、何か、獣の、ような、声・・・が・・・
「バウバウ!」
振り返ると後方に、茶色い悪魔がいた。
柏木さんちのゴールデンレトリーバー、柏木エルザ。
家の前を通ると必ずほえてくる悪魔だ。
ボクの名前は、佐々木コタロウ。
昔はそんなことなかったと思うのだが、今は大の犬嫌い。
というのも、この茶色い悪魔に日常からほえられてきたからだと思う。
佐々木家の二件隣の柏木さんちは、ボクが外出のたびに必ず前を通らないといけない立地。
そこの飼い犬が、なぜか執拗にほえてくるのだ。
いつもなぜかすごい興奮していて、体の大きさもあり、
ボクはいつかみ殺されるんじゃないかと恐怖している。
いつもは鎖につながれ、ボクに飛びかかれない悪魔が、今開放されて目の前にいる。
千切れんばかりに尻尾を振り、目をらんらんと輝かせ、口からはよだれをたらしながら。
終わった。
ボクの人生は、ここで終了なんだ。
人間という生き物は、知恵が回る分、他の生き物と比べると酷く脆弱だ。
中型犬以上の犬が、本気で襲いかかってきたら、人間はなすすべもないのだという。
ましてや大型犬。
その膂力に、敏捷性に、人間の、ましてや文化系で運動もろくにしていないボクがかなうわけがない。
「う・・・うわぁぁぁぁっ!」
逃げられないとはわかっていたけど、ボクは逃げ出した。
一目散に駆け出した。
走って、走って、走って、走った。
後ろから追ってくる悪魔の息遣いだけに意識を向けながら。
一瞬で追いつけるはずなのに、悪魔は一定距離を保ちながら追ってくる。
弄るつもりか。
運動不足のボクの体は、すぐに悲鳴を上げた。
心臓は破れそうなほど脈打っているし、うまく息が吸い込めなくて呼吸は乱れに乱れている。
目の前がちかちかするし、視界が狭くなったような錯覚を覚える。
それでも前に体を動かす。
追いつかれたら死ぬ。
思い切り手を前に、足を前に。
と、その時。
視界が白い光に染まった。
強烈な光に立ちすくむボク。
タイヤの焼けるにおいと、アスファルトと擦れる騒音。
ボクは、車道の真ん中に飛び出していた。
運転席のおじさんと目が合う。
何がおきたかわからない混乱と恐怖が読み取れた。
と、後ろから何か大きなものがぶつかってきた。
それが、ボクが感じた最後の感覚だった。