婚約破棄騒動を見たモブ令嬢、優しすぎる婚約者を信用できない!?
王太子が、目の前で婚約破棄を宣言した――しかも、新しい婚約者まで決めてしまうなんて。
「それにしても、この前のセイラン殿下の婚約破棄騒動はすごかったな。クラリーチェ、君はどう思った?」
夕日が差し込む王立学院の図書館。
窓の大半は紺色のカーテンで覆われ、書物の日焼けを防いでいる。勉強を始めて一時間ほど、そろそろ集中力も切れてきた頃だった。次の試験までは、まだ二週間ある。
侯爵令嬢クラリーチェ・エルヴァンは、婚約者である侯爵子息ユリオ・セレスタンの唐突な話題に、少しだけ付き合うことにした。
「そうね……さすがに驚いたわ」
「だけど、王太子殿下が嘘をつくとは思わなかったな。しかも新しい婚約者まで持ち出して」
――二週間ほど前、王立学院主催の春の舞踏会の夜。
王太子セイラン・エルネストは、公爵令嬢リュシエンヌ・アルマリスに何の前触れもなく婚約破棄を突きつけ、別の公爵令嬢エレオノール・セリュシアと新たに婚約すると宣言した。
その場は凍りつき、すぐにざわめきが広がった。
当事者三人の言い争いは、舞踏会の華やかさを打ち消すほど激しかった。
セイランはリュシエンヌが生徒会予算を横領していると虚偽をでっちあげたが、証拠はなく、感情的な言葉ばかり。
リュシエンヌは冷ややかに反論し、周囲の視線はセイランへと向かう。虚偽に加担したエレオノールも責任を問われた。
結果、セイランは王太子の地位を剥奪され退学、監獄と揶揄される厳格な騎士学校へ強制入学。エレオノールは隣国へ留学という名の追放。リュシエンヌだけが学院に残った。
クラリーチェはあの夜の空気を思い出し、眉を寄せた。
(……誰が見ても同情できるものではなかったわね)
リュシエンヌの苛烈な性格を思えば、セイランが逃げたくなった気持ちも理解できなくはない。しかし王族や貴族に恋愛の自由はない。婚姻は契約であり、従うべきものだ。
クラリーチェ自身の婚約も、親同士が決めたものだった。十一歳の頃に決まったが、不満はなかった。ユリオは優柔不断だが優しく、容姿も整っている。平凡な自分は彼に多くを求められるほどではない。釣り合いは取れている。
……それでも、あの騒動以来、胸の奥に小さな疑念が芽生えていた。
(このままユリオと続けていけるのかしら。彼もいつか心変わりするのでは……)
「クラリーチェ、どうかしたかい?」
「……なんでもないわ」
「困ったことがあったら、すぐ相談して」
「ええ、ありがとう。でも大丈夫」
「そう? ならいいけど」
一度生まれた疑念は、簡単には消えなかった。
「ごめん、やっぱり少しだけいい?」
「もちろん。何でも聞いてくれ」
「あの騒動、リュシエンヌ様、少し言い過ぎじゃなかった?」
「ああ……でも公の場で婚約破棄されたんだし、仕方ないと思う」
「じゃあ、ああいう人と付き合いたい?」
「それはないな。聡明な方だけど、僕には荷が重い」
「私が軽いってこと?」
「そうじゃなくて……君とは、こうして自然に話せるだろ?」
「それは付き合いが長いからでしょ」
ユリオは困ったように眉を下げ、真っ直ぐにクラリーチェを見つめる。その視線には誠実さが宿っている。
「誰でもいいわけじゃない。僕はクラリーチェ、君と一緒にいたいんだ」
「……そ、そう」
胸が熱くなる。こういう時のユリオはずるい。
「クラリーチェは、僕のことどう思ってる?」
「もちろん、大切に思ってるわ」
「ありがとう。たとえ婚約者じゃなくても、僕は君に恋をしたと思う」
「そんなのわからないわ。恋を知る前に婚約していたもの」
「そうだね。でも迷うことはなかった。君だけを見ていればよかったから」
甘い言葉が胸に落ちる。だが猜疑心は完全には消えず、少しだけユリオを試したくなる。
「……ありがとう。でも、あの子にも同じこと言ってるでしょ?」
「――違う! クラリーチェ、ルイーズとは何もない!」
「ルイーズなんて一言も言ってないけど」
「しまっ……」
ユリオの顔が青ざめた。
その優しさはクラリーチェ以外にも向く。困っている人を放っておけず、異性だと勘違いされることもある。
「説明して」
「わかった。でも本当に何もない」
数日前、偶然ルイーズのハンカチを拾って届けたこと、その礼に菓子をもらったらしい。
「それだけ?」
「ああ、これで全部だ」
「嘘ね。何か隠してる」
ユリオは落ち着かないとき、左ひざをつねる癖がある。今もつねっているだろう。
「お礼を言われた時、つい手を握り返してしまって……」
「悪気はなかった?」
「もちろん。僕は君一筋だし」
「ふーん」
ハンカチを落とす。手紙を置く。困ったふりをして助けを求める――そんなの玉の輿狙いの常套手段だ。ユリオは危機感が足りない。あるいは自分が過敏すぎるのか。
「どうしたら信じてくれる?」
「疑ってはいない。ただ、安心したいだけ」
「嘘だ」
「なら態度で示して」
「……わかった」
ユリオは立ち上がり、クラリーチェの隣へ回り、顎をそっと持ち上げた。
「ちょっとユリオ?」
「クラリーチェ、おとなしくして」
声は震えている。必死なのだとわかる。
「……で、でも」
キスはまだない。胸が高鳴り、息が詰まりそうになる。
(……ここは学院の中)
制止しようとしたその時――
「あ、ユリオ様、こちらにいらしたんですね」
「や、やあルイーズ」
空気が一瞬で冷えた。ルイーズの蜂蜜色の髪が夕日に映え、笑顔を浮かべ近づく。
「お菓子を作ったので、また試食して頂こうかと……そちらの方は?」
「ああ、クラリーチェ・エルヴァン。僕の婚約者だ」
「まぁ……はじめましてクラリーチェ様。ルイーズ・モンフォールと申します」
「ええ、よろしく」
「お邪魔してしまったようですね。失礼いたしますわ」
ルイーズは菓子を置き、軽くカーテシーをして去った。その背中は、どこか満足げだった。
図書室には、気まずい空気だけが残った。
「それ、食べてあげたら?」
「いや、返すよ」
「どうせ捨てられるだけよ」
「もったいないな」
ユリオの言動に胸がちくりと痛む。食べ物を粗末にするのはよくない。しかし腹も立つ。
「……帰る」
「待ってくれ、クラリーチェ」
制止を振り切り、その場を後にした。先ほどルイーズを見た瞬間、ユリオの顔が緩んだ。数秒前まで自分にキスしようとしていたのに。
(男なんて皆そんなものかしら……)
母が亡くなった時、父は人目をはばからず泣き崩れた。それなのに一ヶ月後には再婚、七ヶ月後には弟が生まれた。母の存命中から継母と関係があったのではないか――そう疑ってしまう。
父の再婚自体は否定しない。だが、陰であれこれしていたのだとしたら許せない。
(お父様のこととユリオを混同するのはよくない……)
不安は消えなかった。ユリオは大丈夫だろうか。
ルイーズが諦めたようには見えない。むしろ腹いせに雰囲気を壊したように見えた。
階段を下りながら考え込んでいたその時――
「あっ?」
足を踏み外した瞬間、左肩を誰かに掴まれた。
「……よそ見は危ないよ、エルヴァン嬢」
「えっ? シモン殿下? あ……ありがとうございます」
銀糸の髪が夕日に照らされ、淡く光る。
「そこ、段差があるから気を付けて」
「は、はい。それより、私のことをご存じだったんですか?」
「あぁ。地政学で優秀だと聞いている」
「そ、そんな……この前の試験がたまたま良かっただけで」
「次も頑張って」
シモンは柔らかく微笑む。その笑顔は人を安心させる力があった。
「はい、ありがとうございます殿下」
「次は殿下は不要だよ。では」
そう言い残し、軽やかに去っていく。
クラリーチェはシモンを見届け、へたり込みそうになったがこらえた。
シモン・エルネストは、先日王太子から失脚したセイラン・エルネストの従兄。銀糸の髪と端正な顔立ちで、学園内の女生徒から憧れの存在だ。婚約者はいない。
(……どうしよう、すごくドキドキする)
綺麗な顔立ちだと以前から思っていたが、異性として意識したことはなかった。
(……私の名前を知っていた)
シモンは一学年上で、これまで話したこともない。
(次はシモン様と呼べば……)
そう考えると、ますます心臓が速くなる。苦しい……この気持ちの正体は……と考えた瞬間、気持ちが冷めた。
(いけない……婚約者がいるのに他の人のことを考えてる)
ユリオや父を散々罵倒していたのに、シモンに助けられただけで都合よく考えてしまった。
(……忘れよう。シモン様はたまたま私の名前を知っていただけ。ユリオには明日謝ろう)
クラリーチェは大きく深呼吸して後、歩き出した。
シモンとのやり取りを、ルイーズが目撃していたことは知らないまま……
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