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今日一日で変なことが立て続けに起きている。
それがどうしても頭にこびりついて剥がれてくれない。
胸の内側が大きくざわつき、それが時間と共に大きくなっている気がした。
そのざわつきは自分の鼓動とは"何か"。
外側から無理やり中に入り込もうとする異物のようで、体がそれを拒む。
そんな変な感じだった。
唯を見るが、彼女からはそんな感じは一切しない。
気にせず、最後の一口を口に含み、喉の奥を通って胃に辿りついた。
そして、すっと息を吐き出し口を開く。
「ご馳走様――でした!」
こっちの気持ちをまったく知らない彼女は、満面の笑みで皿を平らげ、ペロリと唇を舐めていた。
赤いソースがべったりとかかっていた皿は、綺麗に純白を取り戻している。
――今はこの時間を楽しもう。後で考えよう。
違和感を体の奥に押し込み、唯に話しかける。
「よく、あんな凄いの食べられるね。ソース……やばい」
水を飲んでも飲んでも、舌がひりひりしている。
お陰で、ピッチャーの水がなくなって店員さんを呼んじゃったよ。
口を開けて冷やそうとするが、空気が触れると余計にひりついた。
唯に至っては味覚がバグってるお陰で、今も普通にしている。
「そうですか? 全然普通に美味しいですよ。大袈裟ですねー」
「そ、そうっすか」
その後はデザートに助けられ、お腹が限界まで膨れると、一息つく。
「満足です」
うっとりと目を細めお腹を擦る唯。
「あぁ、腹いっぱい」
満足気にそう返した。
「そう言えば……大丈夫ですか?」
主語は無いが、何を言おうとしたか分かった。
内臓が金属にすげ替わったように重くなる。
頭に浮かんだ過去の日常は、宗田を蝕み続け、針で胃を刺し続けていた。
ただ、せっかくの楽しい時間を壊したくないと、ぎこちない笑顔を見せて、言葉を発する。
「大丈夫……かな」
もう少し言葉を続けたかったが、自然と唇が沈み、次の言葉を発することを拒絶してしまう。
その気持ちを察したのか、変わりに唯が話てくれた。
「あの……いつでも相談に乗るんで……なんでも言ってください」
彼女の優しさは宗田にとって嬉しくて、拒絶した口を無理に開かせる。
「ありが……とう」
再びぎこちない笑顔になってしまったが、それでもいいと思った。
「……ごめんなさい」
謝らなくていい。それを口にしようとする。
「気に――」
そう言い切る前に――目の前が再び歪みだした。
――……ッ、ザザザッ。
そのざわめきが大きくなると、色が消失した。
目に映るのは白と黒。唯の色だけが"濃い"。
――……魔王。
耳ではなく、脳に無理やり押し込まれるように“声”が流れ込んできた。
それが神経を逆から撫でるようで、背筋が無理やり引き延ばされる。
——日付が変わる時、それを……始め、る。
呼吸が止まった。
——人類と魔王の戦争。
——殺せ。
間を置いて、もうひとつ。
――殺せ。
それは声というより、世界から告げられる"指示"だった。
老いも若さも、性別すら感じない、ただの事実だけが淡々と落ちてくる。
――進化か、死か。
——戻したければ、来い。
現実のひび割れが修復できないくらい大きくなり、日常が砕けた感覚だけが残った。
心の中に鉛が深くまで沈んでいく。
日常の断片となった人達が、今の声について話し、波紋のように広がって騒音となっていた。
妙にうるさくて、イラつきを覚える。
――イラつくなら破壊すればいい。
自分以外の衝動が足元に食らいついて飲み込もうとしてきた。
ゆっくりと確実に黒に染められ、もう少しで顔に到達しようとすると、唯が口を開く。
「今の……なんでしょう?」
その瞬間、すーっと波が引くように、突然襲った変な感覚は消える。
だが、まだ足元にはその余韻が残っている気がした。
……今のは? それよりも神崎さん――
宗田は一度息を吸い込み、唯を見た。
すると、赤みがかった唇は薄っすらと紫に染まり、小さく震えている。
「あ、えっと、分からない。悪戯かな?」
声のトーンが少し下がってしまう。
そう言った自分の言葉には、嘘が多分に含まれているのは承知だった。
ただ、今のことを否定して欲しい。
そんな懇願が込められた言葉を投げた。
「悪戯……ですかね? でも、やっぱり……」
そう言って、顔を下に向ける。
指先はせわしなく動き、上下する肩が忙しく動いていた。
それが、この場から連れ出すことを決心させてくれる。
「とりあえず……店を、出ようか」
会計伝票を手に取るとすっと立ち上がる。
まだ言うことのきかない指先を、唯に悟られないように隠し、会計を済ませた。
「それでさ。さっきの事、落ち着いて話さない?」
「そう……ですね。でも、どこで?」
唯は不安気に周囲を見回す。まだ店内のざわめきが耳に残っているのか、視線が定まっていない。
「そうだな……うち、来る?」
言ってから少しだけ息を呑んだ。
軽い誘いのつもりではない。落ち着かせたい、それだけだった。
一瞬だけ唯の目が見開き、顎を引いた。
「……いいんですか?」
店の前の空気は、暑くて冷たかった。
少しばかり時間をおいて、唯は顔を上げる。
「……お願いします」
そう言った声は細く、触れれば消えてしまいそうだった。
唯の歩幅はいつもより小さく、靴音も控えめに追いかけてくる。
半歩後ろを歩く彼女に「大丈夫」と声を掛けようとしたが、喉の奥へと押し返された。
世界が遠くに感じられた。車の音に人の話し声、そのどれにも膜が張られたように、二人が異物となったように感じられる。
お互いに会話がないまま、歩き続けるとようやく見知った建物が目に入った。
後ろに少し視線を向けると、肩を落とした唯の姿が映り、恐怖が理不尽な世界への怒りへと変質しそうになる。
「着いたよ」
静寂の世界は唐突に終わりを告げた。
「あ……はい」
俯きながら視線だけをこちらに向ける。
「中に入ろうか」
ギィッとした扉のきしむ音が、虚しく溶け広がった。
――今日感じた違和感は気のせいじゃなかった。
外側の異物が内側へ入り込み、心臓の奥で熱を帯び始めていた。
――そして、この日から俺達の日常が侵されることになる。




