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崩壊の序章

 ――闇の残滓が瞼の裏にこびりついたまま、俺は椅子に座っていた。

 夢と現実の境目がまだ揺れていて、はっきりと結びつかない。

  

 だけど、ここに俺が存在する意味だけは理解できた。

 

 ――今日こそ気になってる、彼女に話しかけること。 

 今は、それしか頭に浮かばない。

 

 ……落ち着け、俺。

 コーヒーを持つ手がやけに冷たく感じる。

 膝が勝手に揺れて、床を叩く音がやけに耳に滑り込み騒がしかった。

 喉が貼り付く感覚に、ちびりと一口、コーヒーを流し込み、今か今かと待ち人を待っている。

 いつもと同じはずが、味を遠くに置いてきたように薄く感じられた。


 息を整えようとすると、ガチャリとその扉が開く音に肩が跳ねた。

 意識が勝手に引っ張られる。

 来た。

 

 「え、あ、お疲れ様です」

 口ごもりながら、ようやく出た言葉は不器用な挨拶だった。

 相手は一瞬戸惑いを見せたが、ひとつ呼吸をおいて口が開いた。

 「お疲れ様です」

 返事はたったその一言だけだったが、心の中で拳を握る。


 自分みたいな平凡な人間が、会社で人気の高い彼女に声をかけたのだ。

 たった一言。

 それだけでも、自分を褒めていいと思う。


 俺みたいな奴には到底手は届かない。

 そう思っていた。

 

 「今日もお疲れ様。これ、飲む?」

 「お疲れ様です。って、いいんですか? いただきます」

 

 最初のぎこちなさは消え、お互い自然と会話を楽しむようになった。

 甘い匂いに酔いしれ、この時間は俺にとって一番大切な時間となってる。

 こうしているだけで本当に幸せに感じた。

 だが、会社だけの関係は唐突に終わりを告げる。

 

 「あのー、良かったらですが、今度ご飯でも食べにいきませんか?」

 それは彼女からだった。

 まさか、向こうから誘われると思わなかった。

 

 これまで何日も、何日も、どうやって誘ったらいいか迷っていたのに、それが向こうから来るなんて……

 

 「もちろん! 喜んで!」

 そう返した時、彼女の笑顔が色褪せて見えた。

 瞬きを一度すると。

 

 ――目の前が闇に落ちた。


 「あれ? 俺は……ここ、どこ?」

 心の声が自然と漏れる。

 すると、全身の血管が急激に広がったように、背筋を無理やり引き伸ばされた。

 声が聞こえる。

 

 「――宗田さん」

 

 あ、後ろにいたんだ。

 振り返ると、そこに彼女がいた。

 「――え? それ何?」

 それに彼女は答えない。

 ただ、胸に押し当てるように"それを"大切に抱え、倒れた影の前に立っていた。

 ゆっくりと顔上げ、微笑む。

 

 「これは――私の世界です」

 

 次の瞬間には彼女が消えて、ボールのようなものがゴロリと転がっている。

 落ちた勢いで、何度も揺れてそれが止まると。

 「え? 背中……」

 「これで、宗田さんは私のものです」

 背中の熱と、彼女の歪んだ声が、強烈に鼓膜を打ち鳴らす。

 ドクンと心臓が脈打つたびに、背中の熱がじんわりと広がっていた。

 

 「もう、離さないです」

 今度は前に姿を見せると、抱きついてくる。

 その瞬間、胸の位置が消えた。

 呼吸の仕方も分からない。

 手足の重さもない。

 あれ? 体どこ?


 唯の影だけが異様に伸びていて、それを食らうように闇が迫ってくる。

 ぼんやりとした意識の中で、彼女と俺は闇に飲み込まれた。


 …………。

 

 ――侵食率、上昇。

 ――アンチウイルスの投与、開始。

 ――投与完了。

 ――覚醒プロトコル、起動。


 ――――

 

 「――夢……か」 

 夢見が悪い日は、微睡みの誘惑に負けてしまいそうになる。

 特に特別濃い夢の日はなおさらだ。

 首の違和感に、ようやく起きる決意ができた。

 男は体の感触を確かめるように触ると、汗がへばりついている。

 不快な感触であったが、首と胴体が繋がっている安堵感から息を吐いた。

 

 ――だけど、それにしても生々しかった。

 

 今も首筋に違和感がある。


 「……起きるか」

 男の呟きは蒸れた部屋に溶かされ消えた。

 

 「ふあっ……だるい」

 スマホが視界の端に映る。おもむろに手を伸ばし画面を開くと、指が滑り「真奈」と言う名前に目が止まる。

 指が固まり動かない。無理に引き離してスマホを放り投げた。


 終わったこと……連絡をしても繋がらない。

 少しずつ広がったすれ違いは、いつの間にか大きく膨れて、あっと言う間に関係を引き裂いた。


 今でも痛烈に覚えている。

 後ろを振り向かず、別の男の車に乗っていく彼女の姿を……。

 

 「はあ……汗流して、ゲームでも……するか」

 わずかに目を伏せ、ため息を一つ。

 男が浴室に向かうと、重い静けさが部屋にじんわりと広がった。


 「あー、さっぱりした。どれどれ」 

 ゲームへと手を伸ばす。

 ”ドラゴンズ・レガシー10”と書いてある。 

 すると、スマホが鳴った。

 視線がそっちへと引っ張られる。

 

 「はぁ……」

 もう一度スマホを手に取り、音の犯人を確かめた。

 ――通知が一件。

 ぶわりと血がざわついたが、それはすぐに落ち着き底に向かって熱が冷えていく。


 もしかしたら、彼女からの連絡かもしれない。

 そんな単純な期待が胸をくすぐり、伸ばした手は急いでスマホを掴んだ。

 

 ――神崎唯(かんざきゆい)


 思い人ではなかった。

 落胆と同時に、予想外の人物からの連絡で、沈もうとした心が支えられる。

 すっと指を動かして、画面をタップする。

 開かれたメッセージに男は視線を落とす。

 

 「宗田(そうた)さん、おはようございます。今日、ご飯いきません?」

 食事への誘いのメッセージ。


 塞ぎ込もうとしていた自分の心が、少しだけ浮上する。

 返事はイエス。

 だけど、あまり気乗りはしなかった。


 また、気分が落ち込んでいて神崎さんに迷惑をかけたくない。

 そう思ったのだ。

 部屋をぐるっと見渡して、指でベッドの上をトントンと叩いては、波打った布を指先で摘む。

 それを繰り返して、ようやく返事をする決心ができた。

 

 「了解……いつものファミレス?」

 すると、すぐに既読が付いた。 

 「御意、御意、御意! じゃ、駅前集合でおねげーします」

 宗田はメッセージ相手の癖のある返事に、自然と頬が緩んだ。


 「相変わらず……変わってるね」

 これまでに彼女と接したことを思い出すと、そんな呟きが漏れる。


  ――――

  

 太陽はいつもそうだ。手加減ってのを知らない。

 まして、今日はいつもより激しい気がした。

 

 「暑い……」

 玄関より先に足を伸ばそうとするが、足の一部が日の光を浴びると、そのまま止まってしまった。

 灼熱に焼かれた足がジリジリと音を立てるように焼かれて、これ以上前に出ることを拒絶していた。


 「くぅ……負けない」

 エアコンと言う画期的な機械に、宗田は後ろ髪を引かれたが、それを無理やり振りほどいて玄関から勢いよく前に出た。


 「灼熱とはこのことか……」

 そう思って、憎らし気に笑う太陽を手の平で目元に影を作りながら睨みつけた。

 「――あれ?」

 それは小さい異変だった。

 ほんの少しだけ――暗い。

 いや、黒いフィルターが重ねられていると言えばいいのだろうか?

 そんな違和感を感じたのだ。

 目を凝らして見てみると、雲が晴れるように黒い影が薄くなり元に戻ってしまう。

  

 「……なんだったんだ?」

 いつもの太陽が姿を見せると、宗田の腹の中、その中心がぞわぞわと動いていた。

 呆然と立ち尽くすように見つめていたが、それ以降なにも起きない。

 そっと上に向けた顎を引いて、宗田はアパートの階段へ向かうことにした。

 

 階段を下りきる頃には背中にTシャツがぺったりと貼り付いて、急速に水分体から奪い取ってくる。

 乾いた唇をペロリと舐めて、アパートの駐車場を横切ると、正面を走ってる道路に出た。


 「水分補給しなければ……コンビニ」 

 こんなことなら車で行けば良かったかもと、頭をよぎる。

 近いからいいやと思って徒歩を選んだが、目的地に辿り着く前に体が干からびてしまう。

 薄っすらと見えたコンビニの看板。

 宗田は迷うことなくその奥の建物に足を運ぶ。

 

 「いらっしゃいませー」

 高校生くらいの店員が、幼さの残る声で入店を告げる。

 飲み物コーナーへと真っ直ぐ向かうと、迷うことなく隣の緑の茶へ手を伸ばし会計を済ませた。

 コンビニの駐車場を、お茶を飲みながら歩くとあっという間に中身が空になる。

 すると、ポケットのスマホが震えた。

 

 「暑くて、溶けたアイスになりそうです……」

 唯からだ。

 「え? それはまずいね。もう着いたの?」

 

 短く返すと、すぐに画面が震えた。

 「御意〜! 駅前です!」

 その文字を見た瞬間、宗田の歩幅が自然と広がる。

 

 ――きゃっ。

 

 前方から、女性の短い悲鳴が聞こえた。

 

 「あっ! すいませんっ!」

 スマホをポケットへ押し込み、宗田は慌てて頭を下げた。よそ見をしていたことで、こちらに向かって歩いていた人に気付けなかった。

 

 「いえいえ〜。こちらこそ、すいません〜」

 間延びするような独特な話し方が印象に残る。


 駅に到着し、彼女の姿を探したが、人が多くて見つからない。

 神崎さん、小さいもんな。

 そう思っていると先に向こうが見つけてくれた。

 

 「宗田さーんっ!」

 凛とした声で名前を呼ばれ、そちらへ振り返る。

 

 神崎唯が、手を振り駆け寄ってきた。

 職場での彼女と違い、今日は髪を下ろしている。

 肩より少し長いウェーブがかった髪に白いワンピース。

 足をあげるたびに、揺れたスカートの中から細くて白い足が見え隠れしていた。

 

 「暑い、死にます……」

 開口一番、それだった。

 宗田はいつもと違う彼女の姿に、見入るように視線を外すことができなかった。

 お嬢様と言うよりも、清楚なお姉さんに近いかもしれない。

 いつも縛ってる髪を下ろして、スーツ以外の服を身に纏えばこんなにも変わるものなのだろうか。


 にこにこと笑う彼女の向こう側で、スカートがひらりと舞う。

 釘付けとなった瞳には、彼女の愛らしい笑顔が覆い尽くしていた。

 

 「あの? どうしたんですか? おーい!」

 宗田がずっと動かないことに、唯が宗田の顔の前で手を軽く振る。

 そこでようやく自分の時間だけが止まっていたことに気づいて、慌てて顔を横に向けた。

 「えへへ、変なの」と唯が言って、一歩近づいた足を戻した。


 宗田は自分の心の中を読まれないように、乾いた笑いで誤魔化して、唯に再び目を向ける。

 すると、パタパタと手を広げて顔を仰いでいた。

 そんな唯と目が合うと、むっとした表情に変わり、わざとらしく全身で項垂れるように肩を落とす。

 

 「はぁ〜宗田さん待ってる間に、溶けて無くなった部分補充したいんで……デザートご馳走様ですっ!」

 捲し立てるようにそう言うと、唯が弾けるように顔を上げて、ピョンっと宗田の前に立つ。

 その瞬間、彼女の甘い匂いが漂ってきて胸がむず痒くなる。 

 

 

 「そろそろ暑くて……溶けそうだからさ、行こう」

 このままでは自分が彼女にどうにかされてしまいそうだと、宗田はこの場を移動することにした。

 そう言って、強引に前を向く。


 「――は?」

 前を向いた瞬間、瞳に映った人間が影人のように真っ黒く塗りつぶされていた。

 それがぐるりとしなるように折曲り、不格好な歩き方で通りを歩いてく。


 ――……ザッ


 ノイズのようなざらつきが一瞬見えた瞬間、世界から色が消えた。

 顔を動かして変貌した世界に目を向ければ、世界が滅んだ後のように見えた。


 錆て折れ曲がった信号機。

 車のガラスは砕けて、タイヤからは空気が抜けている。

 駅前の店のガラスは砕け、見る人がいなくなったポスターは色褪せて風にはためいていた。


 その壊れた世界を黒い人々が、しなるように歩いていく。

 宗田はその光景から足が一歩も動かせなかった。

 地面に縫い付けられたかのように、何度も前に進めと命令するが、言うことを聞かない。

 この世界はなんだ?

 ……幻覚?


 神崎さ……ん。どこ?


 背後にいるはずの神崎さんに肩越しで目を向けた。

 

 「あっ、待ってくださいー」

 慌てて駆け寄ってくる彼女には、色があった。

 黒く塗りつぶされておらず、この世界で唯一色を保っている。

 

 宗田が再び前に顔を向けると、少しずつ灰色のヴェールが戻り始める。

 彼女が横に並んだ時、甘い香りが完全に宗田を元の世界に引き戻してくれたようだった。

ここまで呼んでいただきありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
此方、カクヨムにて感想を既に書かせて頂いております故、今回は評価と、ブクマのみで失礼を。 テンポ良い作に、読みやすい作だと改めて感じました。
世界の歪み……( ゜Д゜)
唯との距離感や会話のゆるさなどがとてもリアリティがあってよかったです!風景や急にダークな感じになる夢のシーンなども緩急があり、読み応えがありました!!
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